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 その日、秋生は自室で仕事をしていた。なかなか集中できないので何か甘いものでも食べようと部屋を出ると、玄関で靴を履いている瑛太と出くわした。
 昼の二時過ぎ。授業中のはずだ。
 瑛太の顔つきはいつもと変わらないようにも見えたし、いつもと全く違うようにも見えた。みきのLINEを見てから、ちょうど一週間。そして今、何かが起ころうとしていることは確かで、そしてこの場に出くわしてしまったからには、その“何か”からはもう逃げられないのだと、秋生はそのとき、唐突に悟った。
「どこへいくんだ」
 そう聞いた。この言葉でさらに一歩、後戻りできない道を先に進んだ。
 するとうつむく瑛太の顔が、まるで火にあぶられたかのように赤くぐんにゃりとゆがんだ。瑛太は右足のナイキを履こうとしてかかとに指を入れた姿勢のまま、泣き出した。
「いかなきゃいけないところがある」
 そしてとぎれとぎれの声で、そう言った。理由を今、聞かなくてもいい。秋生は自分に言い聞かせる。そもそもそれはきっと、自分の役目じゃない。
「どこなんだ。都内か?」
 そう聞くと、瑛太はうなずいた。
「北千住」
 頭の中に電車の路線図を浮かべる。ここからだと最低でも二回の乗り換えが必要だ。いまの時間ならタクシーのほうがはやい。
「ちょっと待って、ここで待ってて、一人でいかないで」
 瑛太の腕をきつくつかみ、言い聞かせるように言うと、自室に戻って急いで出かける身支度をした。瑛太がマスクをつけ忘れていたので、彼の分のマスクも持った。玄関に戻ると瑛太は言われた通り、おとなしく立って待っていた。もう泣いてはいなかった。
 マンションを出ながら、春来に電話した。ちょうど店の事務所で仕事をしていたらしく、駅前のタクシー乗り場の混雑具合を見てくれと頼むと、「ちょっと並んでいる」という答えが返ってきた。駅前に着くと、タクシー乗り場のすぐ横で、コンビニの制服を着た真冬が、お茶のぺットボトルを持って心配そうな顔で立っていた。
「店長から、はい、これ、飲んで。ねえ、なんか切羽詰まってそうな話し声だったって言ってたけど、何かあったの?」
 そう言いながら瑛太をちらっと見ると、こちらの答えを待たず、店に戻ってポカリスウェットのペットボトルを持ってきた。
「若い人はこっちのほうがいいでしょ、ね?」
「ありがとうございます」
 瑛太はきちんと礼を言い、頭をぺこりと下げた。
 タクシーにはすんなり乗ることができ、道も空いていた。車内では一つも言葉を交わさなかった。四十分ほどで北千住駅前に着いた。そこからさらに瑛太がLINEで相手とやりとりしながらタクシーを誘導して、古いアパートの前にたどり着いた。
 築四十年は経っていそうな、いわゆるぼろアパ―トだった。「ここの二階の角部屋らしい」と瑛太は言った。瑛太の後に続いて鉄骨の階段を上る。この手の建物に足を踏み入れるのは、もしかすると生まれてはじめてかもしれない、と秋生は思う。俺は恵まれた人生を歩んできたのだな、と今更ながら気づく自分に少しあきれる。アパートの裏には狭い駐車場があり、缶やペットボトルなどのごみがあちこちに転がっていた。
 二階の角部屋。インターホンを押す。
 しばらくの間をおいて、青白い顔をしたTシャツ短パン姿の若い女が出てきた。痩せているが、ずいぶん背が高い。百七十五センチの秋生と目線の高さはほとんど同じ。十代後半か、二十歳前後に見えた。
 女は秋生の顔を見てもとくに何の反応もなく、二人を家の中に招き入れた。入ってすぐのところに台所と狭いダイニング、襖で仕切られた部屋が二部屋。流しは食べ物のこびりついた食器やインスタント食品の空容器であふれかえり、床にもゴミが散らばっている。女は居間らしき部屋に入っていくと、畳の上で寝転がって猫みたいに丸くなった。
 瑛太が女に、何があったのか問いただす。女は昼過ぎに大量に不正出血があり、慌てて救急車を呼んだが、歩行できるかと問われて素直にできると答えたところ、自力で病院にいくように言われてしまったという内容のことを、もたもたと子供みたいな要領の得ない話し方でしゃべった。
「でももう今は、少し、お腹痛いだけだから、大丈夫」
 女はそう言うと、黙りこんで目を閉じた。瑛太は困ったように秋生を見た。秋生は少し迷ったあと、夏枝に電話をかけた。
