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 礼子はようやくカウンターテーブルから顔をあげて、涙でべたべたの顔をぬぐいながら、「ママ、あの話して」と言った。
 藤崎秋生はつけまつげについたゴミを指でとり、目をぐるっとまわした。「いやよ」
 女装は宗右衛門町で間借りバーをはじめる前からの趣味だが、つけまつげだけはいつまでも慣れない。
「お願い、みんなに聞いてほしいねんー」そう言って、礼子は連れてきた二人の女友達のほうに身を乗り出す。
「なあ、聞きたいやんな? ママの結婚話」
「結婚してはったんですか?」
 はじめてきたほうの女が言った。一度きたことのあるほうの女も、興味深そうに前のめりになる。
 カウンターだけの店内には、このアラサー三人娘のほかには、常連が二人のみ。彼らは秋生の結婚話など、耳くそがあふれだすほど何度も聞かされている。
「わたしの結婚話を聞いたからって、その三ノ宮のやり逃げクソ男が改心して戻ってくるわけじゃないのよ?」
「わかってるって」
「あんたが急にモテモテになって、婚活パーティで無双できるようになるわけでもないのよ?」
「もう言わんとって」礼子は顔の前で手を合わせた。「お願い! ママの語りで癒されたいの、お願い」
「人の不幸を……まったく」秋生は深くため息をつき、店に出たときだけ吸うアメリカンスピリットライトに、火をつけた。

「高校三年生のときまでね、わたし、どうやって生きていったらいいのか、わからなかったの。
 うち、お父さんは銀行マンで、お母さんは専業主婦、あとはお姉ちゃんと妹がいて、本当に普通の、ごくごーく普通の家庭だったの。住んでたところは埼玉の浦和ってところで、そうそうサッカーのね。サッカーのイメージだけだとちょっと荒々しい感じがするかもしれないけど、浦和っていわゆる文教地区で、教育熱心な、ちゃんとしたご家庭が多いのよ。
 人間っていうのは、大人になったら何かの仕事について、結婚して、そして女は母親に、男は父親になる。親も、学校の先生も、周りの友達も、それが当たり前で、それ以外の道なんてどこにも存在しないって、考えてるように見えた。でも、なんでそうなのか、なんで当たり前なのか、わたしには全然わからなくて、すごく違和感があったし、不安だったのね。あと、女の子のことを異性として意識しなければならない、っていう周りからの圧力も、嫌だったわね。
 大人から『好きな女の子いる?』なんてからかわれるやつ。どうして誰かを好きにならなきゃいけないのか、それがどうして女の子でなければならないのかが、よくわからなかった。 
 小学校一年生のときね、わたし、多分、学校の用務員のおじさんに、恋してたんだと思う。背が小さくて、いつもにこにこしてて、なんか好きだった。それをぽろっと家で口にしたら、母親の顔が真っ青になったの。なんだかそれがすごくショックで、忘れられない。
 ほかの人と何か違う。ずっと違和感を持ちながら生きてきて、しかもよりによって高校は結構な進学校にいっちゃったもんだから、周りはますますそういう人生王道コースを走ってる人たちばっかりになっちゃってさ。十六とか十七の頃は、いつ死のうか、そればっかり考えてたなあ。
 だけどね、高三の時のクラスメイトに、一人だけ、ちょっと変わった女の子がいてね。その子は難しい家庭に育った子で『わたしは絶対に結婚なんかしない』っていつも言ってて、なんていうか、シンパシーっていうの? そういうのを感じあってさ。最初はむこうから告白されて付き合うことにしたんだけど、自然と友達関係になって、それからずっと親友。その子と出会って、だいぶ生きやすくなったなあ。
 その子がね、あるとき、突然言ったわけ。新宿二丁目にいってみようって。
 当時はネットとかもなかったから、どういうところかよくわからなくて、まあ冒険感覚よね。高校の卒業式のあと、クラスの集まりがあったんだけど、夜九時頃だったかな? 二人で抜け出して、はじめていってみようとしたの、二丁目に。
 アハハ、今、思い出しても笑っちゃう。新宿駅の東口から出たんだけど、なんでか道に迷って歌舞伎町のほうにいっちゃって、そしたらきれいなドレス着たおねえさんが、道端でヤクザに思いっきりぶん殴られてたの! もうびっくりよ。大の男が女の顔面げんこつタコ殴り。それを誰も通報しないで、輪になって眺めてるんだからさ。なにここ! 世紀末じゃん! って思った。もうとにかくおそろしくっておそろしくって、二人ですたこらさっさと浦和に逃げ帰ったわよ。それから朝まで、カラオケやってた。せっかくの卒業の日なのにね。しかも親に無断で朝帰りしたから、家に帰ったらしこたま叱られて。今、振り返っても散々な思い出。
