第五章  円空  enku(承前)

 

 名古屋名物に満足したあと、二人は目的地である薬師寺やくしじに向かった。地下鉄の駅からほど近いところにあり、都会の喧騒けんそうに身を隠すようだった。入口はフェンスで区切られたそっけない林道だったが、進んでいくと立派な二重構造のかわら屋根をのせた山門に迎えられた。
 そこは中国、当時のみんから亡命した王族出身の医者によって建てられた寺だった。亡命者は母国で政治的なトラブルにみまわれ、名を変えて日本に逃げてきたという。江戸幕府から丁重に保護され、世話を任された尾張おわり藩のもとで医業をはじめたが、庶民の療治をしたいという理由から町医者になった人物だ。そこで与えられたのが、この薬師寺の土地だった。
「権力者だけじゃなく、一人でも多くの大衆を救いたいと考えたわけだな」
「だからこそ、円空と心を通わせて、たくさんの仏さまを彫らせたんだろうね」
 事前に確認した通り、円空も一ヶ所に留まって為政者のためだけに彫るのではなく、旅先のあちこちで出会った人々の幸せを祈って仏像を配り歩いた。亡命医の志に共鳴したからこそ、すばらしい仏像をそこでもつくったに違いない。
 普段は一般公開をしていないらしいが、事前に電話をかけて民男の名前と新聞社の取材であることを告げると、円空仏を見学してもいいと快諾してくれた。とはいえ、記事になるチャンスは皆無に等しいのだけれど。
 対応してくれた住職は、想像していたよりも若く四十代半ばに見える男性だった。民男の調査に協力していた先代は、病気のために二年前に他界しており、今では息子であるこの男性が継いでいる。
 冷たい風が吹き、木々が葉を落としはじめた境内を、住職は案内してくれた。
「私も、当時は見習いの立場ながら、雨柳民男さんという学者さんがうちを訪ねてこられたことはよく憶えていますよ。たしか中学生のお孫さんも連れてらっしゃって。個人的には民男さんよりも、そのお孫さんの方が記憶に残っていますね。いきなり友だちみたいに話しかけられて面食らったので」
 まさか本人が目の前にいるとは思っていない住職は、笑いながら話した。
「失礼なことをしてすみません……じつはその孫って私のことなんです」
 円花が照れくさそうに手を挙げると、住職は目を見開いて「え、あなたが! すっかり大人の女性になってらっしゃるので、まったく気がつきませんでした。こちらこそ失礼なことを言ってしまい、申し訳ありません」と慌てた。
「いえ、親切にしていただいて、ありがとうございました」
「新聞記者になられたとは驚きですね。そういえば、戦後まもなく円空が注目されるようになったのも、中日新聞の前身である名古屋新聞の記者が、円空仏についての記事を連載したからなんですよ。その際、うちの寺も取りあげてもらったそうで」
 話をしているうち、境内の心臓部ともいえるお堂にたどり着いた。
「ここに安置されているのが、わが寺で代々受け継いでいる円空仏です」
 お堂は古びた灰色の木造で、階段を上ると賽銭さいせん箱が置かれている。住職は脇にある階段をのぼって、畳になった祈祷所に入らせてくれた。畳のさらに奥には仏壇があり、暗さに目が慣れてから覗きこむと、数々の円空仏が安置されていた。
 優しい、というのが第一印象だった。
 中央にある、腰の高さほどの仏さまは、薬師如来像だという。人々を病苦から救うと信じられてきた。通常は、左手に薬の壺や宝珠ほうじゆを持ち、右手では平穏な心を与えるという意味のポーズをとるというが、円空が彫ったのは、それらを簡略化して、じっとこちらを見つめる仏さまだった。
 細かなところは抽象化され、木の切断面やふし、ノミを入れた跡など、ほとんどそのままにしている。まだ三十代だった若き円空がつくった作品でありながら、彼独自の様式が徐々に完成されつつあることが分かった。
「笑ってるね」
「ああ、楽しそうな感じがする」
 山田は肯いた。それでいて、神さまが宿っていそうなおごそかさも備えているのは、どうしてなのだろう。慈愛というのか、見る者を無条件に受けいれてくれるような、懐の広さを感じた。
 しばらく鑑賞させてもらったあと、円花は住職に訊ねた。
「じつは祖父はこの薬師如来になぜかこだわって、再度訪問しようとしていましたが、その理由がなんだったのか、ご存じではないですか」
 住職は首を傾げた。
「私にはなんとも……もし先代が生きていれば確認できましたが、今では知りようがありませんね。ただ先代は訪問者に対して、よく調査を断っていました。仏さまは人々の祈りの対象となる神聖な存在なので、易々と手で触れてはいけない、と。事情が分からないままに見ていた記憶ですし、それが雨柳民男さんに対してかは分かりませんが」
 そのとき、住職のスマホが鳴った。
「ちょっと待っていてくださいね」と住職は席を外して、やりとりは中断された。