「うーん。流産してるのは間違いないと思う」夏枝は言った。「ちょっと待って、今ね、上司いないから、ちょっと調べるわ。いったん切る」
 夏枝のことだから調べがつくのはすぐだろうと思ったが、なかなか電話は鳴らず、十分ほど時間がかかった。その間、秋生も瑛太もなすすべなく、じっとその場に立って待っていた。 
「ごめんね。あの、そっちの近くにいい婦人科がないか、探してたの。一件、いいところ見つけたよ。今日診て、必要なら処置も可能って言ってたから、そこに行ってみて。あのね、普通の初期流産なら、痛みとかないのであればそのまま安静にしているだけでもいいみたいだけど、週数わからないし、やっぱりすぐ診てもらったほうがいいみたい」
 さすが、という言葉を飲み込み、とりあえず礼を言って電話を切った。もし自分の仕事量が今の三倍になり、アシスタントを雇う必要が出てきた際は、ぜひ夏枝に頼みたいと秋生は常日頃から思っている。
 さっきもらったタクシーの領収書を財布から出し、記載された番号にかけ、配車を依頼した。その後、女を着替えさせ、やがてきたタクシーに三人で乗り込んだ。クリニックは車で五分ほどの場所にあった。女は案外しっかりしていて、タクシーを降りると秋生と向き合い、
「あとは一人で大丈夫です。ありがとうございました」
 と言って、頭を下げた。
 
 夕空は、信じられないほど美しかった。
 秋生と瑛太はクリニックのある歩道沿いの白いガードレールにもたれるようにたち、それを静かに見ていた。青とオレンジのまだら模様の空に散らばる、とぎれとぎれの秋の雲は、巨大な鳥の群れのように見えた。
 瑛太はいつも通り、ずっと無言だった。マスクで半分顔が隠れてしまっているので、表情はよくわからない。何かを言ってやるべきなのか、それとも、何も言わずにいるべきか、秋生はまたしても逡巡する。
 何かを言ったら、この子の心にさらに一歩、踏み込むことになる。逆にここで何も言わないことで、ぎりぎりの距離を保てる。そのほうが、瑛太のためにも、いや理沙をふくめた全員にとっていい気がした。俺たちは家族じゃない。元の他人に戻るべきだ。
 ふいに瑛太が手をこすりあわせて、もぞもぞしはじめた。何かをためらい、そのためらいの壁を乗り越えようとするような、しぐさ。
 やがて、「あの……」と切り出した。
「助けてくれて、ありがとうございます」
 瑛太は言った。そして、秋生の目を見つめる。
「今度、自分の絵を見てほしいんだけど」
 一瞬、頭の中が真っ白になった。その次に、自分の愚かしさと浅ましさにとても恥ずかしい気持ちになって、思わず顔を、上に向けた。
 空に広がる鳥の群れはどんどん広がる。オレンジはさっきより濃くなって、ぐつぐつと煮えたぎる溶鉱炉のようだ。
「あの、うん、いいよ」
 かすれた声で、そう答える。それから、ふーっと鼻から息を吐き出した。ためらいの壁を乗り越えるために。
「あの、君さ、今日はよくやったよ」秋生はようやく言った。「たとえ時期が遅くなってしまったんだとしても、きちんと困難に立ち向かおうとしたことは、よかったと思うよ。一度目をそらして逃げてしまうと、そういう癖がついてしまうから」   
 瑛太は返事もなく、視線をそらした。それきり、また無言になった。
 女は二時間ほどで戻ってきた。マスクを顎までさげていて、さっきよりだいぶ顔色がよくなっているのがわかった。
 再びタクシーを呼び、女のアパートに向かった。部屋のあかりがともっていた。女はそれを見上げ、「お父さん、帰ってきてる」と言った。
「お母さんは?」秋生は聞いた。
 女は無言で首を振った。
「お父さんと二人暮らし?」 
 そう聞くと、女はあいまいに首を傾けた。
「とにかく、一緒にいくよ」秋生は言った。
 三人で階段を上がる。ドアは施錠されていなかった。女は玄関から父を呼んだ。現れた男は、完全に目が据わっていて、何を話しても無駄だとすぐにわかった。が、それでも秋生は男に経緯を説明した。自分は瑛太の父親だと自己紹介した。しかしやっぱり何もかも無駄で、男は「なんだかわかんねえけど、金はあんたが払ってくれたんならいいよ」と言って、秋生と瑛太を外においやると、ドアを強引に閉めてしまった。
 知らぬ間に、あたりは真っ暗で、月も出ていない。秋の虫がうるさいぐらいに鳴いていた。

「え? なんだよ、それ」
 新宿の喫茶店で、秋生は思わず大きな声を出してしまった。
