「ロスジェネで育つと社畜体質になっちゃうんですよ」 やりがい搾取の実態とは
「やりがい搾取」という言葉が、巷で話題になり始めたのは2000年代後半。Bさん(当時36歳)はまさにその「やりがい搾取」の犠牲になったロスジェネの一人だ。Bさんは明るく元気な性格で、アグレッシブな女性である。何事にも真剣に打ち込むBさんを、ぼろ雑巾のように使いつぶし、追い込んだのが「やりがい搾取」だった。
「今まで働いてきた会社は、どれも超絶ブラックでした。現代の奴隷制度ですよ。私は今でも社畜体質なのですが、ロスジェネで育つと社畜体質になっちゃうんですよ。やりがい搾取にまんまとハマったと思います」
Bさんは美術系の大学に在学していたが、不景気のあおりで、父親の会社が倒産の危機に陥り、大学中退を決意。バイトしていた出版社に契約社員としてそのまま入社した。
当時の出版社はまだ雑誌が花盛りだったが、その華やかなイメージの舞台裏はというと、やりがい搾取の温床でもあった。Bさんの職場も例外ではなく一日12時間勤務はざらで、月6、7回は徹夜の日々。しかし給与は日給換算で、残業代は出ない。月給は手取り16万円程度。家賃は月に7万円で、都内だと一人暮らしの女性が安全に住めるギリギリラインだ。生活は苦しかったが、年ごろなので洋服も欲しい。そこで削ったのは食事だった。空腹を満たすため、米だけ食べていたらぶくぶくと太った。光熱費が払えず、支払いを親に泣きつくこともあった。
その後、雑誌の売れ行き減少などから紙媒体の低迷を感じたBさんは、30代前半でIT関係の制作職に転職した。雇用条件は年俸400万。これまで低賃金に喘いでいた立場からすれば、破格の待遇に見えた。しかしそこでも困難が待ち受けていた。1日12時間以上の激務プラス、土日も仕事関係の勉強をしなければ追いつかないのだ。さらに上司は、執拗に性的な関係を迫ってくる。関係を拒否すると激しいパワハラと、社内いじめが待っていた。3日でサイトを作れとの無理難題を突きつけられ、三日三晩徹夜を余儀なくされた。
「1週間の制作スケジュールを勝手に決められるんです。その通りにいかなったらみんなの前に立たされて、押した理由を詰められる。あれはリンチだったと思います」
ロスジェネの多くはパワハラやセクハラが横行した異常な社会環境でもがいていた
全員強制参加の月1で開かれる飲み会では、朝まで飲み屋をハシゴさせられた。帰りに上司のセクハラの餌食になりかけたことも。怒涛のように仕事をこなしても、女性社員だけがオフィスの掃除をする慣習があり、何よりもつらかった。
「一番嫌だったのは、男子トイレも女性社員が掃除しなきゃいけないこと。小便器を必死にブラシでこすって、泣きたくなりました。男性社員は見て見ぬふり。仕事量も責任も全部一緒なのに、女性が掃除させられることに本当に腹が立ちました」
しかし社畜体質のBさんは、その会社を2年間耐え抜いた。その後いくつかの会社に転職をして、今はITベンチャー企業でコンサル業に就いている。マネジメント職となった現在では、上下の世代に複雑な心境を抱いている。売り手市場で入社した新卒は褒めないと退職するので気を遣うし、上の世代はボーナスの入った封筒が立ったとか、内定祝いでディズニーに連れて行ってもらったなどの「武勇伝」がある。這ってでも会社に行き、貯金もできなかった私たちの世代って――。Bさんは、そう言うと苦笑した。
それにしてもロスジェネの辿った道を改めて考えてみると、低賃金や長時間労働のみならず、パワハラやセクハラ、男尊女卑が横行した異常な社会環境だったことがわかる。Webの企画で取り上げたのは女性のみだったが、性別にかかわらず、ロスジェネが様々な苦難にあえいだのは、想像して余りある。
しかしロスジェネ世代も、声を上げなかったわけではない。
2007年、そんな社会状況に対してNOを突きつけたロスジェネの論客もいる。評論家の赤木智弘さんだ。
「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳、フリーター。希望は、戦争。」
当時フリーターだった赤木さんは、2007年にそんなセンセーショナルな物言いで言論界をジャックし、知識人をざわつかせた。赤木さんと私は同じロスジェネ世代で、数年前に知り合って以来、イベントでご一緒したり、たまに呑み会で会う仲だ。
当時を思い出してみると、私にとって赤木さんの存在は暗闇の中に射す一条の光だったように思う。ロスジェネ由来の生きづらさを抱えていた私は、赤木さんの発信によってドラスティックに社会が変わって欲しい、そう願っていた。なぜならば私たちにはかろうじて「若さ」という切り札が残っていたからだ。
