友達付き合いが「めんどくさい」世代が抱く孤独への不安とは

 

 しかし一方で、私はそんな時代に対して、少しもやっとしたものを抱えてもいる。そういう人間関係のあり方に、どことなく、生きづらさを感じているからだろうか。そうしたキラキラしたA面は、ドロドロしたB面と隣り合わせなのではないか。薄皮一枚で隔てられているだけなのではないか。
 私がそれを直感したのは、孤独死などの取材を通じて、現役世代や若者を含む多くの世代で社会的孤立が深刻化していることを知ったのも大きい。実は、孤独死は高齢者だけでなく現役世代にも多く起こっている。多くの人がひとそれぞれに「個」や消費者として自足する一方で、孤独感を抱え、孤立し助けを求められない人も増えているのだ。
「菅野さん、これ見てくださいよ」
 コロナ禍で久々に再会した彼はLINE見守りサービスを展開している。LINE見守りとは、単身者向けの見守りサービスのことである。利用者が設定した間隔で、LINEに安否確認のメッセージが自動送信される。タップすれば、通常は安否確認は終了。しかし一定期間タップされない場合、彼自身が利用者に電話して安否を確認する。それでも連絡がつかない場合、事前に本人が登録した近親者に連絡するという仕組みとなっている。
 ある男性は、喫茶店で会うなり、開口一番若者たちの孤立が危ぶまれる状況を知って欲しいと話した。男性の名前は、紺野功さん。紺野さんを一言で表すと、おせっかいおばさんならぬ、おせっかいおじさんだ。私たちは孤独死の取材で知り合い、時たまお茶を飲む仲になった。心優しいオジサンである紺野さんだが、東京の下町に住んでいて、弟を孤独死で亡くしている。それからというもの孤独死を少しでも無くそうと、ボランティアでLINEを通じた見守り活動を行っている。

 

「孤独死しても頼れる人がいません」若者たちの孤独感

 

 そんな紺野さんが、頭を抱えている。彼はある紙の束を私に差し出した。
 若者たちを対象にLINE見守りの利用者に利用動機のアンケートを取ったところ、紺野さんの元に寄せられたのは、あまりに悲痛なメッセージだったという。
「孤独死しても、頼れる人がいません」「自分から連絡が途絶えてもおそらく誰も死んだとは思わないし、死んだと思っても、わざわざ来るような人はおそらくいない。住所を知っている友人もいない。いつ死んでも大丈夫という安心感が欲しかった」「このライン見守りの通知が届くことだけが、心の安定剤です」「天涯孤独です」……。
 紺野さんが差し出した紙には、悲鳴のような若者たちの言葉が綴られている。紺野さんは若者たちにまん延する孤独に、明らかに困惑していた。これだけ孤独感を抱えた若者がいる社会はやっぱり、おかしいですよ。なんとかしないと。目の前の紺野さんはそうつぶやき、戸惑いを隠せない様子だ。私もその書類の束を見て、思わず肩を落としてしまった。社会のB面を、ふと垣間見てしまった気がしたからだ。
 孤独感を抱え、苦しんでいる若者がこれだけいるということ。そして、何よりそんな孤独をさらけ出せる唯一の相手が友だちでも親でもなく、紺野さんという顔も知らないオジサンだという驚愕の事実――。それは令和という時代の暗いB面を如実に物語っている気がする。以前民間のシンクタンクの調査で知ったのだが、孤立度が最も高いのが実は高齢者ではなく、若年世代である。それはまさに、紺野さんに寄せられた若者たちの叫びと一致するものがある。

 

 

なぜ私たちは孤独なのか 友人関係の「新しい型」とは

 

 では、なぜ、私たちは孤独でこんなにも生きづらいのか、一つの答えをくれたのが、早稲田大学の石田光規教授だ。石田先生は、日本における孤立孤独の研究のスペシャリストで、孤独死の取材やらイベントやらで何かとお世話になっている。
 その石田先生の『友人の社会史』という本が、衝撃的だった。本書によると、かつて友人関係は、お互い自己を開示しながら深めていくものだった。しかし近年、そこに極力本音を見せず、その場の空気を共有する「新しい型」が加わってきた。そうして、友だちの関係も徐々に変わっていったという。
 2003年をピークに激変したことがある。それは、若者たちの間で友人に悩み事や心配事を相談する人が減り、母親に相談する人が増えはじめたことだ。最新の調査によるとついに近年、その数は母親が友人を超えた。つまり若者たちにとって、友人は自己開示をしたり、相談できる相手ではなくなったのだ。
 スポーツ報道においても変化は現れた。選手同士の友情物語は定番だが、高校野球の記事を例にとってみると、2000年以降友情にフォーカスしたものが急増していることがわかった。興味深いのがその物語の中身だ。石田先生流に解説すると、それは「無菌化された友情の物語」だという。つまりそれらの物語には、妬みや諦め、愚痴といった人間関係のいわば暗くドロドロした部分がすっぽりと取り除かれたものが多いのが特徴的だった。
 2000年頃から人々は憧れ(幻想)としての友情物語に魅了され、消費するようになった。現実の人間関係が不安定となり、苦しくなっていったからだろう。それは、私たちにひたひたと忍び寄る「孤独や孤立」の足音に他ならない。

 

生きづらいのは「人それぞれ」が生む矛盾のせい?

