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 Zoomの画面にようやく春来があらわれると、夏枝が「そういえば春くんって、あれに似てるよね、あれ」としゃべりはじめた。「あれよ、あの、あれ……ガースー」
「それってこの間、総理大臣になった人?」乾杯もしていないのに、すでに何かをむしゃむしゃ食べながら真冬が聞く。「……あー、似てるかも。あの人の顎をさ、しゃくれさせた感じ?」
「しゃくれって言うな」と春来。「何? みんなもうはじめてるの?」
「わたしはもう飲んでる」夏枝が答える。「みんな今日は何飲むの? わたしはワイン。つまみはこの間、冬さんにもらったパンに、六花亭のバターつけて食べてる。おいしい」
「わたしはハイボールと、さっき揚げた大量のから揚げ!」
「いーねー!」と春来。「俺は親戚からおくられてきた大分の地酒。つまみはいつものおかのの焼き鳥。秋くんは? あれ? それ、オールフリー?」
「うん、ちょっとこの後、仕事あるからね。とりあえず乾杯しようか。かんぱーい!」
 四人はそれぞれ手元のグラスをかかげた。コロナ禍がはじまって以降、たびたびこうして四人でZoom飲みするようになった。最近は感染状況が少し落ち着いてきたのもあり、直接顔を合わせる機会も増えてきたが、平日の夜、突発的に飲みたくなったときは、Zoom飲みのほうがてっとりばやい。
 今日は秋生が三人に声をかけた。秋生はグラスに注いだノンアルコールビールを見下ろす。テーブルの上には、それだけ。
 十月に入ってから、まともな食事をとっていない。食欲がわかないのだ。
「ねえねえ聞いて、夏っちゃん、この間ね」真冬が巨大なから揚げを、うまそうにほおばりながら言う。「店長の例の彼女が、店に来たんだよ」
「え? あの、十歳年下の?」夏枝は大げさに目を見開いた。「あの、看護師で推定Hカップで清楚系で、アプリで知り合って三回目のデートで向こうから告白してくれた、高額当選宝くじみたいな彼女が?」
「そうそう、推定Hカップの。髪がきれいでかわいらしい雰囲気で、なんか、すごくモテそうな子だった。だって、彼女が店に入ってきたら、その場にいた男性のお客さんがみんなじろじろ見てたもん。ね? 店長?」
「いやいや、まあ、そんな、普通の子だよ。十歳年下っていっても、もう三十代半ばすぎてるしさ」そう答える春来の顔は、まんざらでもない、という言葉を具現化したような表情だった。「でもまあ、二人でどこかに出かけると、周囲の男たちの視線を感じるよね、いつも、常に」
「いつも、常に」と夏枝が真似して笑う。「何それ。でも、まあ、うまくいってるようで安心だよ。もう付き合って三カ月は過ぎたよね? 今後はどうするの?」
「実はさ、一緒に住もうかってことになってて、今度向こうの親に……」
「ちょっと、その話はあとで! 今日は俺、みんなに相談したいことがある!」
 秋生は意を決し、会話に割り込んだ。ラップトップのモニターの向こうで、真冬はすでに二杯目のハイボールを作りはじめている。春来のポン酒のペースも上機嫌のせいかやたらはやいし、夏枝は家でワインを飲むと大抵二時間以内に寝る……というか、すでにろれつが怪しい。さっさと切り出さなければ、話をするタイミングを永遠に失ってしまう。
「何よ」と夏枝。「秋くんが相談なんて、珍しいけど」
「うん……あの、実は俺……子供がいるらしいんだよね」
 シーンと静まり返る。モニターにうつる三つの顔に浮かぶ、困惑、不安、疑問。
「俺、若い頃に結婚してたことがあるって、前に話したでしょ。離婚する直前、実は元妻は妊娠してて、離婚後に俺に内緒で産んでたらしいんだよ。それを今になって言ってきたわけ。十年以上、音沙汰なかったのにさ」
