人物紹介

仁美…高校二年生。町の祭りで起きた無差別毒殺事件で母を亡くす。

修一郎…高校一年生。医学部志望の優等生。事件で妹を亡くす。

涼音…中学三年生。歳の離れた弟妹を事件で亡くす。仁美たちとは幼馴染。

景浦エリカ…涼音の母。派手な見た目と行動で町では目立つ存在。

仁先生…仁美の父親。町唯一の病院の院長。

成富栄一…大地主で町では一目置かれる存在。町内会長も務める。

博岡聡…成富建設の副社長。あだ名は「博士」。引きこもりの息子・聡介を家に抱えていた。

音無ウタ…息子・冬彦が真壁仁のせいで死んだと信じこんでいる。

琴子…息子の流星と姑のウタと同居している。元新聞記者。

流星…小学六年生、ウタの孫。修一郎の妹と仲が良かった。

宅間巌…かつて焼身自殺した町民。小学生の間では彼の幽霊が出ると噂されている。

第二十二話

 

 翌日、仁美はつばさを保育園に送った足で、義母の家を訪ねた。
 いつものように合鍵で玄関を開けると、そこに義母が待ち構えていて、仁美はぎょっと息をのむ。
「……ちょっ、お義母さん、ダメじゃない、こんな寒いとこにいちゃ」
「自転車の音が聞こえたから、待ちきれなくて」
 追い立てるように義母を居間のこたつに座らせ、洗濯機を回しに行こうとしたら、ガッと腕をつかまれた。
「洗濯は今日はいいから、とにかく座って」
 ポンポンと座布団を叩きながら、義母は仁美の顔を覗き込む。
「仁美ちゃん、顔色悪いけど、大丈夫? なにかあったの?」
 慌てて首を横に振り、「昨日、あんまり寝られなくて」と取り繕う。
 あんまりどころか、例の手紙のせいで、一睡もできなかった。こたつに足を入れたら、睡魔に襲われるのではと思ったが、不安が眠気を遠ざけているようだ。
「それで、どうだったの? あのこと、修一郎に訊けた?」
 前のめりに尋ねる義母の表情は真剣で、どれだけ心配してくれていたかが伝わってくる。玄関に靴がなかったから、昨夜、叔母が泊まりに来たというのも、仁美に修一郎と話をさせるための嘘だったのだろう。
 短く息を吐いてから、仁美は顔を上げる。
「お義母さんが心配しているようなことはないみたいだから、大丈夫だと思う」
「ちょっと、みたいとか、思うとか、それで本当に大丈夫なの?」
 心臓の悪い義母を安心させてあげたいけれど、大丈夫だと言い切ることはできない。修一郎の心の中まで把握するなんて不可能だし、それに……。
「修一郎は、仁美ちゃんになんて?」
「あ……、えっと、涼音とは会ってないって言ってた。それは本当だと思う」
「じゃあ、なんで、あの娘から電話がかかってきたのよ?」
 涼音はエリカの再審請求のため、新たな証拠を求めて修一郎にこの町の話を訊いていたらしいと伝えると、義母は顔色を変えた。
「信じられない。死刑になるのが怖くて悪あがきしているだけでしょ。修一郎はどうして、かすみを殺した人に協力なんか……?」
「……それは、直接本人に訊いて。とにかく、修一郎と涼音はお義母さんが気にしているようなことにはなっていないはずだから」
「でも、修一郎は立て続けに東京へ行ったじゃないの。会ってないって言われただけで、仁美ちゃんは、それを信じられるの?」
 仁美は小さく、だが、はっきりとうなずいた。
 修一郎は嘘を吐くのがうまくない。だから、涼音と会っていないのはたぶん本当だろう。でも、涼音が祭りに来たら、思いを残したまま別れたふたりが再会したら、先のことなど誰にもわからない。
「仁美ちゃん?」
「え……?」
「あなた、ぼんやりしてるけど、本当に大丈夫?」
 心配そうに顔を曇らせる義母に、仁美は無理やり笑顔をつくって見せる。
「お義母さん、心配し過ぎは体に毒だよ」
 不安が顔に出ているのか、義母はまだなにか言いたげだったが、早々に話を切り上げ、仁美は逃げるように台所に立った。
 修一郎と涼音がよりを戻し、捨てられるかもしれない。それは仁美にとってとんでもなく切実な問題だ。だが、今、それを上回るほど深刻な問題が、仁美の前に立ちはだかっている。
 持参した玉ねぎの皮を剥き、スライスしながらも、頭の中は昨夜初めて目にした小さな便せんに占められていた。
 そこに書かれていた母の言葉が脳裏に焼き付き、仁美の心にキリキリと爪を立てる。
『あの人と別れてください。
 もう限界です。
 このままだと、私、なにをするかわかりませんから』
 署名はないし、少し乱れているが、流れるように美しい文字は、母、千草の手に違いなかった。書道の有段者だったからか、母はメールで済むことをこうして便せんやメモに書いて、よく仁美や父の机の上などに置いていた。
 母は、父がエリカと特別な関係にあることを知っていたのだ。
