人物紹介

仁美…高校二年生。町の祭りで起きた無差別毒殺事件で母を亡くす。

修一郎…高校一年生。医学部志望の優等生。事件で妹を亡くす。

涼音…中学三年生。歳の離れた弟妹を事件で亡くす。仁美たちとは幼馴染。

景浦エリカ…涼音の母。派手な見た目と行動で町では目立つ存在。

仁先生…仁美の父親。町唯一の病院の院長。

成富栄一…大地主で町では一目置かれる存在。町内会長も務める。

博岡聡…成富建設の副社長。あだ名は「博士」。引きこもりの息子・聡介を家に抱えていた。

音無ウタ…息子・冬彦が真壁仁のせいで死んだと信じこんでいる。

琴子…息子の流星と姑のウタと同居している。元新聞記者。

流星…小学六年生、ウタの孫。修一郎の妹と仲が良かった。

宅間巌…かつて焼身自殺した町民。小学生の間では彼の幽霊が出ると噂されている。

第二十四話

 

 もうなにも見たくないし、聞きたくない。
 修一郎がなにか言ったが、耳に入ってこなかった。
 これ以上つらい話を聞かされたら、泣き出してしまいそうだ。
「聞いてる?」
 目をつぶったまま、仁美は首を横に振る。
「もういいよ、わかったから」
「わかったって、なにが?」
「だから……、行くんでしょ、涼音のところへ」
「いいの?」
 いいわけがない。でも、それを止めることなど今の自分にはできない。
 涙を見せないよう修一郎から目を逸らし、自分は明日、芋煮の仕込みだからと告げた。
「そっか」とつぶやき、修一郎は床に散らばった父の本や衣類を拾い集め始める。
「……なにやってるの?」
「なにって、手伝うよ、片付け」
「いい! 私がやるから」
 思いのほかきつい口調になってしまい、仁美自身が動揺した。修一郎も一瞬たじろいだように見えたが、すぐに引き下がり、拾ったものを仁美に手渡す。
「明日も早いんだから、無理しないで寝なよ」
 胸が締め付けられ、返事ができない。こんな状況で、優しい言葉なんかかけないでほしい。これ以上、気持ちを掻き乱さないでほしい。
「ママ?」
「……うん。おやすみ」
 なんとか声を絞り出し、修一郎に背を向けた。片付けを再開させると、背後で静かにドアが閉まり、足音が遠ざかっていく。散らかった部屋がふいにぐにゃりと歪む。我慢して抑えつけていた感情が堰を切ったようにあふれ、仁美は声を殺して泣いた。