「なるほど、そうきたか」夏枝は腕を組んで顎に手をあてた。「でもさ、それって怪しくない? 本当に秋くんの子?」
 秋生は元妻からもらった画像をスマホに表示させ、それをラップトップのカメラに向けた。すぐに真冬が「ああっ」と大声をあげた。
「高校生のときのあんたそのまんま! 疑問の入り込む余地ゼロ!」
 秋生も改めて、今、中学二年生らしい息子、瑛太の画像を見る。自然にくるんとカールした髪、濃い眉、アイラインをひいたような力強い目元、薄い唇、細くて長い首、ふてくされた表情。何もかも、昔の自分とそっくり同じ。
 秋生は一つ咳払いしたあと、ここ数日の間に自分の身に起こったできごとについて、淡々と説明しはじめた。
 元妻の理沙を名乗る人物からツイッターのDMがきたのは、今から約二週間前、九月の終わりのことだ。「とにかく困っているので、直接会って話したい」と書かれていた。金の無心か、何かの勧誘か。そもそも本人なのか。いずれにしても、事情も聞かずに無視するのは、自分たちが別れた経緯を考えると良心がとがめた。なんらかのよくない話と感じたら、さっさと切り上げればいい。そう考え、さっそく翌日、彼女が今住んでいるという川口まで会いにいくことにした。
 待ち合わせ場所のカフェに現れた女性は、間違いなく元妻その人だった。昔より幾分ふっくらしたが身だしなみは整っていて、見た目からは生活に困っている様子もなく、ひとまずほっとした。まずは互いに近況を語りあった。理沙のほうは秋生のSNSをずっとひそかに見ていたといい、仕事のことも、三十代は大阪で暮らしていたこともしっていた。理沙自身は新卒で入った会社に今も勤めていて、去年、課長に昇進したという。あの規模の大企業で課長なら、年収は額面で一千万は超えるな、と秋生は内心でそろばんをはじいた。子供は秋生との間にできた息子のほかに娘がもう一人、その子の父親とは結婚しなかった。最近、川口市内に買った新築の戸建てに、ゴールデンレトリバー三匹とともに住んでいる。
 困っているのは、息子のことだった。
「家を出て、父親のところにいきたいって、突然言い出したらしい」秋生は言った。「じゃないと、もう勉強もしない、授業にも出ないってきかないらしくって。私立に通ってるらしいんだけど、今は完全リモートで、一応どこにいても出席はできる」
「理由は?」真冬が聞いた。
「言わないらしいんだ。もうとにかく、家を出るって言ってきかないって。いわゆる思春期っていうやつのせいか、ここ一年ぐらい、コミュニケーションもうまくとれてないみたいでさ。元妻としては、何があったのか聞き出してほしいって、気持ちもあるみたい」
「そんなこと、可能?」夏枝が言った。「最近まで子供の存在すらしらなかった父親にさ。無理じゃない? そんなドラマみたいに、うまくいかないと思うけど」
「俺もそう思うよ。でも、元妻が言うには、むす……こ……は、ずっと俺にあこがれてて、わりといい感情も持ってくれてるらしいんだよ。元妻が俺のことをよく言ってくれてたってのもあるみたい。俺の仕事のこともしってて、本人も、美術部で絵を描いているんだって」
「わたしは、反対だね」夏枝はきっぱりと言った。「断ったほうがいいと思う。あこがれてたっていうけど、もし、彼の中の理想像と実際の秋くんの間にギャップがあったら、どうするの? がっかりさせちゃって、余計に問題がこじれるかも。そしたら、もう地獄だよ」
「わたしも深入りしないほうがいいと思うなあ」真冬もそう言った。「ねえ、ていうか、今思い出したけど、結婚してたとき、あんたたちって避妊してなかった? 子供は作る気ないってずっと言ってたよね? わたしも秋生に子供できたら遊べなくなっていやだなあって思ってたから、覚えてるんだけど」
