祐介と出会ったのは、大阪にやってきて八年目の秋のことだった。彼が営むイタリア料理店のウェブサイトとフライヤーのデザインを、依頼されたことがきっかけだった。
金を持ち逃げされて以来、秋生は人生のどん底に沈んだままでいた。デザイナー兼イラストレーターとして独立したものの、仕事はなかなか増えず、肉体労働系のアルバイトを掛け持ちする日々。恋愛も長続きせず、裏切ったり裏切られたり、不健全な関係しか築けない。自殺未遂の現場に駆けつけたり、血みどろの殴り合いをしたり、居合わせた修羅場を数えあげたらきりがなかった。三十八歳の誕生日をたった一人、生ビール中ジョッキ200円の安居酒屋で迎えたとき、いっそ死のう、とついに決意した。店を出てドン・キホーテ道頓堀店でロープとウイスキーの瓶を買い、その場ですぐにウイスキーをラッパ飲みした。記憶があるのはそこまでだ。目が覚めたら、しらないアパートの前で大の字になっていた。頭のそばですずめがちゅんちゅん鳴いていた。ロープのつもりで買ったものは、洗濯機の給水ホースだった。
祐介から仕事の依頼メールがきたのは、その三日後のことだった。
そしてそのときから、何もかも面白いように好転した。祐介の店の仕事が契機になって一気に依頼が増え、まもなくアルバイトをしなくても生計を立てられるようになった。たまたま入ったカレー屋で店主と意気投合し、女装が趣味だと話したら、夜に店で間借りバーをやらないかと誘われたのもこの頃だ。そして、祐介とは自然な流れで恋人同士になり、出会って七カ月目で一緒に暮らしはじめた。
祐介は三つ年上で、思えば、はじめて付き合う年上の男だった。それだけでなく、はじめて付き合う自分より背の低い男でもあるし、はじめて付き合う煙草を吸わない男でもある。
これまで、ケンカは数えるほどしかしていない。サッポロ一番味噌ラーメンと塩ラーメンのどちらがうまいかとか、どちらの脚がより長いかとか、もめごとの理由はいつだってささいでくだらないもの。流血騒ぎなど、もちろん一度も起こしていない。
刺激が少ないといえば、そうだ。以前の自分には、もしかするとこんな暮らしは退屈で耐えられず、いずれ祐介を傷つけるような行動をとっていたかもしれない、と秋生はよく思う。けれど、四十を過ぎて、いろんなことにあきらめがついた。人生の春も夏も通り過ぎたのだ。これから、体力的にも厳しい季節に入っていく。二人で穏やかに乗り越えていけたら、それ以上のことは何も望まない。将来の約束もいらない。法整備が整ったって、結婚なんて全く必要ない。ただ、一日一日をともに過ごせたらそれでいい……そう思っていたのは、秋生のほうだけだったのかもしれない。
先々週の月曜の晩、突然、言われた。子供を持ちたい、と。珍しく家で祐介が作ってくれた、秋生の何よりの好物のプッタネスカを食べているときに。
「親も、孫の顔を見たいだろうし」
それ以上、祐介は何も言わなかった。そして以来一度も、子供の話はしていない。それでも、いやだからこそ、秋生の頭の中はずっと不安と謎でいっぱいのままでいる。祐介は何を伝えたかったのか。二人の間で養子を持ちたいということか? 今まで一度たりとも、そんな話はしたことがないのに? そもそもそんなこと、実現可能なのだろうか? 日本では結婚している男女にしか、特別養子縁組は認められていない。どちらかの精子を提供して誰かに産んでもらうのも、口で言うほど、簡単なことではない。
そもそも祐介は以前、言っていたのだ。両親には成人式の前日に、自分についてすべて打ち明けた、と。その際、「結婚や子供はあきらめてほしい」とも話した、と。しかも、実家の近くに住んでいる妹のところには、すでに子供が五人もいるのだ。孫の顔など、毎日飽きるほど見ているはずだ。
考えても考えてもわからない。祐介のことだから、もしかするとこちらには想像もつかないような、何かとんでもなくすっとんきょうなことを企んでいるのかもしれなかった。だとしたら、悩んでも無駄だ。いっそ子供の話など聞かなかったことしようと考えはじめた矢先、今度は、両親に会いにいこう、ときた。
