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 二つ目の窓に二本の線が、浮かぶ予定ではなかった。なのに、ある。くっきり二本。それを見つめながら、衛藤夏枝は他人事みたいにふふっと笑った。それから口の動きだけで「わたし、もう四十二よ?」と言った。
 セラゼッタを飲むのをやめたのは五月。夫の宏昌が「もう年だし、いらないんじゃない?」と言ったからだ。そもそも夫婦生活自体は結婚二年目から徐々に減っていて、ここ数年はPMS対策のためだけに服用しているようなものだった。セラゼッタは自分の体にあっていた。不正出血もほとんどないまま、服用二カ月目には生理がぴったりとまった。生理前の気分の落ち込みと異常な食欲に長年悩まされてきたが、それが一切なくなり、生活が格段に楽になった。
「月三千円って言ってたよね? もう無駄じゃない? もったいないからやめよう」
 しかし、宏昌の“もったいない”が発動したら、いかなる理由があろうと逆らえない。
 便器に座ったまま考える。五月のはじめに最後のシートを飲み終えて、六月の終わりに短い生理があった。そして七月。数カ月ぶりに宏昌と性交した。夜、寝ていたら急におおいかぶさってきた。年に数回、そういうことがある。理由はよくわからない。自分の支配力を、定期的に確認したくなるのかもしれない。
 そして今日、八月一日。
 隣の個室から、ジャーッと水の流れる音がした。夏枝はまた口の動きだけで「四十二よ?」と言った。
 こんなことってある? 
 しかも、ついこの間まで、ピル飲んでたのに?
 この短期間にした、たった一回が命中?
 まさか自分が妊娠するなんて。ようやく腰をあげてトイレを出たあとも、全く実感がわかなかった。自覚症状は一切ない。胸が張るとか、やたら眠いとか、めまいがするとか、何ひとつない。もちろんつわりもない。パート先の自分の席に戻ると、スマホでこっそり「妊娠検査薬 陽性 間違い」と検索してみた。それでわかったのは、検査するタイミングを誤らない限り、昨今の検査薬の正確性は、99%だということだった。
 妊娠したことだけでも相当に驚いたが、その夜、さらなる衝撃が夏枝を襲った。仕事から帰ってきた宏昌に妊娠を告げると、夫はいきなり土下座したのだ。
「この通りです! おろしてください!」
 最近広くなってきた額を、夫はびったりと床に押し付けた。夏枝が何も言わずにいると、わずかに顔をあげて妻の反応を確かめた。額に赤い跡がついている。その表情は、なぜか薄く笑っているように見えた。
 出会って七年、結婚して五年。宏昌が素直に非を認めたことは、夏枝が覚えている限り、三度しかない。その三度とも交際していた頃の話だ。結婚して以降、例えばコップを割ろうが居眠り運転で自損事故を起こそうが、言い訳を十個でも百個でも並べ立てはしても、決して「ごめんなさい」を言わない。妹の美沙が「おたくのご主人、謝ったら死ぬ病気にかかっているんじゃない?」と冗談で言ったことがあるが、本当にそうなんじゃないかと夏枝はときどき真剣に思う。
「ピルのことは俺が悪かったけどさ」別に許したわけじゃないのに、勝手に体を起こして正座の姿勢になると、宏昌は言った。「でも君、もう四十二でしょ? まさか妊娠するなんて、君も思ってなかったでしょ」
「婦人科の先生に、四十五まで飲み続けるべきだって言われたってわたし言ったじゃん。それにミレーナのことだって相談したのに、そんなのしなくていいって言ったのは自分だよ」
「だからごめんって。今回は本当にごめん。おろして。今回だけはお願いします」
「そんな簡単におろしてなんて言って。わたしの体の負担のことも考えてるの?」
 むかっとして強い口調でそう言うと、宏昌は「いやいや!」と言いながら、脚にしがみついてきた。
「四十二で産むほうがむしろ危険だって。それにね、君、お腹の中から子供をかきだすんだって思ってるでしょ? 今はね、そんなことはしないんだ。今はもっと簡単で、負担の軽い方法でやってくれるところあるから。時間にしてほんの数分。麻酔入れたらすぐ寝て、起きたら全部終わってる。もちろん入院なんて必要ない。吸引法っていうんだ。ネットで調べてごらん」
 吸引という言葉にぞっとして、夏枝は唇をかんだ。それを察したのか、宏昌はまた額を床におしつけた。
「お願いします! この通り! 一生のお願い! 金ももちろん俺が出します!」