 でも、そのあとね、大学に入ると同時に一人暮らしをはじめて、同時に友達の紹介でバーテンのバイトもはじめたりして。まあ、夜の世界への最初の一歩ってところね。そこは二丁目経由でくるお客さんもたくさんいて、その流れでわたしも自然と、新宿に通うようになって。
 なんていうか、違和感を持ちながら生きている人間は、自分だけじゃなかったんだってしることができて、すっごく、ほっとしたな。うん、本当に、心の底からほっとしたし、だんだん、夢とか、持てるようになって。子供の頃から絵やデザインの仕事をしたいってひそかに思ってたんだけど、それまでは、何かを頑張る気にはなれなかったの。どうせ頑張ったって、自分は社会のつまはじき者だって考えがしみついててさ。何をやっても無駄、誰からも認めてもらえないっていうか。だから大学も、全然、絵と関係ない経済学部に進んじゃった。でも、こんな自分でも、どこかで誰かが認めてくれるかもしれないって気持ちになれた、というか。
 そのうち二丁目でも店子のバイトをするようになって、そこの常連で、ひろさんって、みんなから呼ばれてる人がいたのね。その人は当時、三十代半ばだったかな。有名な雑誌の編集者で、ものすごくおしゃれで、かっこよくてさ。当時まだ全然流行ってなかったニューバランスを、スーツに合わせてはいたりしてるような人だった。
 店にきたときに、ほんの少し話すだけの関係だったから、プライベートは一切わからなかったんだけど、勝手にいろんな想像をして、あこがれてたの。
 港区とかのおしゃれできれいなマンションに住んで、かっこいい車に乗って、好きな仕事してお金稼いで。自由で楽しくて華やかなシングルライフを満喫してるんだろうなあって。自分もそうなれたらいいなあって。
 あるときね、新宿のど真ん中で、ひろさんとばったり会ったわけ。新宿っていっても、真昼間の日曜よ。
 もうこれが、びっくらこきまろよ。なんてったって、ベビーカー押してたんだから。横には大きなお腹をした女の人。二度見どころじゃない、五度見はしたね。でも人違いじゃなかった。確かにひろさんだった。
 それで後日さ、店にひろさんがきたの。そのときにね、言われたんだよね。
『悪いことはいわないから、結婚は、しておいたほうがいい』って。
 店のほかのお客さんにも、実は家庭を持ってるって人、結構いたんだよね。もちろん、女性とよ? 同性婚なんてものは、宇宙人襲来ぐらい、現実味のない言葉だった。今でこそ、悠々自適なシングルライフを送ってる人なんてそこら中にいるけど、当時はまだそんなの絵空事。社会で生きていくために“まっとうな妻子持ちの勤め人”って仮面をつけるのが、常識中の常識だったってこと。昼間はそうして世の中に溶け込んで、週末の夜だけ二丁目にやってきて、息抜き。
『それが自分たちにとって、一番、賢い生き方だから』
 ひろさんはそう言ってた。わたしね、案外、それをすーっと、受け入れられたんだよね。
 そうだよなあって。結婚って、そういうことのためにも、あるもんなんだなあって。だって、ちゃんとした仕事について、お金もそれなりに稼いでたら、結婚してるのが当たり前だもんね。いつまでも一人でいたら、怪しまれる。変な噂もされる。それは、生きづらかった子供時代と、同じかもしれない、なんて。
 子供のときは、あんなに拒絶していたのにね。わたしね、このときからたった三年で、結婚するの。
 当時のわたしは、男も女も関係なく恋愛してて。まあ今だって、わたしは恋愛対象の性を特定しているつもりはないのよ? 何人か同時進行なんかもしてたんだけど、その中で、わたしに執着しすぎてる感じの、少し、あやうい女の子がいてさ。成績もよくて学校では人気者だったんだけど、なぜかわたしの前ではメンヘラ化するというか、よくわかんないけど、なつかれてたのよね。
 その子がね、結婚しよう結婚しようってずっと言ってたの。自分が稼ぐから、あなたは好きなことしてていいし、なんだったら浮気もしていいし、毎晩飲み歩いてもいいから、とにかく結婚したい、結婚しようって。どうも、家族とあんまりいい関係じゃなかったみたい。なぜ、わたしじゃなきゃダメなのかわからなかったけど、あなたじゃなきゃダメなのって、よく泣いてた。