「仁美、おばちゃん、なに手伝えばいい?」
 翌日は午前中から近所の主婦ら五人が、芋煮の下ごしらえをするために集まってくれた。
「じゃあ、里芋剥いてもらってもいい?」
「まかせとき! 仁美みたいにうまい味付けはできないけど、里芋なら姑に剥かされ続けて二十年のベテラン選手だからね」
「ちょっと、あんた、二十年ってどんだけサバ読んでんのよ。四十年の間違いでしょ」
 台所とダイニングが明るい笑い声に満ちる。だが仁美はいつものように笑えず、慌てて作り笑顔を浮かべた。こんにゃくをちぎっていた琴子が、そんな仁美の顔を心配そうに覗き込んでくる。
「仁美さん、大丈夫? 疲れてるみたいだけど」
「う、ううん。大丈夫だよ。ちょっとぼんやりしちゃって……」
「もしかして、仁先生になにかあった?」
「え? なんで?」
 ドキリとして天井を見上げた仁美の視線を琴子が追う。
「ほら、そうやって、さっきから二階を気にしてるみたいだから」
 琴子の言うとおり、二階から聞こえてくる物音が気になっていた。
 また父が例の箱を捜しているに違いない。部屋にはなかったと今朝伝えたばかりなのに、もう忘れてしまったのだろう。それでも農薬を捜すことだけはなぜか忘れていないらしい。
「仁美さん、経験者だから言わせてもらうけど、仁先生のこと、ひとりで抱え込まないでね」
 琴子の言葉に、他のおばちゃんたちも慈愛に満ちたまなざしを仁美に向ける。
「そうそう、あたしたち、仁先生にはさんざんお世話になったんだ。できることがあったらなんでもするから言いな」
「ホント、いつでも頼って。仁美が戻ってきてくれて、修一郎が真壁医院継いでくれて、みんなどれだけ感謝しているか」
 口々に励ましの言葉をかけられ、彼女たちの優しさが胸に沁みた。このままここで暮らせたらどんなにいいか……。でも、聡介が母のことを話せば、すべてを失うことになる。
「どうした、仁美? そんな暗い顔して、らしくないよ。あんたの芋煮をみんなが楽しみにしてるんだからね」
「あ……、ごめん。うちではつばさがお神輿担ぐのをすっごく楽しみにしてるよ」
「やっぱり子供は祭りが好きなんだね。可愛いだろうなぁ、つぅちゃんのはっぴ姿」
「つぅちゃんたちのために、祭りを続けていけるようあたしらが頑張んなきゃね」
「だったら……」と、ごぼうをこそいでいた主婦が不安そうに声を上げた。「やっぱり芋煮はやめたほうがよかったんじゃない? だって思い出しちゃうでしょ? あのときのこと。もし、また同じようなことが起きたら……」
 ぶるりと体を震わす彼女の脳裏には、いや彼女だけでなく、ここにいる全員の脳裏に、十年前の惨劇がよみがえっているに違いない。
「大丈夫よ」
 力強くそう言い切ったのは、人参の皮を剥いていたおばちゃんだ。
「だって、もういないんだから、……あの女は」
 その一言で緊張した空気がふっとゆるみ、みんなの顔に安堵の表情が広がっていく。
「そうよねぇ」
「そうそう、あの人いなくなってから、なんの問題も起きてないんだから」
 誰もが彼女の意見に調子を合わせたが、仁美はなにも言えず、ただ一心に里芋を洗い続けた。
「それに、明日のお祭りはテレビの取材が入るんだから、おかしなことなんてできっこないし」
「あ、そういえば、昨日、麗奈ちゃん、見た? 綺麗になっててぶったまげたわよ」
