第五章  円空  enku(承前)

 

 あってよかった――。中尾社主の邸宅は、渋谷区でも有数の閑静な高級住宅街に構えられていた。都心にありながらも静かで広い一軒家が多く、近寄りがたい空気さえも漂っていた。そのなかでも、中尾邸は日当たりのよさそうな向きと高さで、ひときわ面積も広くて威圧感があった。敷地は背の高い土壁の塀に囲まれて、大きな木がその向こうから覗いている。中尾という表札が、玄関灯に照らされてぼうっと光っていた。外側から屋内はいっさい伺えず、人がいるのかどうかも分からない。
「立派な門だな」と山田は気後れする。「まだこちらにお住まいなのはよかったけど、勢いで来たものの、いきなり訪ねていいのかな。もう七時を過ぎちゃってるし」
「山田ってば、今更なに言ってんのさ! 大丈夫だよ、中尾のおっちゃんは優しい人だから許してくれるでしょ。私もこの家には何度か遊びにきたことがあるし、庭だけでもバドミントンができそうなくらい広いんだよ」
 それは子どもの頃の記憶の話じゃないのか? 今じゃ円花にとっても雲の上の存在であり簡単にお目にかかれないほどの肩書の人では? そう気を揉んでいるそばで、円花は躊躇なくインターホンを押した。
「はい、中尾です」
 女性の声が返ってきた。奥さんだろうか。
「あの、日陽新聞社社員の、雨柳円花と申します。こんな時間帯に申し訳ありません。中尾社主はご在宅でしょうか? お話したいことがありまして」
 ややあってから「少々お待ちください」という声があった。
 それから一分ほど、なんの返答もなかった。さすがにいきなりすぎたか。社主を怒らせたらこのあとどうなってしまうのだろうと怯えていると、立派な門の脇にあった小さな通用口からエプロン姿の五十代くらいの女性が顔を出した。奥さまではなく、お手伝いの方だろう。
「お待たせいたしました。こちらへどうぞ」
 さきほどインターホンで対応した声と同じだった。追い返されることを覚悟していた山田は、心臓が高鳴る。一方、円花は緊張している様子もなく「ありがとうございます」と友人の家を訪ねるように門をくぐった。
 敷地内には、日本庭園の別世界が広がっていた。ライトアップされた庭を横切るように延段がつづいて、小さな橋のかかった池まである。門から玄関先までこれほど離れている個人宅を都内で見るのは、はじめての経験だった。エプロン姿の女性は邸宅の入口まで案内すると、りガラスになった引き戸を開けた。
 昭和のテイストを感じる広々とした玄関には、紅葉の絵の描かれた木の衝立ついたてが置かれていた。靴はそのままでいいと言われ、その通りにして上りかまちにあがった。まるで料亭に来たような長い廊下を歩いて、応接室へと案内される。
「中尾は今参りますので、少しお待ちください」
 応接室には、さまざまな美術品が置かれていた。壁にはユトリロによく似た風景画が掛けられ、骨董品らしき棚には染付の壺が飾られている。ソファも座り心地がよく、ここが社主の家でなければ、あっという間に深い眠りに落ちてしまいそうだった。
「見て、あれ」
 山田に促されて、応接室の奥にあった小さなテーブルに目をやると、今朝の日陽新聞や他紙までずらりと置かれている。
「中尾のおっちゃんって、日陽新聞だけじゃなく何社もの新聞に目を通すことが大切な日課なんだって昔言ってたな」
 たしかに山田も、前回釣り場で会ったときに文化部の頑張りについて報告すると、漱石の記事は読んだと聞かされた。
「お待たせしました」
 現れたのは、社内の釣り場で顔を合わせていた釣り師とは別人のように貫禄と渋みを漂わせる、着物姿の初老男性だった。その姿で出会っていれば、間違ってもストーカーだとは疑わなかっただろう。
「突然押しかけて、誠に申し訳――」と山田が深々と頭を下げるのを押しのけ、円花が「いやー、こんな時間にごめんねぇ、中尾のおっちゃん! にしても久しぶりだよ、元気してた?」と冷や冷やするほど砕けた口調で手を挙げる。
「あのね、円花ちゃん! 前も言ったけど、僕はもう君にとって『中尾のおっちゃん』ではなく『中尾社主』なんだよ。敬語も使ってくれないし突然訪ねてくるなんて、他の社員に知られたら、示しがつかないじゃないか」
