今年で創刊50周年の月刊文芸誌「小説推理」が主催する「小説推理新人賞」の応募締切が11月末に迫りました。

 現在発売中の「小説推理」11月号、そして12月号(10/27発売予定)では、新たな試みとしてSNSをテーマとした競作を企画。

 そのうちの一作で11月号に掲載された、木爾チレンの「#ファインダー越しの私の世界」を特別に無料公開します。小説家を目指す人にとって、一つの道標ともなる作品です。

 

 

 

#ファインダー越しの私の世界

 

 

 深い海の底のような場所から、子供の泣き声で目が覚めた。はっとして、私が一年前に産んだ子供だということを思い出す。
 連日の激務で疲れ切っている夫の洋介ようすけは、どんなになみの夜泣きが激しくても朝まで眠り続ける。
 私は波を抱き上げて、外へ出た。また隣のオバサンに、うるさいと貼り紙を貼られるのが怖くて、息ができないからだ。
 八月の柔らかな夜風を浴びながら、私は生き返ったような心地になる。
「大丈夫、ここにいるよ」
 波に囁きかけながら、それは、自分に言っているのかもしれないと思う。私はここにいると。
「今日は満月やな」
 もしかしたら、私の鬱屈した気持ちが波に伝染しているのだろうか。月明りの下、深呼吸を繰り返し、私の気持ちが落ち着くにつれて、嘘みたいにその泣き声は小さくなる。
 マンションから少し歩いた小道にある石のベンチに腰掛けて、私は波が眠るのを待つ。
 視線の先には干からびた蝉の死体が転がっている。十年前なら夏の終わりを感じたのかもしれないけれど、この頃の酷暑は蝉が死んでも永遠のように続く。
「はあ」
 溜息が漏れたのは、夏が長すぎるせいじゃない。
 いつしか専業主婦になってしまったこの人生に対してだ。
 もう癖になっているのだろう。波の頭を撫でながら、気が付けばインスタグラムを開いている。
 それぞれの充実した日常が流れるフィードを眺めながら、この世には不幸なことなど何もないんじゃないかと思う。
 この春にコロナが収束してからは、旅行の投稿が増えた。韓国で食べたカンジャンケジャンが美味しすぎたという投稿にいいねをつけながら、羨ましいなと感じる。子供がいるだけでもハードルが高いのに、ブラック工場に勤める夫の給料では、海外など夢のまた夢だ。
 私はこの三年間の自粛期間が嫌いではなかった。
 それなりに窮屈さは感じたけれど、誰もが平等に不幸な気がして安心した。このまま、誰も、どこにも行けない世界が、続けばいいのにと思った。
 けれど誰も、私がそんな悲観的なことを考えて生きているなんて、思ってもいないだろう。
 だって私のフィードにも、不幸は存在しない。
 波のお食い初めの写真。妊娠中、二人では最後の旅行だからと奮発して露天風呂付き客室に泊まったときの写真。花見小路で撮ったフォトウエディング。洋介と付き合ったばかりの頃、ユニバーサルスタジオのホラーナイトに行ったときの写真。
 それはまるで、人生の走馬灯のように、幸せが切り取られている。
 二十五歳を過ぎた頃からだろうか。私は周囲に追いつくのに必死だった。同じようにステージアップしなければ、取り残されていくような感覚がしていた。
 でも思えば、私はいったい何に、誰に、追いつきたかったんだろう。
 子供を産んだ今、私はもっと取り残されているような感覚になっている。

 いいねの通知が下りてきたのは、それから三十分が経ち、波が眠りに落ちたときだった。
 こんな夜中に、誰だろう。
 ぼうっと見ていた水溜りボンドのYouTubeを閉じて、再びインスタをひらく。
 しかし新しいお知らせはない。ここ一カ月は、育児に疲れ切ってストーリーすら上げていないのだから、過去の投稿を遡って見る奇特な友人もいないだろう。
 ――けれど確かにさっき、いいねの通知があった。
 はっとして、アカウントを切り替える。
〈yuu_film20〉
 十年前に作った、フォロワー数二百人にも満たないそのアカウントの存在を、私はすっかり忘れていた。
 お知らせを確認すると、いいねがついたのは、京丹後の八丁浜で撮った海の写真だった。
 母を象徴するように巨大化した乳房の奧にある、本来の小さな胸が途端に締め付けられる。
 写真は、タイムカプセルみたいにすべてを思い出させる。においも、温度も、誰と一緒にいて、どんな気持ちだったかも。
 投稿には、〈♯ファインダー越しの私の世界〉そのタグがあった。
 ――そうだ。私はそのタグに憧れて、このアカウントを開設したんだ。
 フィードには、今の時代でいうエモい写真が並んでいる。
 青空に線を描く飛行機。廃線路に咲くたんぽぽの綿毛。透明なビー玉が入ったラムネの瓶。深夜のコンビニで買ったパピコ。床屋の前で回っているやつ。古風なスナックの看板。
 あの頃、それらすべての風景に意味を感じていた。というより、意味を感じようとしていた。
〈nagigram.7〉
 そして、その海の写真にいいねをしたのは、大学時代、時間も、景色も、本も、限りなくすべてを共有した、元恋人のアカウントだった。
 #ワンオペ辛い眠れない


 答えのない物語が好きだった。
 薄暗くて狭いキッチンがついたボロアパートが舞台の、リアルとリアリティの隙間を縫ったような、決してハッピーエンドにならない恋愛映画が好きだった。
 美術館でよくわからない作品の意味について考えるのが最高に有意義な時間の使い方で、iTunesに洗練されたアートワークが追加されるのが快感で、相棒だったキヤノンの一眼レフで、退屈な世界をノスタルジックに切り取るのが生きがいだった。
 つまるところ、大学時代の私は、完全にサブカルをこじらせていた。
 けれど、こじらせようと思っていたわけじゃない。あの頃に感じていたことはぜんぶ、本物の気持ちだった。
 きっと私は全身全霊で、特別な存在になろうとしていたのだ。
 前と後ろで長さの違うスカートを穿いていたのも、誰も知らないゆるキャラのトレーナーを着ていたのも、青のカラータイツを皮膚のように感じていたのも、特別な自分を演出したかったのだと思う。
 そして、恵文社やガケ書房でマニアックな本を探しながら、河原町の喫茶ソワレの二階で宝石のようなゼリーポンチを食べながら、私は夢見ていたのだ。
 いつか自分の人生が、答えのない物語のなかに攫われることを。
 #ユニクロも無印良品も絶対着なかった


