ロスジェネの就活戦線 記憶に残る先輩の疲れ切った背中
ロストジェネレーション、略してロスジェネ。またの名を就職氷河期世代。バブル崩壊後、雇用の調整弁とされ、長らく辛酸を舐めてきた世代だ。82年生まれの私は、このロスジェネ末期の部類に入る。思えば大学時代から、ざわざわとする兆しはあった。浮ついた学生時代に押し寄せる、不穏なさざ波。バイトや学業に追われていたのもつかの間、それは大波となって、私たちを容赦なく飲み込んでいった。
周りを見れば、黒いヒール靴を履き紺色のリクルートスーツに身を包んだ大学の先輩は、何百社と企業に応募しては玉砕して疲弊しきっていたし、運良く正社員という椅子を勝ち取っても、ブラック企業が大きく口を開けている。
ある日、IT関連企業に就職した先輩を久々に訪ねると、つんとした臭いが鼻をつくのがわかった。聞くと先輩は仕事に追われ、会社に寝泊まりし何日も風呂に入っていなかった。死んだ目をしていたあの先輩の姿は、未だに忘れられない。長時間労働や低賃金、横行するパワハラ――。私たちも、あの道を辿るのだろうか。先輩の疲れ切った背中に戦々恐々としたのを昨日のように思い出す。
大学4年になると、私も否応なしにそんな就活戦線に挑まなければならなかった。メディア関係の職種を志していた私は、就職先を東京に絞った。大学は大阪にあったため、夜行バスに揺られ、くたくたになりながら、東京と大阪を往復した。しかしそこは食うか食われるかの戦場だった。エントリーシートを何百社に送ったのにもかかわらず、落ちて落ちて、落ちまくる。そんな中、周囲でにわかに聞こえ始めたのが、「就職鬱」という言葉だ。圧倒的な買い手市場のため心身を病み、戦線から離脱する者が続出したのだ。そんな屍を横目に見ながらも、多くのロスジェネが我こそは取り残されまいと、死に物狂いで就活に挑んだ。
なんとか得た職は零細出版社のバイト 手取り13万でパワハラ、長時間労働に苦しみ…
「実家が太い」先輩や同期は、大学院進学というモラトリアムへと逃げた。彼らは就職戦線から逃れたい一心で「院」へと進学した。そこまでの経済力が親にない私は、指を咥えて見ていた。しかしそんな彼らもその後の人生は決して安泰ではなく、ポスドク問題で苦しむ姿を目の当たりにすることになる。
私は結局、東京の零細出版社でアルバイトする道を選んだ。そこで私は生き馬の目を抜く社会の洗礼を、身をもって体験するのだった。
私が勤めた出版社は、アルバイトでも社員並みに働かされるブラック企業だった。平日は朝から深夜まで会社に拘束され、土日もどちらかは仕事で埋まった。それで手取りは、13万ほど。生活に困窮した私は、髪の手入れはカットモデルで済まし、友人との呑み会なども極力断るなどの涙ぐましい努力をしていたはずだ。思い出してみれば、祖父が亡くなった時も帰省の交通費をねん出できず、親に泣きついた気がする。
しかし辛かったのは、低賃金だけではない。「ロスジェネあるある」なのだが、上司のパワハラがもれなく待ち受けていた。職場には、いつも所かまわず誰かを怒鳴り散らす上司がいる。私は自分がその標的になるのではないかという恐怖感に支配され、ビクビクして怯えていた。朝から深夜まで仕事に忙殺されると、次第に頭がまともに働かなくなる。
そんな過酷な労働環境による過労がミスを呼び、上司の雷が落ちる。その繰り返しだった。冷静に今考えてみると、企業側に大いに問題があるのだけれど、当時はひたすら自らを責めていたと思う。
心身ともに追いつめられた私は、激務とパワハラのコンボに耐えかねて、半年ほどで会社を退社。その後ハローワークにも幾度となく通ったが、社会で味わった挫折感は深く、いざ応募となると立ちすくんでしまう。私は、社会不適合者のダメ人間なんだ――。そんな思いが片時も離れず、自己嫌悪で死にたくなった。
「運」に左右されるロスジェネたちは時代に翻弄され傷を負っていた
そんな私が今日まで生きてこられたのは、ちょっとした運命のいたずらだ。会社勤めに絶望した私は、ある日どこかで「ライター募集」の広告を見つけた。風俗嬢やキャバクラ嬢が読むホスト雑誌の求人だった。私は軽い気持ちでそれに応募し、女性編集者と知り合った。彼女は私と同い年で、同世代という気楽さもあったのか、次々に仕事を振ってくれた。記事を読むのは水商売の若い女性たちなので、同世代の私の感覚は重宝され、その雑誌のメインライターとなった。
