人物紹介

仁美…高校二年生。町の祭りで起きた無差別毒殺事件で母を亡くす。

修一郎…高校一年生。医学部志望の優等生。事件で妹を亡くす。

涼音…中学三年生。歳の離れた弟妹を事件で亡くす。仁美たちとは幼馴染。

景浦エリカ…涼音の母。派手な見た目と行動で町では目立つ存在。

仁先生…仁美の父親。町唯一の病院の院長。

成富栄一…大地主で町では一目置かれる存在。町内会長も務める。

博岡聡…成富建設の副社長。あだ名は「博士」。引きこもりの息子・聡介を家に抱えていた。

音無ウタ…息子・冬彦が真壁仁のせいで死んだと信じこんでいる。

琴子…息子の流星と姑のウタと同居している。元新聞記者。

流星…小学六年生、ウタの孫。修一郎の妹と仲が良かった。

宅間巌…かつて焼身自殺した町民。小学生の間では彼の幽霊が出ると噂されている。

第二十三話

 

「お父さん、聡介君から、なにを聞いた?」
 翌朝、出勤する修一郎を見送り、つばさを保育園に送って戻るや否や、仁美は父を問い詰めた。
「ん? 今日は聡介君のカウンセリングだったか?」
「違うよ。そうじゃなくて、聡介君の家に行ったとき、あの事件の日の話をされたんでしょ? おしるこに誰が農薬を入れたか、部屋から見たって」
 他に誰もいないのに、思わず声を潜めてしまう。しかし、父には事態の深刻さが少しも伝わっていないらしく、テレビから目を離さずに「んー、そうだったか?」と生返事が返ってきた。
「ねぇ、お父さん! 大事なことだよ。覚えてないの?」
「……覚えてないなぁ」
「だったら、思い出してよ! 聡介君、誰を見たの? なんでお父さんはそれを聞いて逃げ帰ってきたのよっ!?」
 テレビを消して詰め寄ったが、こちらが望む反応は返ってこない。
「ママじゃ……ないよね?」
「……ママ?」
「私だってそんなこと考えたくないけど、ママが手紙にあんなこと書くから……」
「ママの……手紙って?」
 父の言葉に全身から力が抜け、仁美はその場に膝をついた。
「それも……覚えてないの?」
 父は困ったように力なく笑う。父のように忘れてしまえたらどんなにいいだろう。そう思った途端、涙が込み上げてきた。
「どうした?」
 オロオロと顔を覗き込む父に、仁美は首を振り、袖で乱暴に涙を拭う。
「明後日のお祭りに涼音が……、エリカちゃんの娘の涼音が来るんだ」
「えっ……?」
 父がはじめて大きな声で反応した。
「聡介君、おしるこに農薬を入れたのはエリカちゃんじゃないって言ってた。それを涼音に伝えないと。エリカちゃん、このままだと死刑になっちゃう」
 でも、その前に確かめなければ。昨日は動揺して、逃げ帰ってしまったけれど、避けては通れない。
「聡介君のところへ行ってくる」
「どうして、仁美が聡介君のところへ?」
「だって、お父さんが覚えてないなら、訊いてこないと。あのお祭りの日、……誰が、おしるこに農薬を入れたのか」
 体を震わせ立ち上がろうとした仁美の腕を、強い力で父が掴んだ。
「痛っ! ちょっと、なに、お父さん」
「……ダメだ」
「なにが?」
「行っちゃダメだ」
 話の内容が理解できたのか、父の顔からはさっきまでの虚ろな表情が消えている。
「どうして……、ダメなの?」
「……だから」
 父がなにか言ったが、声が小さすぎて聞き取れない。
「えっ、なに?」
「おしるこに農薬を入れたのは……」
 苦しげに顔を歪め、うめくように父は言葉を放つ。
「……千草だから」
 うまく呼吸ができない。
 周囲の空気が急激に薄くなったような気がした。
「……嘘。聡介君がそう言ったの!?」
 力なくうなずく父を見て、仁美はその場にくずおれる。
 昨夜、聡介に話しかけられたときから、ずっとその可能性に怯えていたのに、いざ事実として突きつけられると、そんなはずないと心があがく。
「お父さん、本当に思い出したの? 聡介君、なんて言った? それ、見間違えかもしれないよね。だって、ママがそんなことするわけないんだから! もしも……、もしも本当にママがそんなことしたんだとしたら、全部、全部、お父さんのせいだから!」
 一息に思いを吐き出し、仁美は喉を押さえる。水から放り出された魚みたいに空気を求め、あえいだ。
「仁美、落ち着いて、ゆっくり息を吸って」
 父に背中を撫でられ、少しずつ呼吸が楽になっていく。仁美が落ち着くまで、父はずっとその手を止めなかった。幼い子供をなだめるように背中をさすり続けた。
「もう……おしまいだね」
