YouTubeで見る誰かの日常がホッとできるコンテンツに

 

 テレビを「捨て活」してから、YouTubeを見ることが多くなった。いや、それ以前からテレビは地上波以外のネットフリックスやアマゾンプライムビデオを見るだけのモニターと化していたのだけれど。
 YouTubeでついつい見てしまうのは、一般の人々がアップしている“ルーティン”と呼ばれる動画で、それぞれの日常のいつもの風景を切り取った映像のこと。中でも20代のZ世代のルーティン動画は、よく見るコンテンツだ。同世代の動画はあまり見ない。30代以降になると結婚で家族が増えたり、子どものしつけなどに追われたりして家事や育児でバタバタと忙しそうだ。
 その反面、Z世代は、一人暮らしを気ままにおう歌している様子をアップしていることが多い。ずぼらな私は、ちょっと適当なくらいの生活をさらけ出す彼らにこそ親近感を抱きやすく、気楽に見れてホッと一息つけるコンテンツなのだ。
 例えば、モーニングルーティンは、たいてい寝起きのシーンから始まる。朝のひと時、日本のどこかのワンルームに住む会社員の女の子が、ベージュ色のふわふわの布団の中に埋もれている。栗色のロングヘアだけが見え、顔は映らない。ものぐさなキャラクターを売りにしているその子は、スマホの目覚ましがなってもすぐには起きない。うつ伏せに寝っ転がったまま、5分が経過してしまう。しばらくしてもぞもぞと動き出し、布団からようやく顔を出すと、寝ぐせでぼさぼさの髪のまま顔を洗う。それから、ドラム式洗濯機を回し、どこのスーパーにでも売っていそうな安いクロワッサンを口にして、インスタントコーヒーで流し込む。私と同じだ、と思わず笑みがこぼれる。寝起きから出社までのわずかな時間が、そこには克明に映し出されている。
 よく考えてみれば、他人の寝起きを見るのは、不思議な感じがする。私はいつしかこんなルーティン動画から目が離せなくなっていた。少し前のこと、民放やNHKのテレビ番組をもう何年も見ていないことに気付き、「捨て活」をする中で大型テレビを思い切って処分したのだった。それもあって今はこうした何の変哲もない「他人の日常」を覗き見る時間がやたらと長くなっている。
 慌ただしい朝の風景と違って、ナイトルーティンでは、ものぐさなあの子が帰宅後、真っ暗な室内のドアを開けるところから始まる。仕事着から、ゆるっとしたルームウェアに着替えて、レトルトカレーをチンする。疲れた様子の彼女は、少しでも健康的なモノを口にしたいらしく、キッチンに立ち、冷蔵庫の中にあったありあわせの野菜でサラダだけを辛うじて作って、すきっ腹を満たす。そうそう、仕事帰りでぐったりした日は食事も作る気しないよね。でも、健康のためにサラダぐらいはなんとか、こしらえたいよね。わかるわ、と心の中でエールを送る。彼女は、そんな簡素な食事を済ますと、ソファーにごろんと寝そべり、ゲームとYouTubeの徘徊に明け暮れる。次第にうつらうつらしてきて、部屋の電気がフッと消えて、動画は終わる。
 こういったモーニングルーティンやナイトルーティン動画は、YouTubeの人気コンテンツであり、日々量産されている。ルーティンで検索すると、まず出てくるのは、「中学生」、「高校生」、「主婦」など属性の検索候補キーワードだ。中には「社畜」なんてものもある。それだけ人々が自分の属性に近い人や、他者の日常を見てみたいという欲求を持っているということなのだろう。私自身、誰かの日常をただ眺める行為にそこはかとない安心感とぬくもりを覚えてしまっているのだ。

 

キラキラしている芸能人より「匿名」のYoutuberに憧れる時代

 