 円花はこちらに目をやって「ごめんよ、他の社員にはもう見られちゃったね」と額に手をやった。
「まったく相変わらずなんだから」と言いながら、社主の口調に怒りはなく、久しぶりに遊びにきた子どもを歓迎しているような、親しみ深い響きがあった。「で、話したいことがあるって?」
「たくさんあるんだよ、話したいことは。まず前々から聞きたかったのは、日陽新聞社の買収問題について。あと折り入って、中尾のおっちゃんにどうしても渡したいものがあってさ」
「だから中尾社主ね」
「もう、そうだった!」
 悔しがる円花から目で合図をされ、山田は鞄からファイルを出した。そして民男がしたためた中尾宛の手紙をテーブルのうえに差しだす。中尾はかすかに眉を上げると「まさか民男さんから?」と受けとった。
 驚きを隠せない様子の中尾に、円花はこれまでの経緯を説明した。連載のつぎのテーマについて調べるために改めて民男の資料を見返していると、この手紙を見つけたこと。そして中断していた円空仏の調査を自分たちが引きつぐ形で、昼間に愛知県の寺を訪れたところ、新たな胎内仏が見つかったこと。
「なるほど……ああ、憶えてるよ。民男さんは生前、たしかにその薬師寺にこだわっていたからね。円空の知られざる作品があるに違いない、と。ただ体調が悪化して、交渉もなかばで頓挫してしまった。君たちの話を聞きながら、民男さんが生前、未発見の胎内仏についてよく話していたのを思い出したよ」
 感慨深げに中尾は言ったあと、老眼鏡をかけて手紙に目を通した。
 時間をかけて読み終えると、小さく肯いて封筒にしまった。
「どうもありがとう。今夜はこれを届けにきたんだね?」
「うん。でも他にも理由があるんだ。私たちはどうしても円空仏の発見を日陽新聞の記事にしたい。もっと言えば、今後も文化部の仕事をつづけていきたい。今と同じメンバーと編集方針で」
 円花は身を乗りだして、いかに文化部の仕事が社会にとって必要だと感じているかを話した。お金だけが物事を図る基準ではない。むしろ経済の繁栄だけを目的にすると、人々の心は貧しくすさんで、不幸な世の中になってしまう。文化は人々がより幸せに生きるために必要で、そのことを伝えるために文化部は存在するのだと気がついた、と。
「おじいちゃんは亡くなる前に、困ったことがあったら中尾のおっちゃん――じゃなくて中尾社主に頼れって、私にも言ってた。どうか力を貸しておくれよ!」
 中尾は難しい顔で腕組みしていたが、やがて首を振った。
「円花ちゃんの言いたいことは、もっともだと思うよ。文化の大切さについては、私も人並み以上に分かっているつもりでいる。なんせ民男さんの友人だったんだからね。でもお金に還元されないものの重要性は、そう簡単には理解されにくい」
 反論の余地はなく、円花は「そんな言い方、ひどいよ! 私たちだって勇気を出してここに来たのに」と立ちあがった。気まずい沈黙が流れる。円花がここまで熱意を見せても無理なら、もうなにも変わらないかもしれない。
「以前、山田くんには伝えたけれど、文化部がなくなっても、君たちが解雇されるわけじゃないよ。道理が通らないことも世の中にはある。記者をやっていれば尚更、そのことは身に沁みているはずだ。別の形で社会に貢献すりゃいいじゃないか――」
「待ってください!」
 居ても立ってもいられず、社主の発言を遮るように山田は叫んでいた。
「なんだね? 私の意見は間違っているかい?」
「いえ、なにも。僕の言いたいことはひとつだけです。僕はこの際、記者の役割とか文化部の存在意義とか、どうでもいいです。ただ、今の体制でいられなくなったら、僕は彼女と一緒に記者をつづけられなくなる。それが嫌なんです」
「え?」と社主は目を丸くした。
 奇妙な沈黙が流れた。円花も心なしか引いた目でこちらを見ている。あれ今、俺なにかおかしなことでも言ったか? 自分でもわけが分からなくなって、「あ、いや、つまり今の連載が好きってことなんですけど」ととりつくろう。
「フハハハ、若いとはいいもんだね」
 なぜか社主は、愉快そうに声をあげて笑ったあと、手紙を着物の懐にしまった。そして釣り場にいるときと変わらない、穏やかな笑みを浮かべながら、「君たちの言いたいことはよぉく分かりました」と口癖のように呟いた。