 低くつぶやいた瞬間、父の手がビクッと動きを止める。
「ママが犯人だって聡介君が話したら、もうこの町にはいられない。修一郎とも離婚……することになる」
「ダメだ」と、父が激しく首を左右に振った。
「それは、ダメだ。あの子が悲しむ」
 父の目は、写真立ての家族写真に向けられていた。お正月に四人で撮ったもので、父の膝の上で着物姿の小さなつばさがはじけるような笑顔を見せている。
「私だってつばさだけはどんなことをしても守りたいよ。だけど……」
「……バレなければいい」
「え?」
「話してみる」
「話してみるって、聡介君と? 誰にも言わないでくれって頼むつもり?」
「聡介君を、何度か助けた。だから……」
 聡介は入院治療を受けたあとも気分の浮き沈みが激しく、落ち込むと自殺を試み、父に命を助けられたことが何度もあったらしい。
 今みたいに話のできる状態の父が説得すれば、聡介も聞き入れてくれるだろうか。
 いや、やはり無理だ。いくら聡介が父を恩人と思ってくれていたとしても、無実のエリカを見殺しにはできないはずだ。
「頼みを聞いてもらえなければ、そのときは……」
「お父さん、そのときは、なに?」
「……鍵」
「鍵? 鍵って、家の……?」
 ふいに仁美の頭の中で、父が隠し持っていた小さな鍵が像を結ぶ。
「もしかして手帖カバーの中にあった鍵? あれはなんの……?」
 言葉の途中で玄関のチャイムが鳴り、仁美は身体を硬直させた。
 昨夜、話の途中で置き去りにしてしまった聡介が訪ねてきたのかもしれない。恐る恐るインターフォンの画面を確認した仁美は、ほーっと安堵の息を吐く。そしてすぐに玄関へ向かい、扉を開けた。
 そこにいたのは聡介ではなく、申し訳なさそうに頭を下げる琴子だった。
「仁美さん、ごめんね、忙しいのに。守さんが、ちょっと公園まで来てくれないかって」
「今? お祭りのことで?」
 うなずく琴子に、仁美は顔を強張らせ、尋ねる。
「えっと……、他にも誰か来てる?」
 祭りの件で呼ばれるなら、昨夜のように聡介がいるかもしれない。もし守や琴子の前で、昨日みたいな話をされたら……。しかし、琴子の口から飛び出したのは意外な名前だった。
「今、公園にいるのは、麗奈ちゃんと地元のテレビ局のディレクターさんとカメラマンさん。それから守さんと武蔵君だけど」
「麗奈ちゃん、もう帰ってきてるの?」
「明日は東京で仕事があって参加できないから、今日の夕方、ダンスを踊る中高生たちとリハをするんですって。それをテレビ局の人が取材に来てて」
 琴子と一緒にメーメー公園に足を踏み入れると、懐かしい曲が風に乗って流れてきた。仁美も祭りで何度も踊ったあの曲だ。
 公園の東奥に設けられた仮設ステージの上で、栗色の髪を高く結い上げ、おしゃれなダンスウェアをまとった女性がひとりで踊っている。
 琴子から聞いていなければ、それが麗奈だとわからなかったかもしれない。
 子供のころから可愛い女の子だとは思ってはいたが、アイドルとして磨かれ、垢ぬけた麗奈は見違えるほど美しくなっていた。
 祭りのダンスもバレエを習っていた麗奈が踊ると、まるで別物のように優雅でカッコよく、仁美は思わず見惚れる。最後の決めポーズで曲が終わった瞬間、ディレクターと撮影していたカメラマンから歓声と拍手が上がった。
「いやぁ、麗奈ちゃん、よかったよ。何年もブランクがあるなんて信じられない見事なダンスじゃない」
「本当ですか? 嬉しい。中学の体育祭以来で覚えてるか不安だったけど、何度も練習させられたから、身体に沁み込んでるみたい。あ……」
 仁美に気づいた麗奈が、壇上で飛び上がって手を振る。そんな仕草も妙に様になっていて、アイドルっぽい。
「仁美ちゃん、結婚おめでとう! お子さん、一緒じゃないの?」
「え? あ……、つばさは今、保育園だから」
「あ、そっか。麗奈、子供大好きだから、会えるの楽しみにしてたのにぃ」
 愛らしく微笑む麗奈に、ディレクターもカメラマンも近くで見守っていた武蔵も魅了されている。同じようにぼーっと見ていた仁美の肩を、背後から守がバンと叩いた。
「おう、仁美、悪いな、呼び出して。芋煮を食べるためのテーブルとイスを用意することにしたんだけど、場所はここでいいかな?」
 三か所にテーブルが描かれた公園の地図を見せながら、守が実際の場所を指さしてみせる。
「うん、いいと思う」
「よし。あとさ、芋煮用のおわんの数がちょっと心許ないらしくて、前に使ったやつの残り、仁美のとこになかったか?」