 十年前のその日が、ひどく蒸し暑かったことを覚えている。
 二〇一三年の夏の夜、私は、ゼミで一緒だった彩子さいこに連れられて、河原町の和民にいた。
「フジモリジュンヤでーす。経済学部の三回生でーす。よろしくーす」
 彩子が、バイト先で知り合った学内の先輩と勝手にセッティングしたコンパに、参加させられていたのだ。
「お金は男子側が払うし、隅っこのほうでポテトとか好きなもの食べとくだけでいいから」という彩子の口車に乗せられたが、実際参加してみるとそうはいかなかった。
 役割を放棄して帰ることはできたのだろうが、そこまでの空気の読めなさを発揮する勇気はなかったし、初っ端から抜け出すいい訳も思いつかなかった。
古賀こがゆうです。二回生です。文学部です。よろしくお願いします」
 自分の順番が回ってくる。私はせめて誰の記憶にも残らないように、できるだけ早口で言った。
「夕ちゃんの服、個性的やなあ」
 地獄のような自己紹介が終わって間もなく、隣に座った男が話しかけてくる。経済学部の三回生だということしか思い出せない。
「ありがとうございます」
 当時、ハンジローで古着を買うのがマイブームで、その日は襟元のレースがお気に入りだった青地に白でwonderfulと書かれたダボっとしたトレーナーに、パッチワーク・スカートを穿いていた。
 こだわりの服装であり、だからけなされていることには少しも気が付かなかった。それに、個性的というのは、私にとって何よりの褒め言葉だった。
「夕ちゃんはさあ、なんか趣味とかあるん?」
 一年くらい早く生まれてきたからと、慣れ慣れしく名前を呼んでくるのも、ざっくりした質問の仕方も、何もかも気に入らなかったけれど、私はとりあえず笑顔で答えた。
「趣味というか、映画は週五で観てます」
 週に一度、TSUTAYAで、旧作を五枚千円で借りるのが、その頃の私のルーティンだった。
「ほんま? 俺もめっちゃ映画好きやねん。好きな映画とかあるん?」
「邦画やったら……『ジョゼと虎と魚たち』とか」
 また質問の仕方に苛立ちながらも、私は答えた。
 それは私を邦画の沼に突き落とした作品だった。
「へえ、聞いたことないわ。どんな映画なん?」
「へ?」
 喉元まで「は?」と言いかかっていたけど、間一髪で変換した。
 確かに『ジョゼ』は最近の作品ではなかった。けれど仮にも映画好きと公言するのなら、『ジョゼ』も知らないなんて、ありえない。
「……えっと、説明するのは難しいんですけど、あの……逆に、何が好きなんですか」
 私はなんとか微笑みを崩さぬまま、心の中で苛立ちを爆発させながら訊いた。
 あの映画の良さは、絶対に説明できない類のものだ。
「最近やったら、『テルマエ・ロマエ』かな。おれ、原作も読んだけど、結構忠実に再現されてたよなー。バリ笑った」
 記憶が確かなら、昨年の映画だった。
「キャスティングは最高でしたね」
 無難な受け答えをしながら、私はもう顔が引き攣るのを隠せなかった。
 決して『テルマエ・ロマエ』が悪いわけではない。
 私だって原作漫画を買って読んでいたし、それこそ彩子に誘われて映画も観に行った。阿部寛演じるルシウスが銭湯にタイムスリップしてきたシーンは最高に笑った。
 けれど、『ジョゼ』を知った上で『テルマエ・ロマエ』を語るのと、『ジョゼ』を知らないで語るのでは、もう、なんというか、全然違うのだ。
「最近じゃなくていいので、本当にいちばん好きな映画、教えてほしいです」
 勿論、ロマエ(名前を思い出せないので、心の中でそう呼ぶことにした)の好きな映画を知りたかったのではない。
 きっと私は、この怒りに似た感情を鎮めるために問いかけた。
「うーん。やっぱり『ジュラシック・パーク』かなあ」
 それは、映画好きが一位に選ぶ映画として、全く間違っていなかった。誰がなんと言おうが『ジュラシック・パーク』は名作なのだから。
 壮大なBGMとともに、博士たちの前にブラキオサウルスが登場する場面は、忘れがたい。
「なるほど、マジで最高ですよね。あ、ちょっとお手洗い行ってきます」
 けれど、あの頃の私の求めていた答えではなかった。
 せめて、せめて『ショーシャンクの空に』と答えてくれたら、私は会話を続けたのかもしれない。ブルックスと鴉のジェイクの絆についてや、あの美しいラストシーンについて、語ったかもしれない。
 いや、と思い直す。
 たとえどんな答えを出されたとしても、おそらく最初から、先輩というだけでいきっているこの男の名前を覚える価値すら見出せないでいたのだから、そんなのはただの延長措置に過ぎない。
『ジョゼ』を知らないと言った時点で、私はロマエを、私の世界の住人として拒絶していた。

 お手洗いから戻ると、ロマエと彩子が、好きな芸能人の話で盛り上がっていた。おそらく、好きな映画の話を引き継ぎ、その世界一ありふれた話題に移行したのだろう。
「てか、彩子ちゃんってさ、上戸彩に似てるって言われへん?」
 そして下心たっぷりの指が、彩子の下品なほど茶色い髪に触れた瞬間、私は悟った。
 ロマエは、上戸彩を目当てに映画を観に行ったのだと。原作も、映画を観たあとで、なんとなくネットカフェとかで読んだに違いないのだと。
 さっきの答え方からするに『ジュラシック・パーク』も、子供の頃に金曜ロードショーで観て面白かった記憶が残っているだけで、名作として意図的に観たのではないだろうと。
 わざわざ確かめなくとも、それらは確信めいていた。
「え、上戸彩? そんなんはじめて言われましたあ! てか夕は誰か好きー? 芸能人」
 トイレから戻ってきてから、私が一言も発していないことを気にしたのではなく、あからさまな照れ隠しとして、彩子が話を振ってくる。信じられないことに、その甘ったるい喋り方から、彩子はロマエを気に入っているようだった。
「……松山ケンイチ」
 板尾創路と迷ったけれど、微妙な空気になるのを察して、そう答えた。
「Lやん!」
「バリなついですね」
 ふたりが、『デスノート』のポテチの下りで異様に盛り上がるなか、『人のセックスを笑うな』の松山ケンイチだと言いたかったけれど、タイトルを言うことも、もはや全てが憚られた。
 それから私は、青りんごサワーを片手に、冷めたポテトをケチャップにつけてつまみながら、上戸彩が演じた本来登場しないキャラだったヒロインについて、ヤマザキマリ先生はどう思ったのだろうと、飲み会が終わるまで無駄に考え続けていた。
 #死ぬほどサブカル女子こじらせてた


 飲み会のあと、気が付けば彩子は、私に何も言わずロマエと消えていた。そういう、自分勝手な女であることは知っていたから、いっそのこと清々しかった。
 私が腹を立てていたのは、割り勘だったことだ。
 あの日私は、合コンなど二度と行かないことを誓った。三千円も支払って、下らない会話をして、最悪な気分になっただけだった。
 それにしても、彩子がロマエの何を気に入ったのか、私にはさっぱりわからなかった。いわゆる雰囲気イケメンではあったが、いったい何を摂取して生きているのか不思議になるほど、中身は空っぽだった。というかまず、コンパに喜んでくるような男に、魅力を感じられない。
 相手選びのハードルが低すぎることに、羨ましささえ覚えながら、深くため息をついた。
 いったい人は、どういう風に恋に落ちるのだろう。
 恋愛映画を観るたびに、恋人が欲しいという願望が生まれ、出会いを求めている自分はいるけれど、私が思う恋は、和民では生まれない気がした。
「帰ろ」
 iPhoneにイヤホンを挿し、気分を上げるために、アジカンの『Re:Re:』を流す。
 夜が遅くなった日は、地下鉄に乗らず、音楽を聴きながら鴨川沿いを歩いて帰るのが好きだった。
 好きな芸能人の話より、こうして夜風を一人で浴びながら歩いているほうが、よっぽど楽しいと感じる私はおかしいのだろうか。
『ジョゼ』も知らないなんて、なんて愚かで、可哀そうな人生なのだろうと思ってしまう私のほうが、世界のはみ出し者なのだろうか。
 主人公気分のまま、河原町を抜けて、鴨川に下る。イヤホンからは、くるりの『ハイウェイ』が流れ始める。

僕が旅に出る理由はだいたい百個くらいあって
ひとつめはここじゃどうも息も詰まりそうになった
ふたつめは今宵の月が僕を誘っていること
みっつめは車の免許とってもいいかな
なんて思っていること