 畳の隅に腰を下ろし、円空仏を拝んでいると、円花は古い記憶がよみがえったらしい。円空が残したという和歌の一首を、すらすらとそらんじた。それは、生前の民男がこの寺で教えてくれた歌だったそうだ。

   遊ぶらん 浮世の人は 花なれや 春の初めの うぐいすこえ

「鶯の鳴く声によろこび、花をでて遊ぶ人自身が花であるっていう意味なんだって。あの手紙にも書かれていたけど、おじいちゃんは私に、つらいときでも明るい心を忘れちゃいけないよっていうメッセージを、名前を通して遺してくれたんだね」
「つまり、円花っていう名の、円の字は円空からで、花の字はその和歌からとったっていうことか」
「たぶん。私の記憶が正しければね」
「いい名前じゃないか!」
 感動しながら、円空がそんな希望に満ちた歌を詠んでいたという事実にも、山田は驚かされた。
 というのも、民男が残した資料によると、私生児として生まれた円空は、地元で「まつばり子」、岐阜羽島はしまの方言で「秘密の子」と呼ばれ、人々のそしりを受けながら育ったらしいからだ。だから成長しても、一ヶ所に定住しないことで自己を隠そうとし、旅先でも出自を偽って身の上話を口にしなかったとか。
 なにより切ないのは、過去を忘れようとしながらも、修行の折々に美濃に戻り、どこよりも多くその仏を奉納していた事実だった。ふるさとから逃れたいと思う一方で、途方もない憧憬どうけいを抱いていたわけである。そんな円空の心に、きっとこの寺をつくった明からの亡命者も共感したのだろう。
「円空が山に入ったきっかけって知ってる?」
「たしか母を洪水で亡くしたことだっけ」
「その洪水では、千五百人を超える人々が亡くなったらしいんだよね。あまりにも深い悲しみに襲われて、生きる道を模索するために、一人ぼっちで命を懸けたつらい修験道を選んだらしいの」
 円空の母が亡くなったとされる寛永期は、島原一揆をはじめ、各地で反乱が起こって何万人という人が惨殺されている。というのも、地震によって誘発された富士山の噴火のせいで、噴煙が空をおおって冷害が多発し、飢饉に見舞われたからだ。江戸では大火まで起こったという。
 そんな暗い時代に生まれ育ったのが、円空だった。
 そして円空は三十代なかばで蝦夷地えぞちに向かう。その際、死んだ人の霊に会えるという恐山おそれざんにも立ち寄ったのではないか、というのが民男の仮説だった。その証拠に、恐山の近くには円空がつくった地蔵が多く奉納されている。帰ってきて最初にとりくんだのが、この薬師寺での仕事だった。
「どうして自分が生き残ったんだろうっていう気持ちもあっただろうね。それでも、円空が仏像をつくるきっかけは、いつも偶然生まれた信頼関係だったんだって。旅先で出会った人たちが円空に材木を与えて、完成した仏像を大切に引きとって今に伝えてる。それってすごいことだよね」
 花を愛でて遊ぶ人の心が花、という和歌をふり返る。
 深い闇を生きてきたとしても、円空は心に花を絶やさず、心はいつも春だった。そんな円空の彫った仏だからこそ、どれも優しさとユーモアを持っている。また、多少わが道を行きすぎるときもあるとはいえ、円花が無意識のうちに周囲を明るくするような性格なのは、民男の教えがあったからなのだと再確認した。
「やっぱり私、住職に本当のことを言うよ」
「本当のことって?」
「新聞の記事にできなくなったって」
「え、今更? 怒らせるだけかもしれないぞ!」
 山田が慌てて止めたのは、以前のようにその場を無難におさめるためではなく、円花が傷つくのではないかと心配したからだった。
「もちろん分かってるけど、円空仏を見てたら気が変わってきた」
 円花は円空仏を見つめながら、決意したように立ちあがった。

