事故物件現場で何度も聞いた「なんであんなになるまで溜めちゃったんだろうね」
私は自分が買い漁った大量のモノと向き合いながら、これまで訪れた数々の孤独死の現場を思い出していた。
孤独死の取材をするようになったのは、六年ほど前に遡る。友人のカメラマンの誘いを受けて、事故物件のトークイベントに参加したことがきっかけだった。イベントを通じて、事故物件公示サイトの大島てるさんと知り合った。そして、あれよあれよという間に話が進み、事故物件の本を出すことになった。当時の私は、事故物件というと、幽霊が出るのではないかというおどろおどろしいイメージしか抱いていなかった。
しかし取材を重ねるうちに、事故物件のほとんどは孤独死によるものという事実を知った。そして、孤独死した人の家は共通点がある。やたらモノが多いか、ごみ屋敷なのだ。私はどこか自分の現状と彼らにリンクするものを感じていた。
日本社会を覆う孤独死の現状を追いたくなり、以降、それをテーマに何冊か本を書いた。数え切れないほどの現場に足を運び、たくさんのごみ屋敷に住む住人や故人、遺族に出会った。
現場で最もよく聞く一言がある。
「なんであんなになるまで溜めちゃったんだろうね」。
特殊清掃整理業者や不動産屋は、いつもその部屋の惨状に半ば呆れ返りながら、そう言って肩を落とす。しかしその言葉を聞く度に、私はなぜだか、自分の胸がえぐられるような気がした。
それは、まさに私自身にはね返ってくる言葉だったからかもしれない。
日本が抱える「社会的孤立」の問題と孤独死の関係
関東某所の団地の一室で見たのは、東日本大震災の爪痕だ。この部屋の住人は、自ら積み上げたごみに転倒して、命を落とした。ごみに溢れた廊下を匍匐前進でゆっくりと進むと、ダイニングと思しき部屋にたどり着いた。真ん中には、巨大な食器棚が二つ斜めに傾いている。不自然で、異様な光景だった。業者によると、その食器棚は東日本大震災で倒れたと思って間違いないらしい。震災から十年が経っても、この家は時が止まったままだった。
この部屋の住人は危険な状態にもかかわらず、誰にも助けを借りることができなかった。だから、食器棚が倒れたままだったのだ。私はその事実に衝撃を受けた。
食器棚の隙間にはごみがどこかしこも溢れ、天井に届きそうなほどに積み重なっている。玄関の黒い染みは、悲しくもこの部屋の住人があとわずかのところで行き倒れてしまったことを現していた。ドアから漏れ出た臭いで、住民の死は知るところとなった。
遺族はいたが、決してこの部屋に近づこうとしなかった。だからその後、不衛生な状態の部屋を巡って近隣住民と激しいトラブルになったらしい。
日本が抱える社会的孤立の問題が孤独死に深く関係していると知ったのは、取材を始めてからしばらくしてからだった。もう半世紀以上前のことだが、かつて存在した村落共同体は崩壊した後、日本はイケイケドンドンの高度経済成長期へと突入し、都市化の波が押し寄せた。会社が失われた共同体の代わりになったが、経済が落ち込むとそれも息詰まる運命にあった。その間、家電など便利なモノがどの家庭にも普及し、日本は一見豊かになったかのように思える。けれども、モノで社会が満たされるようになると、逆に人々は孤立し、孤独感を抱えて生きるようになる。増え続ける孤独死は、そんな日本社会を如実に表していた。
困窮しても洋服を買わずにいられない…生活保護でごみ屋敷に住む80代女性
取材の過程で、ある80代のおばあさんと知り合った。彼女の住む1Kのアパートは、ごみ屋敷だった。聞くとおばあさんは、貧しい家に生まれて、戦後の混乱期を弟たちのためにひたすら働いてきたという。彼らの学費を稼ぎ、学校に行かせたのもおばあさんだ。そんな彼女にとって、唯一の趣味が服で自らを着飾ることだった。ブティックに行き、色とりどりの洋服たちを身にまとうと、まるで違う自分になれた気がする。そうやって、洋服だけを生きがいに、おばあさんは歳を重ねてきた。
彼女は今、生活保護を受けている。経済的には慎ましく暮らしていかなければ食べていけないはずだ。それなのにあろうことか、毎週ブティックを回り、数万円の服を買っていた。服にほとんどのお金を注ぎ込み、困窮していた。食べ物が無くなると福祉事務所に行き、非常用のクラッカーをもらって食いつなぐという生活をしている。
そんなおばあさんに愛想を尽かせているのか、子どもも寄りつこうとしない。おばあさんの行動は一見、破綻にしているように思える。しかし、私にはどことなく理解できるものがあった。