夜の世界の取材は、根気と体力がいる。ホストの誕生日などイベント取材では、深夜に何時間も出待ちをしなければならない。風俗店の取材では、客と嬢がイタす場面に遭遇することもある。しかしそれも、私には何ら苦ではなかった。それは一般社会の方が、何十倍も生きづらかったからだ。パワハラもセクハラも年功序列もない。金と欲望だけが正義の世界――。私はそこに居場所を見つけ、それを足掛かりにフリーのライターとなった。
もし夜の世界と出会っていなかったら、どうなっていただろう。実家に戻って、ひきこもって、8050問題の当事者になっていたか、思いつめて命を絶っていたかもしれない。だから今も夜の世界には感謝している。しかし、何度も繰り返すが私は単に運が良かっただけだ。
あれから、15年以上の月日が流れた。同時代を生きたロスジェネ女性たちの現在を取材してはどうか――、某ウェブメディアの編集者から私に白羽の矢が立ったのは、コロナ禍前、政府がロスジェネ対策に重い腰を上げ始めたあたりだった。同世代の編集者に喫茶店に呼び出された私は熱いロスジェネへの問題意識を聞かされた。
「就職氷河期世代」はバブル崩壊後、雇用環境が特に厳しい時期に就職活動を行った世代で、希望する職に就くことができず、現在も不安定な仕事に就いている人が多いこと。その中でも女性は今ほど男女平等や働き方改革、セクハラ対策の恩恵も受けていなかったこと――。
編集者の理路整然としたロスジェネ分析を聞きながら、わかったことがある。それは、私自身が時代に翻弄され、「傷」を受けたロスジェネの一人だということだ。しかしその渦中に身を置いていると、そんな自身を振り返る余裕もなく、生きのびるのに精いっぱいだったことに気づく。それはもしかしたら、多くのロスジェネも同じではないか。
私は改めて過酷な同時代を生きた無数のロスジェネたちに、思い巡らせてみた。ロスジェネ論を分析する人たちはいるが、個々人に迫った記事は少ない。ロスジェネ世代が人生をどう生きてきたのか、世に問うことに意味があるかもしれない。そんな思いから連載が始まった。
「正社員に戻るのが、怖い」 名門大出身40代女性が語る「闇堕ち」
私は取材を通じて、正社員に戻れず今も非正規で働くロスジェネ世代の声を聴いた。その中で漏れ出てきたのは、「正社員に戻るのが、怖い――」という言葉だ。たとえ正社員としての道が開かれていたとしても、かつてのトラウマがよぎってしまう。それはまさに私が新卒のアルバイトで、自信喪失したときの感情とそっくりだった。取材で感じたのは、ロスジェネたちのこうした目に見えない「傷」の深さだ。小さな傷でもそれが積み重なれば、いつしか再起不能なほどの致命傷となる。
2020年の春頃――、私はAさん(当時46歳、女性)と会った。Aさんも「傷」に苦しみ、のたうち回った過去があるロスジェネの一人だ。
「ロスジェネであることを病んで、30代で一度闇落ちしたんですよ」
Aさんは喫茶店で私と会うなり、そう切り出した。その話しぶりから頭の回転が速く、理知的な女性であることがすぐにわかった。Aさんは名門女子大出身で、理系の学部を卒業。事務員として30代半ばまで非正規で働き、現在は正社員として勤めている。
聞くと就活以前から、挫折は始まっていた。当時会社説明会に参加するには、就職情報誌に付属のはがきで応募しなければならなかった。しかしその情報誌が届くのは男子学生のみで、女子学生には届かないのだ。そのためAさんは手書きで一枚一枚はがきを書いて企業に「お願い」したという。今でこそダイバーシティが声高に叫ばれるが、20年ほど前は、何とも理不尽極まりない男尊女卑がまかり通っていたのだ。私はロスジェネ女性を取り巻く環境の過酷さに、唖然とさせられてしまう。
数は少なかったが、女子大に求人票を出す企業もあった。しかし、ここでも壁にぶつかる。女子大に求人票があることを知った共学の女子学生が、張り出された求人をむしっていくのだ。就職戦線に敗れたAさんは、知人の紹介で事務職のバイトをすることになる。最低賃金で手取りは10万円ほどだが、プータローよりはましだと言い聞かせた。実家暮らしで、なんとか衣食住は確保していた。