 ちょうど戻ってきた住職に、円花は頭を下げて事情を説明した。本当は、日陽新聞の連載は打ち切りになってしまい、今回取材をさせてもらっても、記事になる見通しは立っていないのだ、と。
「それでも、祖父がこのお寺にこだわっていた理由を知りたくて、黙って訪問してしまいました。おかげで祖父との大切な記憶を改めて思い出すことができましたが、本当に申し訳ありません。今日もできれば、近くで円空仏を見せてもらえないかという甘い考えを抱いていました」
 戸惑ったように、黙って円花の話を聞いていた住職は「どうか頭を上げてください」と促した。
「じつは私も、最近よく考えていました。円空は市井の人々のために仏を彫ったのに、誰にも触れさせず、誰にも近寄らせないというのは、果たして正しい円空仏の在り方なのだろうか、と。文化財を守るのは重要な使命だとは分かっていますが、うちの寺では、最近めっきり檀家さんの数も減ってしまい、このままでは社会から取り残され、廃寺になる運命です。昔の教えを頑なに守るのではなく、柔軟に世俗の調査に協力しても、きっと先祖も怒らないでしょう」
 思いがけない話の展開に、山田は「ということは、つまり?」と訊ねる。
「ええ、調べていただいて構いません。取材でないのならば、『ここだけの話』として秘密にしやすいですしね。雨柳民男さんの熱意は、いまだに私の心に残っています。そのお孫さんなら、きっと悪いようにはしないでしょう」
 円花は山田と顔を見合わせると、「ありがとうっ!」といつもの軽い調子に戻って住職の手をとり、ぶんぶんと振った。

 円空仏は一メートルほど高くなった舞台のうえで、像の大きさに合わせた古い木造の台座に置かれていた。舞台のうえは神聖な場としているので、数ヶ月ごとに住職自らが掃除をする以外、まったく人は立ち入らないという。
「では、近くから拝見させてもらってもいいですか?」
 円花は改めて許可をとり、「どうぞ」と住職は肯いた。
「じつはうちの円空仏は昔、病を患った人たちに貸しだされていたみたいですね」
 その話を聞いて、山田は思わず仏像に手を合わせた。
「身分の差や時代を超えて、人々に広く愛されてきたんですね。間近に見ると、いっそうその理由が分かります」
 台座の背後には人がやっと通れるほどの空間が開いていた。円花は仏像の裏側にまわって、渦巻状の模様が彫られている背中にペンライトを当ててつぶさに眺める。
「あれ、この亀裂は?」
 よく見ると、それは蓋だった。
「なんでしょう……私もよく分かりませんね。父から仕事を引きついでまだ数年、一度も動かしたことはなかったので」
「なかが空洞になっているのかもしれませんよ! この時代、乾漆像かんしつぞうといって、内側をくりぬいて制作される技法が定着していました。その代わりに、内部に密かな経典や胎内仏たいないぶつを隠していた例もあります」
「まさか」と住職は半信半疑らしい。
「これまで円空仏に空洞があった例は?」
 山田が訊ねると、円花は意気揚々と答える。
「最近になってから、壮年期につくられた仏像のなかに、鏡や女性用のお守りが発見された例があってね。調べてみると、円空のお母さんの形見だった可能性が高いみたい」
「そんな例が?」
 住職もその話で意を決したようだ。ライトを片手に、蓋の構造を確かめたあと、拳で軽くたたいてみた。コンコンという乾いた音が返ってくる。少しの力を加えただけで、カタリと蓋が動いた。
「開きそうですね」
 興奮する山田に、住職は納得したように言う。
「なるほど、先代たちはこの中身を知っていたんでしょう。私は子どもの頃から、なかを開けると祟りにあうと教えられてきました。円空仏を見世物にしてはいけない、ましてや仏さまの中身など公表するべきではないとくり返していたんです」
「中身をそのままにしておくためですね?」
「おそらく。でも今日お二人がここに来て、蓋の存在に気がついたのも、なにかのご縁があっての導きでしょう。やはり今のままで放ってはおけません」
 住職は仏像本体を傷つけないように注意しながら、蓋を開けた。入っていたのは、五センチにも満たない木片に彫られた、無数の仏像たちだった。ちかけたものもあるが、多くは虫食いもなく美しい状態を保っている。どんなに彫りが浅くて短時間でつくられたような仏も、一様にほほ笑んでいた

