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 一週間後、術後検診で「経過は順調ですね。もう何をやってもいいですよ」と言われた日の夜、宏昌は帰宅するなり、夏枝の前でパンフレットをひろげた。
「ここ、買おう!」
 それは隣県に建設中のタワーマンションのパンフレットだった。
 引き渡し予定日は来年の五月。販売開始は今年の九月。価格は4460万円~7330万円(予定)。地上30階。充実の共用施設。スカイラウンジやワークラウンジを用意。多様な暮らし。上質な雰囲気。洗練されたタワーデザイン。文字が目の上をつるつる滑った。
「港区か中央区のタワマンがいいんじゃないの? ここ、都内ですらないけど」
 夏枝が言うと、宏昌はくん、と犬みたいに鼻をならした。機嫌をそこねたときにでる、わかりやすすぎるサイン。
「あんなの、人の住むところじゃないよ。埋立地で地震でもおこって液状化したら、住むことも売ることもできなくなっちまう。土地代だけのぼったくり物件ばっかりだしさ。都内から出るけど、ここからはそう遠くもないから、君にとってもいいでしょ。俺の職場にも近い。チャリで二十五分でいける」
 二十五分じゃ絶対に無理だ。最低でも四十分はかかる。そう思ったが、夏枝は何も言わなかった。
「最上階の部屋でも七千万だよ? かなりお買い得だよ。これが港区か中央区なら二億はくだらないからね。今度モデルルーム見に行こう」
「ここしばらく家買う話はしてなかったのに、なんでそんなに急ぐの」
「話さなかっただけで、ずっと考えてたよ」
 宏昌はすねたように口をとがらせる。本当は、夏枝はわかっていた。大学時代の同期の古田が、去年ようやく結婚して、最近、青山のタワーマンションに引っ越した。来月、夫婦ともにホームパーティに呼ばれている。宏昌は同期の中でも古田に対しては並々ならぬ対抗心を燃やしていた。そのホームパーティで、我が家はついにタワマンを買うことにしたと言いたいのだ。
「古田みたいにさ、賃貸でタワマン住むなんてみっともないまねはしたくないよな。あいつ、家賃に毎月七十万も払ってるんだぜ? マジで金をどぶに捨ててるよ。愚の骨頂だよ、マジで本当」
 古田家の家賃の額を、ここ二カ月で何度聞いたかわからない。これだけたくさん聞けば、百歳になっても覚えているかもしれない、とさえ夏枝は思う。
 古田の住む青山のタワマンの家賃は七十万。 
 何も言わない夏枝の顔をちらっと見て、ふいに宏昌は不安げな表情になる。ときどき宏昌はそういうふうに、捨てられた幼児みたいな顔つきをすることがある。
「あの、だからさ、この家を買うためにも、子供はあきらめたほうがいいんじゃない?」
「えっ」
「子育てに金かかるし、今みたいな生活は送れなくなるし、だから手術……」
「もうとっくにしたよ」
 宏昌は目をぱちくりまたたいた。そのまま今度は宏昌のほうが黙り込んだ。夏枝はダイニングテーブルの上のパンフレットを手元に引き寄せて、「いつ見学にいくの?」とたずねた。返事がないので、「ねえいついくの」ともう一度聞いた。宏昌は目を泳がせて「えっと、仕事もあるし、また連絡します」と支離滅裂なことを言った。
 その晩、先にベッドに入って寝ていたが、腹の周辺にうざったい気配がして目がさめた。と同時にびっくりして、心臓がとまりそうになった。宏昌が自分の腹にしがみついて、泣いていた。
「俺のせいで……俺のせいで……赤ちゃん、ごめんなさい」
 手がその頬に触れた。べっとりと液体がついた。鼻水なのか涙なのかわからないが、どちらにしろ不愉快極まりなく、夏枝は思わず「うわ」と声を漏らしながら、宏昌のパジャマの裾で手をぬぐった。それに気づかずいつまでも泣いている夫の薄らハゲの頭頂部を見ながら、いつか殺してやると本気で思った。

