第五章  円空  enku

 

 となりの円花のデスクは、いつも散らかっている。
 空のペットボトルは片づけられず、メモやペンといった文房具もぐちゃぐちゃと出しっぱなしである。また、電車の模型、謎のお面、古い切手など、仕事に関係なさそうなガラクタも多い。山田が一度それを指摘すると、手元に置くことでモチベーションが上がるのだから、れっきとした仕事道具だと反論された。
 そんな円花は今、十センチにも満たない小さな木彫りの置物を握りしめ、なにやらぶつぶつと呟いている。目下締め切りに追われている展評てんぴようの原稿はどうなったのか。山田はパソコンから目を離さずに声をかける。
「それ、新しいコレクション? そういえば、昔うちにいた愛犬も、庭でこっぱや石ころをせっせと集めてたな」
「もうっ、わんちゃんの習性と一緒にするなんて失礼な人だね! これは私がつくった世界にひとつしかない木彫りの仏さまだよっ。先週、記事のヒントになるかと思って、博物館でこういう自分だけの仏像をつくれるワークショップに参加してきたんだ。面白いアイデアが下りてくるのを待っててさ」
「へぇ、芸術の秋だもんな」
 気のない返事をすると、円花に顔を覗きこまれた。
「なになに、浮かない顔してさ? 十月は文化部の繁忙期なんだから、落ち込んでる暇なんてないよ」
 おまえが言うなよ、と内心ツッコミながら、山田はパソコンの画面から目を離した。
「君は相変わらず元気でいいよな。さっきの会議で小杉部長からあんな話をされたばっかりなのにさ」
 今から三十分ほど前、毎月ひらかれる文化部会議の終わりに、とつぜん小杉部長から発表があった。日陽新聞社がUurlウール社に買収されると正式に決まったという。現在は両社のあいだで人事の方針について検討がなされている。ついては、まだ不確定の要素も多いので、近いうちに人事部からメールで送られてくる詳細に目を通すようにとのことだった。
 数日前、情報通の星野から立ち話で聞いたところによると、どこまでUurl社が編集方針に口を出すのかは、実際にまだ決まっていないという。日陽新聞社側は、たとえ子会社化しても新聞社としてのプライドをかけて、紙面の内容に関しては死守したい。一方Uurl社側としては、販売戦略だけでなく人事や記事の中身についても口出ししたいと強硬な姿勢を崩さないのだとか。
 すると円花は真面目な顔でこう返した。
「もちろん聞いてたよ。部長なんか、お葬式に参列してるみたいな顔してさ。でもまだなくなるって発表されたわけじゃないんでしょ」
 底抜けの楽観主義者とはいえ、円花もさすがに戸惑いの表情を浮かべる。
「なにさ、山田まで脅かすようなこと言って」
「脅しじゃなくて、現実的に心配してるんだ」
 すると深呼吸をして、顔を寄せてきた。
「あのね、まだ起こってもいない『最悪の場合』を心配しても、なんにもいいことなんてないんだよ。恐怖とか不信感とかってただただ人を縮こまらせて、冷静な判断をできなくさせるだけなんだから。どーんと構えなきゃ、どーんと」と拳を手のひらで叩く。
「まぁな……君の言う通りかもしれないけど」
「そうだよ。あ、不安を抱えた山田には、仏さまを貸してあげる!」
 無理やりに持たせられたが、握っていると不思議と心が落ち着いた。
 たしかに最悪の場合を考えても仕方ない。
 事実、報道業界の買収例を少し調べたところ、株の譲渡だけにとどまり、発信する内容や記者や経営陣の配置はそのままという結果に収まった例もあるようだ。編集方針や人員だけは、なんとか現状維持できないだろうか。そう期待しながらも、先日釣り場で出会った社主の反応を思い出す。
 ――いやはや、君の気持ちはよぉく分かりますが……。