「見た見た。こんな田舎から芸能人が出るなんてすごいよね。孫の麗奈をアイドルにするために元会長がお金バラまいてるとか噂になってたけど、あれだけ可愛いきゃ、本当に有名になっちゃうんじゃない?」
「あ、美容院で白髪染めしてこなきゃ。麗奈と一緒にテレビに映るかもしれないし」
「必要ないわよ。みんな麗奈だけが見たいんだから、あんたの顔にはモザイクかかるって」
「ちょっと、ひどくない?」
 おばちゃんたちの笑い声を打ち消すように、二階からドン!と物音が響いた。
「あら、いけない。仁先生、うるさかったかしら?」
「ううん、そんなことないよ。ごめんね、ちょっと見てくる」
 断って、里芋を洗っていたゴム手袋を外し父の部屋へと向かう。仁美が階段を上り切ったところで玄関のチャイムが鳴った。
「はーい」とインターフォンに応じたのは琴子の声だ。そのまま玄関へ向かおうとする足音に、二階から仁美は大きな声で呼びかける。
「琴子さん、誰?」
「聡介さんよ。回覧板かしら」
「あ、いい! 私が出るから!」
 そう叫び、転がるように階段を降りて玄関を開けると、低い門扉の向こうに聡介が立っていた。仁美はぎこちない動きで近付き、頭を下げる。
「……聡介君、一昨日はごめん……なさい」
「あ……、いや……」
「えっと、今、明日の芋煮の下準備をしてて」
 また誰かが冗談を言ったのか、弾けるような笑い声が家の中から聞こえてくる。
「近所のおばちゃんたちが来てるから、悪いけど、今はちょっと……」
「あ、でも……」
 食い下がる聡介にすみませんと頭を下げ、逃げるように戻ろうとしたが、彼はそれを許さず、強い力で仁美の腕を掴んだ。
 ぎょっとして聡介を顧みたそのとき、背後で玄関の扉が開く。顔を覗かせたのは琴子だ。
聡介はすぐに腕を離したが、不穏な気配を感じとったのか、琴子の瞳が「大丈夫?」と
問いかけてくる。顔を引きつらせながらうなずくと、琴子も表情をゆるませ、「あのね」と、聡介に向き直った。
「清掃担当の聡介さんにも、明日のお祭り、少し早めに来てもらえないかって守さんが……。手伝ってもらいたいことがあるんですって。急で悪いけど、大丈夫かしら?」
「あ……、はい」
 ぎくしゃくと頭を下げる聡介に礼を言い、家に戻ろうとした琴子が後ろを振り返る。
「仁美さん、大きめのボウル、もうひとつない? こんにゃく入りきらなくて」
「あ、うん、すぐ行く」
 仁美の返事にうなずくと、琴子は玄関に消えた。
「聡介君、そういうことだから、今はごめん」
 琴子に続こうとした仁美の背中に、聡介が言葉を投げた。
「聞いた……の?」
「え?」
「あの日、だ、誰が……、鍋に農薬を入れたか」
 全身が縮み上がり、呼吸が止まる。誰かに聞かれていないか慌てて周囲を確かめてから、仁美は小刻みに何度もうなずく。
「でも、その話、今は……」
 どうにか会話を打ち切ろうとしたが、聡介はかまわず続ける。
「言わないほうが、いい?」
 息をのんで彼の顔を見つめた。オドオドと目を逸らしながらも、聡介は言葉を重ねる。
「だ、黙ってたほうがいい?」
「……黙っていてくれるの?」
 仁美の視線から逃れるように足元に目を落とし、聡介が口を開く。
「その代わり……」
 再び中で沸き起こったおばちゃんたちの笑い声が、ひどく遠いところから聞こえてくるような気がした。

