食事中も寝る前もわずかな時間があればSNSに没頭してしまう

 

 朝、私が起きるとまずやるのは、枕元に無造作に置いてあるスマホの電源をポチリ。布団にくるまったまま寝ぼけ眼でダラダラと画面をスクロールし続ける。インスタやTwitterを巡回し、自分が昨晩投稿したFacebookの記事についた「いいね」の数をチェックする。時間があればニュースフィードに現れたニュースサイトへと飛ぶこともある。記事についた数百、時には数千ものコメント欄をながし見していると、30分、一時間がゆうに過ぎている。
 一人で昼食を摂るときにも、SNSが手放せなかった。
 箸を右手、スマホを左手に持ちながら、Twitterの画面を親指で動かし、「ながら食べ」をするのだ。仕事の合間にも、わずかな時間があると今度はパソコンからSNSにアクセスし、見ふけってしまう。
 夜寝る前の時間なんて、無限にSNSに費やせる贅沢な時間だ。ベッドに寝ころび仰向けでスマホを片手に握りしめ、青白くチカチカ光る文字に目を走らせる。そのうちうつらうつらしてきて、寝落ちしそうになる。その瞬間、スマホが私の手を滑り落ち、鉄の塊が顔面を直撃して飛び起きる。スマホが鼻を直撃すると、じんとした痛みが襲ってきて地味に痛い。そうやって、時たま一人でギャッと叫び声を上げることも、私にとってはお決まりの日常だった。
 こうして書き出してみると、私の世界は知らず知らずのうちに、SNSを中心に回っていたのだと、実感させられる。

 

私だけでなく周りもみんなスマホの画面に向き合っていた

 

 そこまで人を惹きつけてやまない、SNSの魅力とはなんだろう。
 キラキラと輝きを放つ有名インフルエンサーの日常を垣間見れる悦びだろうか。はたまた140文字の世界で勃発している小競り合いや炎上というネガティブな要素も、目が離せないスパイスとして、実は重要な要素かもしれない。数百人まで膨れ上がった、会ったことのないフェイスブック上の「お友達」の動向も気になるし、刻一刻と移り変わる、Twitterのトレンドも追っていたい。そして、何よりも自分の投稿についた「いいね」の数によって満たされる承認欲求もある。挙げはじめればキリがない。 
 そんな「魔性」を秘めたSNSの世界は、私にとって全てだった。どっぷりSNS漬けの生活で、誰かと食事しているときもSNSから離れられず、最低でも一時間ごとに画面を見ずにはいられなかった。
 しかし、それは私に限ったことなのだろうか。定食屋でちらりと横目で人々を見ると、一人で食事を楽しむサラリーマンや会社員の女性たちも、みんなスマホの画面をスクロールしているようだ。時にはクスリと笑ったりしかめっ面で画面に向き合ったりもしている。SNSはもはや現代社会になくてはならないインフラとなり、個人差はあれど大なり小なり、人々の生活に浸透したのだろう。
 例えばインスタにハマっている私の友人は、レストランで美味しそうな食事やスイーツがテーブルに届くと左右、真上、そして斜めからと、何度も角度を変えて必死に写真を撮り続ける。
 もちろんそれはいわゆる、「インスタ映え」のためだ。
 届いたばかりのアツアツのハンバーグが少々冷めても、パフェのアイスが溶けかかっても私も撮影に協力するのが当たり前で、仕方ないという諦めがある。だけど私はその瞬間、ふと「寂しさ」のような複雑な感情がよぎることに気づいていた。それは、私たちの営みの一瞬がまるで「宙づり」にされたかのようなちょっとした違和感だ。
 それでも、友人は納得がいく写真を撮り終えると、何事もなかったかのように再び私の話に真剣に耳を澄ませてくれるので、私は見て見ぬふりをする。

 

「いいね」の数に一喜一憂し精神的に疲れるまでに

 

