人物紹介

仁美…高校二年生。町の祭りで起きた無差別毒殺事件で母を亡くす。

修一郎…高校一年生。医学部志望の優等生。事件で妹を亡くす。

涼音…中学三年生。歳の離れた弟妹を事件で亡くす。仁美たちとは幼馴染。

景浦エリカ…涼音の母。派手な見た目と行動で町では目立つ存在。

仁先生…仁美の父親。町唯一の病院の院長。

成富栄一…大地主で町では一目置かれる存在。町内会長も務める。

博岡聡…成富建設の副社長。あだ名は「博士」。引きこもりの息子・聡介を家に抱えていた。

音無ウタ…息子・冬彦が真壁仁のせいで死んだと信じこんでいる。

琴子…息子の流星と姑のウタと同居している。元新聞記者。

流星…小学六年生、ウタの孫。修一郎の妹と仲が良かった。

宅間巌…かつて焼身自殺した町民。小学生の間では彼の幽霊が出ると噂されている。

第二十六話

 

 走っても走っても、この手はまだつばさに届かない。
 お願い、誰かその子を……、つばさを助けて!
 声にならない叫びが届いたかのように、恐慌をきたし呆然としている人々の中から、黒い帽子の女性が飛び出し、つばさに駆け寄る。そして、お腹を押さえ苦しんでいるつばさを抱き起こし、その小さな口に自分の指を突っ込んだ。
 次の瞬間、つばさがうえっとえづき、嘔吐物がその女性の服を汚す。だが、彼女はかまわず、つばさの背中をさすり続けてくれている。
 後ろから走ってきた男が仁美を追い抜き、一足早くつばさにたどり着く。
 それは修一郎だった。ああ、パパならつばさを助けてくれる。そう思ったが、つばさの容態を診た修一郎は駆けつけた仁美を振り返り、声を張り上げた。
「これ飲ませて! 吐けるだけ吐かせて!」
 緊迫した彼の表情に一瞬怯んだ。だがすぐに仁美はつばさを抱き上げ、手渡されたペットボトルの水をその口に含ませる。
「他の人も順番に診るから水を飲ませて吐かせて!」
 つばさと麗奈、武蔵の他に、ダンスの衣装をまとった女子高生がふたり、男子中学生と女子中学生がひとりずつ、喉や胸を押さえ、苦しんでいた。
「修一郎、麗奈を診てくれ!」
 守が修一郎の腕を掴み、麗奈のほうへ引っ張る。倒れ込んだ麗奈には元会長が取り縋っていた。
「麗奈、しっかりしろ! 今、じいちゃんが助けてやるからな」
「修一郎、なにやってんだ、早くしろよ!」
「守君、救急車の手配は?」
「誰かが呼んでるはずだ」
「一一九に電話した人、いる!?」
 修一郎が周りを見回したが、「誰かがかけたと思って」と皆、気まずそうに目を伏せる。
「誰も呼んでないのかよ? なにやってんだ、おまら! とっとと電話しろよ!」
 守に怒鳴られ、通報しようとする人々を修一郎が止めた。
「車で病院へ運ぼう。そのほうが早い。誰か、車出せる人は?」
 修一郎の指示で、酒を飲んでいない近くの住人たちが車を取りに走る。
「なにを口にしてこうなった?」
 修一郎は麗奈の心音を聴いて尋ねたが、彼女は答えられる状態ではなく、武蔵が地面に転がった芋煮のおわんを指さす。それを見た守が、つばさを吐かせていた仁美に掴みかかってきた。
「仁美、おまえ、鍋を見張ってなかったのかよ?」
 仁美はビクッと身体を硬直させたが、修一郎が鋭い一喝で守を止めた。
「そんな話は後だ! この芋煮を今苦しんでる全員が食べたの!?」
 後半の言葉はダンスの衣装を着た中高生に向けられたが、彼らは互いに顔を見合わせ、わからないと首を横に振る。ダンスのあと、麗奈はみんなで乾杯しようと言い出し、自分が食べ残した芋煮のおわんを武蔵に押し付けたらしい。
「乾杯で飲んだのは?」
「麗奈ちゃんが持ってきてくれたジュース」
 高校生が指差したテーブルの上にはジュースを飲んだ紙コップとワインボトルのような洒落た瓶が二本あった。片方はみんなに振るまわれたミックスジュースで、横倒しになっているもう一方は麗奈が飲んだ酵素ジュースだ。無事だったのは乾杯のあと、すぐに口にすることをためらった中高生のようだが、武蔵はジュースを飲んでいないという。修一郎は毒物を特定するため、おわんやボトル、嘔吐物の付着した物などを病院へ運ぶ手はずを整えてくれと守に指示し、総合病院に電話をかける。
「麗奈、どうした? おい、修一郎、麗奈が!」
 彼が電話で事情を伝えている間に、麗奈の体ががくがくと痙攣し始めた。
「車はまだ?」と問いかけながら、修一郎は麗奈の胸骨を圧迫する。
「おい、修一郎! 麗奈、息してないんじゃないか? 助けてくれよ、修一郎!」
 元会長を無視し、修一郎は心臓マッサージを続ける。そんな麗奈の姿を撮影しているカメラマンに気づいた守が、「撮るんじゃねぇ!」と突き飛ばし、カメラが吹っ飛ぶ。そんな揉め事の間も、修一郎は心臓マッサージを続け、麗奈はなんとか息を吹き返した。
「修一郎、車が来た!」
「麗奈ちゃんを運んで! 僕も付きそう」
「修一郎、つばさは!?」
 思わず尋ねた仁美を振り返り、修一郎は励ますようにうなずく。
「車の中でも水を飲ませ、吐かせ続けて。みんなも気道を塞がないよう頭は横向きで!」
 そう叫び、修一郎は麗奈とともに公園をあとにした。
 続々と車が到着し、仁美はつばさを抱き上げる。車に乗り込もうとしたまさにそのとき、背後でこやぎ庵の店主が叫んだ。
「やっぱり、こいつだ。毒殺犯の娘が毒を入れやがったんだ」
 彼が指差しているのは、最初につばさを吐かせてくれた黒い帽子の女性、涼音だ。
「逃げられないよう押さえつけろ!」と怒鳴る彼に、仁美は叫ぶ。
「涼音はなにもしてない! この子を助けようとしてくれただけ!」
「そんなの関係ねぇ! こいつの母親は毒しるこ事件の犯人、景浦エリカだぞ!」
「それも違う。エリカちゃんは犯人じゃない。おしるこに毒をいれたのは、うちの……、うちのママだから!」
「はぁ?」
「涼音に手を出したら、私が許さない!」
 ポカンと口を開けたままの一同を尻目に、仁美は後部座席のドアを勢いよく閉めた。