 何度も聴いて、覚えてしまったその歌を口ずさみながら、四条から三条へと続く川沿いの道を進んでいく。
 あのとき私は、ただ何も考えずに、音楽に揺られながら、鴨川に反射する夜の光を追いかけていた。
「ジョゼ!」
 もしも付属のケーブルイヤホンじゃない、ノイズキャンセルイヤホンを嵌めていたら、私はその声に気づけなかっただろう。
 そして、物語が開幕することはなかっただろう。
 立ち止まり、声がした方を振り向くと、小説を片手に鴨川の岸辺に座っている男の子がいた。
「それ、ジョゼ虎の主題歌やろ」
 エスニックな洋服で身を固めた男の子は、いわゆるシャフト角度――言い変えると挑発的な目線で私のほうを見て、得意げにそう言った。
 同い年くらいだろうか、横顔が、どことなく、松山ケンイチに似ていた。
「え!」
 しかし、私が叫んだのは、松山ケンイチに似ていたからでも、いつの間にか大声で歌っていた『ハイウェイ』が『ジョゼ』の主題歌だと、男の子が知っていたからでもなかった。
 その男の子が、『ジョゼ』を読んでいたからだ。
「ジョゼ虎、好きなん?」
 酔っているせいだろうか、夜の鴨川にはそういう力があるのだろうか、気後れもせず、私は話していた。
「好きじゃないやつ、いるん」
 男の子は言った。
 私は首を横に振った。
 いわずもがな、映画の原作となったその短篇小説も傑作としか言いようがない。
「……あの、折り入って訊きたいことがあるんですけど」
 それから私は、片方のイヤホンを外して、そう言いながら、岸辺に歩み寄った。
「なに」
 イヤホンを外したほうの耳に、その声と、川の音が、ダイレクトに響いた。
「自分のこと、映画好きって公言しておきながら、『ジョゼ』知らんのって、軽く、ありえへんやんな?」
 この男の子ならば、共感してくれると思った。
 誰かに共感してほしかった。
 私のことを変じゃないと、変なのは世界のほうだと教えてほしかった。
 男の子は、本を閉じて、ふうと息を吐いた。
 そして、私のほうをじっと見て、深くうなずいて言った。
「それは……、軽くじゃなく、ありえへん」
 #あの瞬間人生はじまった


 言うまでもなく、それが私となぎの出会いだった。
「それでロマエ、最近観た映画のなかで、いちばんよかったの『テルマエ・ロマエ』って答えてん。一瞬、溜め息でそうになって」
「だから、ロマエなんや。でも『ジョゼ』のくだりのあとにそれは、ため息でそうになるな。最近の邦画なら、『そして父になる』がおれはよかったけど」
「同じく! 私、是枝監督の映画やったら『空気人形』が狂おしいほど好きやねんけど、観たことある?」
「うん、観た観た。板尾さんの演技、めっちゃよかったよな」
「そうやねん! 私あれからめっちゃ板尾さんのファンで――」
 そして、気が付けば私たちは、夜の鴨川に居座り、好きな映画について話し続けていた。
 まだ七月になったばかりだというのに、本当に蒸し暑かった。けれど、ふたりとも帰ろうとしなかった。途中、喉が渇いて、ローソンに水を買いに行って、明るいところで顔を見られるのが妙に恥ずかしかったりした。
「てか君はなんで、こんな夜に鴨川で本読んでたん」
 空が白んできて、もうすぐ始発が動きはじめるというタイミングで、私は訊いた。
 そのとき、知らない男の子を、君と呼んでみたかった微かな夢が叶った。
 というのも、朝まで話し続けたのに、私たちはまだお互いの名前を知らなかった。同じような京都の賢くもバカでもない大学に通っていることも、同じ二十歳だということも。
 でもやはり、相手を知るのに、くだらない質問合戦もいらなければ、自己紹介すら必要ないのだと、私はなんだか勝ち誇った気持ちになった。
 それによく考えてみれば、『ジョゼ』の主人公も、クミという名前を勝手にほかして、恋人にジョゼと呼ばせていた。そっちのほうが素敵だからと。
「好きやねん。こうして、部屋じゃなく、夜の雑踏のなかでする読書は、誰かの物語の登場人物になれた気がするから」
 空を仰ぐように寝転がって、凪は言った。
「自分の物語じゃなくて?」
「そう。やってみたらわかるで」
 言わずもがな、あのとき凪も、サブカルをこじらせていた。
「ふうん」
 いっきに体温が上がるのを感じながら、私は凪を見下ろした。
「おれ、明日の夜もここで本読む予定やけど、来る?」
 そう誘われることを、知っていたからだ。
「来てもいいよ」
 だって私たちは探していたのだ。
 LINEの交換じゃない、私たちの物語に相応しいはじまりを。
 隣同士に座った瞬間から、こうして朝になるまで。
 #三条京阪から始発で帰った


 とびきりいい映画を観終えたあとのように、家に帰ってからも余韻が醒めなかった。
 凪のことを考えていた。電車に揺られているときも、降りたときも、切符を通したときも、シャンプーをしているときも、歯を磨いているときも、私はずっと凪のことを考えていた。
 きっとアドレナリンが大量にでていて、なかなか寝付けなかった。私はベッドに横たわり、今夜鴨川に持っていく本を考えながら、本棚を眺めた。選んでいる途中で、いつしか眠っていた。夢の中でも、きっと凪のことを考えていた。
 つまるところ、私はもう凪に猛烈に恋をしていた。
 昨日まで、恋のはじまり方さえ知らなかったというのに、私はもう恋の全てを知っていた。

 それから結局、昼過ぎまで眠ってしまった。
「昨日、ごめんな」
 五限目のただ座っていれば単位がもらえるメディアリテラシーの授業だけ受けに大学へ行くと、昨日と同じ花柄のセットアップを着た彩子が話しかけてきた。
「何が?」
 割り勘だったことか。それとも、何も言わずに抜け出したことか。
「え、やっぱり怒ってる? ほんまごめーん」
 その顔に謝罪の色はなかった。そして彩子が謝っているのは、割り勘だったことじゃなく、ロマエと抜け出したことだろう。
「あれからロマエとどうやったん」
 私にそう訊いてほしいからだ。
「ロマエ?」
「あ、ごめん。違う。えっと、なんて名前やっけ」
藤森ふじもりくん」
「あ、そっかそっか」
 名前を思い出したところで、もう私の中ではロマエだった。
 しかし昨日、あんなに悪口を並べたものの、ロマエがいなければ、あんなふうに凪と打ち解けることはなかっただろうと思うと、急にキューピッド的な神聖な存在にすら感じてきた。
「うん。ほんでな、あれからな、部屋行って、一緒に寝た」
「マジか。流石やなあ」
 褒めながら、バカだなと思った。
 先輩といえども、知り合ったばかりの男にすぐに股をひらくことに関してもそうだけれど、イントロもAメロもBメロも演奏しないで、いきなりサビを歌ってしまうところが、いちばんバカだと思った。
 でも私は、わざわざ彩子に説教したりしない。
 なぜなら彩子は、友達になったときから、私の世界の一時的な登場人物でしかないと知っていた。私はただ、大学に友達がひとりもいないという状況を回避できればよかった。それに彩子のバカさは、変に気取っている女子よりも面白かったし、何より私は彩子と一緒にいると自分がものすごく知的な人間になった気になれた。
「えへへ。部屋もめっちゃおしゃれでな、家具とかも白と黒で統一されてんねん」
 個人的には最悪な配色センスだと思ったが、口にはしなかった。
「付き合うの?」
「わからんけど、たぶん。今日も会う約束してるし」
「そうなんや、おめでと」
 よくてセフレ止まりやなと思いながら、私は指先だけで拍手をした。
「うん。夕もはよ、彼氏つくりや」
「頑張るわ」
 彩子に凪のことは言わなかった。
 いま喋ったら、すべてが台無しになるような気がした。
 だって私と凪の物語はまだ、イントロが終わったばかりだった。
「なあ、彩子のいちばん好きな映画って何」
 知りたかったわけじゃない。ただ、確認したかった。
「えー、そんなん急に言われてもわからへん。あ、でも、人生でいちばん泣いたんは『恋空』」
「わかる」
 私は言い、確信した。
 やっぱり世界は、同じレベルのもの同士が惹かれあうように、できているのだと。
 #ジュラシックパークと答えたロマエのことが少し可愛く思えた