 夏枝は宏昌の頭頂部をぼんやりと見た。額だけでなく、てっぺんも少しずつハゲてきていることを、今、はじめてしった。結婚してから、一度だって謝ったことのなかった人が、こうして間抜けなハゲをさらしてまで自分に頭をさげている。せっかく授かった子供を殺してほしくて。何にもなかったことにしてほしくて。それほどまでに嫌だということだ、妊娠が。
 そこまでとは、思わなかったなあ。
 だんだんすべてがどうでもいいような気分になってきた。宏昌をそのままにしてその場を離れ、スマホだけ手にして家を出た。
 外は風がふいていて、日中ほどは蒸し暑くなかった。とくに目的地もなく、いつものようにあてどなく夜の住宅街をさまよい歩いた。三十分ほどで、春来が働くコンビニまでやってきた。外からのぞいた限り、春来の姿はないようだった。駅前のほうの店にいるのかもしれない。少し話をできたらいいなと思っていたのだが、仕方がない。店内に入り、ペットボトルのお茶を買った。綾鷹派なのに、なぜかおーいお茶を買ってしまった。
 それから昔、春来とよく二人で散歩した公園にいった。
 その公園は、2キロのジョギングコースのほかにソフトボールのグラウンドやテニスコートも備え、土日の日中ともなると周辺の住人が大挙して押し寄せている。あたたかい季節は夜中でもわりと騒がしいところが、夏枝は好きだった。走る人、歩く人、自転車に乗る人が闇の中でうごめいている。今日は子連れの家族もちらほらいて、さすがにこんな遅くまで子供が出歩くのはどうなのかと思ったが、彼らが懐中電灯を片手に、ジョギングコースを離れて藪の中に入っていくのを見て納得した。カブトムシかクワガタをとりにきたのだ。あるいは餌をしかけるのか。
 中央の広場までくると、ますます騒がしくなる。スケボー集団、管楽器を練習する人、アニメソングを絶唱する人。明かりはぽつんぽつんとあるだけなので、誰の姿もおぼろげだった。太陽の出なくなった昼みたい、といつも思う。空いているベンチに腰掛けた。お茶を一口飲んで一息ついたあと、スマホでかかりつけの婦人科のウェブサイトを開いた。中絶手術のページを開くと、宏昌が言っていたことと同じようなことが書いてあった――吸引法。子宮内膜を傷つけない。麻酔で眠っている間に手術を終える。来院から帰宅までの時間は、およそ三時間。翌日も普段どおりの仕事ができる。
 予約ページに飛び、明日の予約をとった。登録がすべて済んだところで、いつものくせで診察内容を「避妊ピル処方」にしてしまったことに気づいた。一旦キャンセルして、「人工妊娠中絶の診察」か「婦人科診察」で悩んで、「婦人科診察」で登録しなおした。

 翌日、病院へ行くと、受付で渡された問診票の

 妊娠診察(分娩・中絶・未定)
 
 のところで、数秒、ボールペンを持つ手が止まった。しばらく考えてから、「未定」に丸をした。けれどすぐに上からバツ印を書き、「中絶」に丸をつけなおした。
 予約時間より五十分も遅れて名前を呼ばれた。いつもピル処方だけで医師の診察を受けることはほとんどなく、その女医もはじめて見る顔だった。女医はセラゼッタの服用をなぜやめたのか、夏枝に聞いた。当然の質問だと思いながら、「夫がもういらないだろうと言ったので」とありのまま答えた。女医は手に持ったボールペンをくるくる回すだけで、それ以上、何も言わなかった。
 内診台に乗り、股をひろげ、つめたい異物が入ってくる。女医はすぐに言った。
「うん、そうですね、妊娠されてますね。五週と六週の間ぐらいかな」
 思わず、ぎゅっと瞼を閉じた。何かの間違いだったらいいのに、という願いが潰えた。
 それから女医は「中絶ということでよろしいですね」と再確認し、夏枝が「はい」と答えると、あとは手術へ向けて一直線に進んだ。あっという間に様々な手続きや検査が済んで、気づいたら明日の手術が決定していた。たまたまキャンセルが入ったばかりなのだという。
 なんだかすべてが夢の中のできごとのように、現実感がなかった。病院の外に出るとむっと熱い風が顔に当たり、今は真夏なのだということを、子供時代の思い出のように懐かしく思い出す。この世の終わりを嘆くかのように、アブラゼミがなきわめいている。
 通りに出ると、若い妊婦がえっちらおっちら歩いていた。いつもと同じように過ごそう、そう思う。バスに乗って、一つ手前の停留所で降り、普段あまりいけない安売りスーパーで食材を買い込んだ。帰宅すると洗濯物をしまい、掃除機をかけた。二人で住んでいるのに4LDKと広く、家事にやたら手間がかかる。それでも宏昌は、ロボット掃除機も乾燥機も食洗器も使うことを許さない。