 病室のベッドで、仁美はつばさの小さな手を握り、祈る。
 処置が早かったため、つばさは一命を取りとめた。だが、小さな身体への負担は大きく、まだ急変の可能性があり、予断は許さないという。
 気配に顔を上げると、病室の入口に肩を落とした修一郎が立っていた。
「修一郎、つばさは大丈夫だよね? 元気になって、家に帰れるよね?」
 すがるように尋ねた仁美に、修一郎は力なくうなずく。
「できることはすべてしてもらった。つばさは強い子だから、大丈夫だよ」
「それなのに、どうしてそんな暗い顔?」
「麗奈ちゃんが、亡くなった」
「えっ、そんな……。あとの子たちは?」
 ひとりの女子中学生の意識が戻らないと、彼は疲れた表情で話す。
「あとは容態が急変しなければ大丈夫だと思うけど……。今、病院に警察が来て、守君や元会長から話を聞いている。すぐにここへも来ると思う」
「警察が?」
「そんなに驚かなくていい。毒物は芋煮ではなく、ジュースに混入されていたはずだから」
 麗奈の食べ残しの芋煮を食べたものの、ジュースを飲んでいない武蔵の体からは毒物は検出されなかったという。武蔵は苦しむ麗奈たちを見て、自分も毒を飲んだと思い込み、吐き戻してしまっただけらしい。
「麗奈ちゃんたちのテーブルにあのジュースを運んだのは、聡介君だそうだ」
「え……? 聡介君が、毒を?」
「それはわからないけど」
 毒しるこ事件をネタに金を強請ろうとしていた聡介が、毒を盛ったりするだろうか。
 混乱する頭で「毒……」とつぶやいた瞬間、仁美は忘れていた大切なことを思い出し、そばにあったレジ袋を引き寄せる。その中にはつばさの嘔吐物で汚れた仁美のエプロンが入っていた。病院へ向かう途中、つばさが何度か吐き戻し、ひどく汚れてしまったため、
車内で脱いで、運転していた守の部下がくれたレジ袋に入れたのだ。それを開け、エプロンのポケットに手を突っ込んだが、そこにあるはずのものに指が届かず、仁美は青ざめる。
「……ない」
「なにが?」
「なんでないの? 修一郎、どうしよう? 私……」
 廊下に足音が響き、顔を覗かせた男たちの手には黒い手帳が掲げられていた。

 警察の事情聴取から解放され、仁美が自宅へ戻れたのは、かなり遅い時間になってからだった。
 発熱していた父を案じ、急いで門扉を開けた瞬間、仁美は息をのんで立ちすくむ。応接間の窓がダンボールで覆われていたからだ。
 父は電気もつけず、居間に座り込んでいた。
「お父さん、大丈夫?」
 怪我をしているのかと慌てて駆け寄ったが、顔を上げた彼の表情は思いのほか明るい。
「どこも怪我してない? どうしたの、これ?」
「ああ。石を投げ込まれて」
「えっ、誰に!?」
 わからないと首を横に振る父に、思わずうなだれた。
「お父さん、ごめん。私のせいだ。私、ママがしたこと、喋っちゃった。それで、きっと誰かが……。もうここにはいられない。でもその代わり、聡介君の脅しに怯えることも、お金を払う必要ももうないから」
「聡介君だ」
「え? 石を投げたのが?」
「違う。心配して、来てくれた」
 ガラスの割れる音に驚いて駆けつけた聡介が、ガラスの破片を片付け、ダンボールで窓を補修してくれたのだという。
「どうして、聡介君が? あの人、お父さんにお金貸してくれって強請ろうとしてたのに」
「貸した」
「は? 貸したって……、いつ? いくら?」
「さっき。いくらだっけ? 忘れちゃったな」
「お父さん、それ、なに?」
 父が手に握りしめていた紙を広げると、下手くそな字で『借用書 金五万円也』としたためられ、聡介のサインもあった。
「なに、これ、五万円て?」
「なんちゃらゲームの課金で借金がどうとか、なんかそんなこと言ってたよ、聡介君」
「でも、なんで借用書? 聡介君、ママがおしるこに農薬入れるところを見たんでしょ?」
「え……? ママがそんなことするわけない」
「ちょっ、お父さん!」
 仁美は呆れ、父のおでこに触れる。熱があるのかと思ったが、平熱に戻っているようだ。
「こんな大事なことまで忘れないで。お父さんが私に言ったんだよ。聡介君が自分の部屋の窓から、ママがおしるこの鍋に農薬を入れるところを見たって言ったって」
 言葉にして自分で気づく。父からの伝聞であって、聡介の口から聞いたことは一度もない。
 母の遺した手紙を見て、そう思い込んでいただけだったのか? いや、でも聡介に訊かれた。誰がおしるこに農薬を入れたか聞いたのか?と。黙っていたほうがいいか、とも。
「……聡介君、誰かがおしるこに農薬を入れるところを見たんだよね?」
「見たって言ってた、さっきも」
「それ、本当にママじゃないの? だったら、いったい誰?」
「えーっと、……誰だったかな」
「訊いてくる、聡介君に」
 家を飛び出そうとした仁美の腕を掴み、父ははじめて表情を曇らせた。
「聡介君は、いない」
「え?」
「連れて行かれたから、警察に」
 そうか、麗奈たちにジュースを運んだ聡介は、今回の事件の容疑者なのだ。
 そのとき、仁美のスマホが震えた。つばさになにかあったのかと慌てて取り出したそれに表示されていたのは、仁美が心配していたもうひとりの名前だった。

