母の箪笥は実家の子供部屋を侵食していた
モノとの関係を見つめる上で、私が最初に思い浮かべるのは、実家の箪笥だ。昼も夜も、私を無言で見下ろし続けた巨大な箪笥――。
あの忌々しい箪笥との付き合いは、私が念願の一人部屋を手に入れた時から始まった。思春期にもなると、友達の多くが親から個室を与えられるようになっていった。近しい友達が次々と一人部屋デビューすると、その子たちの家に放課後、代わる代わる遊びに行くのが日課になっていた。ゲームをしたり、お菓子を食べたり、親の目の届かない一人部屋は、まさに子どもたちの楽園だった。
私もあの子たちと同じように、「一人部屋が欲しい」と母に訴えたのは小学六年生に上がる頃だっただろうか。すると母は、ほぼ物置と化していた二階の六畳一間の和室を明け渡したのだった。その部屋には、私の背より高い檜の大きな箪笥が二つも鎮座していた。確かそれは、祖母が母に持たせた嫁入り道具だったと思う。
私は、この箪笥が大嫌いだった。
箪笥を巡って母には何度も抗議したことがある。
「なんで私の部屋には、こんな大きな箪笥があるの? どけて欲しい」
「これはおばあちゃんにもらった嫁入り道具だから。絶対に動かすわけにはいかないの」
そう言って母は踵を返し、まともに取り合おうとはしなかった。
私は部屋の一角を陣取る黒々とした闇のような箪笥がいつも嫌でしょうがなかった。それでも「一人部屋」が与えられたことは嬉しかったので、しぶしぶ諦めざるを得なかった。
箪笥の存在を忘れるため、その上から当時流行っていたアイドルや芸能人のポスターをペタペタと貼り付けた。母はそんな私の行動に気づいてはいたが、何も言わなかった。
不気味な母の箪笥は祖母から押しつけられた「愛の証」
友達の部屋に遊びに行くと、いつも自分の部屋との違いをまざまざと感じさせられた。ある友達の部屋は七畳ほどだったが、フローリング敷きで白の円形ラグが敷いてあった。窓には、薄ピンク色のフェミニンなカーテンが揺れている。窓際に置かれた勉強机は丁寧に整頓されていて、シングルベッドの枕元には大小さまざまなスヌーピーのぬいぐるみがギューギューに並んでいる。子どもらしさを前面に出したファンシーでかわいらしい彼女の部屋は、私の部屋とは絶望的なほど、何もかもが違っていた。しばらくゲームで遊んでいると、彼女のお母さんがクッキーを焼いて持ってきてくれた。
子どもにとって、自分の部屋は小さなステータスだ。私は、彼女たちと自分の部屋とのあまりのギャップから、いじめられることを恐れ、友達を自分の部屋に呼ぶことができなかった。
私が勉強している時も、漫画を読んでいる時も、あの箪笥は四六時中、私を見下ろしている。大きな箪笥に私はいつも監視されているように感じた。それは、暗い森の中から投げられる生き物の視線に似ていて気味が悪かった。そのせいか、夜中に大規模な地震が起こって、あの箪笥に押しつぶされる悪夢を幾度となく見た。
しかし、私は結局その部屋で箪笥とともに大学受験の勉強をし、高校を卒業するまでの六年間を過ごした。不思議に感じるかもしれないが、その間、あの箪笥が開くことは一度もなかったと記憶している。だから私が貼ったアイドルのポスターも、今もそのままだろう。
箪笥の中身を知りたくて、いつだったか、その中身をこっそり開けたことがある。中に入っていたのは、色とりどりの着物だった。母の着物姿は見たことがなかったので、子供心になぜそんなものを持っているのか不思議だった。
今ならわかる。あの箪笥はきっと母が祖母から無理やりに押しつけられた愛の証なのだ。だから母はそれを手放せなかった。だけど、私は少なくともその着物を着た母を見たことがなかったし、箪笥が開くこともなかった。母は巨大過ぎる箪笥を背負い込み、捨てることもままならず、部屋の片隅に放置していたのだ。本当に母が欲しかったモノ――、今になって思えば、それは箪笥というモノではなくて、両親からの愛だったのだろう。
一人暮らしは機能不全の家族との決別を意味した
専業主婦の母に、自分の部屋はなかった。しかし、だからこそ母はあえて蜘蛛が部屋のあちこちに巣を張るように、自分の痕跡を家中に残していたのかもしれない。「私は、ここにいる。私を見て」と言わんばかりに。そして私に押し付けられたのは、祖母への複雑な思いに満ちた母の記憶が横たわる、陰鬱な部屋だった。そんな家族の在り様は、やはりモノに現れていたと思う。
今思えば私の住んでいた実家は、いつもちぐはぐだった。小学校の教員だった父の六畳ほどの部屋は、どこもかしこも蔵書が積まれていて、要塞のようだった。父親は自室にこもりっきりで、そこで寝起きをし、食事と風呂以外は出てこようとすらしなかった。
