2022年2月3日、私の半生がモデルになったドラマ『湯あがりスケッチ』の放送が始まった。設計事務所に勤める主人公「穂波」は、銭湯の絵を描き始めたことをきっかけに北千住の銭湯・タカラ湯に転職。新たな絵を描くため赴いた銭湯で様々な人々と出会う、というストーリーだ。1年ほど前、監督の中川龍太郎さんから『銭湯図解』を原案にしたドラマ化を打診され、あれよあれよという間に撮影が始まり、私も劇中に登場する絵を描くなどお手伝いをして、形になっていった。
 第一話の放送数日前に、完成した動画が届いた。台本は読んでいたものの、映像を目にするのは初めてで、ワクワクしながら再生ボタンを押す。紙の上に伏せっていた穂波がタカラ湯の休憩室で目を覚まし、夢の続きのような幻想的な霧がかった縁側を通り抜ける。待合室、脱衣所を抜けた先には、幾多もの銭湯図解が吊るされた浴室。図解を一枚一枚愛情深く眺める穂波の横顔を見て、絵描きとして独立して今に至るまでを走馬灯のように思い出し、ボロボロと涙が零れた。

 幼い頃、週末になると両親に連れられていろんな場所に出かけたが、美術館に行ったことが一番記憶に残っている。ミケランジェロやダリが描く、見たことのない世界に強く心を惹かれた。同じ人間が描いたのだと思うと、感動のあまりその場から動けなくなった。
 絵を描くことが好きで、小学生の時に友人とリレー形式で連載していた漫画『ワンワン物語』は、聖書レベルの厚さになっていた。両親や学校の友達からも「歩波ちゃんは絵が上手だね」といつも褒められていたので、大人になったら美大に行って絵描きになると信じて疑わなかった。
 ある日、転校生がやってきた。彼女は抜群に絵がうまかった。高校生が描いたと言っても信じてもらえるほどだ。彼女の絵を前にして、絵描きになりたいなんてとても恥ずかしくて言えなくなった。彼女が妬ましくて井の中の蛙の自分にガッカリして、それでも絵が好きで、感情がグチャグチャになっていた時、母親と建物の絵を描いた。
 当時、母はインテリアコーディネーターの学校に通っていて、よく家でパース(建物の室内を立体的に描くこと)の課題を描いていた。母の描くパースは、線が美しく窓から差し込む光の表現がキレイだった。その様子を熱心に見ていた私に、母はパースの描き方を教えてくれたのだ。教えられるがまま手を動かしていくと、みるみる立体的な部屋が出来上がっていった。自分が描いたとは思えない大人びた雰囲気があって、何か自分の感覚にピタリとハマった。転校生の登場によってへし折られた鼻が、少し上向きに戻った瞬間だった。
 それから夢中で建物の絵を描き始め、建築物にも興味を抱くようになり、迷いなく建築学科を志望した。

 

 

 進学した早稲田大学建築学科の課題は自由度が高かった。理工学部の建築学科にしては珍しく、立体模型や平面作品を提出する美大のような課題も少なくない。未だに自分の絵に自信はなかったが、それでも絵を描きたくて極力絵を使って課題を提出していくうちに、絵が評価されて大勢の前で発表する機会も得られるようになった。もしかしたら絵は私の武器なのかもしれない……と思った矢先、卒業論文の調査で地方都市に行くことになった。
 論文のテーマを決める際、研究室の教授から「塩谷君は絵が上手だよね! 街をいっぱいスケッチして色彩の研究してみてよ」とフランス語で書かれた色彩研究の本を渡された。楽しみな反面、少し不安になった。この時はまだコピックや色鉛筆しか使ったことがなく、複雑な色味を表現するには正直頼りない。マジで無茶振りだな……と文句を垂れつつ透明水彩を使い始めた。まさか10年後に水彩作品を毎日描くようになるとは、思いも寄らなかった。
 地方都市に1ヶ月ほど滞在し、2メートルの水彩作品2枚と20枚ほどのスケッチを描いて無事論文も提出し終えた。お世話になったその土地の方々に、お礼も兼ねて論文内容を発表すると、「私達の街をこんなに素敵に描いてくれて、感動したわ」と声をかけられた。手の先がビリリと痺れてしまうほど、嬉しかった。自分が井の中の蛙だと思ったときから、自分の絵が下手ではないかと気にしていたが、この時初めて、私の絵が誰かの心を動かすことが、何よりも価値があるのだと知った。

 

 