「無事に逃げられてよかったよ。あの晩、電話もらえて本当にホッとした」
 数日後、駅前の喫茶店に座る仁美の向かいには、喪服姿の涼音がいた。
「私もホッとしたよ。娘さんのこと、心配だったから」
「ありがとう。まだ退院はできてないけど、あの子が今生きてるのは涼音のおかげ」
「そんなこと……。それより、大丈夫だった? 私を守るために、仁美ちゃんにあんな嘘つかせちゃってそれも心配だったの。嫌がらせとかされてない?」
「あの夜、窓ガラス割られたけど、それ以降はなにも。みんな、涼音を逃がすために私が嘘をついたと思ってるみたい」
「思ってるみたいって……。やだな、仁美ちゃん、そのとおりじゃない」
「ごめん。あの時点ではあれ、嘘じゃなかったの。私、ママが犯人だと思い込んでた」
「……えっ? なに言ってるの、仁美ちゃん?」
 仁美は戸惑う涼音にすべてを話した。彼女に隠すことはもうなにもなかったから。
「それで聡介君に農薬を飲ませれば、つばさを守れる。そう思ってパラコートが入った小瓶を手にしたけど、どうしても入れられなくて……。途中で我に返って、私、なにやってんの? ってものすごく怖くなった。ママを殺されてあんなにつらい思いをしたのに、今度は自分が同じ毒で聡介君を殺そうとしてて、怖くて怖くてずっと震えが止まらなかった」
 一時でも人を殺そうとした自分に恐れ戦き、仁美がトイレで震えている間に、つばさが毒入りのジュースを口にしてしまっていたのだ。
「……仁美ちゃん、ひどいよ」
「涼音、本当にごめん。すぐに話さなくて。エリカちゃんを助けられたかもしれないのに」
「そこじゃないよ。仁美ちゃん、芋煮に農薬入れようとして、どうしても入れられなかったんでしょ? 千草おばさんも同じだと思わなかったの?」
「え……?」
「もし本当に母を殺したいと思ったとしても、千草おばさんは仁美ちゃんと同じように、絶対にできなかったはずだよ」
 頬を張られたような衝撃を受けた。涼音の言うとおりだ。
「そうだね。エリカちゃんだってそうだよね。私、本当にどうかしてた。人の意見に流されて、自分を見失って……」
 持ち手に指をかけたままのコーヒーカップがカチャカチャと音を立てる。
「あ……、ごめん、農薬入れようとしたこと思い出すと、いまだに……」
 カップから指を離そうとした瞬間、涼音の両手がそれを包んだ。慈しむように。
 その冷たい手の感触が懐かしかった。冷たいのに温かい。 
「涼音……、本当に行くの? また嫌な思いすることになるよ。もしかしたら入れてもらえないかも」
「うん。それでも、行く」
 無表情な涼音の瞳に、強い意志の光が宿っていた。