 娘の目から見ても、夫婦の愛情の比重は母の方が大きく偏っていて、淡白な父に母はいつも過剰なほど尽くしていた。だからこそ、浮気を知ったときの母のショックは計り知れない。信じていた父に裏切られ、しかもその相手がエリカだと気づいたとき、母の心はどれだけ血を流したことだろう。
 内向的な母は、誰にも相談できずにひとりで悩み、我慢に我慢を重ね、ここに書いてあるように限界に達したのだろう。そして、それは、脅しのような最後の一文となった。
 仲のいい母娘関係が築けていたら、母は仁美に相談してくれたかもしれない。そうしたら、自分が少しは母の救いになれていたかもしれないのに……。
 昨夜、父にこれをいつ母から渡されたのか訊いたが、要領を得なかった。
 だが、なぜ手帖に隠していたのかと便せんを突きつけると、父はひどく怯えて取り乱し、それを仁美の手から奪おうとした。燃やさなければ怖いことになると、うわごとのように繰り返しながら。
 その異常な狼狽ぶりが、仁美を不安にさせた。
 父は、毒しるこ事件に母が関与したと疑っているのではないか――。
 決定的なことが書かれているわけではない。
 でも、母は父にエリカと別れてくれと懇願し、それが叶わなければ、なにをするかわからないとしたためている。
 その疑問を父にぶつけると、彼は子供のように泣き出した。
「……お父さんのせいだ」
「ちょっと、お父さん、本当にママがおしるこに農薬を入れたと思ってるの?」
「わからない、わからない。でも、全部、全部……、お父さんが悪い」
 子供のようにしゃくり上げる父を、仁美は呆然と見下ろした。病気のせいで噛み合わなくなった父との会話が、こんなときに限って成立している。
 父はおそらく本当にわかっていない。けれどその可能性があると、十年間、自分を責め続けてきたのだろう。
 仁美だって、あの母が、自分がつくったおしるこに農薬を入れるなんて考えられないし、なにがあろうと、人を殺すなんて絶対にありえない。
 でも……、十年前の祭りの日、仁美と涼音がダンスのリハーサルのためにおしるこのテントを離れる際、母がエリカにかけた言葉が、耳の奥でよみがえる。
「悪いわね、エリカさん、すぐに戻るから。よかったらおしるこの味見しておいてくれる?」
 母は確かにあのときそう言って、エリカにおしるこの味見を勧めた。
 いや、でも、母も被害者のひとりなのだ。自分が毒を入れたおしるこを自分で食べる人間がいるわけがない。
 昨日はそう自分に言い聞かせたが、同じことをぐるぐる考えるうち、仁美はひとつの可能性にたどり着いてしまう。
 仮に母がおしるこに毒を入れていたとして、あのとき、母に頼まれたエリカひとりが味見をしていれば、命を落とすのは彼女だけだったはずだ。
 しかし、母がテントを離れたあと、エリカは怜音と萌音、そして、麗奈とかすみにもおしるこを与えてしまった。
 エリカだけがターゲットだったとしたら、子供たちが農薬入りのおしるこを食べてしまったことを知った母は激しい衝撃を受けただろう。子供たちを巻き添えにしてしまったことを悔い、取り返しのつかないことをしたと思った母は、死んで詫びようと自ら毒しるこを口にした。そう考えれば、辻褄は合う。
 もしそれが真実だとしたら、エリカは冤罪で逮捕されたことになり、殺人犯の娘は、涼音ではなく、この自分なのだ。
 父はなぜ母の手紙を処分しなかったのだろう。
 警察が家宅捜索したとき見つかっていなかったから、どこか別の場所に隠していたに違いない。そのまま捨ててくれればよかったのに、事件から十年も経って、こんなものを目にすることになるなんて……。
 手紙は今、仁美が持っている。
 見なかったことにして、父が言うように燃やしてしまえば、なかったことにできる。
 だが、本当に母が犯人だったとしたら?
 エリカは無実の罪で死刑に……。
「ちょっと、仁美ちゃん、そんなに玉ねぎ切って、なにをつくるつもり?」
「え……?」
 スライスした大量の玉ねぎを前に、仁美は包丁を持つ手を止める。
「こんなに食べたら、血液サラサラになりすぎちゃうんじゃない?」
 そう言って微笑む義母の顔が、ふいに込み上げてきた涙で見えなくなる。
「やだ、どうしたの、仁美ちゃん?」
「玉……ねぎ」
 切っていたのが玉ねぎで良かった。涙をぬぐいながら、玉ねぎをたくさん使う料理の中から義母の好物を挙げていき、なにが食べたいか訊くと、「全部」という子供のような答えが返ってきた。
「だって、仁美ちゃんがつくってくれるお料理は全部、お店で食べるみたいに美味しいんだもの」
 さっきまでの不安そうな表情が嘘のように義母の顔がほころぶ。料理は人を幸せにする。
「仁美ちゃんが修一郎のお嫁さんになってくれて、本当に嬉しいわ」
 義母の笑顔にまた微笑み返そうとしたが、うまくいかず、頬が引き攣る。
 かすみを殺したのがエリカではなく、母、千草だったら、この人は殺人犯の娘である仁美を絶対に受け入れてはくれないだろう。
 義母だけでなく、修一郎も――。