 金曜日の夜の河原町は、解放感に満ちた人々で溢れていて、雑音が多い。でもみんなが夜に呑まれていくその感じが、心地よかった。
 鴨川で、アクリル板で仕切られたように等間隔で並ぶカップルたちも、普段なら五メートルは間隔をとるところを、今日は二メートルほどになっている。
 凪は昨日と同じ場所にいて、スタバを片手に、酔っぱらって鴨川に飛び込んでいるアホな大学生を眺めていた。
「ああいうの、どう思う」
 私は隣に座り、おそらく自分たちと変わらない年齢のアホを見つめながら訊いた。
「違う世界の住人やなって思う」
 凪は答えた。
「わかる」
 今度は、心の底から言った。私も、彩子やロマエを違う世界の住人だと思っていた。言い変えるのなら、見下していたのだ。同じ大学に通っているのに。
「何時からいたん」
「さっき」
「昨日、寝れた?」
「まあまあ」
 男の子も、恋をした日は眠れなくなったりするのだろうか。その落ち着いた表情は、何を考えているのかわからなかったけれど、私を好きになってくれていることだけは、空気でわかった。
「何の本、持ってきたん」
 アホが一層激しい雄叫びをあげるなか、私は訊いた。
「『スプートニクの恋人』」
 風呂敷のような黒のトートバッグから、凪が文庫本を取り出す。
「それ、村上春樹の作品でいちばんすき」
 全作読んだわけじゃないけど、私は言った。
「そうなんや。おれ、これだけ読んだことなかったから」
 と凪は口元で笑ってから、「君は」と訊いた。
「私は『燃えるスカートの少女』」
 それは、シュールで幻想的で少しホラーなエイミー・ベンダーの短編集で、持っている本のなかで、最も表紙が好きだった。しかしやや難解で、読むのに苦労して、まだ一篇しか読んでいなかった。
「どこで買ったん」
「恵文社」
 京都の一条寺にある本屋で、気に入って、月に一度は足を運んでいた。恵文社には、大衆的なベストセラーは置いていない。その代わり、普通の書店では出会えない本が、セレクトして置いてあるのだ。
「あそこに売ってる本、おもろいよな。おれ、こないだ、廃墟の写真集買ったわ」
 きっとお互い、平凡な、つまらない人間じゃないということを、必死でアピールしていた。
 それは、サブカルの沼に浸かりながらも、そこまでマニアックな知識もない、美大生でもない、京大生でもない、関関同立に通っているわけでもない、平凡な大学生だった私たちの、コンプレックスの裏返しだったのかもしれない。
「じゃあ、読もか」
「うん」
「読み終わったら、感想言いあおう」
「それは本の? それとも誰かの物語の登場人物になれたかどうか?」
 凪といるとき、私はいつも気の利いたセリフを探していた。きっと凪の物語の登場人物として、相応しくなりたかったのだ。
「両方や」
 凪がどうだったかは知らない。けれど私は凪の放つ無駄な装飾のない言葉が、たまらなく好きだった。

 それから私たちは、ナンパ待ちのギャルと、不細工なカップルに挟まれながら、岸辺に並んで本を読んだ。
 というより必死で、読んでいるふりをしていた。
 正直、一文字も頭に入ってこなかった。通常の状態でも難解だと感じるのだから、全力で集中しないと読めるはずがなかった。
 私の脳味噌は、はやく、凪とふたりきりになりたいと、そればかりを考えていた。

「今日、煩いな」
 三十分ほどして、本から顔をあげて凪が言った。
「金曜日やから」
 無意味に捲ったページに、無意味に栞を挟みながら、私は言った。
 アホはまだ騒いでいたし、ギャルたちの元へは引っ切り無しにギャル男が現れ、不細工なカップルは人目も憚らずいちゃついていた。
「でも私、ちゃんと誰かの登場人物になってる」
 しかし、こんなカオスな状況でも、その意味はわかった。隣の不細工なカップルにとっては、私たちが、小説を読んでいるサブカルをこじらせた感じの奴ら、というキャラになるのだということも。
「やろ」
 得意げに凪が言う。
「うん」
 そのあと暫く私たちは、本も読まずに、鴨川にいる人たちを、その流れを観察した。
 きっと、何を感じるわけでもなく、ただ次の展開に備えていた。
「なあ、移動しいひん」
 そして、凪が言った。
「うん」
 本を読み始めてからずっと、その言葉を待っていた。
「さっきからおれ、蚊、めっちゃ刺されてんねん」
 それは事実だったのかもしれないし、この場を離れるのに、最も適したいい訳だったのかもしれない。
「え、私、全然刺されてへん」
「おれがO型やから、集中攻撃受けてんねん」
「いや、私もO型やけど」
「じゃあ、おれの血のほうが美味しいんやわ」
 立ち上がりながら、凪がにやりと笑う。
「いや、私のほうが美味しいから」
 私も立ち上がり、笑った。
 空になったスタバのカップを手に、凪が歩き出す。
 私は凪の隣を歩いた。「どこに行くの」なんて、そんな野暮なことは訊かなかった。
 私たちはただ、適切な場所で、お互いの名前を伝え合いたかった。
 #手はまだ繋がなかった


 二十分以上歩いて辿り着いた凪の部屋は、家賃四万円のボロアパートだった。
「汚くてごめん」
「ううん、全然」
 その汚さこそ、私が求めていたものに違いなかった。薄暗くて、狭いキッチンを見て、最高だと思った。ここが物語の舞台になるのだと、胸が躍った。
 そして、さらに私の胸を高鳴らせたのは、ちゃぶ台の上に置かれた原稿用紙だった。
「小説、書いてるの」
「うん」
「すごい」
「すごくないよ」
「プロとか目指してるの」
「一応。純文系の賞は応募してる」
「すごい」
 私はアホの一つ覚えのように言った。
 小説を書く男の子なんて、周りで見たことはなかった。それもこの時代に、手書きで書いているなんて、内容を読まなくても、それだけで文学的に感じた。
「ほんまにすごくないから、まだ。珈琲、淹れてくる」
 すごくなるかもしれない予定の人と一緒にいることが、十分、贅沢だった。
 私はいてもたってもいられず、鞄からそっと、一眼レフを取り出した。ファインダー越しに狭いキッチンを覗くと、インスタントコーヒーを淹れている姿が見える。
 あまりにも絵になっていて、私は考えるより先に、その背中に向かって、シャッターを切っていた。
 音に反応して、凪が振り返る。
「それって、一眼レフ?」
「うん、キヤノンのKiss」
「見せて」
 凪は珈琲が入ったムーミンのマグカップを持ってきて、ちゃぶ台に置いた。
 ありがとうと言ってから、さっき撮った写真をモニターに映して見せた。
「映画みたいに撮れるんやな。写真、好きなん」
 私は頷いた。それから、好きと答える代わりに、インスタの自分のアカウントを開いて、最近機種変したばかりのiPhone5を凪に渡した。
〈yuu_film20〉は半年前、写真を投稿するために作ったアカウントで、そもそもカメラをはじめたのも、インスタがきっかけだった。
 メインのアカウントに突如として流れてきた、紫陽花のなかで佇む白いワンピースを着た少女の写真。加工のせいもあったのだと思うが、それは現実じゃないみたいに美しかった。
 その写真には〈#ファインダー越しの私の世界〉というタグがつけられていて、タグに飛ぶと、カメラ好きたちが投稿した、一眼レフで撮影された物語を感じさせる奥行のある写真が連なっていた。
 私はそのエモーショナルな世界観に一瞬で憧れた。こんなふうに世界を切り取ってみたいと思った。
 そして翌日には京都駅のヨドバシカメラで、おすすめされたキヤノンのEOS Kiss X6を購入していた。
 一眼レフは魔法の道具だった。このカメラで撮影するだけで、なんでもなかった風景がすべて、特別になった。
「これって、君のアカウント」
 私は頷いた。
 そのときフォロワーは、百人もいなかった。けれど、友達の少ない私にとって、メインのアカウントよりずっと多かったし、見知らぬ誰かにフォローされるたび、少しだけこの世界に認められたような気がした。
「ゆうって、どう書くの」
 アカウント名を見て、凪が訊いた。
「夕方の夕」
 私は用意してきたみたいに答えた。
「夕の写真、おれ、すきやわ」
 それは、告白なんかより、よっぽどうれしい言葉であると同時に、今思えば、告白にかわりなかったのだと思う。
「それ、おれのアカウント」
 インスタのお知らせには〈nagigram.7があなたをフォローしました〉と表示されている。
 凪のアカウントに飛ぶと、そこには大学で撮ったのだろう教室の写真や、京阪電車の写真など、統一感のない投稿が並んでいた。
「人生が動いたと思った瞬間にだけ、投稿してる」
 凪は言った。
 昨日の投稿された、鴨川を背景に撮った『ジョゼ』の写真について、私は訊きたかったけど、
「なぎって、どう書くの」
 それこそ野暮だと思い、そう訊いた。
「夕凪の、凪」
 用意していたみたいに凪も答えた。
「……夕凪って?」
「波のない海のこと。夕方、海の風と陸の風が交差するとき、風がなくなるねん。見たことある?」
 私は首を横に振った。
「じゃあ今度、見に行こ」
 細長い凪の指が頬に添えられる。
 私は、その指が頬から離れないように、静かに、頷いた。
 そして、風がなくなった。
 私たち以外誰も生きていないような静かな夜の中で、キスをした。
 私ははじめてだったけれど、凪がはじめてじゃないことは、訊かなくてもわかった。
 そして、赤いペルシャ絨毯みたいな柄の絨毯の上で、一時間セックスをした。
 #普通に痛かった