「若さ」という切り札がなくなった氷河期世代 負のスパイラルの打開策は
あの時から瞬く間に時間は流れ、全てがひっくり返るコロナ禍へ突入――。そんな中、改めてロスジェネへの思いを聞くべく、私は年明け早々に喫茶店で赤木さんと会った。私も40を超え、赤木さんもアラフィフだ。長い月日が経ってもロスジェネに対して未だに無策である政府に、赤木さんは憤りを隠さない。
「ロスジェネ世代も、これまでは体が普通に動いていたけれど、病気とかでだんだん立ち行かなくなっていく。私たちは年を取ったんです。年齢と時間は、不可逆なんですよ。人生の可能性が年齢とともに減って、時間だけが経ち体は老いていく。それなのに、未だに氷河期世代に対するケアは十分でないですよね。要は国がこれまで何もやってこなかったんですよ。その一方で世間には自己責任論や、弱肉強食的な考え方が広がっていて、声を抑え込まれている。これは社会としても、行き詰っていると思うんです」
赤木さんの言う通り、私たちにもう若さという切り札は残されていない。私の周りには生活のために結婚や出産を諦めた人も大勢いるし、未だに奨学金の支払いで精いっぱいな先輩もいる。体力の衰えを感じる昨今。そんな私たちに待ち受けるのは無慈悲にも、「老い」の足音だ。
「今問題になっている日本の人口減も、ロスジェネ世代が子供を産めなかったのが大きいですよね。さらに氷河期世代は、住宅や車が買えなかったり、白物家電などの買い替えのスパンは長くなっていたりする。それで景気が悪くなって福祉に対しても国から、さらにお金が出なくなる。今後はロスジェネ世代の老いによって、年金問題や生活保護など社会保障の問題が噴出してくる。まさに負のスパイラルですね」
そんなロスジェネ世代に対して、赤木さんが唯一の打開策として考えられるのはなにか。それは、時代の犠牲者となった氷河期世代に、国がお金を回すことだという。
「といっても生活保護レベルではなくて、家や車を買える生活水準のお金です。そこに国の予算や社会保障を突っ込んでいくしかない。その方が日本の景気が全体的によくなるという考え方になった方が、社会にとっても結果的にいいと思うんです」
これまで国に絶望しかしていない私には、それは一見実現不可能なことのようにも思える。しかし赤木さんはそうやって粘り強く国に訴えていくしかないのだと訴える。
「生まれた時代が悪かった」で葬り去っていいのか ロスジェネの怒り
私が取材で感じたのは、国や企業によって尊厳をはく奪されたロスジェネたちの「傷」の深刻さだ。中には正社員になっても過去のトラウマから強迫的なまでに慎ましい生活を送るロスジェネも多かった。いずれにしても、その「傷」を回復させるには強力な一手が必要なのは、間違いない。赤木さんはそれを「お金」だとしている。
それにしても、「希望は戦争」から15年。ロスジェネの代弁者ともいえる赤木さんの目から見て社会が何ら変わらなかった事実に深く絶望してしまう。
「もう、希望はないんですよ。希望とか言ってる場合じゃない。個人レベルでできるのは、細々と生き延びていくことくらい。だけどそれは、希望とは言わないですから」
当時30代だったロスジェネの旗手は、15年が経ってもなお抜本的な救いの手がないことにやり場のない怒りを抱いていた。
赤木さんの話に耳を澄ませながら、私はあるロスジェネ女性を思い出していた。彼女は目の前で履歴書を破かれる圧迫面接に苦しみ、就職できたのはIT系のブラック企業だった。当時の手取りは13万。梱包材のプチプチにくるまり、週に何回も会社に寝泊まりした。過労でけいれん発作を起こしたこともある。ブラック企業を転々とし、ある時上司のセクハラに耐えかねて会社を辞めると、一番味方でいて欲しい親に「仕事まじめにやってんのか!」と罵倒された。
そんな彼女の頬をツーッと伝う涙――それが私の脳裏に焼きついて離れない。私は数え切れないほど、こうしたロスジェネ世代の涙を見た。苦しかった、辛かった。溢れ出る涙を時には拭い、時にはこらえきれずに鼻をすすりながら、同世代たちは懸命に言葉を続けようとする。私たちを忘れないで。国は、企業は、この現実にどうか向き合ってほしい、と。こうした思いに今も寄り添えていない私たちの社会に、確かに希望はないのかもしれない。
しかし、果たしてその「傷」を本当に無かったことにしていいのだろうか。数百万人もの人々の苦しみを「生まれた時代が悪かった」の一言で、ただ葬り去っていいのだろうか。私はやっぱり、そんな社会はおかしいと思う。それと同時に私はかつての私自身に、そして多くの傷を受けたロスジェネたちに声を大にして、伝えたいことがある。おかしいのはあなたではなく、社会の側だったのだ、と。