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 枕元でスマホが振動している。もう何度目かわからない。部屋は温室のような蒸し暑さだったが、エアコンのリモコンを捜す力さえわいてこない。
 スマホが止まった。数秒後、再び震えはじめた。耳元で鳴るブーンブーンという音は、子供の頃にとても身近にあったショウジョウバエの羽音を思い出させる。さっき、今日は休みます、とメールしたのに、と夏枝は考える、考えるだけで心底疲れる。目から涙が一粒ぽろんとこぼれ落ちて、枕にしみていく。

 離婚してから今年のはじめまで、夏枝はとても幸せだった。それはもう、人生でまたとないと思えるほどに。
 年が明けてタワーマンションの抽選に外れたあと、元夫の宏昌は二度とタワマンに住みたいとは言わなくなった。また闇カジノにはまりだしたのかもしれないし、女ができたのかもしれなかったが、もはや夏枝にとってはどうでもいいことだった。
 少し前から宏昌に内緒で、離婚と自立を目指し、行政書士の資格取得の勉強をはじめていたからだ。オーストラリア留学時代からの年上の友人が、帰国後すぐに資格を取り、数年前に事務所を開業していた。英語力を活かし、在日外国人の案件を多く抱えて繁盛しているようだった。彼女に離婚の相談をしたら、資格を取ったら正社員として雇用してもいいと言ってくれたのだ。
 試験は十一月。その三カ月前にパート社員として入社して、実務も覚えはじめた。その頃には夫婦仲は完全に冷え切っていて、宏昌はこちらのことに全く無関心だった。そもそもほとんど家に帰ってこなかった。
 そして、タワマン落選からちょうど一年後の一月末、無事試験に一発合格、正社員として正式に採用された。
 何事にも慎重を期する夏枝は、最低でも半年は様子を見て、このまま続けていけると自信をもって判断できるまでは、離婚しないつもりだった。離婚を申し出ても、すんなりとことは運ばないことは容易に想像できた。宏昌はエリート人脈を活かして、腕のいい弁護士を雇うかもしれない。何かしら理由をつけてこちらが慰謝料請求される可能性もある。いざというときのために、できるだけ貯金をしておきたかったし、新しい住まいもゆっくり探したかった。
 正社員となって二カ月弱の二〇一八年春のある晩、めずらしく宏昌が「今から帰る」とLINEしてきた。 
 夜十時過ぎ、玄関のドアが開く音がした。しかしその後、物音が途絶えた。様子を見に廊下に出ると、宏昌は靴を履いたまま、ぼんやりとした顔つきでその場に立っていた。そして次の瞬間、「別れてください」と叫ぶように言って土下座した。
 そのとき夏枝が思ったのは「なぜ?」でも「今頃?」でもなく、「頭頂部の髪の毛が増えている」だった。 
 植毛だ。 
 女だ。
 夏枝は離婚を拒否した。一か八かの賭けだった。この勝負に見事競り勝ち、最終的に元夫が提示した慰謝料は、八百万円まで積みあがった。
 離婚が成立したのは、2018年七月はじめ。慰謝料の一部を頭金にして、思い切ってマンションを買った。2DKの中古。購入してすぐ、二つの部屋の間の壁を撤去するリフォーム工事を施し、かなりゆとりのある1DKにした。職場まで少し距離があるが、春来と真冬、どちらのアパートにも歩いていける。何より離婚前、夜中によく歩き回っていたあの大きな公園がほど近いというのが、決め手になった。ついでに四十歳ではじめての子を妊娠した妹に、高級ブランドのベビーカーもプレゼントした。
 入居日が決まり、新居に荷物をすべて運び入れ、春来と真冬の協力を得ながら片づけを済ませたあとに迎えた。そして最初の朝、奮発して買ったテンピュールのベッドから抜けると、はだしのまま、まだきれいなベランダにおりたった。
 雲一つないすっきりと晴れた秋の朝の空だった。あまりの美しさに、大げさではなく涙がこぼれた。
 その日は休みをとっていたので、ピカピカのキッチンで弁当をこしらえ、公園に散歩に出かけた。