 大抵、好きになる曲はイントロを――もっというなら最初の一音を聴いた瞬間にわかってしまうものだ。
 だから私は、声をかけられたあの瞬間から、凪を好きになると知っていたのだろう。
「なあ、コンビニにアイス買いにいかん」
 セックスが終わったあと、恥ずかしげもなく水玉模様のトランクスを穿きながら、凪は言った。
「行く」
 まだ股のあいだがじんじんと痛かったけれど、そう答える他なかった。凪が想像以上に慣れていたのもあるけれど、処女だなんて、言いたくなかった。処女じゃないほうが、慣れているふりをしたほうが、私たちの物語に相応しいと思った。

 外に出ると、申し訳程度の雨が降っていた。
 凪は傘を取りに行くかどうか議論もせずに、そのまま歩き出した。私も、それでいいと思った。
 凪の家からいちばん近いコンビニはファミリーマートで、私たちは相談の上、ソーダ味とチョコ味のパピコを買って、分け合った。
「なんか、いいな」と凪が言った。
「うん」
 というか、人生最高の夜だった。
 結果的に、出会った次の日に致してしまったわけだけれど、出会ってから、ずいぶん時間が経っているような気がしていた。
 だから彩子とロマエとは、ぜんぜん違うと思った。あんな、コンパで少し喋っただけの相手とその晩にセックスするのとは、ぜんぜん違うって。
 だって私たちはちゃんと、イントロとAメロを演奏した。それから、完璧なタイミングでサビに入ったのだから。
 それに『タイタニック』のジャックとローズだって、出会って一日でセックスしていたけれど、あれは素晴らしいシーンだった。
 うまく言えないけれど、そういう感じだって、思った。
 それから、パピコを吸いながら、自然と手を繋いだ。
 付き合おうと言いあわなくても、私たちはもう恋人だった。
 #事後はパピコを買いにいくのが習慣になった


 それから私たちは、毎日のように一緒にいた。
 独り暮らしをしている凪は、実家でのんびり生きている私と違って、週に何度かスーパーでバイトをしていて、その帰りに待ち合わせて部屋へ行くことが多かった。週五は夜更かしをして、小さなテレビで映画を一緒に観た。つまり、ほとんどのとき私は、凪の部屋に入り浸っていた。
 映画に出てくるみたいな凪の部屋が好きだった。代わり映えのしない部屋のなかで、私は毎日のようにKissでシャッターを切った。
 異様に盛り上がった夜は、誰にも見せられない写真を二人で撮りあって笑った。
 インスタには、上手いとか下手じゃなく、その日いちばん好きだと思った写真を載せた。意図的に人物は載せなかったけれど、でもその裏側には必ず私たちがいた。フィードは言葉のない思い出で埋め尽くされていった。
 私の世界は、凪一色だった。
 凪に会えない日は、凪がいいと薦めてくれた本を読んだ。
 凪がいいと感じたものを、私もいいと感じたかった。

「凪はなんで、小説家になろうと思ったん」
 小ぶりな胸を晒したまま、私は凪に色んなことを問いかけた。
 凪といるとき、私はいつも、違う私を演じていた気がしたけれど、セックスが終わったあとだけは、素に近い状態になれた。
「小説なんか読んだことなかったんやけど、前の彼女が読書好きで、色んな本、教えてくれて、ハマった」
 凪もなぜだか、饒舌に、素直に答えてくれた。
「そうなんや」
 でも前の彼女の話が飛んでくるとは思っていなかったから、私の心は一気にざわめいた。
「どんな彼女やったん」
 傷口が深くなるだけなのに、でも訊かずにはいられなかった。
「三つ年上やったな。画家目指して、美大通ってた」
 それって、高校生のときに大学生と付き合ってたってこと? どんなふうに、出会ったん。彼女、美人やった? 胸大きかった? いまも、SNSとか繋がってる感じ?
「へえ、すごい」
 一瞬で、問い詰めたいことが山のように浮かんだけど、ばかみたいな顔を取り繕って、それだけを言った。途轍もなく棒読みだった。
「てか、アイス買い行こ」
 妙な沈黙が生まれたあと、凪が空気を換えるように、床に脱ぎ捨てた鼠色のTシャツを着ながら言った。
「うん」
 私も布団のなかに埋もれていたパンツを探して穿いた。

「夏が終わるな」
 ファミリーマートに行く途中、道端に落ちている蝉の死骸を見て、凪が言った。
「うん」
「死んでると思った蝉がさ、急に飛んでくることあるやん。あれ、セミファイナルって言うんやって」
 凪は、私を笑わせようとしていた。
「めっちゃおもろい」
 けれど私の顔はひきつったままで、うまく笑えなかった。
 自分で訊いたくせに、嫌気が差すほど、落ち込んでいた。
 美大に通っていた凪の元カノはきっと、表面的なサブカルしか知らない私なんかよりも、もっと本格的にアートな人で、色んなことを知っていて、根本的に解っていて、凪の人生に刺激を与える存在だったのだろう。
 もしかしたら、凪が薦めてくれた本はぜんぶ、彼女が読んでいた本だったのかもしれない。いや、きっと、そうだったのだ。
「なあ、明日さ、海行かへん」
 だから凪がそう誘ってくれたのは、明らかに不貞腐れている私の機嫌を直すためだった。
 凪は少しも悪くないというのに、私はちょっと迷ったふりをしてから、「行く」と言った。
 #帰りにセミファイナルに遭った


 次の日は午後から起きて、エフィッシュでアボカドとツナのサンドイッチを食べてから、レンタカーを借りて、八丁浜に向かった。八丁浜は京都の日本海側に位置している。私たちの住む舞台から、いちばん近い海だ。
 車の中では一曲目に『ハイウェイ』を流して、そのままくるりを聴き続けた。
 凪が免許を持っていたことは、はじめて知った。もう、何もかもを知っているような気がしていたけれど、私たちは出会ってまだ二か月も経っていないのだった。
「もうすぐ着くで」
「うん」
 運転姿がいちいち私の胸を焦がした。
 八丁浜に着いたのは、夕方だった。
 車から降りると、そこには、波のない、穏やかな海の姿があった。
「夕凪や」
 凪が感嘆の声を上げる。
「時間が止まったみたい」
 ファインダーを覗くと、夕陽の色に染まった水平線がどこまでも続いていた。
 何度かシャッターを切り、深呼吸をする。
「凪、私、写真もっとうまくなるから、凪のデビュー作の表紙撮りたい」
 それから凪の顔を見ずに、水平線を見つめながら言った。
 半分は、元彼女に負けたくないという気持ちだった。
 もう半分は、何者かにならなければいけない気がして、焦っていた。
 それはきっと、凪が小説家を目指していると知ったときから。
「頼むわ」
 凪は笑って言った。
 本気でも嘘でも、うれしかった。
「とりえあず、目指せフォロワー一万人!」
 私が海に向かって叫ぶと、「じゃあ俺はとりあえず、最終候補に残る!」凪も叫んだ。
 それは私の夢よりずっと現実的なことに感じて、「でももし、凪が小説家になって、そのとき私が何者でなくても、一緒にいてくれる」発作的にそう訊きたくなったけど、堪えた。
「私、凪と、ずっと一緒にいたい」
 代わりにそう言った。
「いよう。死ぬまで」
 小説をたくさん読んでいるからなのだろうか、凪は時々、そういう恥ずかしいことをさらりと言って、それはいつも私の心を喜ばせた。
「うん」
 それから私たちは肩を寄せ合って、水平線を眺めつづけた。
 ただひたすらに、再び波が訪れるまで、夕凪のなかで佇んでいた。
 #結局あの日の海がいちばんいいねもらえた