 ルーティン動画とともに最近目を離せないのは、「ゆるミニマリスト」と呼ばれるZ世代のインスタグラマーたちである。捨て活をするようになって、彼女たちの日常が気になるようになった。ゆるミニマリストとは、「ゆるい」+「ミニマリスト」を組み合わせた造語で、何よりも「ゆるい」というのが、ミソだ。
 彼女たちはスリコ(300円アイテム中心の雑貨屋スリーコインズの略)や、1万円以下の安くて可愛い家具など、誰にでも手に入れられる価格のモノたちで、部屋を彩る。そしてミニマリストという名の通り、大量にモノを持つことはない。持ち服は全20着なんていう、ゆるミニマリストもいる。そんな彼女たちの日常に惹かれ、スマホの向こう側を見つめている。
 決して価格は高くはないが、厳選されたモノを少量持ち「お気に入り」だけに囲まれること。それが彼女たちが絶大な支持を集める理由だ。彼女たちは多くが会社勤めでワンルームに住む、普通の会社員である。大きな部屋への引っ越しを目標とすることもなく、むしろ6畳や5.5畳の小さな部屋をいかに自分色に染めるかを売りにした発信をしている。
 よくある茶色のフローリングに、大理石調(大理石ではなく、調というのがポイントだ)のフロアマットを敷き詰め、真っ白のラウンドテーブルを窓側に置き、グレーやスケルトンの椅子を並べる。生活感の出るテレビははなから置かず、その代わりに数万円のプロジェクターで白壁に映像を映す。白のベッドを並べ、スリコのドライフラワーを飾れば、くすんだ狭いフローリングの部屋は、シンデレラのような大変身を遂げる。どこにでもあるワンルームがお姫様の部屋に様変わりするのだ。
 そんな実生活の変化を発信するZ世代の会社員インスタグラマーは、顔も出さないことが多い。むしろ無名性や匿名性にこそ、意味があるのだろう。彼女たちは、自分の欠点やコンプレックスを隠さない。最近流行りの骨格診断などを駆使して、自らの体型の悩みを打ち明け、それをカバーしてくれる洋服を次々にアップする。また生理の期間を楽にする、「吸水ショーツ」などのフェムテック製品の紹介もする。彼女たちが紹介した商品は、瞬く間に売れる。
 つまり同世代の若者たちの憧れの的になっているのだ。彼女らは身近なアイドルのような存在だ。その証に質問を募ると、ファンからの羨望のメッセージが次々に寄せられる。「〇〇ちゃん、休日はどうやって過ごしていますか」「テーブルは、どこで買いましたか」「〇〇ちゃん、可愛いです! 〇〇ちゃんみたいになりたいです」「〇〇ちゃんは、家計簿はつけていますか? 貯金はどうやっていますか」「〇〇ちゃんは、私の憧れです!」「コスメは何を使っていますか。最近、〇〇ちゃんが買ったアウターを教えてください!」……。

 

 

Z世代は見栄の宝石よりも等身大のまま輝ける生活がほしい?

 

 私は前々から芸能人などの遠い存在ではなく、いわゆる「市井の人」に興味があった。私が働く雑誌の世界では、必然的に芸能人や文化人など、華やかさを持った人が持てはやされてきた。しかし令和に入ってからは、「離婚」「不倫」「ロスジェネ」などのテーマの取材が増え、街を行く普通の人にインタビューすることが多くなった。身近な誰かの身に起こった切実な「何か」を、人々が求め始めたからだろう。
 昭和、平成、令和という時代を生きてきて、私はその「市井の人」たちの変化を肌感覚で感じている。それは、時代の先端を行くZ世代で特に顕著だ。私が彼女たちと同じくらいの年頃だった時には、援助交際やギャル文化が花盛りだった。「援交」はしばしば小説のテーマにもなり、その金字塔である村上龍『ラブ&ポップ』では、12万円のトパーズの指輪を手にしなければならないという思いに駆られ、身体を売る女子高生が描かれている。それは当時の若者たちの同時代性に富んだ作品で、まさに時代の「旬」を現していたと思う。
 だが、それは今や過去の遺物に過ぎない。Z世代を動かしているのは、トパーズのような高級品に代表される高望みではない。彼らが切実に求めるのは、等身大の私を輝かせくれる近しい「あの子」の生活なのだ。個人が、SNS等で発信できるようにもなった環境の変化も大きい。等身大で多くを求めず、まったりと自足するZ世代――。ブランド物や高級品といった見栄や虚飾に踊らされてきた私からすると、彼らのその姿勢は、純粋に羨ましいと思ってしまう。だから私はきっと彼らが日々発信する「日々の小さな幸せ」から、目が離せないのだろう。
 もう一つ、私が今のZ世代に感じるのは、「推し」カルチャーの台頭だ。Z世代に限った話ではないが、「推し」がここまで浸透した時代は、これまでなかったのではないか。
 いきつけのZ世代の美容師の女性と「推し活」の話で盛り上がったことがある。
 彼女は、推しの2.5次元アイドルの誕生日に、ある儀式をするという。デパ地下でホールケーキを買い、部屋をガーランドやポンポンで飾りつけ、たった一人で推しの誕生日を祝うのだ。そうして、時計が12時を指すと、「ハッピーバースデー!」と叫ぶ――。もちろん最後にケーキを食べるのは彼女自身だ。ケーキを口に含んだ瞬間、ほわーんとして、とっても幸せな気持ちになるのだと、私の髪をドライヤーで乾かしながら、彼女は無邪気に笑った。
 なにそれ、すごく楽しそう! と私も思わず相槌を打つ。実は私もかつては極度のゲームオタクで、熱烈な「推し」キャラがいた。部屋中にキャラのポスターを張りまくっていたこともある。
 しかし彼女よりも一回り、いや二回り以上の私にはまだどこかそんな「儀式」に入り込むことに、若干の気恥ずかしさがある。部屋のドアを開ける度に親や弟に、白い目で見られていたという苦い記憶が過るからだ。だけどZ世代の彼女は、他人がどう思うか全く気にならないようだ。いや、そもそも周囲を気にするどころか、むしろそんな「推し活」の様子をインスタに堂々とアップしている。私は彼女との大きな価値観のギャップを感じつつ、心の中では、羨ましくもあった。それを指摘すると、「上には上がいるんです」と彼女は不敵な笑みを浮かべた。