おばあさんがアパートに招き入れてくれた。部屋は窓まで堆積したゴミで真っ暗で、よく見ると真新しい服とゴミが交互に層を成していた。
カラフルな洋服たちの隙間に、食べかけのお菓子やスーパーの弁当が散乱している。夜は、ゴキブリとネズミの這いまわる音で眠れないのだという。部屋の真ん中に小さな窪みを見つけた。おばあさんは、ここで服をベッド代わりにして丸まって寝ているらしい。私も彼女のように買い集めた服の洪水に身を横たえてみた。そこは思いのほか、ふわふわして心地良かった。
アパートは、福祉事務所が手配した業者によって、度々片づけられている。しかしまた数か月経つと、元通りになる。おばあさんは拾ってきたゴミを集め、わずかばかりの保護費を洋服に充て、再び部屋をゴミと洋服で埋め尽くす。まるでモノで孤独というキャンバスを塗りたくるかのように――。
年間三万人の孤独死――彼らは自分で買い集めたもので命を落とす
私には、おばあさんの気持ちが、手に取るようによくわかった。私たちは似た者同士だった。だからこそ、共通する寂しさを嗅ぎ取って心を通わせることができた。私は、そうやって特殊清掃現場で出会う故人たちに合わせ鏡のような不思議なシンパシーを感じ、取材を続けてきたのだ。
夏の暑さの中、大量のモノと汗だくで向き合いながら、取材で出会った人たち、故人たちが走馬灯のように頭をよぎっていく。私の『捨て活』は、佳境を迎えている。私のモノの歴史と彼らの辿った人生が、交錯する。もしかして彼らは、私に何かを伝えようしているのだろうか。そうだとすれば、それは一体なんなのだろう。
孤独死する人たちの多くは、家にあるモノによって、命を落とす。そもそもモノが多いとつまずいて転倒しやすくなるし、夏場は熱を持ったゴミが熱中症の一因となり命を奪っていく。特に高齢者にとっては、それが命取りとなる。社会から孤立していれば、そんな危機的な状況になっても発見される可能性がぐんと低くなる。
それは自分を守るために身に着けた鎧に、体中を絞め上げられるようなものだ。年間三万人とも言われる孤独死の背景にはそんな残酷とも言える現実がある。
「なんであんなになるまで溜めちゃったんだろうね」
『捨て活』に没頭し、モノと向き合いながら、私はあの言葉を思い出していた。それは私に投げかけられた言葉ではないはずなのに、いつもドキリとして心が痛んだ。そして何かを言い返したくなった。だけど私は口をつぐんでいた。
私にはわかっていたのだと思う。その人が収集したモノたちは、切実に自分の心や身体を守るのに必要なモノだったということを――。
母が箪笥を手放せなかったように、おばあさんが洋服の海の中で寝ていたように、私も切実に「何か」を手放せなかった。それは私にとってお気に入りのモノたちであり、自分を装飾してくれるSNSであった。
私は自分が買い集め、今は用を成さなくなった一つ一つのモノたちと対話し、モノとは何だろうと考え続けた。まるで答えの出ない禅問答で、終わりのないモノローグだった。
家に溢れる要らなくなったモノが語る「呪い」と「欲望」
私は、まだまだ『捨て活』の旅の途中にいる。部屋のあちこちにはモノが溢れている。多すぎる食器、用途不明の洗剤、古びた貰い物のタオル、数年前の試供品のシャンプー、増殖しすぎた大小のタッパー類、大量のアルバム、そして、まだまだ押し入れを占拠してやまない、大量の服、服、服。
モノを処分する中でうっすらとだが、気づいたことがある。
『捨て活』の本質は、究極的にはモノを捨てることではないのだと。モノと自分との関係性を見つめ直すことで、これからモノと自分がどうありたいか、どう生きていきたいかを自分自身に問い直すことなのだ、と。
私は実家を出た時、確かに母のモノからは自由になれたが、肝心の母からは自由になれなかった。母の願いは、母の分身である娘を、専業主婦ではない何者かにすることだった。そうやって、母は私に自己実現という「夢」か、はたまた「呪い」を託した。母の箪笥のように、親にモノの形で一方的な思いを押し付けられることはなかったが、別のものに縛られていた。
モノに囲まれ、SNSでの自己実現に夢中になっていると、まるで母が望んだ「何者か」になれたかのような錯覚を覚える。だけどそれはとてつもない苦行に過ぎず、いつしか心が壊れてしまった。その結果私はいくつかのSNSをやめて、こうして日夜モノと格闘し続けている。