 あの日、大人になるまでに、時間はまだたっぷりあると思っていた。
 永遠のように、二十代が続くとすら感じていた。
 けれど私は、こうしてあっという間に、三十歳になった。あの日の自分より、十歳も年上になった。
 私は月明かりの下、波が眠りについてからも、凪からいいねが来た理由を、探していた。
 今日は、お互いの誕生日でもなければ、何かの記念日でもない。
 でも凪が、理由もなく、反応してくるとは思えなかった。なぜなら私たちは、いつだって、それは別れのときですら、自分たちの物語が特別になるように、意識していたのだから。
 私はいいねされた、あの日の海の写真を見返す。
 ――そして、ようやく気が付いた。
 今日は十年前、八丁浜に夕凪を見に行った日なのだと。
 凪のフィードが五年ぶりに更新されたのは、その瞬間だった。
「人生が動いたと思った瞬間にだけ投稿してる」
 否応にも、その言葉が脳を掠めた。
 凪が投稿した写真は、雑誌の一部を映したものだった。
 まず『文学世界賞二次選考結果』という印字された文字が投稿の一枚目にあり、

最終候補作
『夕凪』 萩原ナギ

 二枚目に、作品名とその名前があった。

 私は部屋に戻り、波を一旦、ゆっくりと布団に寝かせた。
 それから、カウンターキッチンで、買い置きしておいたカルピスソーダをいっきに飲んだ。
 深く息を吸って吐いたあと、思わずその場に蹲る。胸のざわめきが治まらない。
 だって――凪はあれからも、小説を書き続けていたのだ。
 あの投稿は、文学賞の最終候補に残ったという知らせに他ならなかった。
 何よりも私の心を惑わせていたのは『夕凪』というタイトルだった。
 私はもう一度深く呼吸をしたあとで、本棚のなかでインテリアと化しているKissを手に取った。
 この頃はもう――というより、大学を卒業してから、ほとんど触っていなかった。
 気が付けば、スマホばかりで写真を撮るようになっていた。
 でも、Kissを手離そうと思ったことは一度もなかった。このカメラが傍にあるだけで、いつでも、あの頃に帰れるような気がしていたのだ。
 私はカメラのバッテリーを少しだけ充電したあと、静かに出かける準備をしてから、寝室を覗いた。洋介はいつも通り、鼾をかいて眠っている。死んだように眠るその寝顔は、改めて見ると、板尾創路に似ている気がした。
「行ってきます」
 私は言った。もう結婚して三年になる。これくらいの声量で、洋介が起きないことを知っていた。
 車の免許は、凪と別れた春にとった。
 旅に出ようと思ったからではなく、仕事で必要だったからだ。
「ごめん、今日だけママに付き合ってな」
 あんなに深い眠りについている洋介の元に、波を置いていくことはできない。もし目覚めても、車のなかでなら、いくら泣いてくれても構わない。私は波のおむつを替えてからそっと抱きかかえ、外へ出る。起きないように祈りながら、どうにかチャイルドシートに乗せた。
 無事に移動できたことにほっとしたあと、八丁浜にナビをセットして、車のアクセルを踏んだ。
 ここから、八丁浜までは二時間半。朝までにはたどり着ける。
 どうしても今日、行かなければいけない気がした。
 ――もう一度、会える気がした。
 #ずっと限界だった


「てかあたしな、卒業したら、じゆんと結婚すんねん」
 彩子がそう言ったのは、四回生の夏だった。
「え?」
「てか子供できて」
「え、待って。純也って誰?」
 凪と付き合うようになってからというもの、彩子と話すことは極端に減っていた。
 彼氏ができたことを皮切りに、私も彩子も大学をサボりがちになったのもあるし、私の世界が凪で埋め尽くされるようになり、気が付けば彩子にも違う世界ができていた。
「藤森君」
「え、だから誰」
「二回生のとき、一緒にコンパ行ったやん。覚えてへん?」
「え、ロマエ!?」
 私は、久々にその名前を思い出した。
「いや、誰」
 彩子にしては尤もな突っ込みだった。
「いや、ごめん。てか、え、別れたんちゃうかったん?」
 最後に聞いた情報では確かそうだった。
「そやってんけど、また付き合って、別れたり、くっついたりしてて、結果的にこれ」
 と、彩子がまだ膨らみのないお腹を指す。
「そう、やったんや。とりあえず……えー、めっちゃおめでとう」
 二年前と同じく、指先だけで拍手をしながら言ったものの、急すぎるのも相まって、全然、おめでとうとは思えなかった。
 だって、相手がロマエなのに加えて、妊娠しているなんて。卒業したら、主婦になって、母になって、それだけの人生なんて。そんなの、なんだか、可哀想だとさえ思った。

「凪は結婚とかってどう思う」
 その夜、凪の部屋で『チョコレートドーナツ』を観ながら、私は訊いた。映画は素晴らしくて、ゲイのカップルが、障がいのある男の子を育てるストーリーで、何度も涙がこみ上げてきた。
「まだ、わからん」
 凪は映画を観ずに、先輩から安く譲ってもらったというMacBookで小説を書きながら答えた。
「やんな」
 死ぬまで一緒にいようと言われるのと、結婚はイコールではないのだと思い知らされながら、私はこんなに素晴らしい映画を観ないなんて信じられないと感じていた。
 凪と付き合って、二年が経っていた。
 相変わらず毎日のように一緒にいたし、お互い浮気をすることもなかった。
 一緒にいられない日は淋しくなったし、どちらかが飲み会に行く日はヤキモチを焼いたりもする。
 けれど、夕凪を見に行った日のような、美しい気持ちは、私たちの間にはもうなかった。
 二人で過ごすことが当たり前になると、作品のことを夢中で語ることはなくなり、次第に映画も一緒に観なくなり、欲求不満を解消するわけでもない、ただ恋人だと確認する作業のようなセックスも五分で終わった。
 けれど、事後にアイスを買いにいく習慣だけは、律儀に守られていた。
「就活、どうなん」
 コーヒー味のパピコを食べながら凪が訊く。
「とりあえずエントリーシート書いてる」
 私はソーダ味のパピコを食べながら答えた。
「大変そやな」
 本当はもう食べ飽きていたけれど、それを言ったら、この二年間のすべてが溶けてしまうような気がして、言えなかった。
「凪は?」
「おれは、やっぱ、小説家になりたいし」
「なれるよ、凪なら」
 それは口癖のようになっていたけど、就職しても小説は書けるんじゃないかと喉まで出かかってもいた。そう思ってしまうのは、眠れない夜中にこっそり読んだ凪の小説が、純文学だからというわけじゃなく、ちっとも面白くなかったからだ。なんというか、前衛的というわけでもなく、春樹に感化されたオナニー小説としかいいようのない内容だった。就活もせず、こんな変な小説を書いていることをちょっと気持ち悪いとか思ってしまった。正直それから全然濡れなくなった。凪は文芸誌に自分の名前が載らないことを、いつも心の底から悔しがっていたけど、これでは一次審査も通過しないのはしょうがないと頷けた。
 けれど、凪のことをどうこういう資格は、私にはなかった。
 結局この二年間で〈yuu_film20〉のフォロワーは百人しか増えなかった。最初のほうこそ意気込んで、♯で参加できるフォトコンテスト等にも応募していたけれど、それもことごとくくダメだった。他の人の写真を見るたびに、自分がいかに凡庸な人間かということを思い知らされた。けれど、凪みたいに悔しくなかったのは、本気で写真家になりたいと思っていたわけじゃなかったからなのだろう。
 私はただ、あのタグに写真を投稿している自分が好きだったのだ。
 そして、特別な自分になりたかったのでもなく、自分にとって特別なことが、ただ特別だった。
 凪が隣にいるというのに、思わず溜め息が漏れる。
「どうしたん」
「ごめん、就活だるいなと思って」
「わかるよ」
 してないんやから、わからへんやろ。
「うん、泣きそう」
 私は昼間、彩子のことを可哀想だと思った。
 もう何者にもなれない彩子が、可哀想だと思った。
 けれど本当は、何者にもなれないのは私だった。
 もはや、何になりたいかもわからない。
 どんなにいい映画を観ても心の表面しか満たされなくて、大好きだったはずの凪の演技めいた言葉に苛つくことが増えて、どうしようもなく現実だけが襲ってきて、不安で、未来になんの希望もなくて、言い始めたらきりがないけれど、どう考えても、可哀想なのは私のほうだった。
 #凪と結婚したかった自分がいた