 ストーカー疑惑さえあった謎のオジジ釣り師――まさかその正体が、中尾なかお社主だったなんて! 全国紙の社主なのに一平社員にフレンドリーに接してくれていたことには驚かされた。意を決して直談判したけれど、やっぱりまともに相手にしてもらえなかった。むしろ社主の口調には、買収されることになったのは私の責任ではない、だから私にはなにもできないと最初から冷めているニュアンスもあった。あの人がUurl社に難しい交渉を持ちかける姿など、とても想像できない。
 イマイチ仕事に集中できずにいると、「山田と雨柳、ちょっと話が」と深沢デスクから呼びだされた。いやな予感は的中し、円花とこの半年間取りくんできた連載〈日本の知られざる技へ〉は、つぎで最終回になるという。あっさりと打ち切りを伝えられ、円花は動揺を隠さずに反発する。
「どうしてさ? 読者からの反応も悪くなかったんでしょ!」
「さっきの会議で部長の話を聞いてなかったのか? 仕方ないんだよ。あのあと編集会議の場でも、文化部のどの連載も最終回を迎えるように指示があったんだ。文化面がどうなるか分からない状況で、読者のためにも中途半端ではなく、きちんと終了させておく必要があるだろう」
「深っちゃんまでそんなこと言って」
 頭を抱える円花から、深沢デスクは目を逸らす。
「仕方ないだろ。俺たちはどうせ雇われ記者の身、組織の人間なんだ。となれば、上層部の方針に従うしかないじゃないか。今更くつがえせるわけがない」
「でもまだ文化面がなくなるって決まったわけじゃないんでしょ? っていうか、山田も黙ってないで言い返してごらんなよ、ほら!」
「いや……でもことの深刻さを踏まえれば、仕方ないんじゃないかな」
 円花は絶句したあと、それ以上は抵抗もせずに、黙って自分の席に戻っていく。さっきまでの彼女ならば「それなら新しい連載の企画書を出すもんね」などと諦めの悪さを見せただろうが、席に戻るうしろ姿はしょんぼりと肩を落としている。
 山田はもやもやした気持ちを切り替えるために、社内の売店に向かった。社内の売店で昼飯用のカップラーメンを買うついでに、円花が最近はまっているらしい〈丼ブリ☆プリン〉が棚に並んでいたので、それもレジに持っていく。
 オフィスに戻ると、円花はパソコンに向かっていた。先輩らしく「お土産だぞ」と声をかけるが、パソコン画面には転職サイトが堂々と表示されているではないか。
「マジでっ、切り替え早すぎ!」
「だってさ」とキーボードから手を離し、周囲を窺って声をひそめる。「まだなくなったわけでもないのに、みんな無難に終わらせる話ばっかりで、受け身な姿勢をとりすぎなんだもん。分からず屋ばっかりで、この私まで不安になる。文化部がなくなる以前に、こんなところじゃ頑張れないよ」
 円花は、深沢デスクや部長たちの消極的な態度に、真剣に怒っているらしい。この勢いならば、今すぐ退職願を提出しないとも限らない。そして円花のことだから、案外すぐに転職先が見つかったりして。さっき項垂れていたのだって、文化部がなくなるのが悲しいというよりも、山田を含める文化部の面々の弱腰に失望していたのか。
「悪かったよ、君の言った通りだ」
「なにさ?」
「俺たちの仕事は終わってない」
「やっと分かった? 連載だって、まだ一回チャンスはあるわけでさ。今更どうあがいても結果は変わらないかもしれないけど、楽しみにしてくれている読者のためにも最高のフィナーレを飾らなくちゃ」
「そうだな、反省したよ」
 山田が頭を下げると、円花は満足したように転職サイトのページを閉じて、コンビニ袋をひったくった。
「〈丼ブリ☆プリン〉に免じて許してあげる。さっそくだけど、最終回のテーマはなんにしよう?」