 木々は秋の色に染まっていた。足下でかりかりと鳴る落ち葉の音に耳を澄ませながら、ジョギングコースをゆっくり歩いた。平日の昼間でも、人は多かった。何匹もの犬をつれているおじいさん、昔の刑事ドラマのオープニングみたいに横一列に並んで歩く妊婦四人、視覚障害者のランナーとその伴走者。公園中央の銀杏並木のそばで、若いカップルがウエディングフォトの撮影をしていた。その横を通り過ぎ、芝生広場までさらに歩いて、金色に輝く大きな銀杏のそばにビニールシートをしき、弁当をひろげた。
 中身はだし巻き玉子のサンドイッチとウインナー、ブロッコリー。サンドイッチのレシピは真冬直伝だ。味付けは白だしのみ、玉子をふわっとさせるためにマヨネーズを入れるのと、パンにマスタードを多めに塗るのがコツらしい。
 一口食べて、思わず「うまっ」と声に出してしまう。ふわふわの玉子は、かみしめるとじゅわっとだしがあふれた。そして確かに、マスタードがいい仕事をしている。
 芝生広場には夏枝と同じようにシートを広げて食事をとっているグループが何組もいた。一人でいるのは夏枝だけだった。腕をつきあげて伸びをしながら、秋の空を仰ぐ。「今日だけは紫外線のことは忘れようか」と心の中で独り言を言いながら、シートの上で大の字になった。
 ソーダ水色の空を、黒くて小さな鳥が三羽、三角形のフォーメーションで斜めにつっきっていく。
 なんて。
 なんて、幸せなんだろう。
 一人で寝て一人で起きて、自分のためだけにご飯を作って、美しい景色をながめながら、一人きりで、ゆっくり食べて過ごす。今思えば結婚していた頃だって、ほとんどの時間、一人きりで過ごしていた。けれど、互いに殺したいほど憎みあっていた元夫の金で借りた家で、元夫の行動や言動を常に警戒し、元夫がいない間も、元夫の匂いや気配──それはたとえば、リビングに転がっている靴下の片方、中途半端に閉じられた歯磨き粉のふた、クッションにひっついている縮れ毛などから発せられている──を感じながら暮らす日々は、とても息苦しく、屈辱的なものだった。そしてその息苦しさは、海抜ゼロメートルの場所に建つ二間しかないボロ家で、家族五人で暮らしていたときのそれと、ほとんど同じだった気もする。
 母は何をするのにも金の心配ばかりしていた。食事するときも着替えるときも寝るときも、常に家族の目があった。思春期の頃は、とくに兄の視線が嫌だった。だから大学生になると、夏枝はすぐに家を出た。大学は成績優秀者の授業料を免除する制度のあるところを選んだ。それでも生活は苦しく、クラブのバニーガールをやったり、ガールズバーで働いたりしたこともある。友達にすすめられてデリヘルもやったが、性的サービスよりは酒をしこたま飲むほうが自分には向いていると気づいて、一日でやめた。
 けれどそんな貧乏暮らしも、ボロ家にいた頃よりはずっと楽しく、幸せだった。何よりはじめて得た自由がうれしかった。その後に就職して社会人になり、さらに会社をやめてオーストラリアにいたときも、苦労もあったが充実していた。
 帰国後は希望の職に就けず、契約社員として働きはじめた。やがて、三十歳に近づき結婚を意識した途端、いや、結婚という手段で自分の社会階級を上昇させようともくろみだした途端、再び息苦しい人生がはじまったのだと、今、改めて夏枝は思う。
 目を閉じて、すんだ風を深く吸う。草と、食べ物の匂い。どこか遠くで、小さな子供の泣き声がする。
 ──中絶して、よかったなあ。
 本当によかった。離婚してから、ほとんど毎日のように思っている。手術前後は、もしかしたらいつか後悔することになるかもしれない、と不安な気持ちに揺れることもあった。今でも、あのときの子はどんな子になったのだろう、とふいに考えてしまうときがある。けれど、やっぱり。産まなくてよかった。自分にとってはそれがベストだった。
 目を開ける。
 今度はさっきとは別の方向から、カラスがあわ、あわ、あわと鳴きながら、空を斜めに渡っていく。
 ──こんなこと、人には言えないけれど。
 たとえば事務所の所長の良子や副所長の聖子には、死んだって言えない。二人とも二十代で結婚し二人以上の子供を産み育て、バリバリのワーママである自分に誇りを強くもっている。
 そのときスマホがブブっと振動した。LINEのメッセージだった。

 レモンと洋ナシのジャム作ったんだけど、いる?