その晩、祐介は予告通り、八時に帰ってきた。秋生は締め切り仕事が終わったところで、食事の準備は一つもできていなかった。結局、祐介がものの十分で作ってくれた。
秋生が何より好きなプッタネスカと、二番目に好きなベーコンと半熟卵のポテトサラダ。ダイニングテーブルの上には、ほかにバケットと赤ワイン。
「今朝、話したことだけど」祐介は食事に手を付けないまま、緊張した様子で切り出した。「うちの親に会うって話」
「ああ、それね」と秋生はわざとなんでもないような顔と口ぶりで、答える。「本気の話? 俺たち、伊豆大島までいくってこと?」
「本気の話。親がさ、秋生に一度会っておきたいっていうから」
それって……どういうこと? 何のために? 両親に俺の話したの? 一人暮らししてるってことになってるんじゃなかったの? 前に言ってた子供のことは関係ある? ない? 疑問が頭の中で渦をまく。けれど、どれ一つとして、口に出せなかった。
目の前の祐介が、あまりにも、絶望的に、悲しそうな顔をしているから。
これまでの人生で何度も、この顔つきを見たことがあると秋生は思った。別れを切り出そうとしているときの男の顔だった。なぜ祐介はそんな顔をするのだろうか。全然わからない。
「ふうん、まあ、いいけど」
なんにも気づいていないような口ぶりで、秋生は言った。
「よかった」と祐介は息をつき、ようやくフォークを手に取った。いつもの、穏やかで優しい表情になって。全部気のせいだ、と秋生は自分に言い聞かせながら、苦しみと一緒にグラスのワインを飲みほした。
港まで迎えに来てくれた祐介の母親の顔を見た瞬間、やっぱりすべて気のせいだったんだと思った。
「遠いところまでわざわざすみませーん。船、酔いませんでしたか?」
子供みたいに小さな体をした祐介の母は、運転席からちょこまかと出てくると、秋生のトランクを軽々持ち上げた。
「あっ僕やります」
「いえいえ、お疲れでしょう。さ、風が強いし、はやく乗って」
促されるまま、白いバンの後部座席のドアをあけた。すると中には子供が三人もいて、面食らった。
「こんにちは」
三列目のシートに並んで座る子供たちは、少し緊張した様子で礼儀正しく挨拶した。祐介が背後から「ああこれ、姪っ子甥っ子。左からリク、ヒマリ、ソラ。ほかにサクラとミツキがいるから」と言った。
秋生は「こんにちは」と挨拶を返し、にこっと微笑んで車に乗り込んだ。やがて、荷物をトランクにしまい終えた祐介の母が運転席に戻ってきて、秋生にまた「酔ってない? 大丈夫?」と聞いた。
「大丈夫です。酔い止め、飲みました」
「もう、船酔いしてないか、心配で心配で。なにせ風が強いから。昨日まで天気がすごく悪くて、停電したところもあったのよ。えーっと、三泊するんだっけ? 帰りはもしかすると雨に……」
「お母さん、いいから車出して」
「はいはい、すみませんねえ」
背後で子供たちのはしゃいだ笑い声が、キャッキャとあがる。高速船はそれなりに混み合っていたのに、島内にはあまり人の姿は見えず、走っている車もほとんどなかった。今は観光のオフシーズンだというのもあるが、椿が咲き乱れる春や海水浴のできる夏のハイシーズンでも、訪れる人は以前と比べると随分減ってしまったと、運転しながら母親が教えてくれた。
「あのね、椿のシャンプーあるでしょ、有名なやつ。あれが出たころは島全体でだいぶ潤ったんだけど、それも大分前のことね。うちも昔は民宿やってたけど、お客さんいないから、たたんじゃった。今は地元の人向けの居酒屋やってるだけ。あっでも大丈夫。下の子夫婦が役場に勤めてるし、うちら夫婦も年金もらってるからね。お金ないわけじゃないから心配しないでね、アハハハ」
母親はそうして、運転しながら一人でしゃべって一人で笑い続けていた。そのうち自分の夫、すなわち祐介の父親が最近男性用の尿漏れパッドを使うようになったことまでしゃべりだし、さすがに祐介が怒って止めた。
途中、崖から透き通る海を見下ろしたり、バウムクーヘンとの異名をとる地層の切断面を見に行ったり、ソフトクリームを食べたりして、三十分ぐらいかけて祐介の実家に到着した。昔ながらの平屋の日本家屋が二軒並んで建ち、周りを低い石垣が囲んでいる。今は子供の数が増えたので、母屋に妹一家が、離れのほうに両親が暮らすようになったそうだ。秋生たちは、離れの一室を使わせてもらうことになっていた。