 しかしわが身を振り返ってみると、実は私こそが誰よりもSNS上の「自己演出」の奴隷になっていたかもしれない。自分が執筆した記事の紹介はもちろんのこと、レストランでの食事、遊びに行った観光地、そして取材やインタビューで著名人と会えばその写真をすかさずSNSにアップした。そして記事についた「いいね」の数に、一喜一憂していた。
 SNSには、これまで出会うことがなかった世界中の人と繋がれるという大きなメリットがある。私自身も多くの人と知り合うことができた。それはかけがえのない財産だ。
 その反面、SNS上では常に何かの事件が勃発、炎上し人々が言い争っている。それでも私たちはSNSがあって当たり前の社会を生きているのだから、そんなものだ、そう思っていた。
 そう、これまでは――。
 ある日、私は心がとてつもなく疲れていることに気がついた。なぜこんなにも気分がふさぎ込んでいてしんどいのか。今考えると、それはSNSが影響していることは明らかだった。
「いいね」の数が少ないと、自分自身が否定された気になる。だから次に投稿する記事では、それを取り戻そうと躍起になってしまう。肥大化したSNS上の自己演出、化粧アプリで加工したもはや自分とは言えない虚像の私……それを日々アップデートし、更新し続けなければいけないという強迫観念にいつしか追い詰められていた。
 さらにこの数年間、SNS上で自分の尊敬する人が罵倒されたり、時には傷つけられたりするさまをつぶさに見てきた。リアルで仲の良い友人たちがSNSでは人格が変わったかのように凄まじい罵詈雑言を飛ばしている姿も度々目撃している。それも私にとって、とてもこたえる体験だった。そんな複合的な要因によって蓄積したいわゆるSNS疲れが、ボディーブローのようにじわじわと私を蝕んでいたのだ。

 

 

SNSは私たちを依存させるために存在していた?

 

 食事が喉を通らなくなり、無気力になったのは、数か月前だ。私は同居するパートナーにはしばらくSNSを止めた方がいいと忠告された。食事中もスマホを手放さない私を、ずっといぶかしく思っていたそうだ。矛盾しているようだが自分の苦しみの原因がSNSにあると内心ではわかっていても、画面を見続けるという行為は止められなかった。
 そんな時、ある本と出会った。
 ジャロン・ラニアー氏の『今すぐソーシャルメディアのアカウントを削除すべき10の理由』である。ラニアーは、世界的に有名なコンピューター科学者であり、バーチャルリアリティという言葉を作った“仮想現実(VR)の大家”だ。そんな華々しい経歴だけを読むと、むしろガジェットを推奨していそうにも思えるのだが、近年急速に発展しているソーシャルメディアについて警鐘を鳴らしているのである。
 様々な巨大テック企業がいかにして、アルゴリズムによって世界中の人々をSNSに依存させる仕組みを作り上げたかを綴っている。そしてSNSが人々を荒廃させ、政治を歪め、社会をズタズタに破壊するかということも――。本書によると、FacebookなどSNSの開発に関わった元関係者や経営者たちが、自分たちが作り出したSNSの危険性を認識し、次々と反省の弁を述べているのである。
 ラニアーは「ソーシャルメディアを使っているとき、あなたは報酬と電気ショックの両方を受け取っているようなものだ。
 ソーシャルメディアの利用者のほとんどは、なりすましや理由のわからない拒絶、無視、誹謗中傷のどれかまたはすべて、あるいはもっとひどい経験をしたことがある。アメとムチが揃ってこそ効果を生むように、不愉快なフィードバックも、人を喜ばせるフィードバックと同じぐらい、誰かを依存させ、その行動を操るために有効なのだ」と訴える。
 そして、「シリコンバレーで働く私の知人の子どもの多くはシュタイナー学校に通っていて、そこでは電子機器の使用は禁止されている」のだそうだ。Facebookの元ユーザー拡大担当副社長も、もう何年間もソーシャルネットワークを利用していないという告白している。

