第五章  円空  enku(承前)

 

「娘は高校で不登校になった時期があったんですよ。中学時代までは友人も多くて楽しそうだったのに、知ってる子が一人もいない私立の高校に入ったとたんに人が変わったように暗くなって。家でも口数が減って、急に不登校になったんです。察するに、高校で新しい人間関係を築く際に、あの性格を受けいれてもらえなかったみたいで」
 山田にはその頃の様子が想像もつかず、「そうなんですか」と答える。
「父はもう病気をわずらっていて、病院と自宅を行ったり来たりでした。日陽新聞の中尾社主をはじめ、お見舞いに来てくださる人も多かったので、私も父の世話で大変なうえ、娘を気にかける余裕がなかったんです。本人も話してくれなかったから、気がつくのが遅くなってしまって」
「きっと心配をかけたくなかったんでしょうね」
 自己中心的に思えて、じつは周囲をよく見ているやつだ。もっと言えば、人を明るくこそすれ、悲しくさせるようなことは絶対にしないやつだ。想像はつく。
「そうかもしれません。ある夜、父がとつぜん円花を呼びだしましてね。おまえはそのままでいいんだ、おじいちゃんはそんなおまえが大好きだって励ますと、円花ったら子どもみたいに号泣しちゃって。結局、高校には戻らなくて大検をとって大学に入りました。ただ、そのとき父は亡くなっていて、大学に入れたことも新聞社に入社できたことも、お仏壇でしか報告できなかったんですよね。だから円花には病気のおじいちゃんに心配をかけたうえに、安心させられなかったっていう罪悪感が、今もあるんじゃないかしらね」
 しんみりと感じ入っていると、円花が段ボール箱を抱えて戻ってきた。
「お隣さんが大量の梨をおすそ分けしてくれたよ! 久しぶりだったから、つい話しこんじゃった」
「もうお帰りになった? うちにも余ってる柿があったんだけど」
 などと淑子とやりとりをしたあと、円花は「じゃ、そろそろおじいちゃんの資料を見にいこうか。のんびりしてると日が暮れちゃうしね」と手招きした。山田はもう少し円花の話を聞きたかったが、淑子に礼を伝えて立ちあがった。