 夕方までスマホで数独をやりながら過ごした。それから冷やし中華を作って一人で食べた。宏昌は午後十時をすぎても帰ってこなかった。宿直なのか、あるいは別のことをしているのかわからない。宏昌に、同意書の記入と捺印は頼まないつもりでいたのでどうでもよかった。
 〇時前にはベッドに入った。眠れなかった。
 二時過ぎ、パジャマからTシャツとジーパンに着替えて外に出た。コンビニに、今夜も春来はいなかった。公園ももうさすがに人気がない。昨日と同じベンチに座って、少し離れたところにあるバスケットゴールで、闇の中、ひとり延々と3Pの練習をしている少年を見守る。
 別に、と思う。
 わたしのわがままで赤ちゃんごめんね、なんてセンチメンタルな感傷にひたってもいないし、せっかく授かった命を無駄にして罰当たりだ、と罪悪感にさいなまれているわけでもない。今、自分の中にあるのはただの受精卵。手や足やまして人格があるわけでもない。セラゼッタを飲んで毎月の排卵を無効にしていたこととそうたいして違いはない。ただ金銭的、身体的に多少の負担があるだけ。
 子供は別に、ほしくも、ほしくなくもなかった。それがいつわりのない本心だ。
 他人より豊かな暮らしを手に入れる。それが結婚の第一目的だったから。結婚相談所に登録したのは三十歳のときだ。それまで付きあっていた弁護士の恋人に婚約を破棄されてすぐだった。落ち込んでいる暇があるなら行動すべきだと思った。その後は文字通り、死にものぐるいで結婚相手を探した。可能な限りいい条件、いい結婚を求めて。結局、相談所は計四社も梯子した。三十五歳で泌尿器科医の宏昌と知り合い、二度目に会ったときに真剣交際を申し込まれた。
 初対面の見合いの席で、宏昌は理想の結婚生活について、こう語っていた。
「居心地のいい広い部屋に住んで、ときには夫婦二人でおしゃれして食事に出かけて、年に一度か二度は二人で海外旅行をしたいな。いつかは避暑地に別荘も買いたい。とにかく、所帯じみたくないんだよね。二人でキラキラした生活を送りたいっていうか。だから正直、子供は、あんまりほしいと思わない」
 キラキラした生活、という表現はちょっとバカみたいだと内心思ったが、本当にそういう生活が送るつもりなら、子供を持つのは難しいだろうと夏枝も思った。そして、本当にそういう生活を送れるのなら、自分も子供は持たなくていいと夏枝は答えた。結婚後、ピルを服用することにもすんなり同意した。
 最初の住まいは、宏昌が当時勤務していた病院があった小岩の、家賃二十五万の3LDK。宏昌が家事を任せたいというので、フルタイムの仕事を辞めて、週三日の経理事務のパートをはじめた。そのわりに手料理をあまり好まなかったので、二人でしょっちゅう外食していた。宏昌に合わせてゴルフをはじめ、休みの日は早起きして二人でラウンドにいくのが楽しみだった。
 お金をためて、タワーマンションの高層階を買う、というのが二人の目標になった。「こんなに遊んでばかりじゃお金たまらないよ」と夏枝が言うと「そうだよな」と宏昌はのんきに笑った。この頃、夏枝は友達の前でも「お金がたまらなくて家が買えないの」とよく嘆いていた。「でも、入ってくるお金も多いんでしょ? マンションなんていつでも買えるじゃない」なんて言葉が返ってくるのを期待して。実際にそうだった。宏昌は非常勤のバイトもしているので、年収は優に二千万を超える。少しぐらい無駄遣いしたって、タワーマンションに住むぐらい、余裕よ余裕。心の中で高笑いしていた。
 しかしそんな“キラキラ”は、結婚二年目、宏昌に一千万近くの借金があることが発覚すると同時に、雲散霧消した。
 原因は、闇カジノ。大学生の頃にハマって一時は借金も五百万を超えたが、結婚相談所入会時に両親に肩代わりしてもらったという。しかし結婚して三カ月目には、歌舞伎町通いを再開していた。理由は本人いわく、
「結婚によって自由を失ったストレス」
 宏昌は居直って「君が嫌なら離婚してもいい」と言った、戸惑う夏枝の心をみすかしたように。
「その歳でやり直しができるんなら、離婚もいいんじゃない? でも君、結婚するのに随分苦労したんでしょ。なにせ親があれだもんね。俺ぐらいだよ、君の家族を受け入れられるのは」
 くやしいが宏昌の放った言葉は真実だった。かつて弁護士の恋人に婚約破棄されたときも、理由は夏枝の家族のことだった。見合いで誰かと出会って交際までたどりついても、家族のことをしられた途端、距離を置かれた。