 仁美と涼音が向かったのは、元会長の屋敷だ。
 ようやく遺体が返され、麗奈の通夜がしめやかに執り行われていた。
 受付で仁美は記帳を済ませたが、案の定、涼音は止められてしまう。
「あんた、よくここへ顔出せたな。帰れ!」
 涼音を追い返そうとした受付の男を止めたのは、守だった。
「あがらせろ。俺もこいつらに話したいことがある」
 仏間に設けられた立派な祭壇で焼香をさせてもらう。遺影の中、まぶしい笑顔を見せる麗奈の姿に胸が詰まった。焼香を終え、遺族にお悔やみを述べようとしたが、憔悴しきった麗奈の母親は泣き崩れてしまい、仁美はかける言葉が見つからなかった。
 その後、守の妻の元子に通夜ぶるまいの席に案内された。
「元子さん、なにも手伝えなくてごめんね」
「ううん、琴子さんとか来てくれてるし」
「守さんが来るまで、ここで待ってて」
 そう言い置き、元子は仏間へ戻っていく。廊下から大広間を覗き見ると、すでに百人近い人々が麗奈を偲んで酒を飲み、寿司などをつまんでいる。彼らが涼音に過剰反応するのが怖かったので、廊下で守を待った。その間も、話し声が廊下まで漏れ聞こえてくる。
「こんなに若くして……、かわいそうにねぇ」
「本人もさぞ無念だったろうよ。これからアイドルとして花開いたに違いねぇんだから」
「聡介のやつ、許せねぇな」
「やっぱり、ジュースを運んだ聡介が犯人なのか?」
「間違いないわよ。祭りの間中、挙動不審だったもの」
 そんな話をしながらも飲み食いができているのは、みんながここにいない聡介を犯人と決めつけているからだろう。
「おっ、琴子さん、このビール、大丈夫か? 毒入ってないだろうな?」
 仁美が驚いて再び広間を覗き見ると、すでに顔を赤らめたこやぎ庵の店主が、琴子に酌をさせていた。笑えない冗談を聞き流し、琴子はいつもどおり穏やかな笑みを浮かべている。
「そんなところでなにしてるんだ? 入れよ」
 振り返ると、車いすを押しながら近づいてくる守がいた。車いすに乗っているのが元会長だと気づくのに時間がかかった。わずか数日で彼は何年分も老け込んでしまったように見える。それだけ麗奈の死が元会長の心と体にダメージを与えたのだろう。
「ほら、車いす通れないから先に入れって」
 守に追い立てられるようにして、仁美と涼音が大広間に上がると、座敷は水を打ったように静まり返った。
「みんな、このふたりも麗奈の弔問に来てくれた」
「……守君よ、仁美はともかく、麗奈ちゃんの通夜の席に、なんだってそんなヤツを?」
 こやぎ庵の店主が涼音を指差しながら立ち上がると、また彼に同調する声が上がる。
「聡介じゃなくて、こいつが犯人って可能性もあるんじゃねぇのか」
「母親が母親だもんな。やってても全然おかしくな……」
「涼音はやってない!」 反射的に上げた仁美の声が、彼らの言葉を断ち切る。
「つばさを助けてくれたのは涼音だよ。それに涼音がいつジュースの瓶に毒物を入れられたって言うの?」
 力強い拍手が響き、驚いて目をやると、手を叩いているのは守だった。
「いいね、仁美。だったら検証してくれないか? いったい誰なら毒物を混入できたのか」
「私が?」
「適任だろ、あのテントにいた仁美なら」
 仁美の返事を待たず、守は皿を運んでいた琴子と佐久間を呼び、前に出てこさせた。 
「これじゃまだ役者が足りないか。おい、連れて来い」
 襖が開き、自警団の男に連れてこられたのは怯えた目をした聡介だった。
「警察の事情聴取の後、拉致ってきました」
 自慢気に話す男を睨み、余計なことを言うなと叱ってから、守は仁美を見た。
「じゃあ、仁美、みんなの前で真実を明らかにしてくれ。それが麗奈の一番の供養になる」
 仁美はなぜ自分がと訝しみながらも、琴子に向き直った。
「琴子さん、毒物が入っていたジュースの瓶に直接触る機会があったのは、誰?」
「ジュースを持ってきた麗奈ちゃんと武蔵君。あとは私の知る限り、聡介さんと私だけよ」
 あのジュースが届けられたのち、仁美はおわんや紙コップを取りに家に戻ってテントを離れた時間があったが、その間もジュースに近づいた人間はなかったという。
「どうして、聡介さんがステージそばのテーブルまでジュースを運ぶことになったの?」
 琴子はダンスが終わる前に運んであげようと、冷やしたミックスジュースと酵素ジュースを一本ずつ、紙コップと一緒に肩掛けバッグに入れ、用意していたのだという。
「そこへ聡介さんが来て、言ったの。『自分が運びます』って。仁美さんがお手洗いに行ってて、まだ芋煮があるのにテントには私しかいなかったから、聡介さんに託してしまって」
「う、う、う、嘘だ……。ぼ、僕はそんなこと言ってない」
「でも、聡介君はジュースを運んだんだよね。なんで?」
 そう尋ねた仁美から目を逸らし、聡介は身体を震わせながら、答える。
「そ、それは……、は、運んでって、た、頼まれたから。こ、こ、こ、琴子さんに」
「聡介さん、お願いだから、嘘つかないで。もしかして、誰かに頼まれてやったの?」
「ち、ち、ち、違う」
「いや、やったのはおまえしか考えられない。聡介、なんのために毒を入れた?」
「十年前みたいに祭りの音楽がうるさくてキレたのか?」 
 大勢の住民たちに責め立てられ、遠目でもわかるほど、聡介の体の震えが大きくなる。
「みんな、静かにして! 聡介君、あのジュースを運ぶ途中、蓋を開けた?」
 仁美の問いかけに、聡介はぶるぶると首を横に振る。ダンスを踊った中高生たちは、紙コップにジュースを注ぐ際、ボトルのスクリューキャップは二本とも一度開けて閉めた状態だったと言っていた。
「それ、聡介君が開けたんじゃないのね?」 
「あ、あ、あ、あ、あ、あ、開けてない」
「開けたのは私です」と、仁美の質問に琴子が答えた。「麗奈ちゃんが自分用って持ってきた酵素ジュースは飲みかけでもともと開栓してあって、もうひとつのミックスジュースは私が開けて、一口だけ飲みました。麗奈さんに飲んでいいって言われてたし、一度だけお手洗いに行ってジュースの前を離れたから、万が一のことがあってはいけないと思って、毒見のつもりで。だから聡介さんに渡す前、毒が入っていなかったことは確かです」
 琴子の対応に称賛の声が上がったが、それを聞いた当の琴子は顔を曇らせる。
「麗奈ちゃんを死なせたのは、私です」
「えっ!?」
 そこにいた全員が、驚いて琴子に視線を向けた。細い肩が小刻みに震え、うつむいた琴子の瞳から涙がこぼれ落ちる。
「だって……、私がジュースを自分の手で運んでいれば、こんなことには……。聡介さんが私たちのテントをずっとチラチラ見ていたことに気づいてたのに、同じお祭りのボランティアスタッフだし、まさか毒を入れるなんて思わなくて……」
「琴子さん、それは仕方ないよ。自分を責めないで」
 住民たちに口々に励まされ、琴子は両手で顔を覆い、嗚咽をもらす。
「悪いのは農薬入れたヤツだよ。聡介、あんた、なんでそんなひどいことできたんだい?」
「中高生を道づれに、自殺しようとでも思ったのかよ?」
 いきり立つ住民たちに怯え、聡介はただオドオドと目を泳がせている。
「ちょっと待って。琴子さんだって、聡介君がジュースの瓶に農薬を入れるところを見たわけじゃないんでしょ?」
「ええ。ごめんなさい、仁美さん。私、そのあとすぐに後片付けを始めてしまったから」
「でも、みんながダンスを観ている間なら、公園の茂みとかでジュースに農薬入れることはいくらでもできたろうよ。こいつは十年前だって、ネットで農薬を買ってたんだから」
 こやぎ庵の店主の言葉にうなずき、隣にいた佐久間が「仁美」と呼びかけてくる。
「あの日、この子がずっと不気味な目でうちらのテントを見ていたのは事実じゃないか。本当は芋煮に毒を入れたかったのかも。もしそうなら、殺されてたのは、うちらだったよ」
 佐久間の一言で恐怖を覚えたのか、人々はさらに声高に聡介を責め立てる。
 耳を押さえ、叫び出しそうなそうな聡介に、仁美はできるだけ優しい声で話しかけた。
「聡介君、あのお祭りの日、どうして芋煮とジュースのテントを気にしてたの?」
「それは……お、お金、貸してほしかったから」
「誰に?」
 聡介が震える指で琴子を差すと、「なんで琴子がおまえに金貸さなきゃいけないんだよ」とまたこやぎ庵の店主が騒ぎ出す。