 民男が書斎として使っていたという、南向きの部屋は今では本を主とした物置になっていた。とはいえ机や椅子といった家具はそのままらしく、掃除も行き届いているので、まるで先日まで民男が仕事をしていたかのように見えた。
「おじいちゃん所蔵の書籍や集めていた民芸品は、学長を務めていた大学や晩年お世話になった医療施設にほとんど寄付したんだけど、未発表の原稿やメモの他、個人的な資料はまだ保管してるんだよね」
 円花は説明をしながら、押し入れに仕舞われていた段ボール箱や、本棚に並んでいた「円空」という背表紙のついたファイルやアルバムを、来客用のローデスクに次々と重ねていく。どうやら以前にも民男の資料を参照したことがあるらしく、どこになにがあるのかを完全に把握しているようだ。段ボール箱の中身を確認していると、円花が一冊のファイルを持ってローデスクの前に腰を下ろした。
「見て見て、これなんか、おじいちゃんの東海地方での調査の写真だよ。中学生だった私も連れていってもらったんだよね。しかも中尾のおっちゃんも一緒だったはず。あのときは楽しかったな」
 江戸初期、美濃国みののくにに生まれた円空は、北は北海道、南は四国に至るまで、全国の山々を行脚あんぎやしながら各地に仏像を残し、大部分がとくに東海地方に残っている。
 アルバムには、書籍の一部や新聞記事のコピーがはさまっている他、何枚も写真が透明のシートにおさめられていた。たとえば、円空の故郷であり、即身仏として没した地でもあるのどかな長良川ながらがわや、白山はくさんの山並み。雪の積もっている白山は神々しく、山頂からの眺めは雲の上にいるようだ。
「白山を美濃方面から登ったのは楽しかったな」
 今の岐阜県、石川県、福井県、富山県にまたがる白山は、古くから霊峰として信仰の対象や修行の場とされてきた。今よりも白山信仰がさかんだった時代、円空は二十歳そこそこで白山を出発点とする修験者として、富士山やその他名だたる霊山を目指した。わけても白山は、円空にとって大切な聖地となる。
「登ってる最中って、山頂がなかなか見えないんだよね。でも道中に、山頂から流れてきた滝があって、そこで円空は悟りをひらいたと言われるんだけど、それを見たときは中学生なりに山の気配を感じて、手を合わせたよ。きっとこの先に、命の恵みをくれる山があるんだろうなって」
「これ、君か!」
「へへっ、可愛いでしょ?」
 たしかに、と素直に肯いてしまいそうだった。
 おそらく民男が撮った、何枚かの写真にうつりこむ、あどけない円花の姿へのときめきも、自然と受けいれている自分がいた。それにしても多少背が伸びて大人っぽくなったとはいえ、活発で自由気ままな感じは、ほとんど変わっていないようだ。もしこの頃に出会ったとしても、今のように振り回されていただろうな。気がつくと、日向ぼっこをしているような、あたたかい気持ちになっていた。
 中尾社主が撮影したらしき、各地の円空仏を訪ねるために山道を歩いたり、ボートで川を渡ったりする民男自身の姿もあった。当時八十代という高齢のはずだが、海岸沿いの洞窟や道なき道の山奥にも、余さず足を運んでいたらしい。
 しかも、どの写真もなんだかお茶目である。笑顔でうつっていたり、おにぎりを頬張ほおばっていたり、自ら滝に打たれたりと、高名な学者というよりも、全力で旅を楽しむ朗らかなおじいさんにしか見えない。また人とうつっている写真も多く、拝観先で住職と話している様子や、地元の人と記念撮影をした一枚もあった。
「円空仏って、いまだに家庭の仏壇で大切にされていることもあるんだって。旅の途中だった円空から受けとった仏像が、何百年と受け継がれているらしい。おじいちゃんはそういう各家庭を訪ねて、話を聞いてたんだ」
 なんでも、円空には名を残そうという野心がなく、大きな寺に納めるよりも一人でも多くの庶民に届けようとしたとされる。だからこそ、他の人なら捨ててしまうような小さな木片も無駄にせず、おびただしい数の仏像を残すことができた。そもそも美濃地方には放浪しながら木工品をつくる木地師きじしが多くいたという背景もあった。
「つまり、寺院の奥にありがたく仕舞われた、滅多に一般の人の目にはふれない本尊とは違って、もっと人々の生活に密着しているというか、庶民に近いところにあったのが、円空仏というわけだな」
 円花の話を聞いているうちに、山田はひとつの疑問を抱いた。
「しかし、そもそもなぜ民男さんは円空仏に関心を抱いたんだろう」
「たぶんだけど、一番根っこにあるのは生い立ちへの共感だと思うな」
「生い立ち?」
 円花は肯き、民男の写真を眺めながら言う。
「おじいちゃんって公にはしてなかったんだけど、生まれながらに複雑な事情があって実の両親と早くに生き別れたらしいんだよね。親戚に養子に出されたせいで、いじめられた経験もあったみたい」
「そうだったのか」と山田は資料をテーブルに置いた。
 いじめられた、と言ったとき、円花が少し寂しそうな表情を浮かべた。
 山田は自分のことのように心がちくりと痛む。
「円空も、諸説あるけど、私生児として生まれたあと、幼くして母を木曽川きそがわの洪水で亡くしたと伝えられているんだよね。そのことが強い信仰心を持つきっかけになって、生きる道を模索するために修行に出たんじゃないかって。悲しみを秘めながらも、どうして円空はたくさんの仏像を残せたのか? 修験者として山にこもる厳しい修行に耐えられたのか? その答えを見つけられれば、自分自身が探してきた人生の答えみたいなものが分かるって、おじいちゃんは信じていたんじゃないかな」
「民男さんもまた、時を超えて円空仏に救われた一人だったわけだ」
 円花は肯くと、「あれ、これなんだろう?」と資料のページに挟まっていた、一通の手紙を手にとった。資料と同じくらい古そうな封筒だ。宛先に書かれた名前に、思わず顔を見合わせた。「中尾のおっちゃんじゃん!」「中尾社主じゃないか!」と声まで合わせてしまう。おそらく記者時代の中尾宛てだ。
 円花は躊躇なく封筒を開けはじめた。
「おいっ、いいのか?」
「大丈夫でしょ。死人にプライベートなしって言うし」
「なんだよ、その造語は。というか、どうして今まで気がつかなったんだ?」
「私以外の家族はこういう資料に興味のない人だし、机や本棚の書籍は整理しただろうけど、ファイルのなかまでは手をつけてなかったんだよ。それに私もおじいちゃんが亡くなってから、円空の資料をこんなにしっかり確認したことはなかったし」
 そう説明しながら円花がひらいた便箋びんせんは、特徴的な文字──円花の書く読みにくく不器用な文字に似ている──でびっしりと埋め尽くされていた。解読に苦労しながら内容に目を通す。なんらかの事情があったのか、手紙は最後まで記されることなく、途中で終わっていた。
 まず民男は連絡が滞っていたことを詫び、さらに回復の兆しを見せない体調についてつづったあと、本題に入った。
 その手紙を読む限り、中尾も何度か調査に同行した経緯から、論考をまとめられれば日陽新聞社から本を出版するという話になっていたようだ。円花いわく論考では、円空の人となりや生き様に焦点を当てて、母と死別したことやその悲しみを克服するための壮絶な修行の道のりを、さまざまな土地を訪ね歩いて考察する内容になったはずではないかという。だからこそ、最後まで執筆をやり遂げられなかった民男は、中尾に円空についての熱い思いを手紙にしたためていた。
「病気で調査が頓挫とんざしてしまったことを、民男さんは悔いているみたいだな」
「あ、私のことも書いてある」
「どれどれ」
 