モノには不思議な魔力が宿っていて、人の欲望は果てしなく終わりがない。幸せなのはモノを手に入れた時の一瞬だけで、その後多くのモノは色褪せ、ガラクタと化してしまう。それでも心の満たされなさがある限り、所有欲や渇望感はやまない。それこそが苦しみの元凶でもあった。まるで蛇が自らの尻尾を飲み込むような、自分で自身を骨の髄まで消費し尽くす行為だったように思う。
私はその苦しみの連鎖、そして循環の中から、飛び出したかった。
捨てるたびに自由に 今の私にたくさんのモノはいらない
夏の暑さの中でひたすら、「いる」「いらない」を仕分け、身体を動かし続けた。体中から、滝のような汗が噴き出してとまらない。思えばデスクワークが増え、こうして汗を流すこともめっきり減った気がする。体を動かすって、こんなに気持ち良かったっけ。体を動かすとお腹がすく。そんな当たり前のことが嬉しくて仕方なかった。モノと向き合い手放す旅の過程で、私の心と体はどんどん身軽に、自由になっていく。それは、これまで味わったこともない何物にも代えがたい悦びなのだった。なぜ私はモノを手放すと、こんなに自由になれると感じるのだろう。
そうか。いつもモノは、生きづらい私の代弁者だったのだ。おばあさんは、強制撤去されても服を手放さなかった。それは、彼女にとっての拠り所だったからだ。かつての私も同じだった。
だけど、もう大丈夫。今の私に、たくさんのモノはいらない。私は一つ一つモノと向き合って、「ありがとう、さよなら」を告げる。セールの時に買いすぎた服、数回使ったきりのジューサー、絡み合った使用用途の不明なコード、全く使っていない風呂蓋、横積みされた大量の本、汚れる度に洗濯が億劫なラグマット、なぜか二つある古びたトースター、多すぎる保存容器、そしてサブスク全盛となってからは、ほんんど見なくなった大型テレビ、使わなくなった旧型のノートパソコン――。
リサイクル業者に何度も搬送を頼み、幾度となくフリマサイトで貰い手を探し、粗大ごみの申し込みをした。想像以上に体力も気力もいる怒涛の毎日だった。それでも、そんな日々を送るうちに次第に、私の家からはモノが減っていった。
大きな棚や家電が消えると、全ての窓を開けられることに気がついた。今まではモノによって塞がれ、一部の窓は閉じたままだった。私は窓という窓を開け放ち、8割のモノが消えた部屋のフローリングに寝そべり、空を見上げた。
そよ風が、私のほっぺたをくすぐる。嬉しさがこみ上げてくる。あぁ幸せだ、と感じる。モノが無い幸せを感じたのは、人生で初めてだ。気持ちがいい。
蓄積した「執着の歴史」を手放して最後に残るのは
しかし、この「風」には、心当たりがあった。思えば、遺品整理や特殊清掃の後、私はいつもこの「風」を感じていた。どんなに凄まじいゴミ屋敷でもいつか、元に戻るときがくる。ゴミが取り除かれ、部屋中の窓が開け放たれると、この「風」が右から左へと抜けていく。
風が通るようになると、どんよりとした部屋の空気が、ふわりと嘘みたいに軽くなる。目張りで窓が塞がれ真っ暗だった部屋も、故人の苦しみが詰まった部屋にも、死臭に覆われた部屋も、この「風」はいつか必ず流れる。全てが無に還っていく。ゼロに戻る。「風」は、人を選ばない。誰の部屋にも、この「風」が流れる時がくる。生きとし生けるものを撫でるように包み込む優しい風なのだ。忘れかけていたが、私はこの風が吹く瞬間が、泣きたくなるほど好きだったのだ。
私の部屋にも、今確かに、この「風」が流れている。おばあさんにも味わって欲しかったな。心の中でそうつぶやいた。季節は巡る。全ては変わりゆく。この部屋も、この命も、このモノも、永遠じゃない。
私は、この部屋に住む命を持つ私という存在を何よりも慈しんでいきたい。多くの人にそうであって欲しい、と願う。それが私のたどり着いた答えだ。
部屋にあるどんな小さなモノであっても、その歴史はまさに私の歴史の一部で、じわじわと蓄積していった「執着の歴史」でもある。きっとあの不気味な箪笥は、それを声なき声で私に伝えようとしていたのだ。だからこそ、私は直感的に向き合うことを恐れて、一目散に逃れようとした。心の空虚は決して目に見えない――でも、それはモノという形で、確かに部屋のいたるところに転がっていたように感じる。
モノを手放し、SNSを手放す過程で、多くの執着を手放していることに気付かされた。最後に残ったものこそ、本当に大切にしていきたい、そう思ってやまないのである。