 ほっと胸を撫でおろしつつ「たとえばだけど、今度こそ雨柳民男さんに関係する記事はどうだろうか。このあいだ読んだ『お~い、道祖神どうそじん』も面白かったし、道祖神とかもアリじゃないかな」と提案する。
「深っちゃんまでそんなこと言って」
 頭を抱える円花から、深沢デスクは目を逸らす。
「仕方ないだろ。俺たちはどうせ雇われ記者の身、組織の人間なんだ。となれば、上層部の方針に従うしかないじゃないか。今更くつがえせるわけがない」
「でもまだ文化面がなくなるって決まったわけじゃないんでしょ? っていうか、山田も黙ってないで言い返してごらんなよ、ほら!」
「いや……でもことの深刻さを踏まえれば、仕方ないんじゃないかな」
 円花は絶句したあと、それ以上は抵抗もせずに、黙って自分の席に戻っていく。さっきまでの彼女ならば「それなら新しい連載の企画書を出すもんね」などと諦めの悪さを見せただろうが、席に戻るうしろ姿はしょんぼりと肩を落としている。
 山田はもやもやした気持ちを切り替えるために、社内の売店に向かった。社内の売店で昼飯用のカップラーメンを買うついでに、円花が最近はまっているらしい〈丼ブリ☆プリン〉が棚に並んでいたので、それもレジに持っていく。
 オフィスに戻ると、円花はパソコンに向かっていた。先輩らしく「お土産だぞ」と声をかけるが、パソコン画面には転職サイトが堂々と表示されているではないか。
「マジでっ、切り替え早すぎ!」
「だってさ」とキーボードから手を離し、周囲を窺って声をひそめる。「まだなくなったわけでもないのに、みんな無難に終わらせる話ばっかりで、受け身な姿勢をとりすぎなんだもん。分からず屋ばっかりで、この私まで不安になる。文化部がなくなる以前に、こんなところじゃ頑張れないよ」
 円花は、深沢デスクや部長たちの消極的な態度に、真剣に怒っているらしい。この勢いならば、今すぐ退職願を提出しないとも限らない。そして円花のことだから、案外すぐに転職先が見つかったりして。さっき項垂れていたのだって、文化部がなくなるのが悲しいというよりも、山田を含める文化部の面々の弱腰に失望していたのか。
「悪かったよ、君の言った通りだ」
「なにさ?」
「俺たちの仕事は終わってない」
「やっと分かった? 連載だって、まだ一回チャンスはあるわけでさ。今更どうあがいても結果は変わらないかもしれないけど、楽しみにしてくれている読者のためにも最高のフィナーレを飾らなくちゃ」
「そうだな、反省したよ」
 山田が頭を下げると、円花は満足したように転職サイトのページを閉じて、コンビニ袋をひったくった。
「〈丼ブリ☆プリン〉に免じて許してあげる。さっそくだけど、最終回のテーマはなんにしよう?」
 ほっと胸を撫でおろしつつ「たとえばだけど、今度こそ雨柳民男さんに関係する記事はどうだろうか。このあいだ読んだ『お~い、道祖神どうそじん』も面白かったし、道祖神とかもアリじゃないかな」と提案する。
 円花は仏像をふたたび手にとると、勢いよく背もたれに身を預けた。
「面白いテーマではあるけど、なんかピンと来ないな。そういえば、私が参加してきた仏像づくりのイベントは満員だったよ。博物館の人に訊いたら、予約を受けつけた先から埋まっていくんだって。空前の仏像ブームかもしれないね」
「そんなに流行ってるんだな。そういえば俺もこのあいだ、死後の世界に救いを求める人が増えているっていう記事を手伝ったばかりだよ。熱心な仏教徒じゃなくても、ただ仏さまに癒されたいっていうカジュアルな気持ちの人もいれば、大切な人が亡くなってもまた再会できると信じたい人もいるのかもな。現代的な信仰のかたちってわけか」
「死生観か……あ! 円空えんくうなんてどうかな」