 涼音から再び電話がかかってきたのは、その日の夕方だった。
 義母の家で彼女が食べたがった料理をいつもよりたくさん作り置きし、真壁医院での事務仕事を終え帰宅したところでスマホが震えた。仁美は、迷った末、意を決して電話に出る。彼女に訊きたいことがあったからだ。
「……もしもし?」
「仁美ちゃん?」
 受話口から懐かしい涼音の声が聞こえてくる。相変わらず感情を抑えた声なのに、涼音の驚きと喜びが伝わってきて、胸が波立つ。
「電話ありがとう。仁美ちゃんから電話もらえてすごく嬉しかった」
 電話をかけたわけではない。修一郎との関係を疑った挙句、誤タップしてしまっただけだ。
「……仁美ちゃん?」
「あ……、ごめん、えっと、元気?」
「うん、元気にしてます。ありがとう。仁美ちゃんも元気?」
「え……、あ、うん」
「仁美ちゃん、おめでとう」
 涼音の言葉に、仁美は戸惑う。
「修一郎君と結婚したって聞いた。お子さんもいるんでしょう? 本当は会っておめでとうって伝えたかったけど」
 本心でそう思っているのか、感情のない声からは読み取ることができない。
「来るって、本当?」
 余計なことを言ってしまいそうだったので、いきなり本題に入った。
「祭りに来るって、修一郎が」
「……うん」
「やめたほうがいい。また嫌な思いすることになる」
「それでも行かなきゃ。このままだとたぶん、再審の扉は開かないから」
 やはり涼音はエリカが犯人だとは思っていないのだ。
「どうして?」
「え?」
「エリカ……ちゃん、自白したんでしょ? おしるこに農薬を入れたって認めたんだよね?」
「そうなんだけど……、あのときは、なんか、もう、どうでもよくなっちゃったんだって」
「なんの……話?」
「仁先生が助けに来てくれるって信じてたみたいで、なのに、面会にも来てもらえず、自暴自棄になっちゃったって。あ、もちろん、仁先生が悪いわけじゃないけど」
「そんなことで……自白する? 死刑になるかもしれないのに」
「普通はしないよね。でも……、普通じゃないから」
 確かに、彼女は普通じゃない。エリカという人を知っているだけに、そう言われると、彼女ならやりかねないと思えてきてしまう。
「それだけ?」
「それだけって?」涼音がくり返す。
「エリカちゃんがやってないって、思う理由」
 それまでよどみなく答えていた涼音が、なにかを考えるように沈黙した。
「……ううん、他にもある」
「なに?」
「それは……」
 言葉を切り、ふーっと息を吐いてから、涼音は続けた。
「できれば会って話したいんだけど、難しい……かな?」
「……どうしても、祭りに来るつもり?」
「うん。前日から行こうと思ってるから、よければ、そのときに……」
「それは、無理」
 反射的に拒絶してしまい、仁美は慌てて取り繕う。
「あ、えっと、前日は仕込みをしなくちゃいけなくて……」
「もしかして、仁美ちゃんがつくるの、おしるこ?」
「あ、違う違う、さすがにおしるこはなしで、こやぎ庵のおじさんが、個別包装されたこやぎ最中を配ることになってて、私は、芋煮を」
 芋煮もおしること同じく大鍋でつくる料理だからよくないのではと守たち祭りの実行委員に進言したのだが、敬老会のときにつくった仁美の芋煮が美味しいと好評で、また食べたいという声が多かったらしい。
 つらい過去を乗り越えるためにも、みんなで細心の注意を払い、芋煮を提供しようと、結局、押し切られてしまった。
「芋煮……、千草おばさんのレシピだね」
「あ……、うん。そうだ、ありがとう、レシピノート」
「そんな……、あれは千草おばさんが仁美ちゃんに伝えたかったものだと思うし」
 でも、涼音がノートに書き留めておいてくれなかったら、知ることができなかったし、あのノートのおかげで、仁美の人生は大きく好転した。
 母のレシピは修一郎の胃袋を掴んだだけでなく、母、千草に再び出会わせてくれた。
 母の料理をつくっているとき、母が一緒に台所に立ち、仁美を手伝ってくれているような気がして、胸があたたかくなった。生前の母とそんな時間を持てず後悔していた仁美にとって、それはとても大切な支えとなった。
「私も食べたいな、仁美ちゃんの芋煮」
「え……?」
「可能であれば、お祭りのあとで、話をする時間をつくってもらえたら嬉しい」  
 涼音がエリカを犯人ではないと信じる理由をなんとか訊き出したかったが、電話では話してもらえそうにない。
「仁美ちゃん、これも会って謝るべきことなんだけど……、あのときはごめんなさい」
 唐突な謝罪に、仁美は面食らう。
「あのときって……?」
「……修一郎君のこと。言い訳になってしまうけど、ああなる前に仁美ちゃんに確認したつもりだったんだ。でも、あのとき、母のことで追い詰められてて、それで……。本当にごめんなさい。ずっと謝りたいと思ってた。だから、ふたりが結婚してくれて、すごく嬉しい」
 涼音の想いに胸を衝かれ、仁美は言葉を失う。
「忙しい時間にごめんね。仁美ちゃんと話せてよかった。本当にありがとう。できたら、またお祭りの日に」 
 黙ったままの仁美にそう断り、涼音は電話を切った。
 久々に触れた涼音の美しさに打ちのめされ、仁美は携帯を床に叩きつけたい衝動を堪える。
 小学生のとき、涼音がいじめられていたのは感情を見せないことが不気味だっただけでなく、こうした癇に障る美しさも原因だったに違いないと思う。
 涼音の魂の美しさは、自分の醜さを炙り出し、嫌な気持ちにさせるから。
 確かに昔、涼音に修一郎のことが好きか確認されたはずだ。たぶん強がって、年下だからありえないとかなんとか答えたのだろう。たとえそう言っても、涼音なら察してくれると甘えていた。でも、涼音は自分より年下のたった十五歳の少女で、しかも、町中の人から母親が犯人と疑われる過酷な状況にいたのだ。
 謝らなければいけないのは、自分のほうだ。もしエリカが無実なら、取り返しのつかないことを仁美はしてしまっている。エリカに死刑判決を下させたのは、自分なのかもしれないのだ。涼音はそれに気づいていながら、恨みごとのひとつも言わず、謝り、礼を言って、電話を切った。なじられたほうがどんなに楽だったか……。
 保育園へと自転車を走らせながら、仁美は母の手紙を公表することについて考えた。
 あれがあれば、エリカの再審請求は通るのではないか――。
 だが、「ママー!」と駆け寄ってくる幼いつばさの笑顔を目にした瞬間、そんな思いは霧消してしまう。自分と父親だけならいい。でも、私たちにはつばさがいる。事件のことが蒸し返されたら、つばさまで巻き込むことになる。この子の明るい未来だけは、どんなことをしても守らなければ――。
 