 その通りだった。理沙は当時、避妊用ピルを服用していたはずだった。しかし、離婚の一年ほど前から勝手にやめていたというのだ。妊娠したら家を出て一人で育てようと決めていたと言われ、秋生は驚きで言葉もなかった。
「家族がほしかったの」
 川口のカフェで、とくに後ろめたそうな様子もなく、理沙はそう言い切った。
「えー! それっていわゆる精子バンク扱いされてたってことじゃん」春来が言った。「男からしたら、恐怖だよ」
 その後、一時間ほど話し合ったが、理沙の頼みはきっぱりと断り、それでもしつこくされたら弁護士に相談するなどして、第三者を介入させるべき、という結論で落ち着いた。そのままその晩のZoom飲みは、日付がかわる前にお開きとなった。
 が、結局その後、秋生は息子をあずかることになってしまった。断るために出向いた川口の前回と同じカフェで、理沙は号泣したあげく、椅子からおりて床に座り込み、秋生の膝にすがりついてきたのだ。
 やめてくれ、と何度頼んでも脚にしがみついて離れなかった。「いいって言ってくれるまで、やめない!」と理沙は店中に響く声で叫んだ。周囲の客ははじめ、こちらを興味深そうに見ていたが、やがて誰もが視線をそらした。秋生はあまりのことに呆然としつつも、この女は昔とちっとも変わってないんだと、妙にしみじみ思った。
 結婚を決めた、いや、決めさせられたときと全く同じだった。場所は新宿の古い喫茶店。それまで機嫌よくクリームソーダを飲んでいたのに、理沙は突然取り乱しはじめ、「結婚してくれなきゃ死ぬ」とわめいた。そして約三時間の押し問答の末、秋生は屈して、理沙が勝手に用意していた「藤崎」の三文判で、婚姻届に押印したのだ。
 自分の膝に顔をふせて泣きじゃくる理沙の後頭部には、おくれ毛ひとつなく、シニヨンがきつく結われている。それを見ながら、過去から逃れられる人間なんていないんだ、と自分に言い聞かせるように秋生は思った。
 
「秋生にあこがれてて、秋生が描いたポスターとか、ポストカードとか、部屋に飾ってるの」
 二度目の川口で別れ際、それまでのひどい愁嘆場が幻だったかのような晴れやかな笑顔で、理沙は言った。しかし、待ち合わせ場所の池袋駅で初対面した息子は、目を一秒も合わせず、挨拶もしなかった。緊張しているのか、体調がすぐれないのか、あるいはただふてくされているだけなのかわからなかったが、顔色がやや悪いのが少し気になった。家に着いてもトイプードルのたろうとはじゃれついていたが、それ以外は一切声を発せず、その日、彼が秋生に対して言ったのは、
「Wi-Fiのパスワード教えてください」
 それだけだった。
 けれど、怒りもいらだちもわいてこなかった。なぜならそんな中二の息子は、そのまま中二の頃の自分とそっくり同じだからだ。周りの大人全員バカだと思っていた。世界で一番賢く、繊細で、センスがある人間は自分で間違いないと、心の底から信じていた。
 自宅に余っている部屋はなかったが、リビングが広く、隅の二畳ほどのスペースがたろうのペットサークル置き場兼遊び場となっている。そこをパーテーションで仕切り、サークルは自分の寝室に移して、瑛太の生活スペースとすることにした。寝室をあけわたすことも考えたが、居心地のよさを提供して居つかれてしまったら元も子もない。理沙との間で、十一月末までという期限を一応、設けてはいる。が、結婚する前から、理沙は口約束を三度に二度は破った。本人が「帰りたい」と言わない限り、この同居生活を延々と終えられない可能性は十分あった。
 しかし、瑛太は狭い二畳を与えられても、文句ひとつ言わなかった。初日の晩、好物だと聞いていたオムライスを作ってやると、秋生と一緒にダイニングでおとなしく食べた。頼みもしていないのに皿洗いは自分でやった。
