野球を避けていた元選手 自分を「赦す」きっかけになったのは…
それを考えると、「ただ働くこと」は高橋さんの中で、いわば野球からの「逃避行」であったのかもしれない。がむしゃらに働くことで、かつて野球選手だった過去から逃れようともがいていたのだ。野球から目を背けていた高橋さんだったが、ふとした瞬間、思い出したくない「野球」に触れることもあった。不動産の営業マンは、査定のため顧客の家に入る機会が頻繁にある。すると、部屋の中に何気なく置かれていたバットや、プロ野球の応援グッズが思わず目に入ってしまう。高橋さんは、野球に関するモノを見るだけで、胸が苦しくてたまらなくなった。
そんな高橋さんだが、大きな転機となった出来事があった。それは、プロ引退後10年が経った頃だ。プロ野球選手時代の話を渋る高橋さんに、前述の不動産会社社長はこう言ったのだ。
「高橋。お前、野球を辞めてから、ずっと野球が嫌いなままなんだろ」
ギクリとした。その言葉があまりにも図星だったからだ。社長は言葉を続けた。
「誰でも終わりがいつかはくるんだよ。だけどお前のこれからの人生はプロ時代に比べて長い。ずっと続くんだ。逆にそれを売りにしたらみんな胸襟開いてくれるよ。物事の考え方を変えたほうがいい」
そうか、と思った。社長の言葉はどこまでも温かく、高橋さんに響いた。
「社長の言葉で、そうか、もう過去の自分を赦してもいいんだって思えた。その頃からプロ野球選手だった自分は凄かったのかもしれないと思うようになりました。プロ野球に行くのは相当難しくて、3年続けるのも大変なんですよ。それを4年やった自分は頑張ったなと初めて思えるようになったんです」
自分を赦すとは、「あの時打てなかった自分」、「取れなかった自分」を認め、そのまま受け止めることでもある。言葉で言うのは簡単だが、それはとてつもなく大変なことだったのではないか。そう感じた。
なぜあの時踏ん張れなかったのか 後悔が人をがんじがらめにする
私が高橋さんの話で印象的だったのは、「なぜ、あの時打てなかったのか」という後悔の言葉だ。野球という競技は、個人個人への選手の責任が重大なスポーツだとつくづく感じる。ほんの一瞬の判断、反射神経がチームの明暗を分ける。正確に言うと野球に限らず全てのスポーツ、いや、人の人生そのものが、重大な分岐点の積み重ねであるとすれば、なおさらそうなのかもしれない。人生でなぜ、あの選択をしなかったのか、ああすれば良かったという後悔は、誰もが一度は経験しているはずだ。
多くの人にとって人生は判断を間違えたり、負けたりすることの連続だろう。私は仕事柄「孤独死の現場」という極北から社会を見つめてきたが、取材の過程で自分自身を「赦せず」苦しんできた人と遭遇することが多かった。なぜあの時、頑張れなかったのか、なぜあの時、もっと踏ん張れなかったのか、なぜ、なぜ――。そんな後悔は、人をがんじがらめにして離さない。それは、時として、立ち上がれないほどのボディブローとなって人を打ちのめす。しかし、だからこそ、誰もが勝ち続ける人生を送れるわけではない、と言いたい。そんな思いに支配された時に、どう自分と向き合うかの方が、重要なのだと思う。私は高橋さんの「その後の人生」から、自分を「赦す」ことの大切さを教えてもらった気がするのだ。
それから、高橋さんはガラリと変わった。社長のアドバイスを受けて、名刺に「元プロ野球選手」と入れることにした。変化はすぐに起きたという。初対面の顧客と野球話で盛り上がることがぐっと増え、仕事の契約も増えていった。振り返らないと決めて封印した、プロとしての過去。野球に対する割り切れなさ、激しい愛憎。大好きだったのに、いつしか大嫌いになっていた野球――。しかし、過去の自分を「赦す」ことによって、そんな野球への思いが、氷解していったのだ。
勝ち負けじゃない野球が今は楽しい 元プロ野球選手が語る「その後の人生」
高橋さんは今の仕事に、プロ時代に共通点を感じるようになったという。
―――最近、草野球を始めたんです。
そう言いながらにっこりと笑ってくれた。それは、最初に会った時に見せたあの笑顔だ。
「お客さんから頼まれて野球を教えたり、少年野球を教えに行ったりしてるんですよ。週末になると毎週、草野球をやってますね。今まで勝負の野球だけの人生だったけど、初めて勝負じゃない野球を始めてみることにしたんです。昔は打てなかったり、勝てないときは悔しさがあったけど、今は試合で失敗しても飲みに行ってみんなと笑いあえる。全く野球をやったことない人もちょっと教えると、みるみる間に上達するのも見ていて嬉しい。勝ち負けじゃない野球、それが今は、楽しいんです」
もちろん僕も昔みたいには、打てないんですけどね――。