 翌日の夜、三日後に迫った祭りの最終打合せが町内会館で行われた。
 壇上に上がった守が、祭りのスケジュールやそれぞれの準備の進捗状況について、ひとつひとつ確認していく。
 まともに眠れず、朦朧としながら出席していた仁美に気づいたのか、守が檄を飛ばす。
「仁美、大丈夫か!? 今回、一番大事な芋煮担当が当日寝不足じゃ困るぞ。あんなことが絶対に起こらないよう、テントには必ず二人以上の人間を置いて、一時も鍋から目を離さないようにしてくれよ」
「あ……、うん、大丈夫」
「十年ぶりに行われる祭りなんだから、失敗は許されないぞ。みんなも気合入れていこう」
「おう、任せとけ」と、こやぎ庵の店主が機嫌よく応じる。
「地元のテレビ局が撮影に来るから、うちのこやぎ最中の宣伝になるしな。本当に麗奈ちゃん様様だ」
 麗奈がダンスに参加してくれるおかげでテレビの取材が入ることになり、祭りが盛り上がると喜んでいる人間は多い。そこへ涼音が現れたら、騒ぎになるに違いないし、こやぎ庵や蕎麦辰の店主はどんな態度をとるだろう。
「でもよ、守君よ、いいのか? この町の出身だってことがバレたら、麗奈のイメージダウンになるんじゃねぇか?」
 蕎麦辰の質問に、守が笑顔で答える。
「ああ、確かに最初は麗奈もひた隠しにしてたみたいだけど、最近じゃ毒しるこ事件のサバイバーだってことをウリにしているらしい。それだけじゃなく、イワオに誘拐されかけたけど、無傷で戻ったってことも。強運のアイドルってことで、注目されてるんだってさ。我が姪ながら、ずぶとくてあっぱれだよ」
「そういや、イワオで思い出したけど、あれだな。今年の祭りはイワオの命日なんだな」
 誰かがぼそっとつぶやき、さざ波のように波紋が広がっていく。
「言われてみれば、確かにそうだな」
「準備で祭りが後ろ倒しになっちまったからね」
「全然忘れてたよ。なんかそれって、不吉じゃないか?」
「ちょっと、今さらそんなこと言うんじゃないよ」
「だって、あの死に方……、みんなの前で灯油かぶって、自分で火ぃつけたんだぜ」 
 仁美は、書記をつとめる琴子をそっと盗み見た。
 言われるまで気づかなかったが、イワオの命日ということは、流星の命日でもある。
 その話題が耳に入っていないわけがないだろうが、琴子はなんの反応も示さず、ただ黙々とノートを取り続けていた。