 そんなふうにして、この意味不明すぎる同居生活は、極めて静かに、平和にスタートした。日中、瑛太はリビングで真面目にリモート授業を受け、秋生は自室か近所のカフェか隣の真冬のアパートを借りて、仕事をした。昼は秋生が用意しておいた食事を各自別々にとり、夜はダイニングで一緒に、無言で、食べる。その後、瑛太はたろうを散歩に連れていく。瑛太は皿洗いだけでなく、自分の洗濯物も自分で洗い、自分で畳み、掃除機も二畳分だけ自分でかけた。
 会話はない。全くといっていいほどない。
「たろうにおやつあげていいですか」
「たろうのおしっこシートどこですか」
「たろうのトリミングいつですか」
 彼からの問いかけは必要最低限のみ、そしてこちらからの質問は八割無視、二割は、
「しりません」
 あるいは、
「わかりません」
 のどちらかだった。
 そんな日々が淡々と続き、やがて、十一月になった。
 秋生は一カ月ぶりに、仲間たちに招集をかけた。

 さすがに家でやるわけにいかず、今、恋人のような恋人でないような関係でいる翼のアパートのリビングを借りることにした。久々に直接集まろうという話も出ていたが、昨日から夏枝が熱っぽいというので、念のため、今回もリモートで行うことになった。
「夏っちゃん、平気?」またしても開始前から何かをむしゃむしゃ食べながら、真冬が聞いた。
「うん、昨日微熱があったんだけど、もう大丈夫。一応、検査もしたんだけど、陰性だった。なんかねー、歳かなあ。最近疲れやすいし、週に何日かはなんだかだるくって」
 そう言ったあと、夏枝はずずずっと音をたてて湯呑をすすった。今日はほうじ茶と団子を用意しての参加らしい。
「ねえ、ところで春くんは? おーい春くーん」
 数秒後「……いるよ」という低い声とともに、春来がのっそりと画面の中に現れた。
「あれ? 店長、もうできあがってる? 何飲んでるの?」
「え、ストゼロ500ミリ」そう言って、春来はそのストゼロを缶のままあおった。
 その数秒で、秋生は、いや秋生も含めた三人が、「こいつ、振られたな」と悟った。そんな予感はしていたのだ。彼女ができて以来、四人のグループLINEに、デート先でのツーショット画像をしょっちゅう送りつけてきていたのに、数日前からそれがぷっつり途絶えていたのだ。
 春来は新しいストゼロをプシュッと開けながら、「ハア……」と辛気臭いため息をついた。
「……彼女、妊娠したらしいんだよ」
「え?」と三人は同時に声を発した。
「言っとくけど、俺の子じゃあねえよ。元カレのホストの子だよ」
「なにそれ」と夏枝。「なんでそんなことわかるの? あんたの子かもし……」
「なんでって!」と春来は遮って、声を荒らげた。「ずっと俺は! 彼女に……その……拒否されてたからだよ! 『そういうことしようとすると、体が震えてくる、こわくてできない』って言うからさ、だから俺は我慢してたんだよ、ずっと!」
 そこまで言って、へへっと春来は自嘲的に笑った。「……でもさ、俺にはそう言ってた陰で、実は元カレとよりを戻してて、避妊もせずにズコ……あ、いや、うん、あんまり彼女のことを、悪く言うのはよすよ。ただつまり、俺は、ホス狂がホストと別れたさみしさを埋めるための、暇つぶし要員でしかなかったってこと」
 その後も、春来の愚痴は延々と続いた。そのホス狂の看護師の話だけにとどまらず、以前やっていたネット婚活での失敗談、いまだに相当な痛手になっているらしい、派遣社員時代の婚約破棄話、果ては大学時代までさかのぼり、半年間アプローチし続けてようやく付き合うことができた彼女に八股かけられた話をし終わったところで、春来は画面から消えた。寝てしまったようだった。
「あーあ、もうだめだ、こいつ、起きねえ」夏枝が言った。「ねえ、今日は秋くん、何か話があったんじゃないの?」