「仁美さん、いないの? つぅちゃんのお迎え来られないなら、私が連れて帰ろうかと思って、電話したんだけど……」
 お迎えという言葉に身体がビクッと反応し、時計を見上げる。家を出る時間はとっくに過ぎていた。ダイニングテーブルで頭を抱えていた仁美は跳ね起きて受話器に飛びつき、留守電にメッセージを吹き込んでいた守の妻に、娘を連れ帰ってほしいと頼む。
 つばさのお迎えを忘れるなんて、初めてのことだ。
 おばちゃんたちが口だけでなく手もしっかりと動かしてくれたおかげで、芋煮の準備は思ったよりも早く整った。お迎えまで時間は十分にあったはずなのに、不安に圧し潰されそうになって、あれこれ思いを巡らせているうちに、気づいたらこんなに時間が経ってしまっていたなんて……。
 車でつばさを送ってくれた守の妻、元子に丁重に礼を言い、仁美はつばさを連れて、義母の家に夕食をつくりに行く。
「つばさ、今日は本当にごめんね。ママ、うっかりしちゃって」
「つぅちゃん、カイト君と遊んで、楽しかったよ。お車の中で、しりとりしたの」
 嬉しそうに話すつばさの笑顔に、仁美はホッと胸を撫でおろし、愛しい娘の頭を撫でた。
 義母はいつものようにおやつをたくさん用意し、つばさと仁美を歓待してくれた。
「つばさ、ママがごはんつくってる間、ばあばにしりとりしてもらったら?」
「うん! ばあば、やろー」
「いいわよ。でも、仁美ちゃんも一緒におやつ食べながら遊びましょうよ。この間たくさん作り置きしてくれたおかずがまだあるから、今夜はそれでいいじゃない」
「でも……」
「あなた、顔色悪くて、私より病人みたいよ。少しは休まなきゃ。あ、たまには、修一郎とデートして外で美味しいもの食べさせてもらったら? つぅちゃんは私が見てるから」
 義母が言うとおり、修一郎は今夜、デートなのかもしれない。相手は自分ではなく、涼音だけれど……。楽しそうに食事をしているふたりの姿が生々しく思い浮かび、仁美は慌ててそれを振り払う。
 そのとき、スマホが震えた。ポケットから取り出した画面に表示されていたのは、修一郎の名前だ。一瞬ためらったが、仁美は義母に断り、廊下に出た。
「会えた? 涼音に?」
 平静を装いかけた仁美の言葉は、修一郎に遮られる。
「棚橋のじいちゃんが倒れた」
「えっ?」
「これから総合病院に運ぶ」
「……わかった。なにかできることある?」
「代わりに行ってもらえないか、すずのところへ」
「それは……無理だよ。明日の準備があるし」
「全部終わったって、さっき佐久間のおばちゃんが帰りしな言いに来たけど」
 余計なことをと思いながら「なんで私が?」と尋ねると、意外な答えが返ってきた。
「友達だろ?」
「……え?」
「駅前の喫茶店で待ってるはずなんだけど、地下だからか携帯がつながらなくて」
「えっ? どうして、そんなところで待ち合わせしたの!?」
 仁美は思わず声を荒らげた。
「この町の人に見つかったら、涼音が危ない目に遭うかもしれないじゃない!」
 怒りで声を上擦らせた仁美に一瞬沈黙したのち、「頼むよ」と修一郎は言った。
「言い争ってる時間ないんだ。僕が行けないってことだけでも伝えてほしい。じゃあ」
 こちらの返事も聞かずに、一方的に電話は切られた。