 円花はパチンと指を鳴らして、山田の方を見やった。
「円空? 江戸時代の仏師ぶつしだっけ」
 曖昧な知識をたどりながら、山田は検索をかけた。木彫りの仏像の画像がたくさんヒットする。彫刻刀の跡をそのまま残したような、ギザギザした身体つきが特徴的である。切れ長の目を持つ憤怒ふんぬの表情をした仏像もいるが、どれも一様にほほ笑んでいて、神聖さよりもユーモアの方を強く感じる。
「円空のすごいところは、その作品の数でもあってね。なんせ一人きりで全国を行脚あんぎやしながら、生涯で十二万体以上におよぶともされる神仏像を彫ったんだから。実際、今も日本あちこちに五千体近く残ってるんだよ」
「十万体超えって、一人でつくれる量とは思えないな」
「でしょ? たとえ一ヶ所に留まっていても、そんなにつくれないよね。しかも電車もバスもない時代に身ひとつで日本中を旅するなんて、想像もできなくない? でも円空はそういう誓いを立てたんだって」
 いつもの上機嫌に戻った円花に、「本当だな」と相槌を打つ。
 円空は山伏やまぶし――山中で修行する修験道しゆげんどうのお坊さんでもあり、自然災害や疫病えきびようの流行が起こった土地で、傷ついた人々のために祈りをこめて仏像を彫ったという。死後の世界に救いを求める世の中、という話にも通じる。
 ただし、円空のファンは海外にも多いが、円空のことが広く世に知られるようになったのは戦後のことらしい。長らくアウトサイダーと見做され、止利仏師とりぶつし運慶快慶うんけいかいけいに比べればアカデミックな研究の対象になっていなかったようだ。やっと最近になって、その独特のユーモアあふれる造形から、芸術家として高く評価されている。
 そのことを指摘すると、円花は大きく肯いた。
「じつはね、私のおじいちゃんって晩年、円空の研究に没頭してたんだ。全国のお寺を巡ったり古い資料を集めたりして。でも研究もなかばで病気が見つかって、論考を完成させる前に亡くなっちゃたから、世間的にはあまり知られてなくてさ。本人も無念だったんじゃないかな」
 そこまで言うと、思い出すところがあったのか、ぼんやりと遠くを見た。
「聞けば聞くほど最終回にぴったりのテーマじゃないか! 最初の頃は民男さんの孫という事実を羨ましいとかコネ入社だろうとか斜めから捉えていたけど、今はそれほど素晴らしいネタはないって思うよ」
「あのねぇ、何度も言うけど、私はコネなんか使ってなくて、ちゃんと筆記試験も面接も受けたんですからね。ズルなんてしてませんからね」と、コネ入社という言葉に敏感なので強く反論する。
「分かった分かった。とにかく円空と民男さんの関係は、民男さんの身内である君だからこそ知ってる特ダネだし、記事として発表して民男さんの無念を晴らそう。仏像ブームが起こってるなら尚更、今それをやる意味があるよ」
「そうだね! じゃあさ、今度おじいちゃんの資料を見に実家にくる?」
 円花は身を乗りだした。
「じ、実家?」
 予想もしない展開に、思わずオウム返しする。
「うん、資料が大量にあるはずだからさ。私も最近、忙しくて帰れてなかったから、両親の様子も見られてちょうどいいや」
 付き合ってもいない女子の両親に会うなんて――いや、考えすぎてはいけない。これはあくまで仕事の取材であり、なにも躊躇ちゆうちよする必要はない。
「じゃ、お邪魔するよ。いつがいい?」
 ちょっと待ってね、とスケジュール帳をひらいている円花の傍らで、山田は内心わくわくが抑えられない。おそらく父親が民男の子どもなのだろうが、円花と同じく文化芸術に造詣ぞうけいが深いのか? こんな天衣無縫てんいむほうな娘を育てたなんて、どんな人なのだろう? あくまで仕事と冷静に言い聞かせつつ、円花の生まれ育った環境をのぞけることが楽しみで仕方のない自分にはっと気がつくのだった。 