 スマホが鳴った。春来からのLINE電話だ。玄関にかがみこんで靴をはいている宏昌が振り返ってにらみつけてきたが、かまわず電話に出た。
「もしー! 夏っちゃん、今日何してる?」
「うーん、これから出かけるんだけど、どうしたの?」
「いや、冬さんがひさびさにこっちに戻ってくるっていうから、飯でもいこうってなって。急で悪いんだけど、夏っちゃんもどう?」
 冬さんこと梶田真冬は春来の店のパート店員で、去年の夏頃に春来から紹介されて以来、ときどき三人で集まって飲むようになった。真冬は母子家庭育ちで、ここ数年は認知症をわずらっている母親の介護に追われているようだった。二週間前、その母親が大腿骨を骨折してしまったらしく、あずけている施設の近くのホテルに泊まり込んでいた。世話自体は当然施設側に任せればいいのだが、真冬がこないと泣きわめいて手が付けられないのだという。
「うーん。今日は夫の友達の家に呼ばれてて、ごめん」
「そうかそうか、いや、いつでも集まれるからさ」
 宏昌はまだ靴ひもを結んでいる。そうして会話を盗み聞ぎしているのだ。だから夏枝はわざと話を引き延ばした。いつまでもぐずぐずやっている宏昌のわきでパンプスをはく間も、駐車場にむかって歩く間も「そういえば、冬ちゃんの元カレの話って聞いたことある? 今大阪でゲイバーやってるんだって!」と今する必要があるわけでもない話をし続けた。そのうち宏昌がキレて殴りかかってきたらいいのにと思っていたが、そうはならず、やがて春来が気まずそうに「俺、ちょっと、やることあるから……」と言って電話は終わってしまった。
「いつもの、高校の同級生?」
 愛車のメルセデスのドアをあけながら、宏昌は聞いた。
「そうだけど」
「俺、昔の友達と会って酒飲んだりすることほど、金の無駄遣いってないと思うね。思い出話をして馬鹿笑いするだけだろ? 何の生産性もないよ」
 今からあなたの昔の友達に会いに行くんですけど。その言葉を飲み込んで、夏枝は「そうですね、その通りだと思います」と言った。
 宏昌は少し驚いた顔で妻を見た。夏枝は気づかぬふりをして、助手席に乗り込んだ。

 古田の住まいは、こんな住まいだろうなあと想像したそのまんまの、絵に描いたような住まいだった。
 最上階の二十三階。ガラス張りのリビングから望む灰色の東京。高価な家具と、白い床。奇妙な造形のシャンデリア。何もかもどうでもいい、何もかもクソだ、夏枝はそう思いながら出されたシャンパンを一気に飲みした。
 たくさんのルリタマアザミがかざられたリビングには夫たちが集まり、史上五人目の中学生棋士の話をしていた。ヒマワリにいろどられたダイニングテーブルには妻たちがそろい、不妊治療の話をしていた。
 呼ばれたのは全て宏昌の同期の医師とその妻たちで、子供がいる夫婦は一組しかおらず、その夫婦も長年の不妊治療を経て、妻が四十三歳のときに子供を授かっていた。
 夫婦二人分の所得が730万を優に超えるので助成金が受けられないだの、再来月にハワイにいきたいから今のうちに採卵したいだの、姑から夫婦生活を根ほり葉ほり聞かれて死ぬほどウザイだのといったどうでもいい話を右から左に聞き流しながら、夏枝は日が暮れて輝きだした東京をずっと、ずーっと見つめていた。
 夏枝が生まれ育ったぼろの借家は、東京の西側の海抜0メートル地帯にたっていた。すぐそばに川があって、夏どころか年中虫がわく。二階の小さな窓から外をのぞくと、いつも誰かが道で立小便をしていた。ここが東京の頂上付近なら、あそこは底の底だった。何せ下にはもう海しかない。
「夏枝ちゃんは、本当に子供つくらないの?」
 古田の妻の美咲が聞いた。着ているミュウミュウのワンピースはなんとかというハリウッド女優とおそろいらしい。手首には祖母ゆずりのカルティエの時計。出身地は麻布。職業は麻酔科医。
「うん、多分」