 

本音を話せるのは「友達」ではない……リアルから遠ざかるコミュニケーション

 

「私なんてまだまだですよ。インスタで見たんですけど、推しの誕生日に高級ホテルを予約するツワモノだっているんですから。私もいつかやってみたいんですけどね、あはは」
「推し」の記念日にスーツケースに推しグッズを詰め込み、ちょっとだけリッチなホテルのソファーに「推し」のグッズを並べて、そこで一人、優雅なパーティーをする。その様子をインスタにアップ。それは彼女が夢見る極上の非日常の贅沢なのだ。私はその様子を想像してずいぶんと、時代が大きく変わったことを実感させられたのだった。
「推し」カルチャーが台頭したのは、かつての世代に比べて課金文化への抵抗がないことが大きいだろう。大好きなYoutuberに投げ銭し、「推し」に課金する。
「推し」を「推し」と観に行っちゃった!――そう話すのは、取材で知り合ったZ世代のA子さんだ。「レンタル彼氏」の「推し」と一緒に「推し」のライブを見に行き、その帰りに居酒屋に呑みに行く。今や本音を語れるのは「友達」ではない。友達は何かと気を遣う相手であり、「お金」で時間を買うレンタル彼氏こそが、悩みの相談相手であり愚痴をさらけ出せる相手なのだ。
 A子さんは単純明快だった。「だって友達って、気を遣うじゃない」――。彼女のあっさりとした歯に衣着せぬ物言いに、「確かにそういう面もあるよね」と頷かされる私がいた。言われてみれば彼女の言う通り友人関係は、ほとほと「疲れる」部分も多い。私自身、友人関係では相手との距離感でいつも悩まされることが多かった。だったら最初から、期待しなければいい。そういった意味で、彼女の言い分は、至極合理的だとすら感じる。
 取材で知り合ったZ世代のB美さんには少しだけ驚かされた。B実さんは最近、「乙女ゲーム」にハマっている。「乙女ゲーム」とは、主人公が女性の恋愛ゲームだ。その中ではゲーム上の架空のキャラクターが、スマホにメッセージを送ってくるのだという。「あっ、〇〇君からメッセージが届いてる!」。B美さんは取材中、ピカピカと光る推しの〇〇君からのスマホの通知が気になるようで、心ここにあらずだった。彼女にとってやり取りをしている相手がリアルな人間なのか、そうではないのか、もはやその差はないし、どうでもいい事なのだ。
 個人がひとそれぞれ、思い思いに小さな幸せを見つけ、自足する――。リアルな人間関係には過度に期待しないし、深くは立ち入らない。それが「市井の人」を長年見つめ続けて感じた令和という時代の輪郭だ。私自身ももれなくその渦の中にいて、日々Youtubeやインスタなどのコンテンツを享受している。

 

(第18回へつづく)