車を降りると、さらに二人の子供と、祐介と背格好が同じ父親が家から出てきた。
「お疲れさまでした。船酔いしなかった?」
祐介そっくりの笑顔でそう声をかけられたとき、ここ数日にあったことはすべて忘れることにしよう、と秋生は強く思った。
そして、それから三日間、夢のようにすばらしい時間を過ごした。
翌日はわざわざ学校を休んだリクとヒマリをつれて、三原山登山にでかけた。五年生のリクはしっかり者で物知りのお兄ちゃん、学校でも人気者らしい。登山の入口となる三原山山頂口まで送ってもらう車内で「三原山の裏砂漠は、国土地理院の地図に唯一『砂漠』って書かれてる場所なんだよ」と教えてくれた。秋生が大げさに驚いたふりで「え! 鳥取は?」と聞くと、リクは「あそこは砂漠じゃなくて砂丘なんだ」と得意満面で胸を張った。
一つ下のヒマリは、対照的におとなしい少女だった。祐介が「秋生おじさんに見せたいものがあるんじゃないの?」と声をかけると、彼女は顔を真っ赤にして、リュックから小さなノートを取り出し、こちらに渡した。開くと、自分で考案したらしいオリジナルのゆるキャラめいたものがたくさん描き込まれていた。
「絵を描くのが好きで、将来はサンリオに就職したいんだってさ。な?」リクがそう言って、うつむく妹の顔をのぞきこむ。
「わあ、すごい。これ、かわいい!」
秋生は三ページ目に描かれたトマトをモチーフにしたキャラクターを指さし、後ろのシートに座るヒマリを振り返った。トマ姫と名前も書かれている。
「このグッズほしい! 絶対売れるよ」
「好きなキャラクター、何?」ヒマリがぼそっと聞いた。エンジン音にかき消されそうなほどの、小さな声で。
「サンリオ?」
「うん」
「ポチャッコかな」
「……わかる」
「わかる? ほんと?」
「……総選挙でも、ランキングあがった」
「ね! あがったよね。ヒマリちゃんは何が好き?」
「ハンギョドン」
「わかる」
ヒマリの口元がわずかにゆるんだのを、秋生は見逃さなかった。
一行は山頂口についたあと、遊歩道を歩いてまずは火口を目指した。天気にも恵まれ、絶好の登山日和だったが、自分たち以外には人っ子一人いない。昨日、船にあれだけいた乗客たちは、一体どこで何をしているのだろうと思った。
すさまじい強風にあおられつつ火口を一周し、昼休憩をはさんで、午後は裏砂漠線と呼ばれる砂利道をすすんだ。リクご自慢の裏砂漠は文字通り、黒い砂利が一面にひろがる不思議な場所だった。
「まるで宇宙にきたみたい」
景色に感嘆して思わずそうつぶやくと、リクが「でしょう! そうでしょう! そう思うよね!? どこでもドアでさあ! いきなりここにきちゃったら、誰だって宇宙に出たって思うよね!」と今日一番、瞳を輝かせて言った。
子供たちの体力は尽きることなく、終着点の温泉ホテルで汗を流したあとは、サイクリングに誘われた。夕方、ようやく家に帰ってからも急いで夕食を済ませ、それからリクとヒマリと二人の両親も一緒に、車で再び山に向かった。星を見るためだ。
人工的な明かりがひとつもない闇の中、シートをひいて、みんなで寝転がって夜空を見上げる。
星はすばらしかった。言葉もないほどだった。けれど、隣に寝転がったヒマリがこっそりと、
「女の子が好きかもしれない」
と教えてくれた。それだけで、もう胸がいっぱいだった。
翌日は三人の未就学児を連れて海岸へいき、砂遊びをしたあと、祐介の両親が営む居酒屋で、名物のべっこう寿司を食べた。その席で、祐介が何の前触れもなく「俺、悪いけど、これから大阪帰らなきゃ」と言った。
「えっ急だね。船あるの? 明日じゃだめなの?」
そう問い返すと同時に、「秋くーん」と子供たちに呼ばれた。生け簀のイセエビを見せたいらしい。しばらくイセエビをつついて座敷に戻ると、すでに祐介の姿は消えていた。
午後は夕飯の支度の手伝いをした。そのあとは近所の人も呼んで大宴会がはじまった。秋生は一時間ほどでこっそり抜け出し、子供たちと海岸まででかけて花火をやった。