 

 なるほど、と思う。本音で人と人とがぶつかりあい、その中で友情を築いていく友人関係は、もうない。その一方で私たちはアツい友人関係を内心では、渇望している。ただし、それは人間関係の痛みを伴わないご都合主義な「」付きで、というわけだ。
 この指摘には、思わずドキリとさせられるものがある。私自身ピュアな友情映画が大好きで、ネトフリなどで好んで観る。そうして一人部屋で、ティッシュを片手におよよと涙することが増えた。一方で現実に目を向けるとどうだろう。リアルな友人関係で本音をぶつけることは、以前に比べてガクンと減った気がする。現実問題、友だち付き合いにおいて、なるべく穏便に波風立てない方向へと舵を切っている。だからこの分析は、痛いところを突かれた感じがする。
 その石田先生の新刊が、今年発売された『「人それぞれ」がさみしい』である。今の時代を表したタイトルだな、と感心する。石田先生は若者たちが多用する「人それぞれでいいよね」という言葉に注目する。私も「人それぞれ」という言葉を友人たちとの間で、いつしか多用するようになっていた。
 しかしやっぱり「人それぞれ」は寂しくて、心の許せる誰かが欲しいと私たちは感じている。生きづらさの根源は、この二つの矛盾する感情の間で私たちが揺れ動いているからかもしれない。
 人間関係は時として傷ついたり、傷つけたりすることもつきものだ。本書は、その狭間に置かれた私たちの「生きづらさ」を浮き彫りにする一方で、ドラマや映画のように「無菌」のまま人間関係のいいとこ取りは決してできないという「ちょっと痛いけど、本質的」な真実を突きつける。それは、リアルな人間関係から目を背けがちな私の心に、キリリと刺さるものでもあった。近づきたいけど、傷つきたくない。まさにヤマアラシのジレンマ。それにしても私も含めて人間は矛盾だらけの生き物だな、と思う。だから、愛おしいのだけれど。

 

「沼」に静かに沈んでいく――圧倒的に孤独死率の高い性別は男性

 

 考えてみれば推し活、ソロ活、ソロ飯、ソロキャンプ――「おひとり様」であることを消費者として歓迎してくれるカルチャーは、首を揃えて「こっちへおいで」と囁いている。確かにコンテンツにハマっている間は色々なことを忘れられる。令和になっておひとり様消費の内容はより多岐にわたり、それを歓迎する動きも加速しているように感じる。
 しかし物理的に一人で生活ができるということと、一人でも楽しんで生きていけることは、表面上似ているように見えるが全然違う。もしこれらの消費活動を単に寂しさを埋め合わせるためにやっていたとしたら、いつまでも空腹を満たせないまま膨大なコンテンツを追い求め続けてしまいそうだ。キラキラした「推し」の先には「沼」という落とし穴が広がっていて、その「沼」は底なしに深く漆黒に包まれているのではないだろうか。
 現に女性用風俗の世界をテーマにした私の連載では、「沼落ち」の記事が公開から時間が経ってもアクセスランキングの上位に入っている。きっと「沼る」ことに思い当たる人が多いから、ずるずると読まれ続けているに違いない。私がインタビューした女性たちは、「沼」にハマって心身ともに病み、金銭面でもボロボロになった自身の経験や、知り合いの末路についてとめどなく喋った。彼女たちは、本当は寂しさを埋めてくれる心が通じ合う唯一無二の誰かを求めていた。だが、それは容易に手に入らない。そんな女性たちの苦悩に触れていると、いつも心がヒリヒリして辛かった。
 女たちが「沼」の中で溺れるなら、逆に男たちは静かに沈んでいくといえるかもしれない。私は孤独死という現象をもう7年以上にわたって取材しているが、遺体が長期間見つからない「孤独死」に至るのは圧倒的に男性が多く、発見期間も女性の倍ほどかかる。そうして悲しいことに前述した通り、現役世代も多い。

 

狭い水槽に「それぞれ」孤独な日本人たち

 

 令和という時代、孤独、孤立と生きづらさは、切っても切り離せなくなっている。この時代、ちょっぴりみんなそれぞれが寂しくて、孤独――。喩えるなら一億人の日本人が「それぞれ」に狭い水槽に入れられて、溺れかけた魚のようにアップアップしているみたいだ。それはZ世代だけではない。私も同じなのだ。私自身が平均的でありふれた、孤独な日本人だからなのだろう。ネットが普及し、便利で快適な世の中となった今、私たちは一人でも楽ちんだ。コンビニもAmazonもウーバーイーツもあるし、究極的には人とほとんどコミュニケーションを取らなくても生きられてしまう。そして、膨大なコンテンツはそんな私たちの細切れになった孤独な時間を溶かし、寂しさを一瞬紛らわせてくれる。
 私たちは、たとえバーチャルな存在でもその対象とつながることを渇望し、あるいはお金を払ってでもレスポンスを得たいと思い、自分のことをわかって欲しいと願わずにはいられない。仮にそれが幻想であったとしても。
 私は今日もまた画面の「遠い世界のあなた」の日常に触れるのだろう。
 誰かのルーティン動画は、スマホさえあれば数秒でたどり着ける。あなたは日本のどこかの布団で、目が覚めたようだ。朝のまどろみの中、見ず知らずのあなたの生活に触れる。カーテンを開けて朝日を浴び、コーヒーを淹れ、食パンで適当に朝食を済ませ、歯を磨いてドアを出ていく、顔のないあなた。いいかげんなところも、ずぼらなところも、私と似ている気がする。しかし画面の向こうのあなたは、するりと私の手を離れていく。あなたはドアの向こうに消え、別の誰かの日常が始まる。私自身もまた、みんなと同じように酸素不足に陥りながら小さな水槽でだらだらしている。
 でも、と思う。そろそろこのぬるま湯の水槽から出る時かもしれない。そうだ、長らく連絡を取っていなかったあの友人に、久々LINEをして、お茶でも誘ってみよう。私はスマホの画面のYouTubeを閉じると、メッセージを打ち始めた。

 

(第19回へつづく)