 自分が稼ぐからっていう言葉通り、彼女、超大手企業の内定ゲットしてね。当時はいわゆる就職氷河期ってやつで、みんな名もなき中小企業の内定一つとるのにも苦労してたのに。それほど優秀な子だったのね。
 ほーんと、なんで、わたしだったんだろ。
 とにかく一緒に暮らしたいっていうから、就職と同時に同棲はじめたのかな。で、社会人二年目か、三年目ぐらいに結婚した。
 わたしも彼女ほどじゃないけど、周りと比べたらそこそこいいところに就職できてたから、なんていうか、友人たちからは順風満帆、理想のカップルって見られてたみたい。
 うちの親なんかよろこんじゃって、品川の新築マンション買ってくれちゃってさ。ときどき友達を呼んで、二人で手料理をふるまったり、トイプー飼ったり。名前はみこちゃん。幸せを絵にかいたような暮らしよね。
 で、そういう暮らしの裏で、わたしは独身のときと同じように、好き放題やってた。毎晩飲み歩いて、男とも、女とも、付き合って。だって、彼女が言ったんだから。あなたは好きにやってくれていい、浮気してもいい、毎日飲み歩いてもいいって。結婚さえしてくれれば、ほかには望まないって。彼女自身が言ったの。
 一緒に暮らしてた間、彼女がどんな気持ちでいるかなんて、かえりみたことなんか一度もなかったわね。
 それであれは……結婚して、何年目だったかしら? お互いに、三十歳になる年だったと思う。わたしに、運命の出会いが訪れるわけ。
 もうね、映画よ、映画。何もかも覚えてる。大江戸線六本木駅のエスカレーター、むこうはのぼりでこっちはくだり。真夏で、夜七時過ぎだった。わたしは仕事帰りで、ワイシャツにスラックス姿、むこうは黒Tに黒のスリムパンツ。エスカレーターのちょうど真ん中あたりですれちがった瞬間、お互いに『この人だ!』って思ったのね。わたしがエスカレーターを急いでくだって上を見上げたら、すでに彼は、くだりにのりかえて、駆けておりてくるところだった。その瞬間、何もかもがスローモーションになって。黒い髪がさらさらゆれて、日に焼けた肌はぴっかぴかにひかってて……。わたしの人生で、もっとも輝かしい瞬間の一つ。
 その人はわたしの目の前までやってくると、息もきらさずに『どうも』って言った。まるで昔からの知り合いかのように! それで、こっちも『どうも』って返して、そしたらむこうがニヤッとして『飲みに行く?』って。
 それで、なにもかもがはじまった。もうそこからはすべて、彼中心の日々。あんまり記憶もないぐらい。家に、何日も帰らなかったし、彼女からの電話も、無視し続けてた。
 一カ月か、二カ月ぐらい経ってたのかもしれない。もっとかな? 本当に、はっきり覚えてないんだけど、さすがにそろそろと思って家に帰ったら、彼女の荷物が、ぜーんぶ持ち出されてた。ベッドの上には、記入捺印済みの離婚届があって。
 彼女とは、それきり。本当に会ってないの。どこにいってしまったのか、まったくわからない。
 わたしは離婚届を出して、会社もやめた。両親にすべて打ち明けたら、勘当だって言われて、そのまま絶縁して、今に至るって感じ。そのあとすぐ、彼について大阪にきて、一度も実家に帰ってないしね。
 あとからわかったことだけど、大阪にきたのは、人からお金借りてて、それを踏み倒すためだった。彼はもともとこっちの生まれで、ご実家は京都で老舗の和菓子屋を営んでて、裕福だったの。お金を援助してもらいながら、堂山で飲み歩いたり、一日ぶらぶらしてたわね。でも、わたしはその恩恵を受けながら、イラストやデザインの勉強しはじめたり、いい友達もたくさんできたり。第二の人生がはじまったって感じだった。
 ずいぶん、身勝手な話だけどね。
 まあともかく、彼とは結婚するつもりだった、本気で。そのために、同性婚認めてる国に移住して、帰化できないかとか真剣に調べてた。海外移住なんて、それまで一切、考えたこともなかったのによ。あんなに人を好きになったことって、一度もなかったから。彼と一緒になるためだったら、なんだってできるって思ってた。結婚しよう、結婚しようって彼にも毎日言ってた。そう、元妻が、わたしに毎日、言ってたみたいに。
 結婚さえできれば、離れていかないと思ってたんだよね。不安で仕方なかったの。捨てられるのが。
 でも、あるときなんの予兆もなく、彼、いなくなっちゃった。移住のためにためてたお金も、持ち逃げされて。