 東海道新幹線の車窓には、徐々に暗くなる雨空が広がっていた。
 民男との思い出をふり返っているのか、円花はぼんやりと眺めている。
「なんやかんや言って、よかったじゃないか。新たな円空仏が発見されて、知られざる歴史が明らかになるかもしれないんだから。わざわざ愛知まで足を運んだ甲斐もあったってもんだ。あのお寺にとってはいい結果になったよ」
 円空仏の胎内にあった小さな仏像たちは、おそらく円空があの寺にやってくる人々に配るためにつくったお守りではないか、というのが住職の見立てだった。近いうちに地元の博物館に連絡し、いつなぜ胎内におさめられたのかという詳細の調査も含めて、しかるべき対応をしていくそうだ。
 励ますつもりで言ったのに、円花はこちらを睨んだ。
「だからだよっ! 記者としては、これぞスクープじゃない。仏像ブームが起こっている世の中で、円空の新発見を報じられる好機だったのに、日陽新聞が情けない状況になっちゃってるせいで、泣き寝入りしなきゃいけないなんて。いっそ個人のSNSで発信しちゃおうかな。いや、でも文化部の記事が完全になくなるって決まったわけでもないし、諦めるのは深っちゃんにも悪いか……どうしたらいいんだろう」
 頭を抱える円花を落ち着かせるように言う。
「もし紙面を確保できたり、SNSで発信しようと思っても、住職さんが許可してくれるって決まったわけじゃないだろ? 今回は取材じゃないからこそ、中身を見せてもらえたんだし」
「いんや、私ならきっと説得できるね。ってか、まずは深っちゃんを説得しないと」
 まだ諦めていない様子の円花に、「あのなぁ」とため息を吐く。いつも思うが、その自信はいったいどこから湧いてくるのだろう。円花はいつの間にか買っていた赤福餅あかふくもちを取りだして、「こうなったら、やけ食いだ!」とヘラですくいとり、パクリと口に入れた。相当腹が減っていたらしく、あっというまに半分ほど平らげる。
「ほら、山田も食べてごらんなよ」
「俺はいいよ、そういう気分じゃないし」
「さては山田も、記事にできないことを悔やんでるね? やっとプロ意識が芽生えたじゃない」
「それもあるけどさ」と軽口は受け流す。
 こうやって君と二人で取材の旅に出られるのも、これで最後だから。先輩としてこんなことを言うのはしやくだけど、君のおかげで成長できた部分もあるし、ずっと君と仕事したかったよという本音は、ここでも呑みこむ。そんなことを口に出したら、辛気くさくてカビが生えそうだとかなんとか言って笑い飛ばされるに決まっている。
「コンビを解消されるのだって、寂しいよね」
 意外な言葉に、はっと顔を上げる。
「はじめのうち、山田って頼りないところばっかりだったけど、連載を担当しているうちに息も合ってきたし、おかげで私も名刺の渡し方をはじめ最低限のマナーとか、いろいろと学べたからね」
「たしかに最初の出張では、名刺すら忘れてたしな」
「成長したでしょ? ちょっとは感謝してるんだよ」
「……ちょっとはってなんだよ」
 山田はそうツッコミつつ、胸がいっぱいになる。さっそく転職先を探していた淡泊なやつだから、自分との関係などいつ切れても気にしないと思いこんでいた。でも本当は円花も同じ気持ちでいてくれていたとは泣かせるじゃないか。
「やっぱりこのまま引きさがるべきじゃない!」
 山田は鞄から資料のファイルを出して、中尾社主宛ての手紙を手にとった。自分が預かるのもおかしな話だが、円花に持たせておくとうっかり失くしそうなので、資料のファイルに挟んでおいたのだ。
「どうしたの急に」
「ここに行くんだよ、今から」
 手紙に記された渋谷区の住所をトントンと指す。
「へっ? 中尾のおっちゃんの家に?」
「そう、君が直接社主と話をするんだ。民男さんはあんなに君のことを思って社主に面倒を見てほしいと頼んだんだ。そんな君なら社主の心を動かすことができるかも。今の段階で会社の決定を覆せるのは、社主レベルの人しかいないよ」
「でも引っ越ししてたら?」
 たいてい無鉄砲なくせに、どうして今そんなことを気にするのだ。山田が内心地団太を踏んでいると、「ま、そのときはそのときで考えればいっか」と肯いて、品川駅で途中下車して山手線に乗り換えることを承諾した。

 

(第20回へつづく)