普通の女性が利用しはじめた「女性用風俗」
女性用風俗、略して女風――。私が女性用風俗というジャンルを取材し始めて、もう数年が経つ。かつて女性向けの風俗は「男娼」と呼ばれ、日陰の存在であった。時たまメディアなどで面白おかしく取り上げられることはあったが、その敷居は高く知る人ぞ知る密かな愉しみとして存在していたといえる。
しかしそんな女性用風俗が、ここ数年で女性たちの間で大きなブームとなっている。
10年ほど前に女性用風俗で働いていた経験を持つ男性によると、昔は有閑マダムのようなお金を持っている限られた一部の客層がメインだった。しかし、今「買う」のは大学生からOL、そして専業主婦などといった客層に大きく変化しているのだ。
なぜ一般の女性たちが、女性用風俗に乗り出していったのか。その理由として、昨今のSNSの台頭や動画メディアが大きく関係している。
現に業界をけん引している女風の有名店は、Youtubeなどの動画ツールを駆使し、著名なインフルエンサーとコラボするなどしている。そうやって店舗が積極的に女風をオープンに発信したことなどから、その門戸が開かれた。経営者が堂々と地上波に顔を出すようにもなったし、レズ風俗の体験漫画がTwitterで話題となったのも記憶に新しい。
またSNSを通じて、「セラピスト」と呼ばれる施術者と利用者が、直にやり取りできるようになったのも大きいだろう。そんな時代の空気も相まって、女性用風俗は「癒し」というヴェールに包まれ、利用側のハードルがとても低くなっている。また店舗数が大幅に増え、近年は利用料金が低価格化していることも理由として挙げられる。
しかし、女性の利用者が増えたのは、そんな表層の理由だけではない。私が女性用風俗の取材を通じて知ったのは、それぞれベクトルは違えど、現代社会を生きる女性たちに「のっぴきならない事情」があるということだ。
私は、そんな女性たちの人生の物語にこそ興味を持ち、日々取材を重ねている。
女性たちの「買う」動機は様々で、それは単なる性風俗という枠には収まらない多様さがある。そして個々の物語には、女性たちの「性」を巡る、生きづらさが見え隠れするのだ。
例えば、取材したある女性はハグをしてほしくて6時間に亘ってセラピストと時を過ごした。また、ある女性は最愛の母親の死後、襲いくる寂しさに耐え切れず、セラピストを何日も続けて呼んだという。そこには単なる性欲解消という単純な目的では割り切れない女性たちの問題が横たわっていることがわかる。
「自己肯定感を上げたい」 初体験を女風で済ませたOL
女性用風俗の利用者であるAさん(会社員・35歳)は、利用動機を尋ねる私にハッキリとこう答えた。
「自己肯定感を上げたかったんです」
話を聞くと、Aさんは処女で女性用風俗を利用するまで、一度も男性との性経験はなかった。彼女にとって女風とは、イケメンとの癒しのひと時でも、めくるめく快楽に溺れるということでもなかった。彼女にあるのは、ただ一つ、それは自らの自己肯定感を上げたいという切実さなのだった――。
Aさんは中肉中背で、黒髪ショートカットといったいでたちで、とても気遣いのできる女性である。そして、インタビューの最中も、鼻炎気味で洟をすする私を「大丈夫ですか? 辛そうですね」と気遣ってくれた。Aさんはとても心の優しい女性なのだ。
Aさんが女性用風俗を知ったのは、女性用風俗で「自己肯定感が上がった」人の体験ルポ漫画だったという。それで、自分も同じようになりたいと思い、チャレンジしてみることにした。
Aさんが長きにわたって自己肯定感が低く、男性に対して積極的になれなかったことには理由がある。それは、小さい頃から容姿のことで周囲にいじめられてきことが原因だった。物心ついたときから容姿をネタにされ、激しいいじめにも遭った。小学校の頃は、同じ背格好の女子と一緒に、男子から「ブス」「太い女」と暴言を吐かれることが日常だったという。