 静まり返った廊下に、とんぼ!と、つばさの声が響く。
 居間に戻ると、義母が「ブブーッ」とつばさが掴んだクッキーの小袋を取り上げていた。
「つぅちゃん、さっきも、『とんぼ』って言ったじゃないの」
「えーっ? ばあば、つぅちゃん、『とんぼ』って言った? えーっと、じゃあ、えーっと、えーっと……、あ、ママー、『と』のやつ、言ってみて」
「と? 『と』から始まるのは……、『友達』、とか?」
 パッと顔を輝かせたつばさが、「ともだち!」と叫んで、義母の手からクッキーを奪い返す。笑顔でハイタッチを求めてきたつばさと手を合わせてから、仁美は義母を振り返った。
「お義母さん、ごめん。本当に、少しだけつばさをお願いしてもいい?」

 いつもすいている昔ながらの喫茶店は、今日も客の姿がまばらだ。
 見知った顔がないことに安堵し、仁美は彼女の姿を捜す。
 涼音が宿泊するホテルで会うものとばかり思っていたのに、修一郎はどうしてこんなところで待ち合わせをしたのだろう。
 店の一番奥に女性のひとり客を見つけ、仁美は足を止める。目深に被った帽子とマスクで顔を隠しているのに、なぜだかすぐわかった。涼音だ、と。
 驚くほど、痩せていた。
 以前よりさらに小さくなった顔や折れそうに細い手足が、無表情な彼女をより人形のように見せている。
 麗奈のように髪を明るく染めてゆるふわに巻いたり、マツエクしたり、カラコンしたり、ネイルしたり、なにひとつしていない。化粧もしているのかどうかわからないほど地味だし、服装だってどこにでも売っていそうな白いシャツに黒いパンツと、いたって飾り気がない。
 視線に気づいたのか、顔を上げた涼音も、まるで吸い寄せられるように仁美を見た。
 息をのみ、動きを止めた彼女の、相変わらず表情の乏しい目もとが、一瞬ののち、懐かしそうにほころぶ。
「……仁美ちゃん」
 呼びかけられ、罪悪感と嫉妬が綯い交ぜになった感情が込み上げてきた。目を逸らし、かすかに頭を下げた仁美を、涼音は立ち上がって迎える。
「急患が出て、修一郎が来られなくなったから、それだけ伝えに……」
 そう告げた瞬間、涼音が顔を強張らせ、うつむいた。修一郎が来ないことにショックを受けたのかと思ったが、オーダーを取りにきたウェイトレスを避けたらしい。仁美が頼んだコーヒーをテーブルに置いて彼女が去るのを待ち、涼音はようやく帽子を脱いで頭を下げた。
「仁美ちゃん、ありがとう。来てくれて」
 端正な顔立ちは昔のままだが、疲れが滲むその表情は、実年齢よりかなり年上に見える。そこに仁美が想像していたような華やかさはなく、その事実に胸が詰まった。
「会えて、嬉しい。もう……会ってもらえないと思ってたから」
 大きな瞳を潤ませる涼音に、仁美は呆然とする。
「涼音……、どうして?」
「え?」
「私のこと、恨んでるでしょ?」
「なんで私が仁美ちゃんを恨むの?」
「だって……、私、エリカちゃんのことを……」
 東京で出版社に勤めていたとき、仁美は白都に求められるまま、エリカに関する情報を流した。それだけでなく、やがては自らエリカを糾弾する記事を書いたのだ。
 あの当時は自白したエリカを犯人と信じて疑わなかったから、彼女を叩くことに抵抗を覚えなかった。だが裁判で自白を撤回し、状況証拠しかなかったにもかかわらず、エリカに死刑判決が下ったのは、マスコミの暴走によるところが大きいと、今では悔いている。
 後悔を口にし、詫びる仁美に、涼音は感情の読めない口調で話す。
「確かにマスコミの人たちにはあることないこと書かれたし、ひどい動画をテレビで繰り返し流されたけど……」
 そこで言葉を切り、「私も、謝らないと」と涼音は頭を下げた。
「最初にあの映像を観たとき、私、疑っちゃったの。あれを流したの、仁美ちゃんじゃないかって」
 涼音がなんの話をしているのか、すぐにわかった。それは十年前、会長がエリカを慰めるために彼女のスナックで飲み会を開いたときに撮られた動画だ。黒いドレスを纏い、カラオケを歌うエリカの姿がワイドショーなどで流されると、それはたちまち反響を呼んだ。
 毒しるこ事件で幼い怜音と萌音を亡くしてまだ日が浅く、普通なら食事も喉を通らないはずの母親が酒を飲み、ノリノリで歌い踊っていたからだ。悪意ある編集をされたエリカの姿は衝撃的だった。目にした多くの人々に、借金で首が回らなくなったエリカが、保険金目当てに我が子を殺害したに違いない……、と思わせるほどに。