 円花の実家は、鎌倉市の山沿いにある住宅街の外れにあった。もとは昭和の実業家が別荘として建てた洋風の古民家だという。
 雨柳民男は、若い頃から大学教員として民俗学の研究をつづけていたが、四十代はじめに刊行した、日本各地の土着文化について論じた自身初の著作『ステキな土着』がベストセラーになった。その際、民男が気に入って購入し、親しくしていた建築家にリフォームしてもらったつい棲家すみかが、その古民家らしい。
 じつは山田は高校生の頃、雨柳民男を取材したドキュメンタリー番組をテレビで見たことがあった。大学で要職を歴任し、学術書からエッセイまで数々の本を出版している「民俗学の巨人」が、森に囲まれたレトロな自宅の書斎で仕事をしたり、弟子たちと愉快そうにおしゃべりしたりする様子が放送されていた。まさか社会人になってからその家を訪問することになるとは、人生なにがあるか分からない。
 緊張のあまり、手土産の選定にもいつも以上に気合が入っていた。デパ地下や菓子店をはしごして、半日も費やしてしまったほどだ。もう民男は亡くなっているとはいえ、著名な文化人が暮らしていた自宅に行くのだから、下手なものは持参できない。いや、気合いの理由はそれだけでもないか――。
「あそこの角を曲がったらうちだよ」
 近くに山が迫り、通りの脇に小川が流れていた。一足早く紅葉した木々に隠れるようにして、二階建ての洋館風の家が立っていた。庭にはサンルームがあって、たくさんの植物が育てられている。また屋根を見あげると、風見鶏かざみどりが立っていた。
「ずいぶんと広い家だな!」
「そうかな? おじいちゃんが亡くなってから、半分くらい土地を売っちゃったんだけどね」
 説明しながら呼びりんを鳴らすこともなく、円花は「ただいま」とドアを開けた。外観は洋館風だが、内装は広々とした和風住宅だった。玄関には大きな水槽が置かれ、熱帯魚が泳いでいる。かわいいエンゼルフィッシュだなと目を細めていると、六十代前半ほどの高齢女性が顔を出した。
「あら、円花ちゃんじゃない。おかえりなさい」
 背が高くて優しそうな日本的な顔立ちの女性で、小柄で気が強そうなはっきりした目鼻立ちの円花と似ていないが、年齢的に母親と判断していいだろう。というか母親以外に誰だというのだ。山田は勢いよく頭を下げて挨拶する。
「本日はお邪魔いたします! 私はお嬢さんの同僚で、日陽新聞社文化部の山田文明ふみあきと申します。いつも大変お世話になっております」
「なに言ってんのさ、山田ってば」
 となりに立っていた円花が笑いだしたので、山田は「え?」と呆気にとられる。するとうしろからパタパタと足音がして、背の高い女性と同世代の、エプロン姿の小柄な女性が現れた。ショートカットで、二重の目や少し上向きの鼻の形などに見憶えがある。なにより明るく溌溂はつらつとした雰囲気は、円花そのものだった。
「ちょうどよかった。料理教室が終わったところでね」
 説明する女性のうしろから、中年の女性たちがゾロゾロと現れ、「円花ちゃん、久しぶりね」などと挨拶しながら靴を履いて出ていく。山田は熱帯魚に気をとられるあまり、玄関にずらりと並んだ靴を見逃していたのだった。
 最後に、人違いをしたご婦人が山田にほほ笑みかけて、「円花ちゃんのお母さんはあちらの淑子よしこさんね」と去っていった。
 居間の窓からは秋の山が望め、観光地とは打って変わって静かな環境だった。客間の奥に置かれていた仏壇には、親しげにほほ笑む民男の遺影が飾られていた。山田は円花につづいて手を合わせたあと、淑子に手土産を渡す。さっそく仏壇に供えると、淑子は手づくりした焼き菓子と紅茶をふるまってくれた。