 この人に借金があったところで。
 自分に言い聞かせた。
 生活が変わるわけではない。
 なにせ入ってくる金も多いのだから。結局、離婚はしなかった。そして、生活も変わらなかった。これまでと同じように週末は二人でゴルフに出かけ、年に一度は海外旅行にいった。タワーマンションの話もよくしたし、何度か内覧にもいった。しかし、“キラキラ”はひとかけらの光も残さず、消えた。宏昌は散財する一方で、夏枝個人の支出を監視し、気に入らない無駄遣いを見つけると延々となじるようになった。夜になじりはじめ、翌日の朝食の時間も言っていることもしばしばある。はじめは反発したし、宏昌の無駄遣いを指摘しかえしたりもしたが、その度に離婚を切り出された。
「その歳で離婚して、やっていけるの? 再婚なんて絶対無理だよ。俺はすぐに相手が見つかるからいいけど」
 そう言うときの、宏昌のニキビ跡でぼこぼこの頬のゆがみ。なじられたあとはいつも、昔のことが延々と頭の中をぐるぐるまわってとまらなかった、まるで壊れたビデオテープみたいに。十四歳まで住んだ借家の、ぼっとん便所。その暗い穴。覚せい剤で何度も逮捕されて最後は寝たきりになった父の後頭部。昼も夜も働いていた母の緑色の爪。シンナーを吸っておかしくなってビルから落ちて死んだ兄のうつろな目。妹のほっぺたにいつもあった涙のすじ。
 同じ環境で育った妹は「わたしは人並みの家庭を持てればそれでいい」と言って、十九歳のときにバイト先のスーパーの店員と結婚した。今も子供は持たず、ネコ三匹とともに古いアパートでつつましく暮らしている。 
 自分はそれでは満足できない。人より豊かになりたかった。人並みではだめなのだ。人より広い家に、人よりいい食事、人よりいい服を着て、人よりいいクラスの座席に座って旅行をしたい。そのために必死に勉強して大学に行った。けれど自力でどうにかするには限界があるし、孤独でかわいそうな女ではいたくなかった。上の階層の人と家庭を作って、人生を別の色で塗り替えなければならなかった。
 気づくと、3Pシューターの姿が消えている。
 誰の足音も、誰の息遣いももう聞こえない。風もない。たわむれに右足を少し動かすと、靴の底がじゃりっと土をこする音が、真昼間に上空をすぎる飛行機の音みたいに、耳の奥にとどろいた。
 もし、明日、というか日付が変わってすでに今日、手術をしなかったら。
 キャンセル料は手術代金100%だと説明された。そんなことはどうでもいい。このまま黙って妊娠を続けたらどうなるか。宏昌は離婚する気だろうか。しなかったとして、二人で子供を育てるなんて、可能だろうか。とてもそうは思えない。離婚するにしろしないにしろ、一人でやっていくしかない。金銭的にどこまで援助をもらえるかもわからない。頼れる実家もない。一人で働きながらどこまでできるのか想像もできない。もう何年も契約社員とパートしかしていないのに、就職先はあるだろうか。あったとしてどんな生活なのか。ぼっとん便所とまではいかないだろうけれど、今よりずっとずっと古くて狭い家に住まなければならないかもしれない。妹が住んでいるような、夏はかならず虫がわく家かもしれない。
 子供が特別ほしかったわけじゃない。でも、ほしくなかったわけでもない。 
 空がしらじらと明るくなる。一人、また一人と公園にやってくる。夏枝はようやく立ち上がり、寒々しくて暗い、だがとても広い家に向かって歩き出す。

 同意書には自分で宏昌の名前を書き、宏昌の印鑑を持ち出して捺印した。病院の担当者はとくに疑う様子もなく受け取った。
 手術室は、手術室というより、どこかの会社のちょっと広い給湯室みたいだった。
 部屋の角に流し台があって、洗剤やスポンジが並び、下の棚の取っ手にはふきんがかけられている。衛生問題は大丈夫なんだろうかという不安が脳裏をよぎるが、すでに内診台にのせられ、下半身裸で股をひらいている状態ではもうどうしようもない。看護師が「リラックスする薬をまず入れますね」と言った。彼女は中国人らしく、ときどき何を言っているのかわからなかった。手術をおこなうのはこのクリニックの院長だと聞いていたが、まだ姿を現してはいなかった。「今度は眠れる薬を入れますね」と看護師がそばでささやいたとき、ああそうか、院長は一切姿を見せずにすべてが終わるんだ、と夏枝は気づいた。

 

(第4回につづく)