「ぼ、僕が見たこと、黙ってる代わりに、お金を……」
 聡介は仁美と琴子が親しい間柄だと思い、芋煮の下準備の日、自宅の前で、父ではなく、琴子への言伝を託したつもりだったらしい。
「見たってなにを見たんだよ? どうせくだらねぇことだろ」
「それ、犯罪だそ。おまえ、東大出てんのにそんなこともわからないのかよ?」
「ぼ、僕は……」 途中で言葉をのんでしまった聡介を、仁美が励ます。
「話したほうがいいよ、聡介君。なんでも言って」
 小さくうなずき、「ぼ、僕は……」と、聡介が口を開く。「じゅ、十年前、自分の部屋の窓から、ど、毒しるこ事件の犯人を……見た。……見たのを思い出した」
 誰もが一瞬息をのんだが、すぐに「本当か?」と疑念を聡介にぶつける。
「おまえ、景浦エリカが、鍋に農薬入れる瞬間を本当に見たのか?」
「ち、違う。毒を入れたのは、あの人じゃない」
「はぁ? なに言ってんだ、聡介? じゃあ、誰がやったって言うんだよ?」
「十年も忘れてたことを急に思い出したってか? そんな与太話信じられるか」
「いや、おもしれぇ。拝聴しようじゃねぇか。いったい誰がしるこの鍋に農薬を入れたんだ?」
 言っていいのかという目で聡介に一瞥され、仁美はうなずく。
「それは……、りゅ、流星君。お、音無流星君」
 一瞬、しーんと静まり返った座敷が、次の瞬間には、聡介を非難する声であふれる。
「おまえ、死んだ人間に罪を被せる気か!?」
「琴子の息子は被害者だぞ。犯人に崖から突き落とされたのに、そんな子を犯人て……」
 それまで慈しむような笑みを浮かべていた琴子もこぶしを震わせ、聡介を睨みつけた。
「聡介さん、私はなにを言われてもかまわない。でも、流星が侮辱されるのだけは許せません。うちにはパラコートなんてなかった。それは警察の家宅捜索で証明されています。十年前も、そして、今も」
「そうだ、聡介、琴子さんと流星に謝れ!」
「自分がしたことをごまかすために、死んだ人間に濡れ衣を着せるなんて最低だぞ!」
 聡介を非難する声がひときわ大きくなる中、誰かが投げた寿司が聡介の顔に当たった。
「ちょっと、やめて! 大丈夫、聡介君!?」 
 仁美は叫び、駆け寄ったが、それでも騒ぎは収まらず、守が声を張り上げる。
「みんな、ちょっと落ち着いて頭を冷やせ。仁美、犯人は聡介ってことでいいのか?」
「そんな乱暴な。私がトイレに行ってる間、琴子さんはひとりでテントにいたし、共謀すれば、私と佐久間のおばちゃんだって犯人になり得る。そうじゃなくてもあのテントは広いから、それぞれが芋煮とジュースの見張りに集中してたら、バレずに混入できたはず」
「みんな、今の聞いたか? 仁美は自分がバレずに毒をジュースに入れることができたと認めた。……で、おまえが麗奈を殺したのか?」
 仁美は驚いて守を振り仰ぐ。その冷徹な目は冗談を言っているようには見えない。
「守君、仁美がそんなことするわけないよ」
 仁美を助けようと声を上げた佐久間に、守は不敵な笑みを浮かべた。
「あの祭りの日、仁美がエプロンのポケットにパラコートの入った小瓶を忍ばせていてもか」
 驚きとどよめきが、座敷中に広がっていく。
「本当か、守君? 聡介じゃなく、仁美が農薬を?」
 こやぎ庵の店主の声に応え、守はとうとうと語り始めた。
 あの日、仁美とつばさを病院へ送った部下の車の後部座席の床から、警察がパラコートの入った小瓶を見つけた、と。落としたのは、娘の嘔吐物で汚れたエプロンを車内で脱いだ仁美しか考えられないと守が告げると、人々の視線が針のように仁美に刺さった。
「違う。持っていたのは認めるけど、ジュースに入れたりしてない」
「そんな話信じられるわけないだろ。毒殺事件の現場に毒を持った人間がいれば、そいつが犯人なんだよ。涼音はやってない? そうかもな。やったのは涼音じゃなくて、仁美、おまえだもんな。エリカを助けてくれって、涼音に頼まれて、事件を起こしたのか?」
 このために、守は仁美を指名し、毒物を混入できたと言わせたのか……。
「違うよ、そんなことしてない。だって、農薬の入った小瓶をなくしたから捜してほしいって、あの日病院で、警察に頼んだのは私だもん。誰かが誤飲したら取り返しがつかないから」
 守は眉を寄せ、訝しげな面持ちを仁美に向ける。
「それにね、守君、そのパラコートの入った小瓶は、毒しるこ事件のあと『これを飲んでつぐなえ』って父がある人から渡されたものだった。そのある人って……、音無のおばあちゃんだよ」
 琴子が一瞬だけ、驚きに目を見開いた。
「つまり、音無の家には、パラコートがあったんだよ。十年前もそして、今も。家宅捜索で見つからなかったのは、家以外の場所に隠していたからじゃないかな。たとえば、裏山とか」
「ちょっと待て、仁美、おまえは自分でも聡介でもなく、琴子が犯人だって言うのか?」
「琴子さんならジュースに毒を混入できた。それに、おしるこに毒を入れたのは流星君だって、聡介君が……。実際に十年前、おしるこのテントの前で音無のおばあちゃんがエリカちゃんに拳を振り上げ、つかみ合いになってみんなで止めた。あのときなら、流星君は鍋に農薬を入れられたかもしれない」
「仁美さん、あんな人の言うことを信じるの? もし流星が本当に犯人なら、流星は誰に殺されたっていうのよ? それに我が子を殺害された私が麗奈ちゃんたちに毒を飲ませられるわけないじゃない。ひどいわ、なんの証拠もないのに」
「証拠はないけど、琴子さんは許せなかったんじゃないの? 麗奈ちゃんのことが」
「仁美、どうして琴子が? 流星と仲が良かった麗奈を許せないなんて思うわけないだろ?」
「守君、麗奈ちゃんは流星君のことが小さな頃から大好きだったよね。でも、流星君が仲良くしていたのは、イワオだった」
「は? 流星がイワオなんかと? そうなのか、琴子さん?」
 首を横に振る琴子と守を交互に見つめながら、仁美は尋ねる。
「イワオが幼い麗奈ちゃんを連れ去ろうとして、彼女を助けようとした琴子さんのご主人がやぎ山の崖で命を落としたよね。麗奈ちゃんが犯人だって言ったのに、どうしてイワオは逮捕されなかったの? あのとき、なにかあったんじゃないの?」
「仁美、そんな古い話、今、関係ないだろ」
「でも……」
「守さんの言うとおりよ。仁美さん、私は麗奈ちゃんのことを許せないなんて思ったことないし、今言ったことも、全部あなたの想像でしょう? 違う?」
