「掃除」で社会と繋がる 孤独を防ぐのは物理的な交流だけではない

 

 サノさんは、掃除のために、毎日天気予報や風力とにらめっこしている。台風や雨が来るとわかると、前倒しで作業する。かつての設計の知識を生かして公園を図面に起こし、清掃マニュアルを作り、年間の清掃計画を立てる。雪の予報が出れば、地面が凍結する深夜から雪かきを始める。そんな生活が続いて、早5年になる。
「公園の掃除って、基本的に下を向いてやるじゃない。人と視線を合わせなくていいんだよね。掃除を始めるのは人が少ない早朝だしね。それがひきこもりの俺に合ってる。ほら、公園って人のためにあるものでしょ。だから人が安心して歩いているのを見ると、俺はそれだけでいいの。その人とは会ったこともないけれど、どこかでその人と自分が繋がっているってことだと思うから」
 何気なく発したサノさんの言葉に、ハッとさせられる。サノさんが大切にしているのは、公園の景観だけではない。その先に広がる人との「繋がり」なのだ、と。早朝から下を向いて行う公園の掃除は、ともすると人と没交渉の作業に思われるかもしれない。しかしサノさんにとって、それは「程よい距離」で社会と繋がっていることでもある。
 孤独死の取材では、社会と繋がれず孤立した結果、凄惨な最期を遂げる人々をつぶさに見てきた。亡くなった現場からは、私やかつてのサノさんと同じく、生きづらさを感じることが多かった。人間は社会的生物だから孤独になると、心身が蝕まれる。だからその解決策として、いやがおうでも人との「繋がり」を持つべきという結論に陥りがちだ。
 しかし、人間にとって最も大切なのは物理的な交流だけではなく、誰かと「繋がっている」という実感なのかもしれない。サノさんのように、何かを媒介にして人と繋がる方法は無限にある。サノさんの生き方には、生きづらさを抱える人がどう社会と関わっていったらいいか、大きなヒントが隠されている気がする。

 

「ひきこもりの進化形」をかたるおじさん 誰かを支えるためにつくったのは…

 

 掃除をきっかけに、サノさんを取り巻く人の輪もどんどん広がっていった。ひきこもりの当事者などと交流が始まり、月に一回自宅で、カレーとコーヒーをふるまうことにしたのだ。その日は、ひきこもりや公園関係者など色々な人たちがやってきて、大いに盛り上がるのだという。サノさんはいつからか自然に笑えるようにもなった。
「今は、意識的に家に人が来るようにしているの。みんなは食べ物があれば家に来るじゃん(笑)。俺はひきこもりだから、自分は外には出かけたくないのよ。だけど、家に人が来るのはいいんだよね。おうちが大好きだからさ。カレーは社会貢献じゃないけど、家にいても作れるからいいよね。ほら、俺はひきこもりの進化系だからさ。ガハハ」
「ひきこもりの進化系って、なんだか新しい言葉ですね」
 ちゃぶ台を囲んで、私たちも自然と笑みがこぼれる。紆余曲折あったが、サノさんは「茶の間」という往年の夢をようやく叶えることができたのだ。
 サノさんの公園談義はまだ続く。掃除をしているとたまに、あなたはお金をもらってないですよね、と驚かれるのだそうだ。普通の社会人にとってサノさんの行動は怪訝に映るに違いない。確かに一般常識からすると、誰が好き好んでただ働きなんて、と思うのだろう。そう指摘するとサノさんは笑いながら、いやいやと首を振った。
「俺は、逆にお金が介在しないから自由にやれるんだよね。世の中の仕事からリタイアして、やっと初めて自分の仕事ができるようになったと思えるの。それは食うための仕事では決して見えてこなかった、もっと本質的な仕事なの。掃除、そしてカレーとコーヒー。自分の生き方としてそれをやろうって、決めたんだよね。お金はもらってないけど、それは自分のライフワークで社会的な責任だと思っている。自分の役割は近所や公園を掃除したり、カレーを用意するだけで、表舞台に出るのは苦手なの。だけど誰かの下支えにはなっているかな。いわば世間にとっての一役だな。自分のやりたいことと、他人から求められることが一致すると嬉しいよね」
 サノさんはそう言って目を細めた。だけど、なんとなく私はサノさんの気持ちがわかる気がした。サノさんはきっと世間一般の尺度とは別のレンズで、社会というものを見つめている。彼にとっての仕事とは経済原理の外にあって、自分と社会や人との関わりの中でこそ初めて生まれるものなのだ。