 そして秋から冬に変わった頃に、私の就職が決まった。写真とは何の関係もない、地元に根付いた不動産会社だった。東京の企業に行く子もいたけど、私は京都から離れることが考えられなかった。心のどこかではまだ、凪と離れるのが嫌だったのかもしれない。
「お祝いに、線香花火しよ」
 棚の上に置きっぱなしにしていた今年の余りの線香花火が目に入ったのだろう、凪は言った。
「冬やのに?」
「冬やからやん」
「なるほど、わからん」
 私は突っ込みながらも、Kissを首に下げて、凪に続いてベランダへ出た。
 冷えた空気が、ゆったりと夜を泳いでいる。
「これ、夕の線香花火」
「ありがとう」
 凪がライターで火をつけてくれると、飴色のかたまりが、バチバチと音を立てて弾けだす。
「夏のにおいがするな」
 凪が言う。
「夏のはじまり? 夏の終わり?」
 片手でカメラを構え、ファインダー越しに凪を見つめながら訊いた。
「授業のはじまりにも終わりにもチャイムは鳴るやん。そういう感じ」
 シャッターを切りながら、私は考えている。
 この線香花火は、はじまりなのか。それとも終わりなのかを。
「来年の夏はさ、大きい花火見に行こっか」
 凪が言う。
「うん」
 頷きながらどうしようもなく切なくなるのは、答えのない物語に憧れていたのに、答えのない物語に耐えられなかった自分がそこにいるからだ。
「このあとさ、久々にふたりで映画観たい」
 そのときの私の声は、少し真剣すぎたかもしれない。
「……じゃあ『ジョゼ』は?」
 最後に、という言葉をつけなくても、凪は感じ取ったのだろう。それはあまりにも最終回に相応しい映画だった。
 勿論、凪のことが嫌いになったわけじゃない。
 それどころかまだ、好きすぎるのかもしれなかった。
 でも、大学卒業という制限時間までに、何者にもなれそうにない私たちの関係は、この線香花火のように落ちる寸前で、いちばん素晴らしい瞬間は、もうとっくに過ぎてしまっている。そして小さくなった火種が大きくなることはない。
「うん。借り行こ」
 レンタルショップまでは手を繋いで行った。凪のほうから繋いできた。その力は、涙がでそうになるくらい強くて、やっぱり違う映画を借りたくなった。けれど、私の手はちゃんと『ジョゼ』をレジに持っていって、凪は少しだけ泣きそうな顔をしていた。
 私はその顔を視界に入れながら、だったら、もう少し本気で愛してくれたらよかったのにと思った。
 そして『ジョゼ』を観た。真剣に、無言で観た。
 これまでふたりで観なかったことに意味があるとしたら、私たちに相応しいエンディングを迎えるためだったのかもしれない。
 凪といる時間はやっぱり現実じゃないみたいで、好きだった。けれどすぐに、その現実じゃないみたいな感じが、嫌になることもわかっていた。
 だって私はもう、凪の夢を心から応援できない。そして自分自身が、夢に生きられる人間じゃないことを、自覚していた。私は普通にしか生きられない側の人間なのだということを。
 バカにしていた彩子とロマエが永遠を誓い合い、イントロもAメロもサビに入るまでも完璧だった私たちは、映画が終わったら別れ話をする。
 けれど、終わりがあるからこそ、ハッピーエンドじゃないからこそ、この物語が最高に美しくなることを、私たちはもう知りすぎていた。
 #夏のにおいだけが残った


 八丁浜に着いたのは、朝の七時だった。
 思いの他、車の振動が心地よかったのだろうか。波は深く眠り込んでいる。起きないようにそっと抱きかかえ、ゆっくりと海へ歩を進めた。
 そして、目の前に広がった光景に、時が戻ったような感覚になった。
「朝凪や」
 私はあの日の凪の真似をするように、感嘆の声を漏らした。
 波のない、おだやかな海。
 昇ったばかりの太陽の光が、きらきらと水面に反射している。
 この時間帯は、夕凪と同じく、陸風と海風が入れ替わるときに、海辺の風が一時的に吹かなくなるのだ。
 もしも私の名前が朝だったら、凪はあの日、朝の海に連れてきてくれたのだろうか。『朝凪』というタイトルの小説にしただろうか。
「凪」
 そんな下らないことを考えながら、私は海に向かい、その名前を呼んだ。
「凪」
 もう一度、さっきよりも大きな声で。
「凪、私な、三十歳になってん」
 言いながら、涙がこみ上げてくる。
 ここに来れば、会えるような気がしていた。
 けれど、やっぱりもう、いないのだ。
 大声を出したせいだろう。いつしか目を覚ましていた波が、不安そうに私の涙に手を伸ばす。
「まま」
 それは波が唯一話せる言葉だ。
 私は波を抱きながら、砂浜に座り込んだ。
「ままな、会いたかってん」
 どうしても、会いたかった。
 もう一度だけでも、会いたかった。
 それは、凪に会いたかったんじゃない――凪といたときの自分に、会いたかった。
 結婚して子供が生まれ、誰もが正解だと言ってくれるだろう人生を手に入れたのに、心のどこかでずっと、私はあの頃の自分が恋しかった。
 バカみたいな服を着て、一日かけて本を探し、物語の素晴らしさを噛みしめ、ファインダー越しのなんでもない景色にさえ意味を感じていた頃の自分が。
 鞄のなかで、スマホが震えている。洋介からの着信だった。
「はい」
 きっと学生時代だったら取らなかっただろうと思いながら、私は電話に出た。
「ごめん、今起きた。どこにいる?」
 洋介の声は、良くも悪くも、私を現実に引き戻す。
「過去にいる」
 水平線を見つめながら私は答えた。
「真面目に答えて。波もいないし、車もないし、心配してる」
 電話越しのその声は、いつになく真剣で、少しも笑っていなかった。
 洋介とは四年前、同僚に進められて登録したマッチングアプリで出会った。
 それまでも、誘いがなかったわけじゃないけれど、別れてからも、私は凪との物語が忘れられなかった。あんなにも、運命的で特別な出会いはなかなかあるものじゃない。だから後悔もしていた。結果的に嫌われたとしても、もっと本音でぶつかり合えばよかったのかもしれないと、そう感じていた。
 だから、顔がまあまあタイプだったという理由だけで、試しに会ってみただけの洋介と結婚するなんて思ってもいなかった。それこそ、自分も登録した癖に、コンパ同様、マッチングアプリをしている男なんて、とも感じていた。
「子供の頃から、ずっと読んでるんです」
 京野菜がメインの居酒屋で、好きな本の話になったとき『ワンピース』がバイブルで、全巻持っていて、シャンクスがルフィに麦わら帽子を渡したシーンは何回読んでも泣けると話してくれたとき、私とは合わないと思った。
 恋とは程遠かった。
 でも私はその日以降も、洋介と会うことをやめなかった。
 それは、あまりにも自然に、息ができたからだった。
 洋介の隣で、私は少しも背伸びをしなくてもよかった。
 気の利いたことも言わなくてよかった。
 洋介は、私がどんなにつまらないことを言っても、楽しそうに笑ってくれた。ありがとうとごめんを心から言える人だった。いつも海のように大きな心で、私の心をぜんぶ包み込んでくれた。
「マッチングアプリとか怖かったけど、夕に出会えたから登録してよかった」
 付き合い始めてから、長年彼女がいないことを先輩に心配され、半ば強制的に登録されて、最初に目についたのが私だと知った。
 その証拠にSNSは一切やらず、何の承認欲求もなかった。
 常に自分のことよりも、相手を大切にした。
 波が生まれてからは、給料の低さをカバーするように、死に物狂いで働いてくれた。
 だから、自分だけが限界だなんて、言えなかった。
 一人の時間がほしいなんて、言えなかった。
「まま」
 波の小さな手が胸に触れたとき、風が吹き始めた。
「ごめん洋介、海に行ってたよ。急に見たくなって。今から、帰ります」
 #もうwonderfulは着られない