「それは……」
 黙り込む仁美の背後で、襖が開く。
「じゃあ、俺が実際に見聞きしたことを話します」
 そう言って、現れたのは武蔵だった。その後ろには修一郎が控えている。
「武蔵、お前、よくも……」
 それまで魂が抜けたようになんの反応も示さなかった元会長が、武蔵を見た瞬間、掴みかかろうと立ち上がった。
「毒も飲んでないくせにゲロゲロ吐きやがって。そばにいたおまえが麗奈を助けていれば……」
 顔を真っ赤にして叫ぶ元会長を守が制し、武蔵はそんな彼に深々と頭を下げた。
「すみません。俺も自分が情けなくて、死んで麗奈に詫びたいって思ってました。でも、修一郎君に、過去の過ちを正していれば、麗奈は死なずに済んだって言われて、今からでも麗奈を楽にしてやりたいって思って……」
 武蔵の言葉を引き取り、修一郎が口を開く。
「毒しるこ事件の根っこにあるのは幼い麗奈ちゃんがついた嘘です。そして、今回の事件の根も、同じくそこにあるんだと思う。麗奈ちゃんの嘘が結果的に流星君を死なせてしまったから」
 修一郎と目を合わせ、うなずいてから、武蔵は話し始めた。
 今から十四年前のある晩、流星は互いに天体観測が好きで意気投合したイワオとやぎ山に星を観に行く約束をしていた。流星に好意を寄せていた麗奈はそれを知り、自分も行くと言ってイワオと一緒に山に登る。だが目当ての流星はいくら待っても現れなかった。体調を崩し、寝込んでしまっていたからだ。 
 麗奈とイワオは星がきれいに見える崖の上で流星を待ったが、雨が降り出し、さすがに諦めて帰ろうとした。しかし、そのとき、町が騒がしいことに気づく。孫娘がイワオにさらわれたと思った会長が、人を集め、麗奈を捜していたのだ。
 山に登ってきた流星の父、冬彦から捜索隊の話を聞かされ、麗奈はまずいことになったと思った。まだ小学二年生だった麗奈が、夜中に、黙って家を抜け出したのだ。ひどく怒られるに違いない、と。
 でも、冬彦はイワオが麗奈をさらってここへ連れてきたと勘違いしたまま、イワオの説得を始めた。イワオにさらわれたことにすれば、自分は怒られなくて済む。幼い頭でそう考えた麗奈は冬彦に助けを求めた。驚いてパニックになったイワオは、誘拐なんてしていないと冬彦に必死に訴える。大男に詰め寄られ、動揺した冬彦は、病み上がりだったこともあり、雨の中、自ら足を滑らせ、崖から転落してしまったのだ。しかし、叫び声を聞いて駆け付けた町の人たちはイワオが冬彦を殺害したと誤解してしまう。
「それを麗奈が否定しなかったから、イワオは殺人事件の容疑者として連日取り調べを受けることになって」
 武蔵の話に、住民たちがざわつき始める。
「え? イワオは流星の親父さんを殺してなかったの?」
「麗奈をさらってないなら、なにひとつ悪いことしてねぇってことかよ?」
「守君よ、どういうことだ? 武蔵の言ってることは本当なのか?」
 こやぎ庵の店主の問いかけに、守は首を横に振る。
「いや、こいつは麗奈が死んだショックで、少しおかしくなってるんだ」
 その言葉に顔を歪め、武蔵は大きな体で守に詰め寄る。
「守さんこそ、麗奈の通夜の席でそんな嘘つかないでください。麗奈、途中で怖くなって、守さんたちにすべて打ち明けたんですよね」
「嘘だろ、守君たちもそれ知ってたのか? あんたも元会長も、イワオは子供の敵だとか、この町から追い出そうとかさんざん俺らを煽ったじゃねぇか」
「こやぎ庵さん、麗奈は間違いなくイワオにさらわれたんだ。あのままじゃ、イワオのせいで第二、第三の被害者が出ていたはず……」
「守さん!」と、武蔵が泣きそうな顔で彼の話を遮る。
「麗奈、この間酔って言ってました。イワオが自殺したとき、自分のせいかもってすごく怖くなったって。でも、家族に相談したら鼻で笑われて、『イワオは虫けら以下だから気にするな』って言われたって」
「おい、武蔵、いい加減にしろよ。おまえの言うとおり、イワオは自殺したんだ。それこそが犯罪者だって証拠じゃないか。無実の人間が焼身自殺なんかするわけないんだから!」
「そうかな?」と、仁美の口から疑念がこぼれた。「彼が自殺したのは犯罪者だったからじゃなくて、この町の人たちに追い詰められたからじゃない? さっきの聡介君みたいに」
 仁美の言葉に、たくさんの視線が聡介に向けられた。いまだ体を震わせ、怯えた目をおどおどと泳がせているその憐れな姿から、人々は慌てて目を逸らす。
 仁美に反論する者はなく、座敷は静まり返った。
「武蔵」 仁美の呼びかけに、彼は顔を上げる。
「流星君はイワオの自殺をどう受け止めていたんだろう?」
「最初は流星も麗奈の言うことを信じて、仲が良かったイワオに父親を殺されてショックを受けていたと思う。でも、あの十年前の祭りの少し前、どういう経緯かはわからないけど、麗奈が流星に真実を喋っちまって、それ以降、流星は麗奈を無視して口利かなくなった。流星は自分のせいでイワオが自殺したと思ったんじゃないのかな。たったひとりの友達だったのに、あいつの言うことを信じてやらなかったから」
「それで流星君はおしるこに農薬を入れた。一番に並んで食べると宣言していた麗奈ちゃんを狙って、イワオの復讐を果たそうとした」
「いい加減にして!」と、琴子が叫ぶ。「流星は被害者なの。誰かに殺害されたのよ!」
「そう思っていたから、わからなかったんです」と、修一郎が琴子を見る。
「音無のばあちゃんが崖から突き落とされ、放火で博士が亡くなり、痛ましい事件が続いたから、流星君も同じ犯人に崖から突き落とされたと考えてしまった」
「修一郎さん、そのとおりよ。流星はその犯人に殺されたんだわ」
「琴子さんは知ってるはずですよね、流星君が誰に殺されたのか。それは……、流星君本人でしょう? 麗奈ちゃんを殺そうと自分がおしるこに入れた農薬のせいで、関係ない人を四人も死なせてしまったから」
「修一郎、流星は自殺したってことか?」
「小学生の男の子が?」
「でも、こうやって説明されると、ありえない話じゃないよな」
 潮目が変わったのを感じたのか、「違う、違う、違う!」と叫ぶ琴子の顔からは、さっきまで張り付いていた慈しむような笑みが、完全に剥がれ落ちていた。
「じゃあ、あなたたちは義母を崖から突き落としたのも、博岡さんの家に火を放って殺害したのも流星だって言うの? あの子はそんなこと絶対にしてな……」
「それ、やったの、俺です」
 武蔵の突然の告白が、琴子の訴えをぶつっと断ち切る。