父は父で家の中の一角に自らの砦を築いていたのだ。そうやって、私たち家族は同じ屋根の下に暮らしていても、どこかバラバラでおかしかった。いわゆる機能不全家族で、それぞれが孤立し離れていた。私が本当に嫌だったのは、巨大で重々しい箪笥に象徴される、この家やモノに漂う息苦しさだったと思う。だから、一日でも早くそこから逃れたくて、家から出る機会をうかがっていた。
私とモノとの関係は、私が大阪の大学に進学すると、激変した。親元を離れて一人暮らしを始めたことが大きかった。ようやく、あの忌々しい箪笥の視線から解放される日がきたのだ。
大学進学が決まり高校生活の後半になると、これまで以上にアルバイトに精を出した。それは何よりも、一人暮らしをするための資金を貯めるためだ。私は、私の城を作る。母の手垢のついていない、私だけのとっておきのモノに囲まれた部屋を――。そう心に決めていた。
引っ越し先に選んだのは、五畳ほどのアパートだ。ユニットバスで狭かったが、フローリング張りで、家賃が安いのが決め手となった。
一人暮らしの自分の部屋には、母を入れたくなかった。それは、何よりも母の痕跡やモノが入ってくることを拒絶したかったからだ。だから大学の入学式に来ることも、引っ越しの手伝いも頑なに拒んだ。母は不満そうだったが、私の一人暮らし先が遠方ということもあり、しぶしぶ諦めてくれた。
おしゃれな家にしたい! インテリアグッズを買い漁るが欲望は止まらず…
初めての大都会、都市は地方にはない色とりどりなモノで溢れていた。全てのモノが煌びやかに輝いて見えた。私はようやく自由になれたと感じた。この日のために貯めていた高校時代のバイト代の全てをつぎ込んで、新居の家具の購入に奔走した。
ずっとずっと憧れていたデパートの雑貨屋。そこに並ぶ脚のシャープな紫色のテーブルに一目ぼれした。小さな星がちりばめられているシャワーカーテン、ベッドに置くふわふわしたクッション。
電気屋さんで見つけたちょっと変わったスケルトンの電子レンジは高かったけれど、どうしても欲しくなり、奮発した。百均で買ったキッチンツールたち。それはどれも、私自身が選んだものだ。私は、自分の部屋が自分の色に染まっていくことにうっとりしていた。私はこれまで抑圧していた何かを取り戻すかのように、自分の城を築くことに夢中になった。
実家から解放された反動もあり、当時私とモノとの関係は、絶頂期を迎えていたと思う。
社会人になってから、モノへの関心はさらにエスカレートしていく。学生時代と違って社会人となり、自由に使えるお金が増えると、拍車がかかっていった。その購買欲は、まるで何かに追い立てられるかのようだった。
私がハマったのはインテリアだ。当時、一部でブームとなっていた『かもめ食堂』という映画の影響で、北欧雑貨が流行っていた。人気のインテリアブロガーたちは、次々に部屋を北欧風に彩っている。私も負けないようにと、北欧雑貨を買い漁った。100円の雑貨から数万円のソファーまで次から次に流行のもので自らの住空間を埋め尽くした。ブームに乗っているとなぜだか、安心できた。パートナーと暮らすようになっても購買欲は衰えず、私の部屋は、時には北欧家具、時にはナチュラル系のインテリア、時にはモード系で飾り立てられていった。
買っても買っても満足できない 私は何が欲しかったのか
雑貨屋の片隅にある透き通った水槽を見れば胸がときめき、グッピーを泳がせたくなる。しかしすぐに飽きて、いつしか管理はパートナーに任せてしまう。服も同じく、すぐに流行のモノに飛びついた。私は次から次にモノを買い漁り、心の空虚を埋めようとしていたのだと思う。しかし、いくらも買ってもなぜだか安心することはできず、すぐに何か別のものを求めずにはいられなくなった。あの不気味な箪笥に似た心の穴はブラックホールのようにありとあらゆるものを吸引していった。だから買っては捨て、買っては捨てを延々と繰り返した。流行が一段落すると、部屋にはガラクタと化したモノだけが溜まっていく。
そうして今、私は、夏の灼熱の暑さの中、そんなガラクタたちと汗だくで向き合っている。思わず、自分に問いかけてしまう。これだけのモノを手に入れた私は、果たして本当に幸せだったのだろうか、と。
親元を離れ、モノで彩る生活を手に入れて、確かに自由になれたと思っていた。しかし、今となっては、それすらも錯覚だったのかもしれない。
私は、ふと思い出す。6年間私を見下ろし続けていた、あの箪笥を――。母は、あの巨大な箪笥を最後まで手放せなかった。それなら私は、何を手放せなかったのだろう。
あれから二十年、私の部屋は、モノ、モノ、モノで溢れかえっている。
流行の家具に囲まれていた私は、一見自由になった気がする。それでもなお、苦しかったのはなぜなのか。ずっと重荷がへばりついているような感覚なのは、どうしてなのだろうか。まるで迷宮に入り込んだかのように、どんどんわからなくなっていく。