野球に興味のなかった私が球場で感じた「夢」

 

 華やかな表舞台から去ることを余儀なくされた後、人はどう生きるのだろうか――。
 十月初旬の夕刻、私は外苑にある神宮球場にいた。横浜ベイスターズ対ヤクルトスワローズの今季最終戦。神宮球場に来たのは、先々週に続いて二回目だ。野球のルールすらあいまいな私だが、なぜだか吸い寄せられるように、立て続けに球場に足を運んでいた。
 こぢんまりとした椅子が並び、他人同士が肩を寄せ合う神宮球場は昭和の残り香が感じられる場所だ。ソーシャルディスタンスが当たり前となったコロナ禍の殺伐さとは打って変わって、そのほのぼのとした雰囲気にはどこかホッとさせられるものがあった。巨大なナイター照明が緑色の芝生を煌々と照らし、心地よい秋風がふわりと頬をかすめる。観客席の誰もが試合を前に、浮足立っていた。
 球場には、熱々のフライドポテトに焼きそば、たこ焼き、山盛りのウインナーなど屋台のような“球場メシ”がずらりと並び、人々が長蛇の列を作っている。巨大な旗がはためき、応援の音頭が鳴り響く。どこまでも明るい都市の祝祭。夏祭りの活気に満ちた球場は、人々でごった返していた。
 前列に座った会社帰りと思しきサラリーマンの男性が、何かをバッグから取り出す。それは小さく折り畳まれた選手の名前入りのレプリカユニフォームだった。男性は、おもむろにワイシャツの上からそれを被ると、席に回ってきた売り子さんからビールを買った。そうしてほろ酔い加減で、真剣なまなざしをマウンドに送っている。
 そうか、と思う。ここで人は会社員という日常の顔を脱ぎ捨て、別人に生まれ変わるのだ。少しだけ、身軽な何かに。見回すとサラリーマンだけではなく、若いカップルやOL、中学生ぐらいの子どもを連れた夫婦など様々な人たちが、チームのタオルを首に巻いたり、メガホンを叩いたりと、それぞれが思い思いにチームを応援している。星空が輝く楕円形状の球場は、まるで空からやってきた大きな宇宙船のようにも思える。宇宙船は、きっとどこかに私たちを誘ってくれるのだ。人々は日常のしがらみから離れ、スポットライトを一身に浴びる選手たちに、一瞬の夢を見る――。
 この試合の見どころは、何と言ってもヤクルトの4番、村上宗隆選手だ。村上選手は、今月13日の巨人戦で今シーズン55号のホームランを打っている。日本人選手としては王貞治(当時巨人)の55本を抜く、日本選手の歴代最多ホームラン記録を期待されていた。

 

去り行く選手のドラマが私を野球に興味を持たせた

 

 そうして、七回裏、村上選手の打席。
「村神様、ホームランをお願いします!」、「村神様、頼みますよ!」
 村神様とは、「村上」と「神様」が合わさった村上選手の尊称らしい。前列に座った大学生と思しき男性二人組は、そう口にすると、奇跡の瞬間を動画でスマホに収めようと、画面を覗いている。ズームしたスマホの画面の向こうには、もちろん数万人の視線を一身に集める村上選手の姿があった。
 男性たちはマウンドに立つ「村神様」に懸命に祈りを捧げていた。果たして、奇跡は起こるのか。
 私は、確かにその「神」の降臨を目にした。投手の初球をとらえた村上選手は、バットを一振りした。球は夜空の星と並ぶほどの高さに跳ね上がり、大歓声に沸く球場の観客席へ見事な軌道を描きながら、吸い込まれていった。「おおおおおおお!」客席がこれまでにないほどざわめく。それは奇跡の56号ホームランだった。「村神様」は確かに奇跡を起こしたのだ。誰もが興奮のあまり椅子から立ち上がり、見ず知らずの相手とハイタッチを交わしている。大画面に映し出される村上選手の姿――。そこには、眩しいほどに輝く、男の雄姿があった。
 栄光を手にする選手もいれば、グラウンドを後にする選手もいる。この日の神宮球場では、村上選手の歴史的瞬間だけでなく、そんな「去りゆく選手」のドラマも目撃することとなった。今季限りで現役引退する選手三人の引退試合とセレモニーが行われたのだ。会場から温かな拍手に包まれる中、選手たちには花束が贈られ、ファンや家族への感謝の言葉を口にして、長年親しんだグラウンドに、晴れやかな笑顔で別れを告げた。それは息を飲むほどに感動的な瞬間でもあった。
 野球オンチの私が今この球場にいる理由――。それはまさに彼らのようにマウンドを去った元プロ野球選手との出会いがきっかけだった。彼らの人生に触れたことで、私は野球というスポーツに興味を持ったのだ。