「武蔵、いい加減にしろ!」 黙らせようと声を上げた守に首を振り、武蔵は話す。
「崖の上で音無のばあちゃんの背中を押したのも、誰もいないと思って博士の家に放火したのも自分です。本当に申し訳ないことをしました。俺、自首して罪をつぐないます。でも……、流星を崖から突き落としたのだけは、俺じゃない」
「守君」と、修一郎が呼びかける。
「武蔵から話を聞いたけど、これ、武蔵だけが背負う罪じゃないよね」
「は? 俺はなにも知らないし、関係ない。本人がやったっていうなら、武蔵の責任だろ」
「本当にそう言える? 『音無のばあちゃんさえいなくなれば、この町は良くなる』『帰る家を失えば、町に害する博士一家がここから消えるかもしれない』心酔していた守君から繰り返し繰り返しそう聞かされれば、当時、まだ十三歳だった武蔵がどう突っ走るか、わかるはずでしょ? わかっててやらせたなら、殺人教唆になるんじゃない?」
 唇を噛み、うつむく守を見つめながら、こやぎ庵の店主がつぶやいた。
「どうなっちまってるんだ、この町は……」
 ぷっと吹きだすような笑いが響き、声を追った先にいた琴子と目が合う。
「なに笑ってんだ、あんた?」と声を尖らせるこやぎ庵の店主に、琴子は首を横に振る。
「ごめんなさい。笑ったわけじゃないんです。なんだか緊張の糸が切れてしまって」
 そう言いながら琴子は目の奥で笑っている。これが彼女の本当の笑い顔なんだ。
 その顔を傍に立つ涼音もじっと見つめていた。たまらない気持ちになり、仁美は琴子に尋ねる。
「琴子さん、本当は知ってたんでしょう? おしるこに農薬を入れたのは流星君だって」
 本当に緊張の糸が切れたのか、琴子はもうなにも答えない。ほんの少しこちらに顔を向けただけだ。それでも、言わずにはいられなかった。
「罪を犯していないエリカちゃんが日本中から叩かれるのを、どんな気持ちで見ていたの? 十年もの間、エリカちゃんは自由を奪われてるのに、なんとも思わなかった?」
 琴子は相変わらず目の奥で笑っている。激情は仁美の中だけにあって、琴子には届かない。彼女の心をそよとも揺らすことができない。誰かが、エリカのことを恨んでいたんだろうとヒソヒソ話す声が聞こえてくる。確かにエリカは琴子の夫とも関係を持っていたのだろう。でも……。
「エリカちゃんだけじゃない。琴子さん、涼音がこの十年、どんな思いで生きてきたか、考えたことある?」
「仁美ちゃん、いいから」
 涼音に止められたが、仁美は涼音がどれほどひどい目に遭ってきたか琴子にぶつけるように話した。しばらくすると、すすり泣く声が空気を震わせ、仁美は顔を上げる。だが、琴子は微塵も表情を変えていない。涼音の苦難に満ちた十年も、彼女の気持ちを震わせることはできなかったようだ。なにが琴子を歪めてしまったのだろう。この町で夫を失い、一人息子を失い、義母を看取り、想像を絶するつらい経験や後悔が、少しずつ彼女を蝕んでいったのか――。
 琴子には響かなかったが、心打たれた人は少なくなかったようで、あちこちからすすり泣きが聞こえた。意外なことに、そのうちのひとりは、こやぎ庵の店主だった。すすり泣きというより、嗚咽を漏らしながら、彼は琴子に食ってかかる。
「あんた、今の話聞いても、なんも感じねぇのかよ。しれっとしやがって、全部、あんたが引き起こしたことなんだぞ。息子がしるこに農薬入れたの、気づいてたんだろ? なんでそこで正直に話して、詫びなかったんだ? あんた、間違えたんだよ。そこでちゃんと認めて謝罪してりゃ、流星だって自殺なんかしないで済んだはずだろ。よく十年も、黙ったまま平気でいられたな。エリカと涼音にどうやってつぐなうつもりだ? 全部あんたのせいなんだから、とにかくここにいる涼音にだけでも、まずは土下座して詫びろよ!」
「おじさん、ありがとう。でも、もういいから、やめて」
 涼音が止めたが、こやぎ庵の店主の怒りは伝染していき、琴子を非難する声があちこちから上がる。
「こんな怖い人がすぐそばにいたなんて信じられない。どういう神経してんの?」
「おとなしそうな顔して、とんでもない悪魔じゃないか」
「自分が子育て失敗してんのに、責任をすべてエリカに押し付けて、よく平然と暮らせたもんだ」
「流星が悪いんじゃないよ。こんな母親に育てられたあの子が気の毒でしょうがない」
「おい、涼音もなんか言ってやれよ。おまえが一番言う権利があるんだから。こいつの息子に家族殺されてる修一郎と仁美もだ。まず仁美から、言いたいこと、ぶちまけてやれ!」
 仁美は大きく息を吸うと、琴子ではなく、この町の住人を見回し、叫んだ。
「もうやめよう!」
「は? なんだよ、それ、仁美?」
「みんなにお願いしてるの。こういうの、もうやめよう」
 くっくっくっという地を這うような低い声が響く。今度は笑っていた。琴子が――。
「なに笑ってんだよ? おまえのせいでエリカと涼音は……」
「私のせい? それ、本当に私のせいかしら?」
 狂ったように笑いながら話す彼女に怯み、口をつぐむこやぎ庵の店主に琴子は言い放つ。
「私はエリカさんが犯人だなんてただの一度も言ってない。そう決めつけて騒ぎ立て、彼女を犯人にしたのは、あなたたちじゃないの」
 琴子に睥睨され、彼女を非難していた住民たちも気まずそうに顔を見合わせ、黙り込む。
 ああ、この人は、利用したんだ。この町の人たちの同調圧力を。
「……ルシファー・エフェクト」
 仁美の口から言葉が零れ落ちた。
 この環境が、琴子を悪魔にしたのか――?
「あら、仁美さん、よく覚えていたわね。偉いわ。なにかご褒美をあげたいくらいよ」
「……じゃあ、ひとつだけ答えて。流星君の復讐で麗奈ちゃんに毒を飲ませるなら、酵素ジュースにだけパラコートを入れればよかったはずだよね。どうしてミックスジュースにまで?」
 琴子は仁美に近づいて顔を寄せ、誰にも聞かれないよう耳元でささやく。
「カムフラージュよ」
 麗奈だけを狙った犯行だと気づかせないための――?
 一瞬息ができなくなった。涼音が言ったとおり、本当に怖いものはまだここにいたんだ。
 麗奈以外、誰も命を落とさなかったことに、仁美は心の底から感謝した。
「あなたたちさえ、いなければ」
 そうつぶやく琴子の視線の先には、いまなお震え続けている聡介がいる。
 仁美を振り返り、琴子はふっと微笑む。
 ぞわり、と冷たい戦慄が背筋を這い上がった。
 