 メッセージを返さず、そのままLINE電話をかけた。真冬はすぐに出た。
「冬さん、何してるの? 今日休み?」
「休みじゃないよ。店長に頼まれて、今日は遅番なの。何してるの?」
「公園で一人ピクニック。あのさあ、今ね、一人でご飯食べて、それからちょっと芝生の上でごろごろしながら、やっぱりわたし、中絶してよかったなあって思ってたの」
「何それ、藪から棒に」
 へへっと夏枝は笑った。「だって、本当にそう思ってたの」
「まあね、産んでたら、今頃大変だったろうね。あ、今ね、秋生んちのたろうあずかってて、散歩にいくところなの。そっちに合流しようかな。ジャムもついでに持ってくよ。いるでしょ?」
「いる! うん、きてきて!」
 電話を切り、再び寝転がる──こんな話をできる友達が近くにいてくれて、わたしは幸せ者だ。これから先の人生は、今日のこの青空のようにずっと晴れ模様。そうに決まっている。

 雨雲は、思いのほかはやく、やってきた。
 行政書士の仕事は、几帳面で事務仕事が得意な夏枝にはとても合っていた。事務所は繁盛していたし、給料もほかよりよかった。ただ一つ、副所長聖子の存在が気がかりといえば、そうだった。
 パート社員として働きはじめた頃は、過剰とも思えるほど親切だった彼女は、あるときから突然、態度がそっけなくなった。聖子は無資格で働いている。何度か試験にチャレンジしたものの、うまくいかなかったようだ。一発であっさり合格した自分におもしろくない感情を持っても無理もない、と夏枝は考えることにした。あからさまな意地悪をされるわけではない。挨拶を無視したり、みんなで会話をしていても、夏枝だけその場にいないかのような態度をとったり、お菓子配りも夏枝だけスキップしたり、その程度。この手のふるまいをする人は、どの職場にも一人ぐらいはいるものだ。気にするだけ無駄、無意味。
 半年たっても、一年たっても、聖子の態度は変わらなかった。夏枝は気づいていないふりをし続けた──相手のふるまいにも、自分は本当は、少しずつ傷ついているということにも。次第に出社するのがおっくうになっていった。休日がくるのが待ち遠しくて仕方なかったが、いざ休日がきても、週明けのことばかり考えて気が重いままということも増えた。しかしそんな自分にも、夏枝はまっすぐ向き合わなかった。
 コロナ禍となってからは週半分リモート勤務となり、それは夏枝にとって僥倖と思えたが、実際はその逆だった。出社する人数が半分になった分、所内に聖子と二人だけの時間が増えた。
 聖子が出社してきて、事務所に夏枝しかいないとわかると、彼女はあからさまにイヤそうな顔をした。わざと見せつけているようでもあった。そして業務中は、しつこいぐらいため息をつく。それだけといえばそれだけだったが、聖子と二人きりでいると、下腹部がきりきり痛んで吐きそうになった。生理周期が乱れ、不正出血も増えた。コロナに感染したわけでもないのに微熱も続いた。見かねた良子に婦人科にかかるようにいわれ、彼女のかかりつけのクリニックを紹介されて受診した。そこで卵巣嚢腫がかなり大きくなっていて、卵巣を摘出するしかないと言われた。
 それが、今年のはじめのこと。
 コロナ禍での見舞い禁止の入院生活は、とても過酷だと聞かされていた。けれど、出社しなくてもいいという安心からか、精神状態は安定していた。春来たちがマメに連絡をくれたのも助かった。
 退院後、職場に復帰すると、どういうわけか聖子の態度がやや軟化していた。コロナ関連の給付金業務が激増し、良子が新たに二名の有資格者を雇ったが、そのうちの一人が気に入らず、ターゲットを移し替えたらしかった。しかし、ほっとしたのもつかの間、復帰して二カ月もしないうちに、術前とは違う体調不良の症状が出はじめた。