「話はここまで。そろそろ帰りなさい」
「でも」と、円花は戸惑うように山田の方を見る。
「つぎに君たちが出社するのは?」
「明日だけど」
「では、明日になれば、私の本当の見解がきっと分かるでしょう。ただし今、私が君たちに伝えたことは、しっかりと胸にしまっておくように。明日からの仕事に備えて、ここはお引きとり願おう」

 翌朝七時、山田は目覚ましのアラームが鳴る前に起床し、朝食をとってスーツに袖を通した。通勤用リュックを背負ってマンションを出発すると、いつもと変わらない朝の景色がつづいていた。よほど疲れていたのか昨夜熟睡したおかげで、身体は軽くて頭もすっきりしているが、気分は晴れない。
 結局、中尾のおっちゃん、ではなく中尾社主を説得できなかった。
 いよいよ真剣に自分の身の振り方を考えねば、と通勤電車のなかで転職サイトを検索する。とはいえ円花のようにいさぎよく退職するという勇気はない。自分が誇れるのは日陽新聞社内で一生懸命にやってきたという事実だけで、記者としてウリがあるわけでもない。ひとまずは社内の人事異動を待って、大人しく従うのが賢明かな。
 悶々と考えを巡らせながら出社すると、朝一にもかかわらず多くの社員がおり、いつになくオフィスは活気に満ちていた。
「おはようございます」
 周囲に挨拶しつつ、通勤リュックをどさりと下ろしたあと、山田はとなりのデスクを見る。円花のパソコンはまだ起動していなかった。中尾との面会のあと、円花も意気消沈していた。もう日陽新聞社には現れないのではないか、と心配になってしまうほどのしょんぼりした様子だった。
「暗い顔だな」
 声をかけてきたのは、深沢デスクだった。
 名古屋市の寺を訪れていたことは当然、黙っていた。許可なく出かけたうえに、組織内の根回しもなく中尾社主の家を突撃したことを知られてしまえば、きっと雷を落されるだろう。
「昨日は私用で忙しかったもので」
 歯切れ悪く誤魔化すと、デスクは「ははは」となぜか上機嫌そうに笑った。「そうだったな、昨日はおまえも円花もいなかったんだな! それなら仕方ないか」
「仕方ないって?」
 そう訊ねたとき、「おっつー、山田と深っちゃん」という円花の声が飛んできた。普段に比べれば勢いやボリュームは半減しているが、とにかく出勤してくれて安心する。今日は円花に、たとえ文化部がなくなっても早まって退職しない方がいいのではないかと説得しよう。そんなことを考えていると、深沢デスクがニヤニヤをおさえられない調子で教えてくれた。
「文化部の存続が決まったぞ。昨日おまえたちがいなかったあいだに、部長から報告があったんだ。詳しいことはメールボックスを確認してみればいい。今さっき記者みんなにもメールが送信されたばかりだから」
「どうして今になって――」と山田が確認するのをまた押しのけて、円花が「マジで! どうして急にそんな展開になったの? 前の会議じゃ、部長も深っちゃんもお葬式の参列者みたいな顔してたじゃない」と声を大きくする。
「あの中尾社主がついに動いてくれたんだ。自身の持ち株を手放すことを条件に、記者たちの配属や紙面の編集方針には一切口を出さないことを約束させたらしい。断ればすべて白紙に戻すとまで強気に出て、イチかバチかの勝負だったそうだが、Uurlも承諾せざるをえなかったって」
 拍子抜けして、円花の方を見る。どうやら彼女も同じ気持ちでいるようだった。つまり昨夜は、社主の邸宅に行って直談判せずとも、独自に動いてくれていたということだ。だったらそう教えてくれればいいのにと思わなくもないが、それが中尾の食えない人となりなのかもしれない。
「あと、文化部の将来については、君たちの連載の評判がよかったことも、少なからず影響したと思うよ」
 そういうことももっと早くに言ってほしいものだ。深沢デスクは会議の予定があるらしく、早々とオフィスを出ていった。円花は山田の背中をバシバシと叩き「今夜は宴会だね! というか、今からパーッとやっちゃう?」と満面の笑みを浮かべていた。

エピローグ

 昨晩までの嵐が嘘のように穏やかな朝、山田は釣り用の上着にジーンズという格好で会社にやってきた。ただし建物は入らずに通用口から裏手に回る。〈ツレル・パターン〉によると釣れるというこの日、ここに来れば会えるに違いないと思ったからだ。