 

SNS断ちするために「退会」「休止」 距離をとることから始める

 

 ラニアーは、人々を実験動物のように依存させ、怒りと悲しみを生みだし続けるSNSという装置を研究者の立場からこれでもかとつまびらかにしていく。
 なぜSNSを見ていると、人々はこんなにも苦しくなるのか。それなのに止めることができなくなるのか。一時たりとも心が休まらず、常に不安でザワザワし追い立てられてしまうのか。その依存に至る詳細なメカニズムは本書に譲るが、内容は圧巻で、私自身の苦しみを解き明かしてくれたかのようだった。
 今思うと、私はラニアーの言うSNS依存の典型だったと思う。それはまさに無防備な実験動物がSNSというボタンを押し続け、中毒になっていく姿そのものであった。考えてみれば私は文字を紡ぐ職業であるのにもかかわらず、SNSを見るようになってから仕事の資料以外の本を読むこともガクンと減っていた。
 ラニアーが提示する結論は、極めて明快だ。タイトルにもある通り、『私たちは、今すぐSNSと距離を取るべきだ』ということである。
 しかしそうは言われても、その決断はとてつもない勇気がいるのは、いわずもがなだ。そもそも私だけでなく世界中の多くの人にとって、もはやSNSは公共インフラと化している。
 だからこそ頭ではいかに依存性や害があるとわかっても、いざ自分がSNSを止めるのかと思うと、身がすくんでしまう。SNS中毒の私も例外ではなかった。
 私はその後、色々な本やネットの記事を読み漁り、SNSデトックスや情報断食という言葉に触れた。実際にSNS断ちした人のブログや本には、SNS断ちした多くの人たちは人生が好転したことが書かれていた。私もSNSを止められるかもしれない、と少しずつ考え方が変化していく。
 数日間悩んだ末、結局私はいくつかのSNSを「退会」したり、「休止」したりした。そしてもはやルーティンと化していたニュースフィードの通知もオフにした。なるべく自分をネガティブな感情にさせるような情報からは遠ざかりたいと思ったからだ。

 

禁断症状を経てSNS断ち そこで気づいた「消えない」ものたち

 

 あれほどまでにSNSを止めることに悩んでいたのに、「退会」は一瞬だった。そして、SNSを始めて以降増殖し続けていたFacebookの「数百人の友人」もあっけなく消えた。彼らが本当に友人だったのかすら、もはやわからない。とにかく私の人間関係は一気にLINEやメール、電話で繋がっている数十人というミニマムなものになった。
 いざSNSを止めて、私の心と体に何が起こったか。
 端的に言うと、数日間はまるで地獄だった。SNSを辞めた当初は手持無沙汰になり、常にイライラした感情に襲われ、ソワソワして落ち着かなくなった。
 その次にやってきたのは、いいようもない不安だった。気分が激しく落ち込み、一日中布団の中から出れない日もあった。イライラと不安という感情を、まるでジェットコースターのようにいったりきたりする日々なのだ。
 SNS断ちの禁断症状なのか、ついついいつもの癖でスマホに手が行ってしまう。SNSがないととにかく、手持無沙汰ですることがなくなるのだ。そのため、当初は無人島に取り残された人のように一日が長く感じられた。
 しかしSNSを死肉のように求めてさまようゾンビのような日々も、長くは続かなかった。
 SNSを止めたことで、思いのほか早く、そして劇的に私の心と体が回復したからだ。それまでSNSは自分の分身のような存在で、だからこそそれのない生活は自分が消えてしまうことを意味しているような気がした。しかしいざ止めると、私は当然ながらSNSがなくても息をしているし、スマホをながら見をしていた時よりも食事は数倍美味しく感じられている。
 そして、私が一番恐れていた人間関係を失うということもなかった。リアルな友人や仕事関係者とは、メールやLINEなどでやり取りしているから困らない。しかもSNSを止めたことでやり取りを再開し、むしろ関係が密になった友人もいる。