 中尾さんも可愛がってくださっている孫の円花は、円空にちなんで私が娘夫婦にその名を提案しました。円空のように、多くの人の心を明るく支え、邪険な扱いをされても腹を立てず、自ら道を切りひらく勇敢な人になってほしい、という願いからです。
 身内の私が言うのもなんですが、円花は大きな可能性を秘めた子です。それがゆえに、進むべき道に迷ってしまわないかが心配です。今まで私はやりたいことはなんでもやってきたので、いつ死んでも後悔はないのですが、ひとつだけ気がかりを挙げるとすれば、他でもない円花の将来です。こんなことをお願いするのははなはだ勝手で恐縮ですが、円花が困ったときに、手を差し伸べてくれる存在になっていただけないでしょうか。

「孫娘を溺愛していたっていう、淑子さんの話は本当なんだな」
「私ってば、なんて幸せ者なんだろう」と呟いたあと、円花は洟をすすり、シャツの袖で目頭を押さえた。とつぜんの涙に動揺する山田の目の前で「それなのに私、おじいちゃんが生きてるあいだに、なんにも恩返しできないどころか心配ばかりかけてさ。情けない限りだよ」とべそをかく。
 高校を中退したんだもんな、と言いかけたが、黙ってハンカチを渡すにとどめた。好意をよせる人の実家を訪れるから、とハンカチを準備しておいて本当によかった。すると円花からじろりとにらまれる。
「こういうときにハンカチを渡せる俺ってカッコいいって思ったね?」
「思ってないよ!」
「言いたいことがあるなら言えば? おしゃべり淑子から聞いたんでしょ」
「なんだ、知ってたのか」
「淑子、声大きいから」
「君を心配したからこそ、あんな話になったんだよ。それに俺は君の意外な一面を知れてよかったけどね」
「さては、弱みを握ったつもりだね?」
「いや、そういう意味じゃなくて」と山田は苦笑し、恋の告白めいて聞こえないかを少し気にしながら言う。「前回、神子元島みこもとしま灯台を取材したとき、丸ちゃんとの一件があって俺自身のことはさらけだしただろ? でも結局、君のことは今も分からないままだからさ。円花にも苦労した経験があったんだなって」
「当ったり前じゃない! 高校でどん底に落ちてなきゃ、文化部記者の仕事だって目指してないよ。その頃に新聞の文化欄を読むことくらいが、日々の楽しみというか、救いみたいなものだったんだから。きっと江戸時代の人々やおじいちゃんにとっての円空仏と同じでさ、悩める心にこそ素晴らしさが届くんだと私は思うよ」
 円花は取材熱心なだけでなく、SNSでも絶えずアート関連の投稿をし、休日返上で美術関連のイベントに出かけている。そんな熱意の原動力を、山田ははじめて知った。これまでは単に民男の影響だろうとか、ただ好きなだけだろうとか思っていたが、円花にとって作品はそれ以上の存在であり、なくてはならない生きるかてなのだった。
「よしっ、おじいちゃんのためにも今回の調査は頑張るからね!」
 円花はぐいと涙をぬぐうと、手紙をたたんだ。
 中尾に宛てられた手紙は、淑子にも報告し、後日、中尾に届けにいくことにした。それから円花と手分けをして、民男の論考や日記をつぶさに確認し、再度おもむく予定だった寺をいくつか挙げた。作業を進めるうちに、円花が病床の民男からどうしてもここはもう一度行っておきたいと聞いていた寺の存在を思い出しはじめた。
「中学生の頃、その寺に同行したときに憶えているのは、おじいちゃんは何度もその寺に通って、頭を下げてたことなんだよね。どうしてって訊いても、詳しくは教えてくれなかったんだけど、探してるものがあるみたいな様子だったな」
「じゃあ、実際に行ってみるか? 円空仏の実物も見ておいた方がいいだろうから」
「賛成! 生前のおじいちゃんがその寺で探していたものを、私たちが代わりに確認しにいくっきゃないね。なんてったって、私の名前は円空由来なんだから」
 さっそく山田と円花は、名古屋にあるという寺に赴く計画を立てた。