 

プロ野球選手の「その後の人生」 不動産業界に転職した元選手

 

 数年前のある日、私は、長年友人関係にある不動産会社の社長(男性・50代)と、昼食を共にしていた。彼は、かねてからプロ野球の大ファンだった。社長との会話で度々話題に上がっていたのが、プロ野球選手の「その後の人生」である。
「プロ野球選手ってさ、プロ引退後、うまく社会を生きられない奴がけっこういるんだよ。だから野球を辞めても、ちゃんと社会で頑張ってるやつもいるんだってこと、ほんとは知って欲しいんだよね」
 それが社長の口癖だった。社長によると、プロ引退後、一般の社会人となり幸せな人生を送る選手もいる一方で、社会に馴染めず行方知れずになった選手、薬物に走った選手など、知られざる「その後の人生」があるらしい。その中にはセカンドキャリアとして、不動産の営業を選んだ選手もいる。人情味溢れる社長は、そんな彼らの仕事を手助けし、プロ引退後のセカンドキャリアを陰ながらバックアップしていた。野球を愛する社長だからこそ、彼らの様々な苦労には思うところがあり、支援しているのだという。
 私もそんな社長の話を何度も聞いているうちに、彼らの「その後の人生」に興味を持つようになった。確かにメディアがこぞって伝えるのは、華々しい活躍で大衆を熱狂させる選手だ。イチローの活躍、大谷選手の快挙、しかし、その裏では毎年グラウンドから去る無数の選手たちがいるのだ。彼らはプロ野球という舞台から降り、私たちと同じく普通の会社員や事業者の一人として生きている。彼らのその後の人生はどんなものなのだろう。元プロ野球選手に会ってみたいという好奇心に駆られた。それを社長に伝えると、とんとん拍子でセッティングが進んでいった。その一人が、元東京ヤクルトスワローズ捕手の高橋敏郎さんである。
 高橋さんは27歳の時、球団から戦力外通告を突きつけられた。その後は、不動産業界に転職し、めきめきと頭角を現し、今年独立したばかりだという。実は、私が元プロ野球選手という人種に会うのは、これまでの人生で初めてである。社長の紹介の下、私の目の前に現れた高橋さんは、スーツに身を包んでいて、一見やり手の営業マン風だ。しかしよく目をやると、ガッチリとした肩は、捕手としての名残を感じさせる。

 

野球に全てだったからこそ引退後は無力感、自己嫌悪に襲われ――

 

 私は、内心緊張していた。プロ時代の高橋さんについて下調べはしていたが、私の本業はスポーツライターではない。恥ずかしながら、高橋さんの現役時代も知らない。野球のテレビ中継も見ないし、知識も乏しい。野球といって思い出すのは、遠い記憶の彼方、来る日も来る日も練習に勤しんでいた野球部のクラスメイトたちだ。とはいえ私の高校は無名校だったし、彼らが甲子園の土を踏むことは無かったのだけれど。それも20年以上昔のことだ。しかし、その杞憂はすぐに吹き飛ばされた。
「私、実は野球のルールもうろ覚えで、ちょっと怪しいくらいなんですよ。野球についてわからないことがあるかもしれませんが、その時は教えてくださいね」
「もちろん、大丈夫ですよ。全然気にしないで」
 高橋さんは、そう言うとフランクに笑いかけてくれたのだ。それはすごく優しい笑顔だった。何かと世知辛い世の中、私は久しぶりにこんな笑顔を見た。ウィキペディアの情報によると、高橋さんは子どもや女性へのファンサービスも積極的だったと書いてある。この笑顔が、昔もファンを虜にしたのだろうか。ふと、そんなことを思った。高橋さんは、きっとピュアでとても優しい人だ。きっと色々な過去を乗り越えて、ここにいるのではないか。
 そう直感した私は、もっともっと高橋さんのことが知りたくなった。スポットライトを浴びていたプロ時代だけでなく、「その後の人生」を――。
 高橋さんは、山形県生まれ。文字通り、野球に人生の全てを賭けてきた。
「小中高大と、野球で上がってきた。勉強もせずに野球さえできていれば、進学できた。だから、初めて他人に野球を辞めなさいと言われて、頭が真っ白になった。自分から野球を奪われたら何も残らないと絶望したんです」
 高橋さんの赤裸々な告白は続く。プロ引退後に襲われた、とてつもない無力感。自分の才能の無さを呪い、自分自身を呪う日々、行き場のない自己嫌悪。それは高橋さんをとことんまで追い詰め、どん底まで苦しめた。もう二度と野球なんかやらない、床に突っ伏して泣きじゃくり、自分を呪ったという。

 