 朝、起きられない。仕事をしていても、すぐに集中力が切れる。めまい。体のほてり。気分の落ち込み。食欲不振と、入れ違いでやってくる過剰な食欲。日に日に症状が悪化し、業務中のケアレスミスも増えた。
 そして先週、ついに損害賠償級のミスをやらかしてしまった。大口顧客のオフィス開業に伴う許可要件を間違えて申請業務を終えてしまい、許認可が大幅に遅れる見込みとなってしまった。
 本来の自分なら絶対におこさないミス。翌日、出社時間になってもベッドから抜けられなかった。体が墓石にでもなったみたいに重く、スマホを手に持つことすら重労働のように感じた。なんとか力を振り絞り、良子に欠勤連絡のメールを送った。「休みます。明日はいきます」。それだけの文章を打ち込むのに、一時間ぐらいかかったような感覚だった。
 それからずっと、出社していない。
 枕元でブーンブーンとスマホが振動する。
 体中が脂汗でぬるぬるしている。死んでしまいそうなほど暑い。体のほてりのせいか、あるいは単に気温が高いだけなのか、判断がつかなかった。
 体を反転させ、異様に重たいスマホを持ち上げ、ようやく電話に出た。途端に、良子の「ちょっと、夏っちゃん!」というキンキン声が響き、こめかみをぎゅっとしめつけられたように感じて、なぜか涙がこぼれる。
「大丈夫なの? 昨日のメールも、一昨日のメールにも、『明日にはいけます』って書いてあるけど、全然くる気配ないじゃない。明日も絶対無理でしょ」
「……すみません」
「謝る必要なんてないの! 別に怒ってるわけじゃないんだから。病み上がりなんだし。とにかくはやく病院に行きなさいよ」
 そこまで言うと、良子はためらうように数秒黙った。
「……あのね、聖子とも話したんだけど、夏っちゃんの症状は、更年期障害だと思うよ。卵巣をとると、女性ホルモンが分泌されなくなって、更年期の症状が出やすいんだって。もう夏っちゃんも四十六だし、ちょっとはやいといえばそうだけど、でも、そういう時期だよ。それに、聖子とも話してたんだけどね」
 聖子、聖子とうるさいなと思う。どうしてこんなに気分の悪いときに、世界一気分の悪くなる名前を連呼されなければならないのか。
「夏っちゃんはさ、ほら、子供を産んでないから。そういう人は、更年期の症状出やすいっていうし」
 一瞬、そのまま何も言わずに電話を切ってしまおうかと思ったが、歯を食いしばってこらえた。涙がまた、こみあげてくる。何の涙なのか、自分でもわからない。
「とにかくね、うちは問題ないから、もしアレだったら、少し、また休職したらどう?」
「わかりました」
 言えたのはそれだけだった。もしほかに一つでも言葉を発したら、泣いていることがしられてしまいそうで嫌だった。

 卵巣を摘出したことによる、更年期障害とそれに伴ううつ症状。思っていた通りの診断が下った。受診したらすぐに知らせるように言われていたので、クリニックを出ながら良子に電話した。
「じゃあ、今日からとりあえず二カ月休職ね。手続きはこっちですべてやるから」
 忙しいのか、それだけ言われて、すぐに切られた。
 セミがけたたましい鳴き声を上げている。クリニックの庇から日向に出たら、熱湯の中に放り込まれたような暑さに包まれた。そうか、今は夏か、とぼんやり思いだす。県道の向こう側の歩道を、幼子をつれた妊婦がえっちらおっちら歩いている。いつか見た、景色。婦人科クリニックの前。真夏。あのときは、婦人科で妊娠していると告げられ、そのままその場で中絶手術の予約をとったのだった。どうして女なんかに生まれたのだろう。卵巣も子宮も、自分にとっては意味のない重しでしかない。
 そのとき「おーい!」と聞き覚えのある声がした。
「おーい、おーい、夏っちゃーん」
 妊婦から三メートルほど離れた後方で、日傘をさした真冬が手を振っていた。真冬は左右を見て車がこないことを確かめると、おたおたと走りながらこちらにやってきた。
「どうしたの? どこか悪いの? 顔が土の色してるよ」
