ペットに親からの愛を感じた「欠落した」私たち
自己肯定感が低い私は、心の奥底で、私なんて、私の体なんてどうなったっていいと、ずっとそう思っていた。心に眠っていた弱くて脆い本当の「私」が、むき出しになったのだ。
友人が私に言ったことは今も脳裏に焼きついて離れない。
「ねぇ、動物って、無償の愛をくれるでしょ。ほら、親みたいだよね。私は動物を自分の親だと思うようにしているんだ」
そうか、と思った。彼女は親から虐待された経験の持ち主で、私と同じく、愛犬を看取っている。きっと、私たちはどこか欠けていて、本当の意味では親の愛情を知らない。だけど動物は、いつだって無償の愛をくれる。動物は私たちに、欠落していた感情を教えてくれていたのかもしれない。言葉ではなく体全体で愛とは何かを教えてくれたのだ。
私が長年取材しているごみ屋敷の住人たちは、往々にしてペットの多頭飼いをしている人が多い。彼らは、とても心がピュアで、人に傷つけられた過去を持っていたりする。だから無垢な動物に惹かれるのだろうか。人間社会では満たされなかったり、裏切られ続けてきた寂しい心を彼らが埋めてくれるのだ。私は、彼らの気持ちが痛いほどによくわかる。私も彼らと同じ「傷」を持つ者だからだ。私にとって犬を失うのは、親を失ったのと、同じなのだ。
人はあっけなく崩れる 孤独死する人の大半はセルフネグレクト状態
取材を通して分かったのだが、孤独死する人の約8割はセルフネグレクト(自己放任)に陥っている。別名、ゆるやかな自殺とも呼び、自分自身の心と体をじわじわと追い込んでいく行為だ。だけど、それは対岸の火事ではなくて、自分にも起こりえることだと私はいつも感じていた。
人が崩れる契機は、本当に人それぞれだ。ある人にとっては離婚だったり、またある人には失恋だったり、失業だったり、いじめだったりもする。そうやって、人は何らかのきっかけで社会から孤立し、孤独死してしまう。まさに沈没しかけた船が、自分では成すすべがなく、ただただ沈みゆくのを見つめている、そんな光景に近かったと思う。ルーの死によって、それが自分の身にまさしく降りかかっているのがわかったのだ。
現実問題、犬が亡くなってから、私の生活はガラリと変わった。
体重が増えてブクブク太り、明らかに不健康まっしぐらになった。そのうちいつしか体重計を見るのも苦痛になった。しまいにはもう古いからという理由にかこつけて、思い切って捨ててしまった。いつものジーパンが入らなくなったので、ゴム製のスウェットパンツばかり履いている。そしてついに先日ワンサイズ上のスウェットを買い足した。時間のメリハリが無くなったせいで、手持無沙汰にダラダラとポテトチップスやチョコレートを口に運ぶことが多くなったからだろう。
こんなにも人はあっけなく崩れるのか、と自分でも思うが、人の心は脆いものだ。そして、今も残念ながらこの生活は変わらない。
「くすんだ世界」を抜け出すための小さな花束
友達はそんな私を見かねて、気分転換のために、ジムに行くことをしきりに勧めてくる。でも、相変わらずジムに行って運動する気なんて、どうしても起こらない。思い立ってジムに見学へ行ったこともあるが、ガラス越しに黙々とランニングマシンに向かい汗を流している人たちの姿を見ていると、無性に憂鬱になった。ハイテンションな曲でダンスをしている集団を見ると、吐き気がした。昔からスポーツは嫌いだったし、身体を動かすのもおっくうだ。
ルーのいない、くすんだこの世界から、何とか抜けだすことができるのだろうか。そもそも抜け出す意味はあるのだろうか。本気でそう自問自答し続ける日々が続いた。仕事も家事も全てを投げ出して消えてしまいたい。そう思っていた。
それでも時間という薬は、少しだけ私たちに優しい、と思う。
私の生活が少しだけ色彩を取り戻し始めたのは、ここ一か月ほどだ。