 予想通り、一人の老釣り師――中尾社主が群青色の海に向かって釣り糸を垂れていた。山田は数メートル先まで近づくと、持参したクーラーボックスを地面に置いて「おはようございます」と声をかけた。
「来るんじゃないかと思っていたよ」
「先日は、突然押しかけて申し訳ありませんでした」
「いいんだ」
 うっすらと雲のかかった対岸のビル群が、初冬の日光を浴びてきらきらと輝く。折り畳みチェアに腰を下ろし、釣り竿の準備をしたあと、黙々もくもくと釣り糸を垂らした。あたたかい太陽と冷たい風のバランスがちょうど心地よく、いつもなら眠気を誘われただろうが、となりにいる老人が社主だと分かったせいで緊張しっぱなしだ。
「その後、文化部のみなさんはどうかね」
 中尾から訊ねられ、山田は「はいっ」と力を込めて返事する。
「なんか今日は別人みたいだね」
「そ、そうでしょうか」と冷や汗をかきながら、近況を報告した。
 あのあと、円空仏を所蔵する名古屋市内のお寺には取材をつづけ、住職が調査を依頼した地元の博物館や円空の専門家が、胎内仏が本当に円空による作だと突き止めるまでの過程を追った。
 新たな円空仏が時を経て見つかった、という記事は夕刊の一面を飾り、漱石のスクープにつづいて文化部の存在感を示せたと好評だった。といっても〈知られざる日本の技へ〉は円空仏を最終回として予定通り終了し、今では円花は別の先輩記者と新しく、民藝についての連載の準備をはじめている。
 山田も今、少し前からあたためていた地方の文化事業の現状と課題についての取材を進めようとしていた。それははじめて深沢デスクからゴーサインの出た単独企画だ。各回さまざまな地域へと取材に訪れた〈知られざる日本の技へ〉での経験や、幼なじみの丸吉との再会からアイデアを得たものだ。
 とはいえ、円花とは相変わらずとなりのデスクに座って日々顔を合わせている。マイペースぶりは健在で、彼女をはじめ他の記者たちと切磋琢磨している。
「それは安心だね」と中尾は朗らかに笑った。
「本当にありがとうございました。中尾社主のお力のおかげです。いつぞやは偉そうに物申してしまい、恥ずかしい限りですが」
「そんなことないよ、山田くん。じつは君がわが社の最終試験で言ったことは、未だによく憶えているんだ」
 緊張のあまり、自分ではほぼ忘れてしまっているので、山田は下手なことを言わなかっただろうかと慌てる。
「釣りを通して、自分はいろんなことを学んできた。自然の摂理を論理的に整理し、試行錯誤しながら魚を追う。しかしどんなに努力して正確な方法を見つけたと思っても、なぜかうまくいかないことの方が多い。そんなようなことを君は言ったんです」
 就活生の言葉を憶えてくれているなんて、と山田は感激する。ずいぶん前のことなので自分でも忘れていたが、改めて引用されると恥ずかしい。社主は構わず、目をつむって語りつづける。
「逆に、なにも知識のない素人が突如として幸運を手にすることもある。答えがないことを面白がれる人じゃないとつづかないけれど、つづけていれば必ず報われる。そして個人の戦いに思えるけれど、じつはみんなで協力するほどに大きな獲物が得られるってね」
 「憶えていてくださって、ありがとうございます」
と感激して見せながら、内心、そんなこと言ったかなと首をかしげる。
 このオジジ、ではなく中尾社主は一見いいことを言っているようで、どうも適当さが拭えないのはなぜだろう。実際、漁船ってたいてい個人でやっているし、釣りは孤独になれるからこそ好きだという人も多い。いくら緊張していた場とはいえ、心にもないことを言うとは思えなかった。
「ま、お礼を言うのはまだ早いですよ。引きつづき円花くんと協力をして、いい記事を書いてください」
「はい、もちろんです!」と気をとり直して大きく肯く。
「それが君の熱烈な希望だったんだからね」
 中尾がこちらを見て、ニヤリと笑った。
「え、熱烈? いや、あれはちが――」
 慌てる山田の手に、ガツンとアタックがあり、社主からも鼓舞される。
「来た来た、浮きも動いてるよ!」
 とりあえず、こいつを釣りあげることに集中しよう。

(了)