 そう言いつつも、夏枝はすでにテーブルの上の団子と湯呑を片付けはじめている。真冬もさっきから大あくびを連発していた。
「いや、いいよ、大したことじゃないんだ」
「そう。そういえば、あの美少年の息子くんとの同居生活はどう?」
「うん、ぼちぼちかな」
「そっか。ねえ、次は直接集まれるといいよね。年末だし、鍋とか食べたい」
 それから三人で少し忘年会の話をして、まもなくお開きとなった。
 近くのファミレスで時間をつぶしてくれていた智に連絡し、その後、とぼとぼと一人で歩いて帰宅した。家に着くと瑛太はリビングでたろうと遊んでいた。「ただいま」と声をかけた父親のほうを、見もしない。
「あのさ」と声をかけようとして、のどが詰まる。結局何も言えず、秋生は自室に入った。
 ベッドに座り、頭を抱える。

 五日前の、晩のことだ。
 瑛太はいつも通り無言で夕飯を食べたあと、たろうを散歩に連れていった。そのとき、普段、絶対に肌身離さないアイフォンを、珍しくリビングのローテーブルの上に忘れていった。
 もちろん、盗み見ようなんて微塵も思わなかったし、彼の私生活にそれほど興味もない。が、ちょうど秋生がそのアイフォンに気づくと同時に、画面にLINEのメッセージが通知された。画面をロック状態にしていても、メッセージが全部表示される設定になっているようだった。
 送り主の名前は「みき」。LINEは何通も連続で届いた。
 何回やっても陽性になる。絶対に間違いじゃない
 みきが写真を送信しました
 生理二カ月きてない。調べたら、もう9週?とか過ぎてる
 12週過ぎたら、手術、めっちゃ痛いし、失敗したらもう子供うめなくなるかもしれない。ねえ、どうしたらいいの?
 ブロックするな
 未読スルーしないでよ
 明後日までに返事ないなら、お母さんに言うよ
 今どこにいるの?
 みきが写真を送信しました
 やっぱり陽性
 お願い、返事ください
 怖いよ
 みきがスタンプを送信しました
 みきがスタンプを送信しました
 みきがスタンプを送信しました
 思わず秋生は、アイフォンをひっくり返した。その直後、玄関のドアが開く音がした。秋生は狼狽しながらその場を離れて台所にいき、冷凍庫を開けて冷凍餃子を出した。
 瑛太はたろうを抱きかかえてやってくると、とくに慌てる様子もなく、ローテーブルの上のアイフォンを手にとった。秋生は冷凍餃子の袋を開け、フライパンに餃子を並べた。瑛太がこちらを不審げに見ていることに気づいていたが、とても目を合わせられなかった。
 瑛太は、このみきという女から逃れて、ここにきたのだろうか。きっとそうだ。何かしてやるべきなのか、それとも、気づかぬふりをするべきなのか。どうしたらいいのかわからなくなって、思わず三人に招集をかけた。が、終わってみれば、たとえ春来があんなふうになっていなくても、この話を三人には切り出せなかったような気がする。
「迷ってる場合じゃないでしょ! はやく何かしてあげないと、手遅れになるよ!」
 そんなことを、例えば、夏枝に言われたりしたら。もう引き返せないじゃないかと、Zoom飲みがはじまってから気づいた。そして春来はともかく、少なくとも夏枝と真冬は、瑛太をあずかるときとは違い、今回は積極的に介入しろと秋生に発破をかけたに違いないのだ。
 秋生は顔を上げ、壁に掛けた自分の絵を見つめる。三年前、学生時代から大ファンだったバンドのアルバムジャケットを手掛けたときの絵だった。自分のキャリアのハイライトの一つになったと思う。
 このまま、見て見ぬふりをして、やりすごせば。
 自分の生活は何ひとつ変わらずに済む。しかし、みきと瑛太は大違いだ。二人とも、将来を棒に振りかねない。
 けれど、何か一言でも、口を出したら。