中学になると、一緒にいじめられていた子も手の平を返したように男子と一緒になって、Aさんの陰口を囁くようになる。まさに孤立無縁だった。
それからというもの長年、Aさんは男性と関わることに対して臆病になっていた。自分みたいな人間が男性を好きになったら、相手にとって迷惑なんじゃないか――。
そうやって自分の気持ちをずっと押し殺していた。
私自身、人に比べて背が高かったこともあり、Aさんと同じく容姿を巡ってクラスでいじめられたことがある。だから彼女がその経験によって、男性に対してどうしても一歩踏み出せず、自縄自縛となり「色々なものを諦める」ことに慣れてしまった気持ちもとても理解できた。
外見至上主義とも言われるルッキズムがこれだけネットで騒がれる時代になっても、実際の世の中を見てみると、いつだって、キラキラしている女性たちがもてはやされるのが現実だ。
私もずっとそんな女性たちを羨望の眼差しで指をくわえてみつめる側だった。存在自体が光り輝く女性たちを見ていると、圧倒されて自分がただの添え物になったような気がする。
なぜ、私はあの子みたいに華麗な存在になれないのだろう。可愛くて、誰からも愛される存在になれないのだろう。私は「空気」でしかないのに、それでも私の中の何かが疼いてたまらないのはなぜなのか。私だって、本当は愛されたい、可愛いって言われたい――。でも自分なんて――。
その矛盾した感情が、苦しかった。行き場のない「満たされなさ」は、私を今もじわじわと蝕んでおり、離れない。そんな「苦しみ」から、どうやったら自由になれるのか。
だからコンプレックスを抱えた女性が、性を通じて生きづらさ、そして、自己肯定感とどう向き合うのかというのは、私自身の命題でもある。
究極を言えば私やAさんが求めていたのは、異性とのめくるめく初体験ではないだろう。そんな劣等感まみれの自分でも、肯定してくれる「他者」という存在なのだ。
Aさんが囚われているのは、幼少期に受けた傷によって、自らが作り上げた牢獄でもある。一度その牢獄に囚われると、体は大人になっても、心は不自由なままがんじがらめになってしまう。そして生涯にわたって、心と体に影を落とし続ける。
現にAさんからは「私なんて」「私でも」という自己卑下する言葉が度々飛び出すのが、自分事のように、私はとても苦しかった。
降り積もった雪のように重く蓄積し、心をじわじわと殺していく言葉たち。まとわりついて離れない、重し。それを掃うには、「どうせ、自分なんて」という自己卑下という方法しかないのを私たちは知っている。
私もAさんと同じく、そんな自分とどう向き合ったらいいのか、どうブレイクスルーしたらいいのか、模索し続けていたからだ。
感動の性体験が一転 醜い自分が許せない
とにかくAさんはその方法として、女風を選んだ。自己肯定感を上げるために、女性用風俗で「買う」ことを決意した。
初めてのラブホテル――。Aさんにとっては、何もかもが初めてで新鮮だった。大きなガラス張りの浴室に、見たこともないキングサイズのベッドが鎮座している。ネットで選んだお相手のセラピストは、清潔感のある男性だ。
シャワーを浴びてベッドで起きたセラピストとの体験は、Aさんにとって一言で言うと「感動」そのものだった。Aさんは口でしてあげたり、舐めてもらったり、自分の体に手が入ったりするという未知の体験をした。
彼女が思い描く性的な行為とは、ずっと美男美女にしか許されないものだった。いつだってAさんは、そんな男女の物語を外側から見ているだけの蚊帳の外で、傍観者だと感じていた。しかし今、それがまぎれもなく自分の身に起きている。
同時にそれを通じて、性的なことが特別なものではないのかもしれないという気持ちに少しだけ変わった。
セラピストに性的なことされても、性的興奮というレベルまで到達することはない。それよりも男性とする「初めての」体験にAさんはただただ感動したのだ。
あの瞬間までは――。