「これ、私が上っても折れないかな?」
 恐る恐る、仁美は梯子段に足をかける。ここに来るのは十年ぶりだ。取り壊された景浦家の敷地にポツンと残されたツリーハウス。そこで仁美を待っていたのは――。
「大丈夫だよ、仁美ちゃん。この間、おじいちゃんが補修してくれたから」
 相変わらず無表情だが、それでも涼音の顔は前に会ったときより数段明るくなっている。
 気持ちいい風が細い枝を揺らし、吹き抜けていく。
「やっぱり落ち着くね、ここ。エリカちゃんの再審は、まだ?」
「うん。でも、弁護士の先生方が頑張ってくれてるし、マスコミも騒いでるから」
「エリカちゃんに土下座して謝りたいけど、会ってもらえるかな」
「忘れっぽいから、『仁美~!』って抱きついてくるかも」
 エリカにそうしてもらえたら、どんなにいいだろう。そして、十年分のつぐないをさせてもらえたら。
「琴子さんは、相変わらず?」
「うん。否認を続けてるらしい。あの人が自白するとは思えないし、裏山からパラコートは見つかったけど状況証拠しかないから、すごく不安。弁護士が冤罪だって騒いでるみたいだし」
「仁美ちゃんと修一郎君がいなければ、母は冤罪で死刑になっていたかも」 
「涼音、エリカちゃんが帰ってきたら、これまで我慢してたこと、全部やって。私、もう嫉妬とかしないから」
「嫉妬? 仁美ちゃんが、私に?」
「しまくってたけど、涼音と修一郎がよりを戻すのは仕方ないことだとも思ってる。だってエリカちゃんが逮捕されなければ、ふたりは付き合って、結婚してたと思うから」
 黙り込む涼音の、感情をさらに削ぎ落したような顔が、仁美を不安にさせる。
「仁美ちゃんは……」
 身体を固くする仁美に、涼音は言った。
「……バカなの?」
「……え? ちょっと待って、なに、それ? 涼音、修一郎かと思った」
「だって、修一郎君の真似したもん」
「えっ? 今の物真似だったの?」
「仁美ちゃん」と軽く睨み、涼音は続ける。「修一郎君、電話で話したとき、言ってたよ。『仁美といると、落ち着く。ホッとするんだ』って」
「……修一郎が?」
「それって、修一郎君は仁美ちゃんを選んで結婚して、今も幸せってことじゃないの? しっかりしてよ、あんな可愛い子まで授かったのに」
「涼音……は、それでいいの?」
「いいもなにも……。正直、この十年、つらいときにそばにいてくれたらなって考えたのは、修一郎君じゃなくて、……仁美ちゃんだった。仁美ちゃんは小さいときからずっと、いつも私を助けてくれるヒーローだったから」
「涼音……」
 いったいどこで間違って、こんなに大切なものを失いかけたんだろう。
 たぶん、私は……、私たちは、これからも嫌というほど間違えるに違いない。でも、そのときは、これまでみたいに周りに流されず、立ち止まって自分の頭で考えよう。大切なものをこの手で守れるように。
「パパー、見てー! おうちがお空飛んでる!」
「あ、来た、来た。こっちだよー」
 窓から身を乗り出し、手を振る仁美の胸元を、涼音が指差す。
「仁美ちゃん、それ……、持ってたの?」
「ああ、これ? 鎖はなくしちゃったけどね」
 揺れるネックレスのハート型のヘッドを掴み、仁美は嘘をつく。あの晩、鎖を引きちぎり、ネックレスを壁に投げつけた。何度も捨てようとしたのに、その度、捨てられずに思い留まったのは、母がくれた形見というだけでなく、特別なものを感じていたからだろう。
 涼音も母からもらったペアネックレスのかたわれを襟元から引っ張り出す。
「仁美ちゃんの、ちょっとだけ貸して」
 言われるまま、外して涼音に渡した。
「『つばさ』っていうんだね、お嬢さんの名前」
「私がつけたんじゃないよ。お義母さんのリクエストだから」
「本当? そっちのほうがすごくない? お義母さん、これ知らないんでしょ?」
「もちろん」
「ねぇ、これ、見せてあげようよ、つばさちゃんに」
「ダメダメ、こんなの見せたら、絶対欲しがって取られちゃう」
 でも、いつか見せてあげたい。今、涼音の手の中で、ふたつのハートがつなぎ合わされ、翼になった。亡き母の想いを乗せた翼が、陽の光を受けキラキラと輝いている。
「ママー、だあれ?」
 下まで来たつばさが、涼音を指差す。
「涼音ちゃん。ママとパパの大切なお友達で、つばさの命の恩人だよ」
「いのちのおん……って、なぁに?」
「つばさを助けてくれたヒーローってこと」
「つぅちゃんのヒーロー!? 悪者えいっ! ってやっつける?」
「そう。涼音ちゃんは誰よりも強いスーパーヒーローなんだよ」
「嘘よ」と、慌てた涼音が、胸の前で手を振る。
「つばさちゃんのママのほうがずっと強いんだから。ママが私のヒーローなのよ」
「えーっ、じゃあ、つぅちゃんもヒーローになる!」
「じゃあ、つばさちゃんはママのヒーローになって、ママのこと守ってあげてくれる?」
 涼音に尋ねられ、少し照れてもじもじしたあと、つばさは「うん!」と満面の笑顔を見せた。
「よーし、じゃあ、ヒーローつばさも、空飛ぶおうちに上るか?」
 修一郎に小さな足を梯子段にかけられ、つばさは不安そうに仁美を見上げる。
「ママー、怖くない?」
「あれ? つばさ、ママのヒーローになってくれるんじゃなかったの? ヒーローなのに、怖がりさん?」
 みんなが笑い、つばさは唇を尖らせる。
「つぅちゃん、怖くないもん」
「えー、怖くないの? ママは怖いけどな」
「えっ? 怖いの?」
 驚くつばさに、早く上っておいでと仁美は微笑み、手を差し伸べる。
「大丈夫。怖くないよ」
「本当?」
「うん。怖いけど、怖くない」
 翼と、涼音と、修一郎が、一緒にいてくれるから――。

(了)