「あ……、敬老会のときのが、物置にあるはず」
「よかった。じゃあ、当日、それ持ってきてくれ。あと、ひとつ変更点があって、缶ビールと五百ミリリットルのペットボトルのお茶が配布できることになったから、芋煮と一緒に渡してもらえるか。おしるこのテントに業務用のクーラーボックス用意するんで」
「えっ? でも、飲み物を渡すのにひとりとられちゃうと、お鍋をふたり体制で見てられなくなるかも」
「んー、確かにそこ一番大事なとこだな。じゃあ、飲み物係は誰か別の人間に……」
「じゃあ、私、やりましょうか?」と琴子が手を上げた。
「助かるよ。琴子さんが担当してくれたら安心だ」
 守や仁美の会話に、ステージから下りてきた麗奈も加わる。
「あのね、麗奈、こっちじゃ買えない、めっちゃ美味しいミックスジュース差し入れるから楽しみにしててね。……仁美ちゃん?」
「ん?」
「さっきから、なに気にしてるの?」
「えっ?」
麗奈に視線を追われ、仁美は慌てて目を逸らす。聡介のことが気になり、カーテンの閉じられた彼の部屋の窓につい目が行ってしまっていた。
「別に……、なにも気になんかしてないよ。えっと、守君、お祭りの件、それで終わりなら、先に失礼していいかな?」
「えー、仁美ちゃん、もう帰っちゃうの? お話したかったのにぃ」
「麗奈、仁美は忙しいんだよ。それにおまえは取材してもらってるんだろ」
 会釈して帰ろうとした仁美に、「すみません」とディレクターの男が声をかけてきた。
「お帰りになる前に少しだけお話うかがえませんか? 毒しるこ事件について」
「えっ!? ……なんでですか? これって、麗奈ちゃんのダンスの取材じゃないの?」
「そうですけど、毒しるこを食べて生死の境をさまよった麗奈ちゃんが見事に生還し、今元気に活躍してるってところを視聴者に伝えたいんですよ」
「それそれ! そこ、めっちゃ大事っすから」と、武蔵がマネージャーのように口を挟む。
「麗奈は強運のアイドルなんで、そこんとこいっぱい強調してくださいね。毒しるこだけじゃなく、イワオ事件のサバイバーでもあるんだから」
「それって、すごいっすよね」と、若いカメラマンが興味を示す。
「僕、隣町の出身なんですけど、うちの小学校でもイワオの幽霊の話は有名だったから、生きてるイワオに実際にさらわれそうになったって聞いて、マジでビビりましたよ」
「麗奈もね、今ここにこうしていられることが奇跡だって思ってる。小二で殺されてたかもしれないんだから」
「麗奈ちゃん、事件のこと、覚えてるの?」
 ディレクターの質問に、麗奈は「忘れられないですよぉ」と自分で自分の体を抱く。「めちゃくちゃ怖かったから、あのときのことは今でもはっきり覚えてます」
「麗奈さん、イワオってどんなヤツだったんすか?」
 カメラマンの男が食い気味に尋ねた。
「すっごい大男で、全然喋らなくて不気味で、とにかく怖かったよぉ。麗奈、寝てるところをさらわれたから、最初は夢見てるのかと思ったの。イワオに抱えられてどこかに連れていかれるんだって気づいて暴れたけど、イワオの力が強過ぎてどうにもならなくて」
「麗奈が無事でマジよかったよ。そんな小さい子にいたずらしようなんて、キモすぎだろ、イワオ」
苛立たし気に声を荒らげた武蔵を、麗奈が軽く睨んだ。
「武蔵君、誤解されるようなこと言わないでくれる。麗奈、イワオに変なことなんてされてないからね」
「あ、悪ぃ、もちわかってるよ。ディレクターさんたちも誤解しないでくださいね」
「ああ。でも、よく無事に帰ってこられたよね」
 ディレクターの男をじっと見つめ、麗奈がつぶやく。
「雨……のおかげかも」
「雨?」
 星がきれいな夜だったのに、やぎ山の崖の上に着いた途端、天気が急変して強い雨が降り出し、イワオは麗奈を抱え、樹の下で雨宿りをせざるを得なかったのだという。
「そこへ流星君のお父さんが来て、麗奈を助けてくれたから」
「神様が雨を降らせて、麗奈さんを守ってくれたんすね」
 カメラマンの軽口に、麗奈は「でも……」と表情を曇らせる。
「そのせいで、流星君のお父さんが……」
 ごめんなさいと琴子に頭を下げる麗奈に、武蔵が大きな声を出す。
「麗奈のせいじゃねぇよ。流星の親父さんを崖から突き落としたのはイワオなんだから」
「えっと……、あなたのご主人が、麗奈ちゃんを助けてくれたんですか?」
 ディレクターに声をかけられ、カメラを避けるようにうつむいた琴子に代わり、麗奈が涙ぐみながら答えた。