引退後は貯金もなく…しかし「戦力外通告」では地元の山形には戻れない

 

 プロ野球選手というと、一攫千金、大金を稼ぎ出すというイメージを抱いていたが、実際はそうではないらしい。高橋さんによると、契約金は母校への寄付と税金などに消え、貯金はほとんど残らなかった。プロ引退後、すっからかんとなった高橋さんは、当時付き合っていた彼女の家に転がり込んだ。賃貸住宅を借りるお金にも困るほどだったからだ。だからといって、地元に帰るという選択肢は無かった。
「山形だとプロ野球選手になっただけで、周囲から凄く期待されるんですよ。球団をクビになったときに、そんな地元の期待も全部裏切ってしまったと感じたんです。だから当時は実家にも帰りたくなかった。あ、こいつ球団をクビになった情けない奴だ、よく帰ってこれたな、とみんなに見られる気がした。被害妄想なんですけど」
 あぁ、わかる、と思う。私も高橋さんと同じく、地方出身者だ。だから地元の重圧は、少しだけ理解できるつもりだ。私の住んでいた宮崎は、恐ろしいほどに娯楽が無い。そんな中で、唯一の娯楽はテレビである。テレビの常連はいつだって野球中継なのだ。だからこそ地元の野球にかける思いは並々ならぬものがあった。
 私の高校は無名校だったが、なぜか一個上の学年にドラフト入りが囁かれる野球部の先輩がいた。そのため私たちは、授業そっちのけで甲子園の地区予選の応援に駆り出された。高校卒業後にプロ入りした先輩は、地元の英雄のように祭り上げられたっけ。校舎の壁面に、彼の名前入りの垂れ幕がデカデカと掛かっていたのを鮮明に覚えている。
 高橋さんもきっと同じだったのではないだろうか。まさに故郷に錦、わが町からプロ野球選手、だ。だから戦力外通告されて、地元に帰ることがいかに周囲を落胆させるか、その苦悩は想像するに余りあるものがある。

 

 

褒められた「肩」も通勤の満員電車は役に立たず奮闘の毎日

 

 地元に帰る選択肢を閉ざされた高橋さんは、とにかく働こうと自分を奮い立たせ、都内の不動産会社の営業職を見つけた。サラリーマンになって初めての洗礼は、早朝の満員電車だ。電車のドアの窓ガラスに張りついて動けないサラリーマンたち――。彼らを見ていると、「自分も同じか、落ちぶれたな」と思った。押し合いへし合いの電車の中で高橋さんは、小さく身を縮めた。
 ピッチャーの女房役と言われる捕手とは、いわばチームの守護神だ。捕手は第二の監督、と言われるほどに重要なポジションである。ランナーの盗塁を阻止し、守備の要として役割を果たす。捕手の大事な要素が、肩の強さだ。高橋さんはプロ時代、コーチから「肩が強い」といつも褒められていた。しかしギュウギュウの満員電車の中では、そんな自慢の肩も、ただ大きくて邪魔なだけだと気づいた。満員電車でヘトヘトになりながら、いざ会社に出社してみると、次は己のプライドとの戦いだった。
「初めて出社した日、自分のデスクが用意されていたんですが、パソコンの電源のつけ方がわからなかったんです。どこのボタンを押したらいいか。でも、周りはあいつ元プロ野球選手だという目で見ている。だからこっちも変なプライドが出てきて、パソコンすら使えないということを知られたくない。キョロキョロするとカッコ悪いから、ずっと偉そうにパソコンをにらんで、腕を組んでたんですよ。そしたら、周りが気づいて電源を押してくれたんです」
 高橋さんの奮闘は続いた。電話の取り方や、名刺交換の仕方もわからない。しかし、次第にこれではマズいと感じて、年下の同僚や事務職の人に尋ねるようになった。懸命に、社会人として基本のマナーを身に着ける日々――。自宅に帰ると、電話対応の仕方を何度も繰り返して、練習する。社会人としてのマナーをビッシリと書いたノートを何度も見返し、頭に叩き込んだ。
 無数の失敗を繰り返しながらも、高橋さんはめげなかった。努力を重ねながら、営業成績を上げ、不動産会社を三年ごとに転職。住宅の売買賃貸仲介、投資家向けの収益物件の売買、オフィスの移転業務などに携わり、業界を一回りして、キャリアを積んでいった。仕事はそれなりに順調だったが、「野球」で負った心の傷は、くすぶり続けたままだった。体格の良さから顧客に「何かスポーツやってたんですか?」と聞かれることもあった。しかしその度に、「何もやってません」とあたまを振った。消しゴムがあれば消し去りたい過去、それが当時の高橋さんにとっての野球だったからだ。

 

(第16回へつづく)