「わたしもね、別にどうしてもほしいってわけじゃないんだけど、なんだか、やっぱり母親にならないと、女としての義務を果たしてないような気になっちゃって、将来後悔しないかなって不安になる。夏枝ちゃんはそういうのない?」
 お前、その話するの何億回目だよ、という悪態をぐっと飲みこむ。彼女は四十歳。結婚前のブライダルチェックで、「自然妊娠はほぼ不可能」と言われたらしい。
 そのとき、心にぽつんと穴が開いた感覚がする。そこからよどんだ液がもれてくる。わたしはたった一回で自然妊娠できたけどね。その話をしたら、この女はどんな顔をするんだろう。
「わたしは今の生活で十分だから」
 夏枝がそう言うと、「そうよねえ、わかる」と唯一の子持ちである恵美子が言った。恵美子は元客室乗務員で、不妊治療に専念するために退職し、産後も専業主婦をつづけている。今晩子供は専属のシッターにあずけてきたそうだ。
「今思うと、子供もいなくて二人でいたときが、一番楽しくて夫婦仲もよかった。家事は基本外注で、週末は好きなように遊んで、好きなものもなんでも買って。子供って一人でも本当に手間とお金がかかる。習い事のこととか考えると今から頭が痛いもん。やっぱ今の時代、DINKsが最強よ。しかも夏枝ちゃんは週三のパートで許してもらってるんでしょ? 夏枝ちゃんみたいな暮らし方したい人、いっぱいいると思うわ」
「そうそう」と夏枝の隣に座っている久美子がひじをつき、リビングにいる男たちのほうを見やった。
「うちの旦那なんて、子供ができたら俺が育休取るからあんた働いてとか言ってくる。わたし、こんなにがむしゃらに働いて、旦那以上に稼いでるのに、これ以上まだ頑張れっていうの?」
 久美子はITベンチャーの社長で、宏昌いわく、年収は勤務医の三倍らしい。夫より年上の四十七歳と、この中でも最年長だが、若いときに凍結した卵子が残り一個となっていて、来月、最後の体外受精に挑戦するという。
「ほーんと、夏枝ちゃんていい人生よ、うらやましい」
「ほんとそう、ほんとにほんとに」とミュウミュウが嬉しそうな顔をして前のめりになる。「だって週三のパートで、料理もそんなにしなくてよくて、週末はゴルフにつれていってもらえるんでしょ? それでタワーマンションの最上階を買ってもらえるの? 埼玉のどこだっけ? わたし埼玉県のことってよくわからないけど、住むにはちょうどいいところよね。子育てするにしても、そのぐらいの田舎がちょうどいいと思う。わたしなんてさあ、夫婦二人で必死こいて働いて、こんな都会の真ん中に住んで、なんだかバカみたいって思うときがある」
「わかる」とIT社長も負けじとぐいぐい前に出てくる。「上を見るときりがないのに、見ちゃうよねえ。でもわたしの性格上、どうしても、もっともっとってなっちゃうのよね。がんばらなきゃ人生じゃない、みたいなさ。週末はイオンのフードコートで昼ごはん食べてる家族とか見ると、なんていうか、身の丈をしっててえらいなあって本当に思う。夏枝ちゃんはそのタイプよね」
「あー、夏枝ちゃん、フードコート好きそう!」
 元客室乗務員が夏枝を指さして、満面の笑みで言った。
「何々? うちのワイフがなんだって?」
 宏昌が嬉々として顔で会話に割り込んできた。自分の話をされていることに気づいて寄ってきたのだ。
「夏枝ちゃんは幸せよねって話」とミュウミュウ。「ねえ、宏昌さんは、本当に子供いらないの」
 宏昌はダイニングテーブルに両手をつき、酒臭い息を吐きだしながら「子供ね……」と言った。
「なかなかできなくて。俺のほうに問題はないんだけど」
「えっ」と恵美子が声をあげた。「検査したの?」
「うん、まあね。だから、俺のほうに問題はないんだよ、ないんだけど……」
 三人の妻たちの笑顔が固まる。目尻のしわがほんのわずかに濃くなる。唇はとじられているが、その表面のしわの一本一本から声が漏れ聞こえてくる。なんだ、あんたも不妊なんじゃん。本当は子供、ほしいんじゃん。