「あの日、会長に言われて仁美ちゃんが撮影していたのを覚えてたから……」
 エリカの動画を白都に見せようと思わなかったと言えば、嘘になる。それどころか、最後の切り札とさえ考えていた。当時自分から心が離れかけていた白都を繋ぎ止めるための。
 だが……、仁美はその切り札を切ることをためらった。エリカのことを考えたからではない。幼いころのように涼音がいじめに遭う姿が目に浮かんだからだ。
 結局、会長の部下が提供した動画が先に流れて、切り札はただの紙くずになった。そうした自分の甘さや覚悟のなさが、雑誌記者が務まらなかった理由なのだろう。
「仁美ちゃんはあの動画を持っていたのに、流さなかった。流さないでいでくれた」
「涼音、でも、私は……」
「仁美ちゃんが母への怒りを記事にしたのもしかたないことだと思う。あの人は千草おばさんから仁先生を奪い、家族をめちゃくちゃにしたんだから。判決も、本人の自白がなければ、死刑にはならなかったんじゃないかな」
 涼音は小さく息を吐き、続ける。
「自暴自棄になって自白しちゃったのも、一審で無罪を主張しながら黙秘を続けたのも、自分はやってないから死刑になんかなるわけないって、思い込んでいたからなんだよね。あの人は、昔からそういう短絡的なところがあるから。でも……」
 顔を上げ、仁美を見つめる涼音の瞳に、祈るような色が浮かぶ。
「千草おばさんが亡くなったのは、それだけは母のせいじゃない。知ってると思うけど、母は飽きっぽくて諦めが早くて根性なしでしょう。本当にやってたら、とっくに認めて全部喋っちゃってるはずだから」
 涼音の言うとおりだ。エリカの性格をよく理解していたのに……。
「仁美ちゃん、電話で、母が犯人じゃないと思う理由を訊いてくれたでしょ」
 仁美はうなずく。あのとき、涼音は沈黙し、電話ではなく会って話すと言った。
「理由にはならないかもしれないけど、母が三回目の離婚をしたのは、私のためだったんだ」
「……どういうこと?」
「いくらでも贅沢させてもらえるあの暮らしを、母は手放したくはなかったはずなの。でも、それを捨てて、子供三人抱えてこの町に帰ってきたのは……」
 涼音は言葉を切り、どこか遠くを見つめ、再び口を開く。
「私、母が逮捕されたあと、三番目の父の家に引き取られたでしょ。そこから私立の学校に通わせてもらってたんだけど、景浦エリカの娘だってすぐにバレて、学校へ行けなくなって……。何度か転校したけど、どこから漏れるのか、同じことの繰り返しだった。当時は娘の私への殺害予告やレイプ予告が毎日ようにネットに投稿されてたから、父はすごく心配して、ボディガードをつけて車で送り迎えまでしてくれてたの」
 つらい状況だったに違いないが、父親に財力があってまだよかった。そんな思いが顔に出たのか、仁美を見つめる涼音の頬に、寂しげな笑みが浮かぶ。
「父に感謝して、父のために料理をつくったりして、離婚する前よりも本当の父娘みたいになれた気がしてた。でもね、ある晩、寝てたら、寝室に入って来たの……、父が」
 仁美は驚いて顔を上げたが、涼音は一切の感情を削ぎ落としたような顔で、淡々と話し続ける。
「それで、逃げるようにあの家を出た。母から届いた手紙に書いてあったの。三番目の父と一緒にいてはダメだって。他に頼れる人がいなかったから母の思い違いであってほしかったけど、あの人は見抜いていたんだ、彼の歪んだ愛情を。実際にそういうことがあって、母は、父から私を守るために離婚したんだってわかった」
 仁美は罪の意識に打ちひしがれる。自分が涼音を拒絶したりしなければ、そんなことにはならなかったはずだ。
「涼音……、ごめん。謝って済むことじゃないけど」
「あ、大丈夫。寝るときはいつも催涙スプレーを握りしめてたから。母のおかげだね。私こそごめんね。せっかく会えたのに、いきなりこんな話して。仁美ちゃんにだけはわかってほしかったの。母は、浅はかでだらしなくて、どうしようもなくダメな人だけど、お金や贅沢な暮らしのために、我が子を犠牲にするようなクズではないって」
「……信じるよ」
「え?」
「……エリカちゃんは犯人じゃない」
 自分の声が空々しく響いた。けれど、感情のない涼音の顔が一瞬だけパッと輝く。
「本当?」
「ごめんね。エリカちゃんがそんなことできる人じゃないってわかっていたはずなのに、みんなにエリカちゃんが犯人だって言われて、そうなのかもって……」