 

社会の理想を考える 「優しさ」が生きやすさのヒント

 

 私は、ふと、想像してみる。もしサノさんが急にいなくなっても、公園はあの場所にあり続けるだろう。公園の風景はさほど変わらないかもしれない。しかし、公園は少しだけ優しさを失ってしまうだろう。足の不自由な人は階段で葉っぱに足を取られて階段で転んでしまうかもしれないし、木道には竹が押し寄せて、歩行者は交互に行き交えずに窮屈になるかもしれない。きっと修復されないまま放置された無数の綻びが全体の印象をも変えてしまうことだろう。
 私は思う。社会とは本来、人と人とがそんなふうに「優しさ」を持ち寄ることで繋がることこそが、理想なのではないか、と。私がサノさんの生き方に惹かれてやまないのは、こうした人々の「優しさ」がところどころに溢れた社会になれば、それが多くの人にとって、生きやすい世の中になるのではないかという直感があったからなのだろう。
 そんなことをあれこれ考えていると、サノさんの本棚にある一冊の本に目が留まった。野草について書かれた本だった。サノさんはその内容を解説してくれた。
「ひきこもりが始まった頃にさ、野草に興味が湧いてこの本を手に入れたのよ。公園に生えている野草には、全部名前があってさ。それぞれに生存戦略があるわけ。人間も一緒だよ。だから今こうして生きているんだよね。それって、すごいことなんだよ。人生は、確かに悲惨なことが色々あるよね。だけど、その一つひとつの選択が今の自分に繋がっているってこと、まずはそれを認めてあげて欲しいよね。だって今、生きているんだから」
 サノさんの言葉に、涙腺が緩みそうになる。人生がうまくいかない時、人は自分自身を激しく責めてしまいがちだ。さらに世間や家族が向かい風となり、その人を苦しめるかもしれない。だけど考えてみれば、サノさんがいうように、生きとし生けるものは誰もがそれぞれ生存戦略をもって生きている。その場に立ちすくみ、身を縮めながらもがいていたとしても、懸命に自らを守るためにそうしているのだ。少なくとも、ひきこもり時代の私はそうだったし、今もそれを引きずっている。

 

 

人生のどん底をあじわったから辿り着いた答えとは

 

 生きづらさと長年向き合ってきたサノさんは、人生のどん底を何度も体験してきた。だからこそ今日まで「生存」してきた自分をまず肯定してあげてほしい、という。私たちは今の自分にもっと優しくあっていいのだ、と。サノさんはそれをそれまで見向きもしなかった足元の野草たちから学んだ。
 話に夢中になっていると、窓の外がすっかり暗くなっていた。そろそろお暇する時間が近づいている。私が席を立つと、サノさんはいつものバス停まで送ってくれた。
 バスに揺られながら、私はサノさんに教えてもらった小さなキチジョウソウに思い巡らせていた。あの野草も広大な公園の一部で、大地に細い根を張り巡らして生きている。気になってキチジョウソウについて調べてみると、花言葉は「吉事」「祝福」「よろこび」で、縁起の良い草であることがわかった。面白いのは名前の由来だった。吉事があると開花するという伝説から名付けられ、観音草という神々しい別称もあることだった。
 考えてみれば、キチジョウソウは、まるでサノさんのようだ。日陰で目立たずに咲きながら、公園に集うすべての人々に幸あれと願う――。私もいつかサノさんのような人になれるだろうか。サノさんのいう意味での仕事を持ち、「優しさ」を持ち寄れるだろうか。帰りのバスの中で少しまどろみながら、ずっとそんなことを考えていた。

 

(第21回へつづく)