明日の午後の便で、秋生も帰る。それを理解しているリクとヒマリは、何度も何度も「またくる?」と聞いた。花火が終わって家に戻り、母屋と離れにわかれるときにも、リクは「またくる?」とねむたげな声でたずねた。
「またくる。すぐくるよ」
こようと思えばいつだって。なんだったら来週にだって。それなのに、穴倉のような暗い玄関に消えていく小さな背中を見ながら、もう二度と会えないかもしれないと、ふと思う。
翌日の朝食の席で、食事を出してくれた祐介の妹に「祐介ってなんで昨日帰ったか、しってます?」と秋生は聞いた。
「LINEしたんだけど、既読にもならないんですよ。店で何かあったのかなあ」
妹はしばらくの間をおいて「さあ」とだけ言った。
土曜日だったので、午後の船が出る時間ギリギリまで子供たちと遊ぶつもりだった。ところが九時を回っても、リクもヒマリも幼児たちも、離れにやってこない。
「リクたちは?」と秋生は妹に聞いた。彼女は「旦那のおばあちゃんちにいきました」とまた、そっけなく言った。
午後の便まで、まだかなり時間がある。どうしたものかと考えあぐねていると、妹の夫の博がやってきて、「釣りにいきませんか」と誘われた。
気乗りしなかったが、仕方がない。博のバンで港へ向かった。母親が初日に予言した通り、雲行きはあやしくなっていた。風も今までで一番強かったが、港の堤防釣り場では大勢の釣り人たちが海に竿をなげかけていた。
一時間ほどやったが、一匹も釣れなかった。秋生は海釣りなど、中学生のときに数回やったきりだ。しかし博はまともに教える気も、自分でも釣る気もあまりなさそうな様子で、竿を持って適当にその辺をうろうろするばかりだった。
「ちょっと、車に戻りましょう」
十一時過ぎ、博が言った。釣り道具はその場においておくつもりらしい。休憩するなら港の待合室にいけばいいのにと思いつつ、素直に従った。
博のバンの助手席に乗り込む。博は運転席に座ると、すぐにスマホをいじりはじめた。気まずい沈黙が苦しくて、こんなことなら一人でサイクリングにでもいけばよかったと思う。
「お子さんたち、いい子ですね」と秋生が苦し紛れに言ったのと、「祐介さんと、別れてやってください」と博が切り出したのは、ほとんど同時だった。
一瞬で、頭が真っ白になった。今、「別れて」って言ったのか? 博の横顔をじっと見つめたが、秋生のほうを見ようとしない。手の中のスマホに、目を落としたままでいる。
「残酷なお願いだってわかってます。でも、別れてあげてください」
博はうつむいたまま、続けて言った。なんで? 秋生はその一言すら、出てこなかった。
「祐介さん、結婚が決まったんです。相手は昔からの知り合いの女性で、年齢は四十手前で、だからお互いに何もかも承知のうえだそうです。子供がほしいんだそうです。両親を安心させてやりたいからって感じみたいです。もう全部決まったことなんです。突然で申し訳ないですけど、あの、許してあげてください」
のんびりして無口な博が、人が変わったような早口でまくしたてた。ふいに、秋生は思い出す。何年か前、親戚から見合いをすすめられて迷惑していると話していた。結婚なんて決まっていないのに、見合いをさせるために勝手にそんなことを言っているだけじゃないのか。秋生は一度、深呼吸した。それから「本当にそんなもの、決まってるんですか」とつとめて強い口調で問うた。
「祐介が女性と結婚なんて、考えられないです。本当にそんな相手いるんですか? 本人に許可もとらないまま、勝手に……」
「俺だって、こんな話したくないっすよ!」博が突然、声を荒らげた。「誰に頼まれたと思ってるんですか!」
その剣幕に、一瞬ひるんで黙ってしまう。しかしすぐに、「誰ですか?」とさらに強く問い返した。
「お父さんですか、お母さんですか」
「祐介さん本人です」
「そんなバカな」思わず笑ってしまった。まったくもってばかばかしい。何もかも矛盾している。
「バカも何も、本当ですから」
「いや、おかしいでしょう! 別れるつもりなら、なんでこんなところにまでつれてくるんですか! なんで家族になんか会わせる必要あるんですか! どう考えたって矛盾している!」