「交通事故に遭ったと思って諦めて」 パワハラ退職で社会不信は強くなり
不穏な経済情勢を感じ取ってか、同級生は卒業から5年以内にバタバタと結婚。Aさんも親の勧めである男性とお見合いもした。相手はメガバンクに勤めるエリートで、ニューヨーク勤務だった頃の話をしてくれた。海外勤務は面白くないとうそぶき、聞けば日本人とばかりつるんでいたという。私と違ってチャンスに恵まれて、世界を股にかけているのに、何てもったいないんだろう――。男性との違いすぎる環境に、「この人とは無理」と思い、結婚は諦めた。
Aさんはある時、転職先で上司のパワハラに遭い、無理やり会社を辞めさせられた。しかし職安に行くと自己都合退職になっていた。「交通事故に遭ったと思って諦めてください」とぞんざいな職員に、社会に対する不信は日に日に強くなっていくばかりだった。
Aさんがもっともつらかったのは、会社員の同級生が送ってくる無邪気な近況報告だ。
『今日は、会社の新人研修が大変だよ』『今、同期と飲んでるよ』。それは次第に、『社内結婚して、子供が産まれました』と変化していく。同級生たちは、着実に人生のライフステージという階段を上っている。自分だけは当たり前の社会人像から外れたのだ――。そんな思いはAさんを深く傷つけた。
「ロスジェネ問題が難しいのは、みんながみんな苦労したわけじゃないところだと思うんです。今も勝ち組ロスジェネ男性とは話が合わない。ロスジェネでも俺たち頑張ってるからすごいと言う人もいる。でもそれはあなたの実力以外のところもあるよねと思う。一歩間違えば自分もそうなっていたかもしれないという想像力がない。勝ち組と負け組がいて、世代の中でも色分けされている。人によってケースバイケースで、そこには深い分断がある」
Aさんの言葉に、深く頷かされる私がいた。確かに就職戦線に勝利して、安定的な企業に就職したロスジェネたちは、経済的恩恵やキャリアを当たり前のように手にしている。その一方で貯金もできずに結婚を諦めたり、非正規でギリギリの生活を送っていたり、ひきこもりになった人もいる。Aさんの言う通りその運命の分かれ道は、投げられたコインがたまたま表か、裏かという偶然性に過ぎないと。それならば私たちは、自分が生きたかもしれない他者の人生に、もっと自覚的に耳を澄ますべきではないだろうか。
「もう手放してもいいかもしれない」 ロスジェネに翻弄された女性が行き着いたのは
Aさんは30代後半、ロスジェネであることのジレンマから心を病み、ついに休職を余儀なくされた。休職中、Aさんは近所の図書館によく通っていた。図書館の片隅には雑誌コーナーがありバリキャリ女性向けの雑誌が並んでいる。ふと一冊を手に取ってページをめくると、一週間のお洋服コーディネート企画が目に入った。スーツを着こなし会社でイキイキと働くその姿が、輝いて見えた。
「私、それを見てこれまでの人生で何が一番悔しかったんだろうと、思ったんです。本当は、こうなりたかった。だけど、そうなれなかったことが苦しかったんだなと気がついたんです」
Aさんの心境を思うと、私も胸が苦しくなる。目の前にいるAさんはどこから見ても知的なオーラの漂う、優秀な女性だからだ。少し時代が違えば、Aさんは雑誌のモデルのような服を身にまとい、才能を生かして大活躍していたに違いない。それを思うと悔しくていたたまれなくなくなる。しかしAさんはそんな私に対して、意外な言葉を続けるのだった。
だけどもうそんな感情も、手放してもいいかもしれない――、と。
46歳独身。今後会社で給料が上がる見込みはない。今はメルカリで古着を見るのがささやかな幸せ。年下で役職が上になった後輩もできた。今は後輩の出世を「おめでとう」と言える。最後に私は、Aさんにもし男性だったら? と問いかけた。男性であれば、理系なので氷河期でも正社員として引きはあったはずだと、Aさんは淡々と答えてくれた。
そんなAさんの答えに、私は複雑な思いを抱いていた。目の前のこの聡明な女性は、ここに至るまでどれだけの葛藤を抱え、数え切れないほどの何かを諦めてきたのだろうか。果たしてそれは本来、彼女が諦めなければいけないものだったのか、と。
そんなAさんの人生をまとめたweb記事のタイトルは「早すぎたリケジョ」。これは担当編集者がつけたのだが、ロスジェネに翻弄された理系女性の悲劇を、端的に表していた。