 お茶をしながら、淑子から一家について話を聞く。
 淑子は民男の末娘として、民男とこの家に移り住んだ。婿養子らしい円花の父は「普通のサラリーマン」だといい、この日は仕事で不在だった。この家には、淑子が料理教室をひらいていることもあって、毎日のように誰かしらが出入りするらしい。
「自分で言うのもなんですけど、私って甘やかされて育ったんですよ。自由にのびのびとなんでもさせてもらってね。今もこんな風に好きなことして暮らしてるわけですけど、わがままなところは円花が似ちゃったかもしれませんね」
「ちょっと待った! 淑子の方がお嬢さまでしょ。うちはサラリーマン家庭だったし、私はこう見えて、新聞社勤務の記者として苦労してるんだよ」
 円花は母のことを「淑子」と下の名前で呼んだ。といっても、初対面から年上なのに苗字で呼び捨てにされてきた山田はさほど驚かない。よく考えれば祖父のことだけは「おじいちゃん」と呼んでいるので、特別な存在なのだろうか。
 早くに妻を亡くした民男のサポートをするために、淑子は結婚したあとも民男と同居しつづけた。民男には何人もの孫があるが、とりわけ一緒に暮らしていた円花を溺愛したという。
「もうすごかったんですよ。私たちが子どものときは育児に消極的だったらしいのに、円花のときはオシメも変えたし、可愛い孫を自慢するために知り合いをわざわざ家に呼んだりもしてました。忙しくて家を空けることの多い人でしたけど、円花を調査旅行に同行させたこともあって、彼女はおじいちゃんの分身みたいになっちゃったんです」
「そのために学校も休ませて、今から思えば無茶苦茶なオジジだよ」
 円花はなつかしそうに笑った。
 淑子は円花のことを、自分がしてもらったように、型にはめないように育ててきたという。円花がやりたいと言ったことは決して反対せず、できる限り応援してきた。周囲まで晴れやかにさせる高気圧のような性格になったのは、そういう環境で育ったからなのだなと山田は妙に納得してしまう。
 話の途中で、呼び鈴が鳴った。
「はいはーい。私が出るね」
 円花は椅子から立ちあがり、席を外した。山田は急に緊張してしまう。淑子さんと二人きりになるなんて。単なる同僚の親であれば、これほど緊張はしないだろう。実家を訪れて、円花へのときめきを改めて自覚してしまったせいだ。もはや淑子さんは、自分が惹かれている相手の親だった。
「や、焼き菓子も紅茶も、とても美味しいです」
 とりあえず沈黙を埋める。
「それはよかったです。あの、こんなことを訊くのも不躾ぶしつけかもしれませんが、うちの娘は新聞社でご迷惑をかけていないでしょうか?」
「え? 迷惑だなんて、まったく」
「本当でしょうか。さっきはわがままと申しましたけど、あの子って、身内の私が言うのもなんですが、自由奔放な性格でしょう? 山田さんのことも先輩なのに呼び捨てにしているみたいですし、孤立してないといいんですが……」
 淑子は娘を案じているのだ。山田は大きくかぶりをふった。
「孤立どころか、円花さんがオフィスにいると雰囲気がよくなるくらいです。慣れないうちは面食らう場面もありましたが、一生懸命さが伝わってきて僕も勉強になります。それに彼女ほど周囲を気遣っている人も少ないと思いますよ。僕はとなりの席なんですが、原稿に行き詰まっていると、さり気なくお菓子をくれたり『怖い顔してたら老けるよ!』みたいに励ましてくれたりするので」
 淑子はほっとしたように息を吐くと、「老けるなんて、また失礼な励まし方で冷や冷やしますが、山田さんみたいな先輩がいてよかったです。ああ見えて、円花もいろいろあったものですから」とほほ笑んだ。
「いろいろ?」

 

(第18回へつづく)