「私もあそこにいたときは、もう誰でもいいからとにかく犯人が捕まって、終わりにしてほしいって思ってた。でも、離れてはじめて、ちょっとおかしいんじゃないかって」
「おかしい?」
「最初は音無のおばあちゃん、次に博士、そして、母。怪しいと疑われた人間はいつの間にか犯人と決めつけられて、そんな周りの空気にみんなが飲まれて、熱に浮かされたみたいにそのひとりを叩く……。あの町は昔からそういう傾向があるんじゃないかって、弁護士の先生もおっしゃってた」
 どういうことか尋ねると、イワオの事件も同じだったのではないかと、涼音は話す。
「どうして、同じなの? イワオが流星君のお父さんを崖から突き落としたのは、麗奈ちゃんが目撃してるんだよ」
「じゃあ、どうして逮捕されなかったの?」
「え?」
「だって、自分の小屋の前で自殺したってことは警察に拘束されてなかったんでしょう?」
「それは……、まだ逮捕されてなかっただけじゃないかな。取り調べを苦に自殺したって確か聞いたから。それに、自殺したってことは、犯人ってことだよね?」
「そうなのかな」と涼音が首を傾げた。
「あの町の住人ひとりひとりは悪い人じゃないっていうか、むしろ、協調性が高くて友好的だと思う。でも、だからこそ同調圧力に屈しやすいんじゃないのかな」
「同調圧力?」
「少数派の人が多数派の意見に合わせてしまう心理的な圧力。自分が疑われたくないから、あの人が怪しいって意見に同調するのはわからなくないけど、みんな、怖くないのかなって思う」
 じっと仁美を見つめ、「仁美ちゃん怖くないの?」と、涼音は尋ねる。
「母は毒しるこ以外の事件でも犯人だって疑われたけど、博士の放火殺人でも音無のおばあちゃんや流星君を崖から突き落とした件でも起訴されなかった。つまり、犯人はまだこの町にいるかもしれないってことだよ?」
 言われてみれば、そのとおりだが、エリカの逮捕後、事件らしい事件は起きていない。
「みんな、どこかで怖いと思ってるんじゃないのかな。そういう人たちから話を聞かせてもらえたらいいなって思ってるの。十年経って、なにか思い出したことがあるかもしれないし」
「でも、お祭りに来るのは危険だよ」
「仁美ちゃんたちに迷惑かけないように、目立たないところで見させてもらうから」
 話し疲れたのか、そこではじめて涼音は冷めた紅茶を口に運んだ。その胸もとできらりとなにかが光り、仁美はハッとする。
「……まだ、持ってたの?」
 仁美の視線に気づいた涼音が、ハート型のペンダントトップをそっと押さえた。それは、母が涼音と仁美にくれたペアのネックレスだ。
「だって、これは……、大切なお守りだから」
 おしるこに農薬を入れたのが母だと知ったら、涼音はどれほど傷つくだろう。
「あっ、そうだ。仁美ちゃんに、お願いがあるんだけど、できたら、見せてもらえないかとと思って」
「なにを?」
「写真。お子さんの」
「えっ!?」
 驚きで顔が強張る。どうしてつばさの写真が見たいのか、涼音の真意がわからない。
「ダメ?」
「……ダメじゃないけど」
 取り出したスマホの中には、つばさの写真が呆れるほど入っている。修一郎が一緒に映っているものを避け、つばさがお遊戯している写真をタップし、涼音に見せた。
「わー、かわいい」
 表情の乏しい涼音の頬が紅潮し、口もとがほころぶ。
「目は仁美ちゃん似かな? 高い鼻は修一郎君だね……」
 じっと見つめていた涼音の顔がにわかに曇った。その瞳から一筋の涙がこぼれ落ち、仁美は息をのむ。
「あ……、ごめん、やだ、私……」
 慌ててハンカチで目頭を押さえる涼音を見つめ、ああ、やっぱりと胸が締め付けられた。その涙は、母親が逮捕されたせいで自分の手からこぼれ落ちていったものを想い、流されたに違いない。やっぱり涼音も修一郎のことを……。
「ごめんね、思い出しちゃって。こんなふうにお遊戯してたなって」
「えっ!? 涼音、子供がいるの?」
 驚きのあまり立ち上がりかけた仁美に、涼音は「なに言ってるの、仁美ちゃん」と、首を横に振る。「思い出したのは……、萌音のことだよ」
 毒しるこを食べ、命を落とした涼音の幼い妹。ああ、そうか、あのとき、萌音はつばさと同じ二歳だったのだ。
「生きててほしかったけど、萌音を守れたか、自信ない。あのとき死んだほうがマシだったって思うほど怖い思いをさせることになったかもしれないから」