「女の子に泣いて頼まれちゃうと、つい手を差し伸べちゃうところ、誰に似たんだろうね」
 理沙はアイスコーヒーのストローをくるくる回しながら、そう言って舌を出した。秋生は瑛太の顔、とくにはじめて対面したときの緊張と苦しみに満ち満ちた顔を思い返し、同情心で胸が痛くなった。
 あのボロアパートに住んでいた女は十九歳のフリーターで、瑛太とはオンラインゲームを通して知り合ったようだ。瑛太いわく二度ほど二人きりで会ったが、体の関係があったわけではないらしい。
 瑛太はあるとき女から妊娠の相談を受け、助けてほしいと懇願された。当然、自分には何もできないと断ったが相手は聞く耳を持たず、それどころか、助けてくれないなら家におしかけて瑛太の子だとお母さんに言いつけると脅してきた。会ったときに女の誘導尋問にひっかかり、うっかり住所と学校名を教えてしまっていたという。それでどうしたらいいのかわからなくなって、秋生のところに逃れてきた、というのが真相らしい。
「彼女の話が本当なら、いろいろ大変ではあるみたい。お母さんが出ていっちゃって、ずっとお父さんと二人なんだって。でも十九歳だから、自分でどうにかしなきゃね」
 理沙はそう言って、唇をきゅっと引き結ぶ。その顔を見て、秋生はふと思い出す。理沙は子供時代、家庭の事情で施設に預けられていたことがある。本人が語りたがらないので、詳しいことは秋生も知らない。
「瑛太には、連絡はとってもいいけど、会うのはもうよしなさいって言ってある。わたしって冷たいかな?」
「いや、それでいいと思うよ」
 秋生はそう言った。
 そこで会話は途絶えた。瑛太のこと以外、とくに話すことはない。そもそも、電話やLINEで済む話を、なぜ理沙は呼び出してまでしたのだろうと、秋生は広い店内を見渡しながら考える。
 店は、昭和レトロな雰囲気で満ち満ちていた。赤いベルベット地のソファと、静かに流れるクラシック音楽。コロナ禍で今は空いているが、以前は週末になると行列ができるほどの人気店だったのだという。この雰囲気が、いわゆる“映え”るらしい。現に隣の席では若い女の子が、テーブルに置いたパンケーキとクリームソーダを何度も角度を変えながら、延々とスマホで撮影していた。
「ねえ、この店、覚えない?」ふいに、理沙はいたずらっぽい笑顔になって聞いた。
「え? 来たことあるっけ……あ!」
「わたしが秋生に、『結婚してくれなきゃ死ぬ』って泣きついた場所、ここだよ」
 思い出した。このソファ生地の手触り。テーブルの向かいで理沙が大声でわめきちらす間、秋生はこのベルベットのソファに爪を食い込ませて、時間よはやく過ぎろ、とひたすら念じていたのだ。
「どの席に座ってたっけ?」秋生は聞いた。「あ、あっちの席じゃない?」
「どうだろう? わたしたち、喫煙席に座ってなかった? でも今は全席禁煙だし、レイアウトもかわってるかもね」
「そうかあ」秋生は呆然とあたりを見回した。「思い出してみると、ほんの少し前の出来事のように感じるけど、もうあれから二十年もたってるんだな。俺もおっさんになるわけだ」
 そこまで言って、秋生はしみじみとため息をつく。「あれから、いろんなことがあったなあ。マジで、いろいろありすぎなぐらい、いろいろあったな」
「今更だけど、あのときはごめんなさい」
 そう言って、理沙はぺこりと頭を下げた。
「なんだよ、急に」
「どうしても、自分の家族がほしかったの。そのために、秋生のことを利用したの。本当に今更の今更すぎるけど、ごめんなさい」
 今度はテーブルに手をつき、しっかりと頭を下げた。後頭部には今日も、きちんと結われたシニヨン。
 マジで今更過ぎるよ、何百年前の話だよと思ったが、秋生は口にしなかった。そんな文句もまた、今更すぎる。かわりに「なんで俺だったの?」と聞いた。
「だって理沙は理系だったし、まわりに男はほかにいっぱいいたじゃん。俺よりもっといいところに就職できた、真面目で結婚向きなヤツを選んでれば、今頃まっとうな家庭を築いてたんじゃないの?」
「うーん」と理沙は顎に手を添える。「結局のところわたしも、まっとうな家庭ってやつを築く自信がなかったのね。秋生がわたしの割れ鍋の、とじ蓋に見えたのかもしれない」
 秋生は思わずふふっと笑った。俺たち二人とも、不良品か。
「でもね、本当に心から、わたしは思ってたんだよ。結婚するなら、この人しかいないって。ほかの人じゃなくて、この人がいいって」