今グラウンドに立つと、その視線の先にあるのは、野球が好きだという純粋な気持ちだ。そこに宿るのは、野球への愛である。その思いにプロもアマも関係ない。高橋さんは「その後の人生」を生きていくうちに、そんな境地にたどり着いたのだと思う。私は、かつての自分を赦し再び野球と向き合っている高橋さんに、「本物の強さ」を垣間見た気がした。
高橋さんと別れた帰り道、私の脳裏をよぎったのは、同級生の高校球児たちだった。遠い記憶の彼方――。甲子園を目指して彼らは来る日も来る日も、バットを握り続けていた。剛速球の先輩のいるチームは心強く、私たちは甲子園も夢じゃないと思っていた。もし甲子園に進んだら、学校一丸となってバスを出して応援する、顧問の教師からはそんなプランまで飛び出してたっけ。誰もが奇跡が起こるかも、起こって欲しいと願っていたと思う。しかし奇跡は起こらなかった。結局、先輩はその日送球が悪く、地区予選であえなく敗退した。翌年も、予選で敗退。負けが決まったその日、教室で目を真っ赤に充血させた球児たちを、私たちは出迎えた。彼らは泣いていた。女子も先生も、みんな、みんな、泣いていた。
彼らも夏の甲子園が終わると、就活や進学の準備、はたまた女子との恋愛やら(!)で多忙となり、グラウンドに立つことはめっきり少なくなった。その後、私と高校球児のクラスメイトとは、散り散りになった。進学した同級生は少なく、地元の電気屋を継いだ者、郵便局に就職した者、自衛隊に入隊した者等々、それぞれ社会人としての道を歩み始めたのだ。
甲子園を夢見た同郷の先輩は「打撃投手」になっていた
高校を卒業してしばらく経った日のことだ。その日、私は友達の家に泊まり、朝方駅に向かっていた。すると、見覚えのある後ろ姿と出会った。それは野球部のクラスメイトだった。彼と会うのは、卒業式以来である。
「あっ、○○くん!」
振り返りざま、朝帰りのけだるい表情の彼を見て、あの時の私は驚いた記憶がある。そこにかつての彼の姿は、微塵もなかった。いつも丸坊主だった野球少年は、髪をうっすら茶色に染めていた。夜通し遊んでいたのか何をしていたかはわからない。ただ私は彼を見ながら、少し寂しい気持ちになった気がする。
あぁ青春が終わったのだ、と。私たちは夢を見たのだと思う。甲子園という夢を。その先にある、プロ野球という夢を。
あれから、20年以上が経った。時が経つのは恐ろしいほどに早い。思えば高校卒業後に地元を離れた私は、淡い青春を振り返る暇すらないほど、日常のあれこれに忙殺されていた。
そういえば、あのプロ入りした同郷の先輩は今、何をしているのだろう。高橋さんと会った後、そんな好奇心に駆られた私は、スマホに苗字と当時入団した球団名を打ち込んでみた。するとすぐに彼のウィキペディアにたどり着いた。情報によると先輩もその後、紆余曲折あったようである。プロとして活躍後、最後は高橋さんと同じく、ある球団から戦力外通告を受けていた。そして、今は打者の打撃練習のための球を投げる「打撃投手」として、別の球団に残留しているとわかった。形は違えど、先輩は芝生の上に今も立ち続けていたのだ。先輩の「その後」に、少し胸が熱くなった。
私は、無性に球場に行きたくなった。球場を見てみたい。いつかの高橋さんが立っていたヤクルトの本拠地、そして高校球児たちが死ぬほど憧れたプロの舞台に。
勝っても負けても人生は続く 球場で感じた「希望」や「再生」
そうして、私は今、神宮球場にいる。
ナイター照明で別世界のように輝く神宮球場――村上選手が放った56号ホームランを、私はこの目で見た。それは、ゾッとするほど美しい奇跡の一本だった。観客席を埋め尽くす数万の群衆は、村上選手の快挙に興奮のあまり席を立ち、座る気配はない。神宮球場のボルテージは最高潮まで高まっている。超満員の観客の熱気に包まれながら、私の頭に浮かぶのは、人生で出会った野球に魅せられた人々の姿だった。
甲子園を前に涙を飲み、社会人となった高校球児たち。プロ引退後、苦しみの末、かつての自分を赦し、草野球を心の底から楽しんでいる高橋さん。球団に残って今もグラウンドに立ち続けている高校の先輩。
スタジアムの喧騒の中、私の中をそれぞれの人生が走馬灯のように駆け巡っていく。舞台に立てなかった者、舞台に立った者、そこから去った者。野球に人生の一瞬を捧げ、時には野球に絶望し、野球に夢を見た選手たち。当たり前だが、「勝っても」「負けても」、人生は続いていく。このグラウンドに賭けた選手たちの先には、尊いほどの一人ひとりの営みがある。彼らの人生が、野球という「点」で交錯する。私もこの数万人のうちの観客の小さな「点」として今、確かにこの渦の中にいる。
球場からの帰り道、スマホのニュースに目をやると、村上選手の56号ホームランでトピックスはもちきりだった。日本人最多本塁打、三冠王の見出しに王貞治のコメントとともに華々しく報じられている。
私は、また野球場に行くだろう。様々な夢と希望、時には絶望、そして再生がある球場という舞台に――。私はいつしか野球というスポーツの虜になっていた。