 で、そのあとはみなさんご存じのとーり。悠々自適のシングルライフを送っております。結婚なんてもう興味はないわ。あのね、結婚っていうのはね、国が国民を個人単位より家族単位で管理したほうが便利だから存在する、くだらない制度なのよ。人権侵害も甚だしいわ。まったく、人の幸せのために存在するもんじゃないの。そのことを肝に銘じなさい」

 話し終える頃には、礼子はカウンターにつっぷして眠りこけていた。二人いた常連のうち、片方は知らぬ間に帰った。礼子が連れてきた女友達二人だけが、熱心に話を聞いてくれていた。
「やだ、もう四時だって! もう店じまいよ。あんたたち、この生ゴミ持ち帰ってくれる?」 
 礼子がよだれをぬぐいながら、むくりと起き上がった。「元カレもわたしのこと粗大ごみって言った」
「あら、その人と気が合いそう。紹介して?」
「死んでもいややわ」
「とにかく、帰った帰った」
 秋生はせっせと三人を追い出した。やがて店内には、秋生と祐介の二人だけになった。
「先に帰ってくれてもよかったのに」
 そう言いながら、秋生はうざったいつけまつげを、指で強引にはぎとった。
「君の結婚話、最後まで聞きたかったから」
「今更?」ふんと鼻で笑う。「着替えてくるから、待ってて」
 小さなドアをあけて裏の事務室に入ると、ジーパンとスウェットに着替え、かつらをとり、メイクを落とした。それから、昼にこの店でカレー屋を営んでいるラジャに「トイレの修理業者は明日くることになった」と英語でメッセージを書き置いた。
 始発に合わせて、店を出た。日に日に夜明けが遅くなって、今はまだ夜の中だった。駅のホームは風が冷たく、二人で足踏みしながら電車を待った。最寄り駅に着く頃、空の色は紫になっていた。
 帰宅すると順番にシャワーを浴びた。その頃になって、ようやく朝らしい朝がやってきた。朝日をたっぷり部屋にとりこみたいところだが、目が覚めてしまうので、カーテンはしめておく。
 リビングのローテーブルに、トーストと飲み物を二人で並べた。テレビをつけてみたが、やたらに騒がしいのですぐに消した。
「あの人、見つかったんだね」祐介がトーストにいちごジャムをたっぷりと塗りながら言う。「警察署から逃げた男。富田林の」
「チャリであちこち走り回ってたんだっけ?」しかめつらしてそう言うと、秋生はトーストに何もつけずにそのままかじりついた。それが一番おいしい。「そんで、最後はまた泥棒やったんでしょ? はた迷惑な奴だね、本当」
「よくさ、ラッキーな人のことを、前世で徳を積んだんだとか言うけどさ、俺はああいう悪人こそ、前世でたくさんいいことしたんじゃないかと思うんだよね」祐介は言う。「前世でいい人を演じすぎてつまんなかったから、現世では他人に迷惑かけまくって、うっぷんを晴らしてるんだよ」
 祐介はときどきこんなふうに、的を射ているようなまったく大外ししているような、なんと返答していいのかよくわからないことを口にして周囲の人間を戸惑わせる。秋生はもう慣れっこなので、こういうときは余計なことは何も言わない。店の従業員や常連客たちには“天然オーナー”として愛されているようだ。
「俺は来世、和食しか食べない人間になってると思うね。現世で外国の料理ばっかり食べてきたからさ。あれ? でも、もしイタリア人に生まれ変わったら、イタリアンが和食ってことになるのかな? あれ?」
 ほっぺたにジャムをつけて、祐介は首をかしげる。どうしてこの男が人気のレストランを三軒も経営できているのか、こういうとき、本気でわからなくなる。
「ところで今日、どうすんの?」秋生は聞いた。「店は何時から?」
「昼前に家出るよ。打ち合わせがある。秋生は?」
「今日は締め切りあるし、ずっと家にいる。水曜だし、店は休みにするかな」
「そうなの? 夕食一緒に食べる? 八時には帰れると思うけど」
「じゃあ、何か作っておくよ」
 それ以上、もう会話はなかった。食べ終わると、二人で片づけをした。順番に洗面歯磨きを済ませ、そのあとはいつも通り、秋生はソファで、祐介は寝室で仮眠をとる。
「じゃあ、おやすみ。あ、捨ててほしいゴミあったら、俺が出かける前に出しといてよ」
 祐介はそう言って、リビングのドアをあけて廊下に出た。ところがすぐに戻ってきて、「秋生」と呼びかけてきた。
「あのさ、今度、うちの親に会いにいかない? ちょっと考えといて」
 そして、秋生の返事も聞かずに、また背を向けて廊下の向こうへ姿を消した。秋生はそのまま、一睡もできなかった。

 

(第6回につづく)