「おかえり」
 家に帰ると、わざとらしいくらいのエプロン姿で洋介がキッチンに立っていた。
 ダイニングテーブルには、俵形のおにぎりと、豆腐とわかめのお味噌汁、そしてお手本のような卵焼きがある。
「なに、これ」
 びっくりしながら私は訊いた。
「何って朝ごはん」
 にこにこしながら洋介が答える。
「洋介が作ったん?」
「うん。大学生のとき、居酒屋でバイトしてたから、卵焼きは自信あります」
 洋介が自慢げに言う。私は今まで、洋介は料理なんてできないと思っていた。交際期間も含めれば四年も一緒にいたのに、居酒屋でバイトしていたことも知らなかった。
「そして、ごめん」
「え?」
 こんな夜中に勝手に波を連れて出かけたりして、謝ろうと思っていたのは、こっちのほうだった。
「俺、夕に甘えてました。毎日激務で、家のことなんもできひんの仕方ないって、どっかで思ってた。でも、そんなわけなかった。それで提案なんやけど、これから休みの日は、俺が料理とかする。どうかな」
 胸が痛くなった。
 私が海に行っているあいだに、凪の名前を呼んでいるあいだに、洋介はきっと私がいなくなった理由だけを考えてくれていたのだと、わかるからだ。
「この頃、波が毎日、夜中泣いて、隣のオバサンにうるさいって貼り紙も貼られて、眠れなくて、限界だった」
 言葉を放つと、自動的に涙が溢れて来る。
「ごめん、気づかなかった」
 謝ってほしいわけじゃない。その鈍感さに、救われたことが何度もある。今日だってそうだ。
「俺、これからはもっと、頑張るよ。家のことも。波のことも。だから、お願いやから、もう急にいなくならんといてほしい」
 洋介が私をきつく抱きしめる。男というのは、不安を感じると力強くなる生き物なのだと感じて、愛しくなる。
「ごめん」
 もしかしたら私は、ただこんなふうに、強く抱きしめてほしかったのかもしれない。
 毎日が忙しくて、あっという間に過ぎ去って、疲れ切って、空気みたいになって、必要だと伝え合うことも、しなくなっていた。だからずっと、独りみたいな気がして、淋しかったのかもしれない。
「砂、つくよ」
 私は鼻水を啜りながら言った。
「いいよ。お風呂沸かすし、みんなで一緒に入ろう。それから、朝ごはん食べよ」
「うん」
 それから、バブを入れたお風呂に、三人で浸かった。
 洋介は、私が海に行った理由について、何も訊かなかった。
 潮のかおりがこびりついた波の髪を、丁寧に洗ってくれた。

 洋介の卵焼きは、私が作るのよりもずっと上手だった。
 お味噌汁は少ししょっぱかったけど、疲れた身体には丁度よかった。おにぎりも、人に作ってもらうと、それだけで美味しくて「美味しい」と十回くらい言った。
「夕は今日一日、好きなことして」
 朝ごはんを食べ終えると、洋介が、張り切って言った。
 きっと言おうと決めていたのだとわかって、私は頷きながら笑った。
 言葉に甘えて、たっぷり昼寝をしてから、夕方頃に起きて、ネットフリックスで『花束みたいな恋をした』を観た。主演のふたりはサブカルをこじらせていたから、過去の自分に重なりすぎて、ラストシーンは死ぬほど泣いた。
「晩御飯、何か食べたいもんある?」
 あっという間に夜になって、洋介が訊いてくる。
「じゃあ、ぶわぁって肉汁がでるハンバーグ」
 完全に『花束』を観た影響だった。作中にでてきたさわやかのハンバーグが美味しそうだったのだ。
「OK、任せといて」
 そう啖呵を切っていたけど、結局出来上がったハンバーグは、思わず二人で笑ってしまうくらい硬くて、肉汁なんて少しももでてこなかったけど、うれしかった。
 慣れない育児と家事で、疲れたのだろう。凪を寝かしつけ、晩御飯の片付けを終えたあと、洋介はリビングのソファで眠ってしまった。
 まじまじと見ると、やっぱり少し板尾創路に似ていると思う。
 でも、きっと洋介は『空気人形』も『ジョゼ』も観たことはないだろう。
 くるりも、フィッシュマンズも聴いたことがないだろう。
 いちばん好きな映画は『ジュラシック・パーク』かもしれない。
 でも、それでいい。三十歳になった私は、そんなことで人を測ったりしない。
 薄暗くて、狭いキッチンに憧れていた私はもういない。
 今、そんな部屋に住むことになったら、最悪な気分にすらなるだろう。
「いつもありがと」
 耳元でそう囁き、そっとタオルケットをかけたあと、放置していた鞄からKissをとりだす。
 そして、帰る前に撮影した海の写真をスマホに転送してから、インスタをひらいた。
 凪とはもう繋がっていないメインの鍵アカウントでは、彩子が小学生の息子が野球をはじめたと投稿している。
 彩子は今や、男の子三人の母親になっている。毎日のように、幸せそうな家族の風景が投稿され、これ以上ない生活を送っているように見えるけど、何度もロマエに浮気されているのも、そのたびに泣きつかれるから知っている。
 インスタに投稿される世界が、その人の全てではない。
 けれど〈yuu_film20〉に残した日々は、あの頃の私の全てだった。
 最後の投稿は、七年前、別れ話をした日の線香花火の写真。ポエムみたいな痛い文章と、例のタグが本文にある。
 ベランダに残った夏のにおいを思い出す。あの日の線香花火は、凪が言った通り、終わりであり、始まりだった。
 私は深呼吸をしてから、最終候補に残ったことを知らせる凪の投稿に、いいねを押した。
「おめでとう」
 コメントはしないけれど、心からそう思う。
 できるならば、どんな小説なのか読んでみたい。もし私のことが書かれていたら、泣くかもしれない。
 でも、どれほど感動したとしても、私はやっぱり凪に会いたいとは思わないだろう。
 あの日落ちた火種がただの炭になったように、今の私にとって凪は哀しいほど過去の人になっていた。
 小説家になる夢を追い続けている凪は、平凡な主婦になった私を見たら、可哀想だと思うだろうか。
 しばらくして、洋介がいつものように鼾をかきはじめる。
 この音量では、波が起きて泣きだすのも時間の問題だろう。
 車のなかでよく眠っていたから、少しならまたドライブに連れ出すのもありかなと考えながら、今日は心が嘘みたいに凪いでいることに気が付く。愛されるというのは、こういう感覚でい続けられることなのかもしれない。明日は家族で東洋亭のハンバーグでも食べに行こう。
 そう決めながら、私はインスタを無駄に徘徊している。
 さっきから、ものすごく迷っている。あるいは、迷ったふりをしている。
 朝凪のなかで佇むちいさな背中の写真を、どちらのアカウントに投稿するのか。
 幸せだと伝えたかった。
 #ファインダー越しの私の世界
(了)

 

木爾チレン(きな・ちれん)プロフィール
京都府出身。大学在学中に応募した短編小説「溶けたらしぼんだ。」で第9回「女による女のためのR-18文学賞」優秀賞を受賞し、『静電気と、未夜子の無意識。』でデビュー。著書に『これは花子による花子の為の花物語』『みんな蛍を殺したかった』『私はだんだん氷になった』などがある。

 

小説推理新人賞
今年で創刊50周年の月刊文芸誌「小説推理」が主催する新人賞。大沢在昌、本多孝好、長岡弘樹、垣谷美雨、湊かなえなど、現在第一線で活躍する作家を輩出しました。第46回を迎える本年度も、既存のミステリー小説の枠に収まらない、斬新で独創的な作品をお待ちしています。
募集要項
https://fr.futabasha.co.jp/special/suiri_award/