 当時、理沙が何度も言っていたセリフが、脳裏によみがえる――あなたじゃなきゃ、ダメなの。
「あのね」と理沙は改まったように背筋を伸ばした。「これからも、瑛太と会ってほしいの」
 秋生はなんと答えたらいいのか、わからなかった。理沙は秋生の心中を見透かしたように、小さく一度、うなずいた。
「別に、父親としての責任なんてとってくれなくてもいいし、お金も何にもいらない。父親と息子としてじゃなくても、友達でも知り合いでも師匠と弟子でも、呼び方なんてなんでもいいから、このまま途切れさせないで。ゆるくつながっていてほしい」
 そこまで言って、ストローをくるくる回し、またいたずらっぽい笑顔になる。
「そういう家族があってもいいんじゃない?」
 秋生はやっぱり、何も言えずに黙り続けていた。

 御苑で友人が待っているという理沙と、店で別れた。そのまま秋生はビックロに向かって歩き出した。真冬からヒートテックとウルトラライトダウンを買ってきてほしいと頼まれていたのだ。
 当然だが、店内はコロナ禍前と比べるとかなり空いていた。とくに外国人観光客が皆無である影響が大きいようだ。買い物を終えると新宿通りに面した出口から外に出て、新宿駅方面に向かって歩き出した。
 向かいの通りにある紀伊国屋書店が真横に見えたところで、秋生はふいに足をとめた。
 ここだ、と思った。
 まさにこの地点で、あのとき、ひろさんとすれ違ったのだ。
 確か自分は二十歳、九十年代半ば、季節は冬、新宿の街はフェミ男とコギャルであふれかえっていた。秋生も寒風吹きすさぶ中、下敷きみたいにぺったんこだった腹を出して歩いていた。
 腹を出していたこと以外、自分の服装はまるきり覚えていない。が、ひろさんの姿はまるで昨日見かけたばかりのように、鮮明に記憶に残っている。黒いライダースにリーバイス501、足元はトレードマークのニューバランス。確かレイバンのサングラスを頭にのせていて……そしてその顔は、笑顔だった。
 横に並んで歩く妊婦は坊主頭で、両耳に大量のピアスをぶらさげていた。彼女と視線を合わせ、幸せそうに笑っていた。口元でかがやくひろさんの白い歯を覚えている。あの笑顔は、偽物だったのだろうか。
 あのとき秋生はひろさんのことを、ただ妊婦と一緒にベビーカーを押して歩いているというだけで、牢獄の中にいる囚人のように感じたのだ。社会からつまはじきにされないために、家庭という牢獄にみずからとらわれていった男。勝手にそんなふうに思って、同情し、共感し、そして、自分も同じ道を進むしかないのだと悟った。
 でも、本当にそうだったのだろうか。なぜひろさんを、囚人だと決めつけてしまったのか。ひろさんなりの家庭を築いて、楽しく生きていたのかもしれないのに。
 家庭や家族への偏見にとらわれて、そこに縛られすぎていたかつての自分を思う。理沙のことは好きだった。恋愛とは違うかもしれないが、そもそも恋愛感情なんていまだに何であるのかよくわからない。理沙と一緒に、自分たちなりの家族をつくることだって、できたのかもしれない。もっと互いに向き合い、もっと話し合いを重ねていたら。そうしていたら、今頃どうなっていただろう。瑛太の成長をそばで見守る日々は、何を自分にもたらしてくれたのだろう。
 どんなかたちであっても、理沙は自分とともに生きたいと、あのとき、あの喫茶店で、真剣に願ってくれたのだ。そんな人は、後にも先にも理沙一人だけかもしれない。もっと大切にできていたら、今頃。
 後悔したって、もう取り返しはつかないな……そう独り言をつぶやくように思い、再び歩き出す。そのとき、ポケットの中のスマホが続けて三回、震えた。
 瑛太からのLINEだった。開くとメッセージはなく、画像が三枚のみ。
 本人が描いた絵のようだった。一枚目は石膏像の鉛筆デッサンで、二枚目と三枚目は水彩画。片方はおそらく自画像、もう片方は、夕空の下にたたずむ二人の男性の姿を描いたものだった。空には鳥の群れみたいなうろこ雲が広がっている。
 一見うまく描いているが、プロの目から見ればおそまつもいいところで、とても美大の入試を受けられるレベルじゃない。ダメ出しをするだけでも二時間はかかるだろう。LINEのメッセージだけでは、伝え切れない。
 あとでこのくそ生意気な弟子に電話して、いつ会えるか聞かなければ、と思いながら、秋生は2020年晩秋の新宿の街を見渡した。誰もが顔にマスクを貼りつけて、暗い目をして歩いている。

 

(第11回につづく)