「それは……、涼音自身もそれほど怖い思いをしてきたってこと?」
「……怖い目には、何度も遭った。殺害予告してきた人に、実際に自宅の前で待ち伏せされたり、職場から帰る途中で車に乗せられそうになったり」
「……どうして、そんなことができるの?」
「どうやって調べるのか、名前や顔写真だけじゃなく、自宅や勤め先の住所や電話番号もすぐにネットに晒されちゃうからね、何度変えても……。もし萌音が生きてたとしても、みんなでリンチして殺そうなんて書き込みを見たら、私、怖くて不安で、あのコを外に出せなかったと思う」
「なにも悪いことしてないのに、どうしてそんなひどいことを……?」
「連帯責任と考えるのか、悪い血を根絶やしにしなければ気が済まないのか、加害者の家族には人権なんかない、なにをしたってかまわないと思ってる人は驚くほど多いよ。被害者のために、おまえがつぐなえって。それが正義だって」
 誰にも見つからないように息を殺し、涼音は死んだように生きてきたという。何年経ってもその状況は変わらず、このままではいけないと、彼女は勉強を始めたのだそうだ。弁護士になって、少しでも加害者家族の助けになれたら、と。
 そう話す涼音の顔は、まぶしかった。
 マツエクもカラコンもネイルもしていないけれど、涼音は淡く仄かな光を発しているようで、そこには内側からあふれ出るような美しさと強さがあった。
「ごめんね、また暗い話になっちゃって。あ、仁美ちゃん、お嬢さんのお名前なんて……」
「涼音」
 呼びかけると、感情のわかりづらい瞳が、こちらを見た。
 真実を伝えて詫びなければ……。
 心を決めて声をかけたのに、口の中がカラカラに乾き、舌が貼り付いたように動かず、言葉が出てこない。涼音の惨状を知らされてなお、情けない自分は、母のことを打ち明けずにエリカを助ける手立てがあるのではと薄い希望に縋りつこうとしている。
 そのとき、店内に仁美の名前を呼ぶ大きな声が響いた。
「岸田仁美さん、いらっしゃいますか? お電話が入ってるんですが」
 家にひとり残してきた父の姿が脳裏をよぎった。もしかしたら、聡介のところへ行き、トラブルを起こしたのかもしれない。
 慌てて店の電話に出ると、聞こえてきたのは義母の声だった。修一郎から仁美がここにいると聞いたのだろう。
「仁美ちゃん、ごめん。ごめんなさい」
 いきなり謝られ、仁美は面食らう。
「お義母さん、どうしたの? つばさになにかあった?」
「ちょっと目を離した隙に、つぅちゃん……、いなくなっちゃったの」
 冷たい手で心臓を鷲掴みにされたように、息が詰まった。
 涼音にことわって店を飛び出す。仁美が駆けつけると、義母が家の近所を捜しまわっていた。泣きそうな顔で詫びる彼女の腕を強く掴んで、尋ねる。
「お義母さん、つばさ、家の中にはいないのね?」
「押し入れも全部見た。つぅちゃん、『ママ、どこ?』って捜してて、玄関の鍵がかかってなかったから」
 義母の家の玄関は引き戸だから、つばさにも開けられる。
「寒いから、お義母さんは家に帰って近所の人につばさ見なかったか電話で訊いて。私はつばさ捜しながら、真壁の家へ戻るから」
 言い終わらないうちに、足が自宅へと走り出していた。すでにあたりはとっぷりと暮れ、遊んでいるような子供はいない。
 誰もが顔見知りのこんな田舎で誘拐事件なんて起きるわけがない。そう思いながら、背中を冷たい汗がつたい落ちる。
 闇に目をこらし、つばさの名を必死に叫びながら走ったが、見つけられないまま自宅に着いてしまった。
 祈るような思いで鍵を開けたが、玄関に小さな運動靴は脱ぎ散らかされていない。
「お父さん、つばさ、いるよね!?」
 悲鳴みたいな声を上げながら部屋へ駆け上がると、父はベッドで横になっていた。明らかに具合が悪そうだったが、つばさがいなくなったと聞き、身体を起こす。
「聡介君じゃないか?」
 午前中に家の前で聡介と交わした会話の内容は、父にも話してあった。伝えてくれと、頼まれたからだ。

 だ、黙ってたほうがいい?
 その代わり──。
 お、お金……、貸してくれる?
 そう……伝えて。
「聡介君があのコを連れていったんじゃ……?」
 無理してベッドから出ようとする父を押し留め、部屋を飛び出した仁美の耳朶を「キャー」という叫び声が打つ。
 メーメー公園のほうから聞こえてきた少女の悲鳴は、つばさの声によく似ていた。

(第25回へつづく)