 

虚像を懸命に作り出していたSNS中毒だった私が取り戻した「日常」

 

 SNS断ちをした生活で一番感じたのは、私たちは思いのほかSNSに縛られているという事実だ。時間がすっぽり空いたことで、私は今までこれだけの時間をSNSに費やしていたのかと、唖然としてしまった。
 空いた時間は読書に充てることにした。これまで読みたかったが、ずっと放置していた本をむさぼるように読んだ。部屋の片隅で埃をかぶっていた本たちに、ようやく手を伸ばせるようになったのだ。また、家でゆっくり映画を見るようにもなり、天気が良い日は散歩に繰り出し、季節の移り変わりを感じた。
 不思議なことにそんな日常を取り戻すと、次第に心に余裕が生まれてくるのがわかった。何かに追い立てられるような感覚がはたと消え失せたのである。これまでは仕事中でもSNSが気になって気が散っていたが、それもなくなり集中力が持続するようになった。
 そしてSNS上の数百人よりも、自分が本当に会いたい人に連絡を取り、直接会いに行って話をしたいと思えるようになった。そうやって私は、私自身を少しずつ取り戻していった。
 回復を感じると共に、なぜ私はそもそもSNSが辛かったのか、辛いと感じても辞められなかったのか、そんな疑問が沸々と湧き上がってきた。
 理由の一つとして挙げられるのは「人からこう見られたい」というSNS人格を、私自身が懸命に作り出そうとしていたことだ。友人が「オシャレなカフェでお茶する私」をインスタで演出しようと写真を撮るように、私も表現者として「こう見られたい私」を日々懸命に装飾していた。だけどそこに映る自分はやはり虚像でしかない。

 

承認の飢餓状態だった私へ――誰かに承認されなくてもきっと大丈夫

 

 私がそこまでネット上の自己演出に躍起になってしまった理由にも、親との関係が横たわっている気がする。親からまともに愛情を受けてこなかったため元来自己肯定感が低く、誰かに認められていないと落ち着かないのだ。そんな私にとって、SNSで得られる「いいね」は、一時的に自分が肯定されたような錯覚をもたらした。だから自己肯定感が上がった気にさせてくれるSNSにズブズブとハマってしまったのだと思う。人は心の空白を感じると、誰もがそれを埋めようと躍起になる。私にとってSNS上の「他者」は、それを満たすのに格好のお手軽な対象だった。
 しかし、その「承認」には落とし穴がある。人々の関心はコロコロ変わるし、何よりも気まぐれだ。だから私はいつもどこか満たされず、「承認」の飢餓状態に陥っていた。
 SNSを止めてから、私はようやく当時の精神状態を冷静に捉えることができるようになった気がする。そして自分自身が抱える弱さや脆さと対峙するにはどうしたらいいのかと、真剣に考え始めた。それは、まさしく自分自身との対話であった。
 私が自分に出した結論――、それは、「他者の承認を求めようとする私」を、私から自由にしてあげることだった。自分を長年苦しめてきた「誰かに認めて欲しい私」を手放してあげたいと思った。あなたは誰かに承認されなくてもきっと大丈夫、と語りかけてあげたい。自ら作り上げた小さな鳥かごからを出して、羽ばたかせてあげたい。
「承認」を求めて、あてもなく彷徨う私を解放してあげたい。もういいよ、無理しなくても、いいよ、と。そんな気づきこそが、SNSを巡って七転八倒し地獄のSNS断食の末に私が得たことなのかもしれない。
 雲が掛かっていた視界はクリアになって、空気も澄みきっている。私は四十代にして、初めて人生のスタート地点に立ったような晴れやかな気持ちになっていた。そして自分のペースでゆっくりと、これからの人生を走り出そうと決意を新たにしたのだった。

 

(第12回へつづく)