「はい、琴子さんの旦那様は命をかけて麗奈を守ってくれた、麗奈のヒーローです」
「麗奈ちゃんのファンにとってもヒーローだよね。琴子さん、ご主人が麗奈ちゃんを助けようとしてイワオに殺害されたと聞かされたとき、どう思われました?」
「……ませんから」
 はじめて琴子が小声でなにか答えたが、ディレクターは聞き取れず、「え?」と訊き返す。
 カメラから目を逸らしたまま、琴子は一息に答える。
「あの人は、主人を崖から突き落としたと認めることなく、自殺してしまいましたから」
「イワオが? そうだったんですか?」
「あいつ、最悪なんすよ」と、また武蔵が口を挟む。「一言も詫びもしねぇで派手な自殺しやがって。大勢が見ている前で、灯油かぶって自分で火ぃつけるって、死ぬときまで迷惑かけんなっつーの。うちのおふくろとかそれ見て、トラウマになっちまって」
「確かにそんなの見させられたほうはたまらないよね。それで、イワオの幽霊が出るって言われるようになったのかな。幽霊なんているわけないのに」
「いますよ」
「え……?」
「イワオの……幽霊」
 ディレクターの言葉に異を唱えたのは、麗奈だ。
「嘘、麗奈ちゃん、視えちゃう人?」
「視えはしないけど、感じるんです。見たって知り合いもたくさんいるし、イワオの幽霊に殺されたって事件もあったし」
 隣で琴子がピクッと反応した。イワオの幽霊に崖から突き落とされて死んだと噂されているのが、流星だからだろう。
「あ、そういう番組、どうですか? 霊能者の人とか呼んで、イワオの幽霊を呼び出してもらうの」
「え? 麗奈ちゃん、出てくれるの?」
「もちろん。怖いけど、がんばります。麗奈は強運のアイドルだから、たぶん大丈夫……」
 そのとき、公園を突っ切って歩いてくる人物が視界に入り、仁美は息をのむ。
 聡介だ。彼も仁美に気づいて、こちらに向かってきている。
 この場を離れなければ……。そう思いながら、身体が強張って動けない。そんな仁美の十メートルほど手前で、聡介はふいにぴたりと足を止めた。なにか言いたげな目で仁美を見たのち、くるりと踵を返し、彼はそのまま立ち去ってしまった。
「なんだ、あれ。相変わらずだな」
 挙動不審な聡介の姿に、武蔵は顔をしかめる。聡介は父以外の男性に、いまだに苦手意識があるらしい。もしかしたら、体の大きな武蔵のことを恐れたのかもしれない。
 一瞬、ほっと息を吐いたが、聡介はうちに向かったのではと不安になり、仁美も急いで帰宅した。
 家に足を踏み入れた瞬間、叫び声を上げそうになった。
 聡介がいたからではない。家中が泥棒に入られたように荒らされていたからだ。
「お父さん、どこ?」
 恐る恐る問いかけると、二階から父の返事が聞こえてきた。
 階段を上がった仁美は、一階よりさらにひどい状態の父の部屋を目にして立ち竦む。だが、引き出しの中身を床にぶちまけていたのは泥棒ではなく、父だ。
「お父さん、やめてよ。なにやってるの?」
「……ない。どこにもないんだ」
「ないって、なにが? ママの手紙なら私が……」
「違う、違う、違う! これの……」
 父が見せたのは、手帖カバーに隠されていたおもちゃのように小さな鍵だ。
「鍵、あるじゃない」
「鍵はある。ないのは、箱だ」
「鍵のかかった箱ってこと? それになにが入ってるの?」
 床に手をついてベッドの下を覗き込みながら、父は答える。
「農薬だ」
「農薬!? そんなものうちにないよ。あのときの農薬は警察に持っていかれたでしょ」
「あれじゃない、もらったんだ」
「変なこと言わないでよ。誰が農薬なんかくれるっていうの?」
「えっと……、誰だったかな」
「お父さんの勘違いで、そんなものこの家にはないから。それに……、そんなもの捜してる場合じゃないでしょ。さっき、聡介君が……。もしかしたらこれから来るかも」
「だから、捜してるんだ」
 言ってることがめちゃくちゃだ。また父は意思の疎通が難しい状態に戻ってしまったらしい。修一郎やつばさが帰ってくる前に、一階だけでも片付けなければ。
 ため息をつきながら階下に降りた仁美は、父がひっかき回した戸棚の中身や畳の上に投げ出された品々をもとの場所に戻していく。あらかた片付いたところへ、父が階段を駆け下りてきた。
「箱、見つかった?」
「箱?」
 これだけ部屋を荒らしてもう忘れたのかと泣きたくなったが、できるだけ穏やかに尋ねる。
「農薬が入ってる箱を捜してたんでしょ?」
 そんなものあるわけないけど、という思いは言葉にせずにのみ込んだ。
「音無さんだ」
「なにが?」
「農薬をくれたの、音無のおばあちゃんだ」
「はぁ? お父さんのことを逆恨みしていた音無のおばあちゃんが? そんなはずないよ。琴子さんがあの家で暮らし始めたときに、農薬は処分したって言ってたし」
「嘘じゃない。あの事件のあと、これを飲んでつぐなえって農薬が入った瓶を音無さんに渡された」
 あまりに真剣な父の様子に、仁美も不安になってくる。あの当時の音無ウタならやりかねない。
「もしそれが本当なら、そんな危険なもの、どうしてすぐに処分しなかったのよ?」
「……飲んでつぐなおうと思ったから」
「えっ!?」
「いつでも飲めるように、箱に入れて鍵をかけて持っていたのに、どこにしまったのか、わからなくなって……」
 父は本当に農薬を隠し持っていたのだろうか。自分の命を断つために。
 切ない思いが込み上げてきたが、仁美はそれを振り払う。万が一にもその可能性があるなら、すぐに捜さなければ。もしつばさが誤飲したら、大変なことになる。
「お父さん、わかった。それは私が捜すから。農薬を飲んでつぐなうなんて、二度と考えないで」
「……自分が飲むために捜してるんじゃない」
 不穏な父の言葉に、仁美は目を見開く。
「えっ、じゃあ、なんのために捜してるの?」
「もしも……もしも聡介君が、頼みを聞いてくれなかったら……」
 小さな鍵を握りしめた自らの手をじっと見つめる父の昏い瞳に、ぞわりと肌が粟立った。