 次の瞬間、夏枝はほとんど無意識で立ち上がっていた。そしてとっさにテーブルの真ん中にあるヒマワリがたっぷりいけられたガラスの花瓶をつかんだ。ミュウミュウがさっきわざわざ教えてくれた。ディオール製で、義母から引っ越し祝いにもらったのだそうだ。
 殺してやると思った。この花瓶で殺してやると思った。ふいに空気がぬるくなる。夢の中でもがいているみたいに、時間がのろのろとおそくなる。宏昌のゆがんだ顔が写真みたいにとまる。誰が悪いの? わたしを見下してバカにしていつも腹の中で笑っているこの女たちが悪いの? それともわたしの弱みを握ったつもりになってやりたい放題やっているこの男が悪いの? 違う。違うことをわたしはしっている。すべて自分のせいだ。結婚で人生を取り戻そうとした自分のせいだ。年収二千万の医師と結婚することで、その結婚生活を維持することで、海抜0メートルの場所ではいつくばって生きていた人生を帳消しにしようとしていた自分のせいだ。
 再び時間が動き出す。夏枝は花瓶を頭上にもちあげ、そのままくるっとひっくり返した。
 花瓶の水は思いのほか冷たく、そして思いのほか生臭かった。ヒマワリがぼたぼたっと自分の体をたたきながら床に落ちる。そのまま花瓶で自分の頭を殴りつけようとしたが、ぎりぎりのところで思いとどまった。ゆっくり花瓶をテーブルに置いて、自分の頬を右手で平手打ちした。今度は左手。また右手。何度も何度も何度も繰り返した。悪いのはわたしだ。自分の足だけで立って、自分の足だけで歩いていこうとしなかった自分が、子供を殺したのだ。
 
 ちぎれるかというほど宏昌に強く腕を引っ張られて、古田の家を出た。「お前、何考えてるんだ」と怒鳴る夫を無視して、さっきから何度もLINEの着信音を鳴らしているスマホを見る。
 春来と真冬とのグループLINEを開くと、二人がカラオケで熱唱する動画が一曲ごとに送信されていた。最新の動画では、春来が歌舞伎町のホストみたいにタンバリンを華麗にたたきながら、GLAYの『唇』を熱唱し、その横で真冬が大ジョッキを片手に「古いっ! 選曲が古いっ!」とわめいていた。
 思わずぷっと笑ってしまう。「何笑ってるんだ!」と宏昌が怒鳴ったので、夏枝は一瞬のすきも与えず、夫のニキビ跡でぼこぼこの頬を平手打ちした。
 やっぱり一発ぐらい、殴っておかなければと思ったのだ。

 カラオケボックスに合流したのは午後九時過ぎで、それから延長に延長を重ねて気づいたら深夜〇時だった。
「もう喉ガラガラだよ。明日絶対に声でない」
 店を出てすぐ、コンビニで買ったストロングゼロ500ミリ缶をあおりながら真冬が言った。会わない間に、また丸くなった気がする。身長は155センチほどで、体重はもしかすると百キロ近くあるかもしれない。「でも健康診断はA判定だもん」とよく言っているが、春来によればその健康診断も、十年近く前に受けたものらしい。
「これからどうする?」真冬が言った。「わたし、まだ帰りたくない」
「うーん、じゃあ、店探すか?」
 いつも日付が変わると帰りたがる春来がめずらしくそう言った。久しぶりに三人で集まったからか、それともカラオケボックスの部屋に入って来るなり泣き出した自分に気を遣ってくれているのか、夏枝にはわからなかった。
 ちょうど真冬がCoCoの『はんぶん不思議』を振りつきで熱唱しているところだった(選曲が古いとか、まったく人のことを言えない)。ミラーボールがくるくるまわり続ける中、珍妙なカラオケ音をBGMに、つい最近、人工妊娠中絶手術を受けた話を夏枝は手短にした。二人は何も聞かなかった。
「少し、散歩したいな」夏枝は言った。「なんだかまだむしゃくしゃするから」
「じゃあ、あの公園行く? うちの店の近所のさ。昔、夜にいってアオカンしてるカップル……」
「あ!」と夏枝は声をあげた。二人が驚いて振り返る。
「なんだよ、大声出すなよ」
「そうじゃなくて、いきたいところがあるの」