 もう後戻りできない。父親として彼と向き合い、かかわっていくことになる。言うだけ言ってあとはしらん顔なんて、きっと許されない。そういうことから逃れ続けるために、家族も作らず生きてきたというのに。
 二年前の手痛い別れのあと、秋生は我が身を振り返り、そして気づいた。子供の頃から結婚や、子供を作って誰かの父親になることが当然の目的地とされていることに違和感を持っていたのは、自分のセクシャリティとはほとんど関係ない。家族の中で何らかの役割を演じなければならないことが、受け入れられなかったのだ。
 自分の家族は、傍から見る分には完璧に理想的な家族だった。文字通り、絵に描いた家族──父は大手銀行に勤め順調に出世し、専業主婦の母は庭でたくさんの花を育て、夫婦仲はきわめて良好、子供は三人とも成績優秀、友達もたくさんいた。たまたま心身ともに優良なメンバーがそろっていたという幸運もあるだろう。しかしそれ以上に、父は父の、母は母の、姉も妹もそれぞれの役割を家庭内できちんと演じる、二十四時間常に演じきることで、保たれている完璧さだった。誰もがそのことに、その義務に、ほんの少しの疑問と不満を抱いているように見えた。それを、家族のために呑み込んでいただけ。父が職場の部下にあてたラブレターを見つけたことがある。母に気づかれぬうちにと、細かくちぎってトイレに流した。家族写真にうつる妹の顔部分を、黒いサインペンで塗りつぶす姉の後ろ姿は、いまでもときどき夢に出てくる。
 秋生は女二人に挟まれた長男を演じる義務があった。甘えん坊で、でも男らしくしっかりした面もあって。自分以外の全員バカだと思っている、なんて決して口に出してはいけない。家は、あらゆる場所の中で、もっとも責任と緊張をおしつけてくる場所だった。どす黒い感情をうちに隠しながら、家族を欺きながら、暮らす。
 それでも誰かに愛されたい、長い人生をともに生きられる人がほしい。そう願う一方で、誰かの家族にはなりたくない。そんな矛盾に、きっと祐介は気づいていた。だから、秋生とともに歳をとる、という道には進めなかったのだと、今になって思う。
 そのとき、コンコンとドアがノックされた。同居をはじめて以来、瑛太が秋生の部屋をノックしてきたことなど一度もない。もしかして、と考えた途端、手汗がわっと出てきた。それをジーパンで拭いながら恐る恐る出てみると、瑛太はたろうを抱え、不満げな顔をして立っていた。
「毛が目に入りそうになってる。はやくトリミングしたほうがいい」
「今週末、よ、予約してあるから」
 瑛太は返事もなく、無言で背を向ける。秋生はそっと音をたてないようにドアをしめ、ほっと息をついた。
 瑛太に直接、相談されたわけじゃない、と自分に言い聞かせる。なぜ何もしてくれなかったの、と理沙に責められることもないはずだ。このまま何も見なかったことにすれば。あのローテーブルの上に忘れられたアイフォンに、気づかなかったことにすれば。
 その晩は、なかなか寝付けなかった。
 翌日、瑛太はとくに変わった様子もなく、自分で食パンを焼いて食べたあと、普段通り、おとなしくリモート授業を受けていた。夕方、ベランダに出て誰かと電話で話していたが、笑顔が見えたので深刻な話はしていないようだった。そして夜は、いつもの時間にたろうを散歩に連れていった。
 秋生は何度も、心の中で「よし」と気合を入れ、瑛太に声をかけようとした。「アイフォンの通知を偶然見てしまった」と言おうとしたのだ。やはりどうしても、このまま見過ごすのは良心が痛んだ。けれど、言えなかった。言葉がどうしても、のどの途中でひっかかる。
 翌々日も、何事もなく過ぎた。しかしその晩、久々に姉の夢を見た。朝起きてすぐ、嫌な予感がする、と思った。

 

(第10回につづく)