博は唇をひきむすんで、黙り込んだ。言い返す言葉がないのだろう。そりゃそうだ。
「とにかく、本人の口から――」
「最後に、秋生さんに、家族団欒を楽しませてあげたいから」
「……は?」
「そう言ってました、祐介さん。秋生さんは家族と絶縁してしまってかわいそうだから。だから最後に、うちみたいに仲のいい家族の仲間に入れてやって、子供たちと遊んだり、お父さんお母さんとご飯を食べたり、そういう幸せを最後に、別れる前に、感じさせてやりたいんだって」
秋生は前を向いた。フロントガラスの向こうは、小雨が降りはじめていた。海も空も溶け合って、まるでゴミ捨て場みたいな薄汚い灰色に染まっている。そんな的外れな親切は、祐介以外にあり得ない。
アメリカンスピリットライトに火をつけて一口吸い込んでから、グラスにウオッカを注ぎ、氷を二つ入れた。自分以外に誰もいない小さな店の中で、カラコロと音が響く。
大阪のマンションに帰ると、すでに祐介の荷物のほとんどが持ち出されていた。置き手紙があって、「いらないものは捨てていい」とだけ書いてあった。その字はしらない人間の字に見えた。家族以外にも協力者がいるのかもしれなかった。
LINEは既読にならない。電話も着信拒否されている。
翌日、意を決して、祐介の店に出向いた。「オーナーは別の店にいます」と三軒たらいまわしにされた挙句、最後は名刺を渡され、弁護士事務所にいくように言われた。そのとき、もうやれることは何一つないのだと悟った。
本当に、祐介が女と結婚するつもりなのかはわからない。別れたい理由がほかにあって、どう切り出すのが最善か考えあぐねているうちに、こんなわけがわからないほど回りくどい手段になってしまったのかもしれない。祐介なら十分考えられることだ。はっきりしているのは、こうなってしまった今、祐介の本心を探っても何の意味もないということだ。どうにもならない。それだけは理解できる。
三十代の頃の自分なら、あらゆる手段をつかって追いすがったかもしれない。それこそ、警察沙汰になるまで。いまや、そんな気力は少しもわいてこない。罵詈雑言をぶつける体力すらないのだ。
ただ、一人黙って、打ちひしがれることしかできない。
あのとき。
祐介から、両親に会ってほしいと言われたとき。本当は心の片隅で、本当に本当に小さな、砂粒ほどの小さな隙間で、期待していた。そんな自分に気づいていたのに、ずっと気づかぬふりをしていた。
結婚しよう、と言ってもらえることを。
それが実現可能かなんてことは、どうでもいいことだ。ただ、本当は、ずっと前から言ってほしかったのだ。一生、一緒にいようと。病めるときも、健やかなるときも、助け合って生きて、そして手を取り合って、ともに老人になろうと。人を裏切って、家族を捨ててこんなところまでやってきたくせに。結婚なんてくだらないと言っておきながら。
ただ、言葉にしてほしかった。それで愛が証明されるような気がした。
涙が一粒、グラスに零れ落ちる。男のことで、いまさら泣くなんて。バカみたい。
コンコン、とドアノックの音に気づく。おそらく、少し前から鳴っていた。聞こえてはいたが、意識にまで届いていなかった。
本日休業の札をかけておいたはずだ。しかし、ノックはやまない。秋生は深くため息をつく。礼子だろうか。そんな気がする。今夜は優しくしてやれる自信が全くない。
そのとき、はっとして息をのんだ。もしかして、祐介かもしれない、とようやく思い至ったのだ。きっとそうだ。次の瞬間には駆け出していた。もどかしい気持ちでロックを解除し、ドアをあける。
そこにいたのは、見知らぬやせた中年女だった。
「あ、冬さん! いたよ」
中年女はすぐに背を向け叫んだ。するとビルの階段のほうから、今度は見知った肥満体型の中年女がのっしのっしとやってくる。
「ちょっと、いるならいってよ」
すでに随分酔っているようだ。去年会ったときよりさらに太っていて、さらに老けている。
「あれー? なんで普通のカッコしてるの? 女装してよ!」
「うるさい! 死ね!」
自分の中から自分とは無関係な人間が出てきて叫んだ。そんな感じがした。バタンと勢いよくドアを閉め、そのままその場にくずおれて泣いた。