 東海道新幹線の車窓から見える富士山は、雲ひとつない秋晴れのなか、きらきらと輝いていた。しかし車内でいつも通り窓際を円花にゆずり、通路側に腰を下ろす山田の心持ちはどんよりと重かった。
「やっぱり名古屋に行く意味がよく分からないんだけど」
 山田の呟きに、円花は「まぁ、そう言わずにさ! 取材先に約束しちゃったし、行くっきゃないでしょ」と車内販売で買ったアイスのふたをあけた。
「でも掲載できないって言われたんだぞ?」
 昨日の夕方、円空をつぎの題材にしてよいかと相談をしにいくと、前回よりも暗い顔をした深沢デスクから、もう連載最終回の記事は準備しなくてもいいと言われたのだった。理由を訊くと、別の記事に紙面を譲らなければならなくなったらしい。
 深沢デスクこそが、連載をきちんとした形で終わらせるべきだと言っていたのに。あまりにあっけない終わり方に、山田も円花も返す言葉がなかった。名古屋に取材へと向かう前日にそんな結末を言い渡されるとは。取材先に謝罪をして、アポをキャンセルしようとした山田に、円花は記事にならなくても個人的な好奇心から話だけは聞きにいきたいと抵抗したのだ。
 今では悠々とアイスを食べている。
「つべこべ言わずに、とりあえず行こうってば。山田だって、おじいちゃんが生前探していたものがなにか気になるでしょ? 先方に取材アポをとったときは、まだ掲載されるはずだったんだし。深っちゃんからの通達は、取材が終わったあとにされたことにすればいいんだよ」
 気が重くてならないが、円花の決意が揺らぐことはなさそうだ。もうどうにでもなれと名古屋駅近くにある、美味しい店をスマホで調べることにした。名古屋といえば、ひつまぶしに味噌煮込みうどんにと、ご当地グルメの宝庫なのだ。

 名古屋駅から地下鉄で最寄り駅まで向かったあと、たまたま見つけた味噌カツ定食店に足を運んだ。ネットの情報によると、地元の人にも愛される老舗の定食屋らしく、たしかに店先には昼前にもかかわらず行列ができていた。
 入るまでは少し時間がかかったが、注文するとすぐにお膳が運ばれてきた。
 とろみのある焦げ茶色の味噌ソースがたっぷりとかかった豚カツに千切りキャベツが添えられていた。かなりのボリュームがありそうだが、添えられた脇役との相性が抜群で箸が止まらなくなる。
「味噌カツは、罪なくらい白ご飯がすすむね」
 円花はご飯をお替わりしながら言う。たしかに味噌カツとの相乗効果で、ただの白ご飯とは思えないほどの美味しさだった。カロリーの心配さえなければ、永遠にその組み合わせを楽しんでいたくなる。しかも千切りキャベツをあいだに食することで、さっぱりと一息つけるので、新鮮な気持ちで味噌カツに戻れた。
「山田の嗅覚も少しずつ研ぎ澄まされてきたじゃない」
 お会計をすませると、円花からおめの言葉にあずかった。
「当然だ」
 先輩風を吹かせつつも、これで最後の取材という事実が頭をよぎる。どんなに美味しいものを食べようと、今日はずっと複雑な心境のままだ。

 

(第19回へつづく)