 大学院卒業後は、設計だけでなく絵も描いている建築家の元で勉強しようと思った。6年間建築を学び続けてきたプライドと良い成績を取れなかった劣等感もあったので、絵と建築を両立できる人になりたいと思ったのだ。
 しかし建築事務所の忙しい日々の中では絵を十分に描く時間はなかった。お客さんに提案する図面に絵を描くことはあったが、学生時代に感じた“誰かの心を動かす絵”とは全く別物。さらに仕事に打ち込みすぎて消耗し、体調を崩してしまった。
 その後は、エッセイ2回目と3回目に書いた通りだ。3ヶ月の休職期間中、サークルの先輩と友人に連れられて銭湯に出会った。その魅力を絵に描いてSNSに投稿すると想定外の反響があった。銭湯の絵を描き続けているうちに小杉湯に声をかけられ、異例のキャリアチェンジに迷ったものの、転職を決意した。

 小杉湯に就職してからは、受付やお風呂掃除といった番頭業務をこなしながら、受付に展示する商品のPOPやイベント風呂のイラスト、お風呂のマナーを喚起するポスターなど、あらゆる絵を描いた。「あなたの絵すてきね」と言ってくれる常連さんや、絵を見るために遠くから来る人もいて、誰かに届く絵を描く日々は幸せだった。それでも自分の絵に自信は持てず、褒められても「アマチュアだから」と卑下することも少なくなかった。
 2019年に番頭業務の傍らで描き続けてきた『銭湯図解』の書籍が出版されて、その直後に私に密着した『情熱大陸』も放映された。小杉湯周りの友人はもちろんのこと、大学や中高時代の同級生、一度しか会っていない遠い親戚からもお祝いの声をかけてもらったけれど、嬉しさよりも想像以上の反響にすくみあがってしまった。
 それでも、小杉湯で私の絵を見て褒めてくれた人や、本を熱心に読んでくれた人の顔を浮かべた途端、勇気がふつふつと湧いてきた。もうアマチュアだなんて言って自分を守ることはやめよう。幼い頃から抱く自分の気持ちに向き合って、批判があっても乗り越えて、絵を描く人生を歩んでいきたい。

 そんな思いから書籍を刊行した翌年、「アトリエエンヤ」を立ち上げた。小杉湯以外の絵の仕事を引き受けるためだ。
 直後は不安でいっぱいで「“番頭兼イラストレーター”って経歴がキャッチーなだけで、依頼なんて全然ないのでは……」とハラハラしたが、立て続けに図解の依頼をいただいた。母校の冊子の表紙、元銭湯のギャラリー、博多にある居酒屋……。私の絵にお金を払う価値を感じてもらえていることが純粋に嬉しく、想像を超えた幅広いジャンルの絵を描くことで新しい表現方法にも触れられた。アトリエエンヤの仕事が楽しくて楽しくて仕方なかった。
 その一方で、少しずつ小杉湯の仕事が窮屈に感じるようになってしまった。小杉湯で描ける絵は限られているし、番頭業務中には「この作業している間に図解を描けたのに」なんて思ってしまう。小杉湯に出会わなければ今の自分はなかったのに、小杉湯のことをおざなりにしてしまう自分に嫌気が差した。
 ゆっくり休んでも疲れが取れず布団から出られなくなった時に、かかりつけの医者と話し合い3ヶ月ほど休職することにした。

 のんびり過ごし、体調が戻るにつれて絵を描きたい気持ちが静かに込み上げてきた。休職中は何もせず過ごすつもりだったが、どうしても絵が描きたくてアトリエエンヤの仕事として図解を描き始めた時に、久々に自分らしくいられるような安心感に包まれた。その時、もう自分の気持ちに正直になった方がいいと思ったのだ。
 小杉湯は私がボロボロな時に拾ってくれて、ずっと温かく見守って応援し続けてくれた。その分、恩を返さなきゃと思い続けていたけれど、自分の絵を描き続けたいという気持ちにもう嘘はつきたくない。
 今の想いを素直に打ち明けようと、お世話になった人全員とゆっくり話をした。皆、温かく背中を押してくれて、ちゃんと話をしてよかったとホッとした。小杉湯のオーナー(2代目)が言ってくれた言葉が今でも忘れられない。
「塩谷さんは、もう十分に恩を返していますよ。塩谷さんがきてから小杉湯は大きく変わりました。本当に、ありがとう。」
 小杉湯での5年間の仕事を思い返した。沢山描いたPOP、夏至祭はじめ自分で企画したイベント、交渉して仕入れた商品、お客さんとの数々の会話。私は十分残してきたじゃないか。出会った人々に感謝の気持ちを抱き、自信を持って絵を描く人生を歩もう。絵描きとしてひとまわり大きくなることが、また恩返しになる。
 オーナーの言葉を胸に、2021年の5月に小杉湯を退職し、6月に絵描きとして独立した。これから一人で歩いていく、不安と奮い立つような思いを抱えた頃に、ドラマ化の話がきたのだった。

 

(第19回へつづく)