デパートの一角にある小さな花屋。私はそこで、花束を見つけた。青色のスイートピーに、紫色のボタン花がアレンジされた小さなワンコインの花束。誰かにあげるような華々しいものではなく、ほんの窓辺に飾るようなものだった。そんな自分用の花束をキッチンフラワーというらしい。よく考えたら、ルーが生きていたときは、日々の介護で目まぐるしいほどに忙しくて、花を飾る余裕なんてなかった。
ブルーのぽってりとした小さな花瓶を見つけて、テーブルに飾った。少しだけ、部屋が生き返ったような気がする。私は、私が私でいるために、部屋の中に小さな花を飾ることを、決して絶やさないようにしようと心に決めた。花を見ていると、どんな慰めの言葉より少しだけ心が救われる。きっとこれは、私と社会とを繋ぐギリギリの生命線だ。
亡くなった愛犬によって私は世界に繋がっていた
たぶん私は人よりもとても弱い人間で、何かに寄りかからないと生きていけない。だから、こんなに苦しかったんだ。花をボーッと見ていると、自分のことをようやく認められる気がした。
きっと人は大なり小なり、誰か大切な人だったり、生きるための何かが切実に必要なのだ。それは目の前の無償の愛をくれる小さな動物だったりするのかもしれない。
ルーはもちろん、可愛い犬だった。かけがえのない存在だった。たくさんの愛をくれた。
でも、私は、その先にあるものにきっと助けられていた。ルーが広げてくれた見えない幾重にも広がる輪のようなもの。自分の輪郭が限りなく広がって、世界に繋がるという感覚だったのかもしれない。その回路が突然シャットダウンしたことによる喪失感で、私は心の底から打ちのめされている。
そんなことに気がついた。
私がまどろみの中でいつも思い出すのは、ルーと一緒に歩いた、夕暮れののどかな時間だ。その先には、リードと共に心が引っ張られ、体を突き動かすような喜びがあり、誰かと共に季節を感じるという豊かさがあった。
あれはじめじめとした季節が訪れる梅雨の前の5月だったか。坂道を少し歩くと、つんと鼻を突くような臭いが辺りを支配していた。きっと栗の花の匂いだったのだろう。その先には、あの犬軍団が待っている。もうそこにはない、今思えば焦がれるほどに欲しいあの時間。オレンジと赤が交じり合った夕日に照らされて、ふわふわとした、暖かな毛だまたちの感触が蘇る。時間は飛んで、玄関先で尻尾をブンブン振って私を出迎えてくれる「ルー」の姿が浮かぶ。私は、私の元から消えていったあの時間を、私は必死に手繰り寄せようとする。私もそこに行きたいと手を伸ばす――。
どうしようもなく生きる――その価値を教えてくれた
だけど、それは私の手をするりと通り抜けて、けっして戻ることはない。
そうか。みんなみんな、永遠じゃない。時間も空間もずっとここにあるものじゃない。季節や風景が知らず知らずのうちに一日一日変化するように、私たちの命という営みも確かに移り変わっていく。私も、きっとその循環の中にいる。命は有限で、だからこそ愛おしい。そんなかけがえのない事実を、ルーは私に全身全霊で教えてくれたと思う。
私に残ったのは、あの時よりも重くなったこの中年の体だ。そして毎日、寝て、排泄をして、ダラダラとせんべいを齧りながらそれでも呼吸している。心を締めつけるような辛さを感じながらも、やはりこの肉体はここにあり、どうしようもなく生きている。それは揺るぎない事実だ。私は、ルーがもはやここにはいないという事実に泣きそうになりながらも、心の中で「ありがとう」と伝える。
誰かに必要とされることの喜びや、生きる価値を与えてくれてありがとう。自分を大事にするということを教えてくれてありがとう。いつだって、愛をくれてありがとう。躓くこともあるかもしれない。それでも私、これから何とか、立っていこうと思うよ。