「更年期障害。会社も休むことにした」
 誰にも言わないでおこうと思ったのに、真冬の顔を見たら、ぽろっと言葉が出てきた。
 その後、真冬がタクシーを拾ってくれた。車内は冷房が効いていて、灼熱地獄の中から救い出されたような心地がした。このまま真冬宅で一緒にかき氷を食べようと誘われ、断る気力もなく従った。
 真冬の1Kのアパートは相変わらずモノだらけだったが、散らかっているというわけでもない。旅先で買った骨董品やキャラクターグッズ、ポストカード、マグネットなどがありとあらゆるところに飾られ、まるでおもちゃ箱のような住まいだった。このガチャガチャした環境でよく落ち着いて暮らせるなといつも思うが、本人いわく、毎日十時間、ぐっすり眠れているという。
 真冬が出してくれたのは、雪のように真っ白なかき氷だった。牛乳と練乳を混ぜたものを凍らせたという。その三角形の白い山の上から、真冬はさらにチョコレートソースをたっぷりとかけた。
 黒い川の流れる不気味な雪山。仕方なく、スプーンですくって一口食べた。舌が溶けてなくなりそうなほど、甘い。
 真冬がテレビをつけた。半裸の男性がぼうっと立っている姿が、画面に映し出される。「あ、オリンピックだ」と真冬が言った。
 半裸の男性の体は、完璧に鍛え上げられていた。今、彼は白い板のふちにたち、両手を水平にひろげ、小さく上下にはずんでいる。次の瞬間、体をホッチキスのように折りたたみ、後ろ向きに回転しながら水面に落ちていった。
 全てが芸術品のように美しかった。人生のきらめき。今、ここにある自分の体のあまりのみすぼらしさ、機能不全さを身に染みて感じる。
「東京オリンピックが決まったのって、いつだっけ? なんだかずいぶん昔のことのように感じるよね。はあ、でも、更年期障害かあ。わたしたちもいつの間にか、そんな歳なんだねえ。なにせアラフィフだもんね。うちの店にいたパートさんも、更年期障害がきついって理由で、先月やめちゃったなあ。店の中、冷房ガンガンきいてるのに『暑い、ほてる』ってよく言ってた。十歳年上だから、五十六歳かな? わたしは今のところ何もないけどね。そういえばうちの母も、うつになったり認知症になったりしたけど、更年期障害みたいなものは一切なかったんだよね。本人も『なんでわたしだけないんだろ?』って不思議がってた。だからわたしもないかも? 遺伝するかしらないけどさ」
 そっか、という言葉は、口の中でもたついて、外に出てこなかった。テレビ画面の中では、さっきとは別の半裸の男がプールサイドをうろうろ歩いている。
「あ! そういえばさ、秋生が最近、文字が見えにくくなってきた気がするから、毎日ブルーベリー食べてるんだって。目にいいって話があるんだよね、ブルーベリー」
 老眼対策でブルーベリーを食べはじめたのは、夏枝のほうが先だ。夏枝が秋生にブルーベリーの効能を教えたのだ。復職が決まったら最初に夏枝がやらなければならないのは、老眼鏡を買いにいくことだった。
「でもさ、ブルーベリーなんかで老眼がよくなるわけないのにね。そう思ってわたし、ネットで調べてみたの。そしたらやっぱり、ブルーベリーで老眼がなおるなんていうエビデンスは一切ないらしいよ。ほーんと、あいつって意外とアホなんだから。ていうか、わたしたちまだ四十六だよ? 老眼ははやくない? 秋生がうちらの中で老眼鏡第一号かもね、ウヒヒヒヒ」
「帰る!」
 ガチャン! と激しい音がした。自分の投げたスプーンが、テレビ画面に当たった音だった。画面上を白い液体の線がツーっと流れていく。自分のしでかしたことが信じられなかった。気づいたらやっていた。真冬が何か言いかけたが夏枝は立ち上がり、玄関へ駆け出した。恥ずかしかった。謝りたかった。けれどそれ以上に、抑えようのない怒りで体が破裂しそうだった。

 

(第12回につづく)