それは、Aさんがふと、バスルームにあった鏡を見たときのことだ。セラピストと共に鏡に映る自分の姿が目に入った。
その瞬間、彼女は我に返った。突然現実に引き戻され、自分自身に嫌悪感が湧いた。やっぱり私は可愛くないし、太っている――。鏡に映る自分の姿を見て、そう感じたのだ。
Aさんの口から語られる情景が、頭にありありと浮かんで痛いほどに切なくなり、打ちのめされる。
突然ふと頭を掴まれて揺さぶられる、あの感じ。ほらほら、しょせん私なんて、という内部から湧き上がるあの絶望。氷水を頭から浴びせられるような、ガツンとした衝撃。自分の内部から湧き上がる呪いの言葉たち。
そんな自己との対峙はAさんにとって、ものすごく「痛い」体験だった。
イケメンのセラピストの隣に一緒に何気なく鏡に映っているのは、向き合うのをずっと避けてきた、まぎれもない自分自身だ。それはすなわち、自らのコンプレックスを見つめることでもあった。女性用風俗は、図らずもそんな現実をAさんに突きつけたのだ。
セックスはコンプレックスを解消しない 痛みを引き受けるのは自分
しかし、この体験を通じてAさんは、はたと気づいたという。たとえ男性とセックスをしたからといって、自分のコンプレックスは解消されるものではない――。
Aさんはその時のことを反芻するように、ゆっくりと淀みなく語ってくれた。
「女風は私みたいに卑屈な人間だと、より自分と向き合わなきゃいけなくなる。女風が教えてくれたのは、コンプレックスは自分自身の問題だということ。それは、誰かの優しい言葉で癒されるものじゃなくて、私にとっては、もっと深いところにあるものだった」
女性用風俗を利用しても、当初期待していたようなコンプレックスという憑き物が、ポロリと剥がれるということはなかった。Aさんにとってその傷は心の深層に沈んでいて、時たま疼きだす。
だからこそ、救うのは自分自身しかいない。その痛みは自分で引き受けるしかないと、Aさんは女性用風俗を通じて、悟ったのだ。
いつか自分にも彼氏ができたら、普通にセックスをするだろうし、人に甘えたり、甘えられたりするのかもしれない。それはもしかしたら自分の生きている世界と地続きにあるかもしれない。そう思えたのは大きい。
しかしやはり一番の収穫は、Aさんが自らと向き合う機会を得たことだった。
彼女が性を通じて向き合うべきは、セラピストという生身の男性ではなく、自らの生きづらさの源だったのだ。
それはきっとふと鏡に映る自分を直視し、受け止めたことにこそあったのだろう。
Aさんはその後、女性用風俗に特にハマることもなかった。勢いに任せて、ネットで知り合った男性とセックスしたりもしたが数回でやめた。経験を通じて、自分にはあまり男性との恋愛や、性的なことに関心がないと気がついたというのもある。
それよりも、Aさんは夢中になれる趣味や、仲のいい女友達をかけがえのないものだと改めて思えるようになった。何より今は、趣味の世界に没頭することが何よりも楽しいと感じるという。舞台や映画の鑑賞が趣味で、傍観者としての立ち位置に身を置くのが楽しい。
プリンセスのように物語の主人公になって翻弄されるよりも、その物語を俯瞰で見るような立ち位置にいることが何よりも好きだ。かつてのように自分を追い込まなくなり、今は、そんな自分でいいと自然に思えるようになった。
Aさんは、女風を利用してより人生を謳歌できるようになったと笑顔で語ってくれた。
これからも続く自分の人生と、そして抱えてきた生きづらさと折り合いをつけるということ。それをできるのは自分自身しかいないということ。
鏡に映った自分は確かにコンプレックスまみれだったが、そんな自分と向き合うAさんを通じて、私は勇気をもらった気がする。あなたも、きっと大丈夫だと。
活き活きと自らの性体験を語るAさんの姿が今も私の脳裏に焼きついて離れない。煌びやかな世界に生きる芸能人の言葉より、私と変わらない日常を生きる彼女たちの自らの人生を見つめる眼差しはずっと心に響く。