 それから、酔っ払い三人でとぼとぼ歩いて、十分程度でその場所についた。何週間か前に宏昌とモデルルームの見学をしたが、現場にきたのははじめてだった。
 夜なので、何割ほどできあがってるのか、よくわからない。半分ぐらいだろうか。まだ三分の一程度だろうか。現場標識によろよろ近づいて読んでみたが、酔っているせいか全然文字が頭に入ってこない。
 建設現場を囲うフェンスにもたれかかりながら、真冬が「このタワマン、できたらうちのアパートから見えるかな~」と言って、ストロングゼロをまたあおった。
「あ、うちからも見えるかも」少し離れた道路の真ん中に立ち、首をそらしてできかけの建物を見上げつつ、春来が言う。「だって地上三十階なんだろ? 相当高いよな。しかも最上階に住むんじゃなかったっけ? もう買ったの?」
「うん、多分」と夏枝も春来の横に並び、同じように首をそらして見上げた。建物とクレーンが上にいくにしたがって闇の中に溶け込んでいく。
「夫がやったからよくわからない。抽選? とか言ってた気がするけど」
「へえ。うちからこのタワマンは嫌でも見えるけど、夏っちゃんの部屋からは俺んちは見えないね」春来はへへっと笑った。「あ、でも富士山は見えそう。よかったね、タワマンに住みたいって夢、かなったね」
「えっ」と驚いて夏枝は春来を見た。「なにそれ? わたしそんなこと言った?」
「いやだって、昔よく言ってただろ。玉の輿に乗って、広くて景色のいい高層マンションに住みたいって。当時タワマンなんて言葉はなかったけどさ」
「そんなこと、言ってたっけ……」
 ふいに脳裏に、小さな空が浮かぶ。ボロ家の二階の小さな窓から見える、小さな小さな空。子供の頃、何を願っていたのだろう。もっと広い家に、もっと景色のいい場所に住みたい。そんなことを願っていたのだっけ。よくわからない。
 そのとき、「やばいやばい!」と言いながら、真冬が二人に近づいてきた。「あれ、あれ」と言いながら真冬が指さしたほうを、二人で見る。
 自分たち三人にさらに輪をかけて酔っ払っている様子のスーツ姿の中年男性が、フェンスによじ登り、建物に向かって放尿していたのだ。当然、そんなところからやったって尿は建物に届きやしないが、中年男性はなぜか「大きくなあれ、大きくなあれ」とまじないをかけるようにして腰を振っていた。
 三人は顔を見合わせた。そして同時に、ぶーっと噴き出した。
 酔いがまわりにまわって、三人はいつまでもげらげらと腹を抱えて笑い続けた。真冬など、笑いながら道路に寝転がってしまった。すでに中年男性の姿はもうない。夏枝の頭は半分冷静で、半分はまだ酔っ払いで、だからその半分冷静な部分で「何がこんなにおかしいんだろう、ばかみたい」と思いつつ、半分酔っぱらった勢いで、真冬の横に寝転がった。
 アスファルトのごつごつした地面が後頭部に痛かった。見上げた夜空は灰色の雲に覆われて、星一つ見えない。それでも、こうして地面に寝転がって見上げてみると、空はどこまでも広く、遠い。ボロ家の小さな窓の小さな小さな空。あの頃ほしかったものは、なんだろうか。
「おい、みっともないからやめろよ、人来るぞ」
「こんな時間、誰もこないよ、バーカ」そう言って、真冬は嬉しそうに身をよじって笑った「ねえ、あのさ、友達って、なんかいいねえ」
「何? 急に?」夏枝はそのまるまるした白い餅みたいな横顔を見て聞いた。
「だってわたし、四十過ぎるまで、友達と外で遊ぶってほとんどしたことなかったから。前も話したけど、だから最近、店長と夏っちゃんとこうしてバカみたいにはしゃいだり笑ったりできるのが楽しいの。失った青春を取り戻してる感じ」
「わたし、多分、このタワマン住まないわ」
 その決意は、こぼれおちるようにぼろっと口から出た。わたしは子供時代からの夢を失うのだろうか。それとも何か別のものを、手に入れようとしているのだろうか。

 

(第5回につづく)