私を25年悩ませるあの存在・・・激しいくせ毛がコンプレックス
休日の朝、パジャマ姿のまま、洗面台の鏡と向き合う。いつものルーティンでゴシゴシと雑に歯を磨く。寝ぐせでボサボサになった髪に櫛を通す。ストレートのミディアムヘアは櫛が毛先に下がるにつれて、枝毛が引っ掛かる。いつものことで、私は時折「いたたっ!」と心の中で無言の悲鳴を上げる。一通り髪を整えボーッと鏡を見つめていると、毛根から数センチほど強いウェーブが出てきていることに気づいた。特に前髪はあらぬ方向に飛び跳ねている。
もうすぐ本格的に梅雨が近づいてくる。そろそろ縮毛矯正のために美容院を予約しなきゃ、とぼんやりと考える。
そんな日常を繰り返して、早25年以上になるだろうか。両親共に代々激しい天然パーマの家系ということもあり、くせ毛を受け継いでいる。だから定期的に縮毛矯正を掛けなければ、髪がうねって暴れ出し、全く収拾がつかなくなる。特に梅雨の時期は水分を含んで、髪が膨張するのでやっかいだ。
ダメージの強い縮毛矯正剤と高温のアイロンで定期的に痛めつけているからか、私の髪はパサパサとして張りがない。美容院のトリートメントは恐ろしく高いので、お勧めされてもいつもケチって苦笑いで断っている。
しかし次回の美容院では、さすがにあの高いトリートメントにも手を出すべきだろうか。あれは近所の定食屋のランチ代、何回分に匹敵するのだろう。あぁ、また余計なおカネがかかる、やっぱりやめよう。そんなことをうだうだ考えている。
ささくれ立つ小さな痛み その根源はあこがれの同級生
そういえば、私はこの髪と何年付き合ってきたのだろう。そんな思いが、ふと脳裏をかすめた。それこそ、人生ずっとなのではないか。私はこうしていつも自分の髪に苛立ちと小さな痛みを抱えながら、物心ついた時から今日まで、鏡の前に立っている。
よく考えれば髪は体の一部で、生まれた時から自分自身と共にある。髪はあってもなくなっても、その人の人生と切っても切り離せない。
髪について考える時、ささくれ立ったような小さな痛みを心に感じるのはなぜだろう。この痛みは、どこから来たものだったか。
髪でまず私が連想するのは、なぜだか私自身ではない。思い浮かぶのは野原を一緒に駆け回ったワンピース姿のあの子のことだ。
私の視界の先には、いつだってあの子がいた。栗色がかった胸まであるサラサラのストレートの髪をなびかせていた同級生のあの子。名前もかわいくて、確か外国の子みたいな呼び名をしていたんだったっけ。
あの子は無邪気な反面ゾッとするほどいじわるで、女の子の誰かを仲間外れにしたかと思えば、再び仲良くする残酷なゲームを楽しんでいた。私はいつも彼女のゲームのターゲットになった。それでも私は彼女の近くにいる瞬間、なぜだか幸せだった。
私たちが太陽の真下にいると、あの子の細く澄んだ髪はオレンジ色に透き通り、キラキラとした輝きを帯びる。彼女はそんな髪を時にはお下げ、時には白のレースのヘアバンドで飾ったりして、私に自慢げに、見せつけるのだった。ひらひらのワンピースに、走るたびに肩の上で躍動し、揺れる美しい髪――。
自分の髪に何気なく手を触れる仕草も可憐で、どことなく儚げだった。私はそんな彼女の髪を見るのが好きだった。それは確かに私にはないものなのに、さも当たり前のもののように身につけているあの子が心の底から羨ましかった。
私とあの子は全てが違う 髪が自己嫌悪の始まりに――
あの子の周りには時折、クラスでもかっこいいと言われる男の子たちが自然と群がっていた。彼女の周囲に男の子たちがいるとき、いじめられっ子の私は近づくことは許されない。それは暗黙の了解だった。そんなとき、私は彼女の姿を遠目で指をくわえて見ていた。
いつしか彼女と同じく私も「女の子」であることを自覚し、洗面台の鏡の前に立ってみたことがある。しかし、鏡に映る自分の姿は、私を憂鬱にさせるものだった。
母親に髪を長く伸ばすことは禁じられたため、年中ショートカットだった。墨のような漆黒で見るからに重い剛毛で量も多い。それが天然パーマによって膨張し、タコの足のようにそれぞれバラバラに踊っているのだ。横にくねくねと広がる髪に覆われた私の顔は、まるで神話のメデューサさながらで、あの子とは別の人間のように思えた。
私は鏡の中の自分を見て、いつも小さな傷を負った。よくよく全身を見回せば、あの子と違うのは髪だけではなかった。私がいつも身にまとっているのは母親から渡された親戚の男の子のお下がりのズボンに男物の大判Tシャツだ。全てが違い過ぎているのは明白だった。
あなたにはあなたの良さがあると言われても
それでも私の中に宿る少女は、いつも「女の子」になりたいとどこかで願い続けた。だから苦しかった。その時から、私にとって髪はやっかいなものでいつも自己嫌悪の沼に突き落とす体の象徴になっていった。
鬱屈したコンプレックスは、まるで肥溜めのように心の中に堆積していく。それは、いつしか鉛のような重さとなり、その人の人格を蝕む。私はそうやって小さいながらも深い傷を、知らず知らずのうちに塵のように積み重ねていった。
あなたにはあなたの良さがある、と賢しげに誰かは言う。だけど、それが偽善であることを私は幼心にずっと感じていた。
小さなコンプレックスであれば人は自分の中で折り合いをつけて生きていくことができる。しかしそれが誰かにケアされないまま極端に増大したり、悲しみが強烈な憎しみに転換されると、時には社会のマグマとなってあらぬ形で噴出したりするだろう。
その結果、事件を起こし世間を騒がせる人間にいつもどこか共感を覚えてしまっていたのは、同じ「傷」を彼らに見いだしていたからかもしれない。