 帰宅した修一郎に二人分の夕食を持たせて義母の家へ送り出し、つばさを寝かしつけ、その日の仕事をすべて終えてから、仁美は父の部屋で鍵のかかった箱を捜す。一緒に捜していた父は船をこぎはじめたので先に寝かせた。
 本当に父は、説得に失敗したら、聡介に農薬を……? いや、医師だった父にそんなことができるはずがない。今はつばさや仁美を守らなければという使命感で少しおかしくなっているだけだ。
 隠すとすれば自分の部屋に違いないと思ったが、くまなく捜しても、父の言うような箱はどこにもない。諦めて片付けはじめたとき、階段を上って来る足音が響いた。開いたドアから顔を覗かせたのは、修一郎だ。
「ちょ、やめてよ、心臓止まるかと思った。え? お義母さんになにかあったの?」
「違うよ。忘れもの取りに来たら電気ついてたから。ママこそ、お義父さんの部屋でなにしてるの?」
「……え?」
「こんな夜中に」
「父に……頼まれたの。箱を捜してくれって。修一郎、知らない?」
 もしかしたらとかすかな期待を胸に、箱について説明したが、修一郎はわからないと首を横に振る。
「なにが入ってる箱なの?」
「それは……、私もわからないけど、父が今日捜してて、部屋をめちゃくちゃにされちゃったから」
 修一郎はそれ以上追及せず、話題を変えた。
「聞いてるよね、明日、すず……、彼女が来るの」
 胸にきゅっと痛みが走ったが、気取られないよう、「うん」とうなずく。
「二駅先にあるビジネスホテル、あそこに泊まるって」
「……そう」
 少し迷うように目を泳がせ、修一郎は口を開いた。ひどく悪いことを聞かされそうな予感に、心がわななく。
「明日の夜……」
「……うん」
「会いに行こうと思う、すずに」
 嫌な予感はいつだって当たる。
 仁美は黙って目を閉じた。

(第24回へつづく)