 打合せが終わり、メーメー公園を突っ切って自宅へ向かっていた仁美は、暗がりからゆらりと現れた黒い影に驚き、叫びそうになった。
「あ……、す、す、すみません……、すみません、あの、僕です」
 目を凝らすと、見知った顔が頭を下げている。
「え……、聡介……君?」
 何度もうなずく男の姿に、仁美はホッと息を吐く。
 十年前はひきこもり生活によってかなり太っていた聡介だが、父との散歩がよかったのか、今はぽっちゃりという感じで、髪型や服装にも清潔感がある。
 町内会館の隅にいた聡介に気づいていたものの、仁美とは席が離れていたため、声がかけられなかったのだ。
「あ、ごめん。私も聡介君にお礼言わなきゃって思ってたんだ。いつも父がお邪魔して、すみません。それから、ありがとう」
「あ、いや、えっと……、そんな……」
 父以外の他人と話すことには未だ恐怖心があるのか、聡介はオドオドと目を逸らしながら続ける。
「あの、えっと、き、聞いて……ないかと……、思って」
 聡介の口調はじれったくなるほどゆっくりだ。
「なにを?」
「……ほら、その……、仁先生から」
「あ……、もしかして、父がなにか迷惑かけた? ごめんね、すぐ忘れちゃうから……」
 聡介はぶんぶんと首を左右に振る。
「そうじゃなくて……」
「え? じゃあ、なに……?」
 そういえば、母の手紙の一件で忘れてしまっていたが、聡介の家から帰ってきたあと、父は食事もとらずに自室にこもってしまい、明らかに様子がおかしかった。
「聡介君、あの日、なにかあったの?」
 見つめる仁美の視線から逃れるように、聡介は自宅の方へ歩き出しながら答える。
「……思い出したことがあって」
 彼の後を追って歩きながら、仁美は尋ねる。
「思い出したこと?」
「う、うん。それを話したら……、仁先生、驚いて……」
「聡介君、なにを思い出したの?」
「うん、えっと、あの……、祭りの日の……こと」
「え?」
 仁美は驚いて足を止めたが、聡介はそれに気付かず、歩きながら話し続ける。
「なんか……、あのころの記憶、あいまいっていうか……、いろんなこと、抜け落ちちゃってて……、でも、見たこと、思い出して……」
「なにを? なにを見たの?」
 走り寄って尋ねた仁美の声の大きさに、聡介がびくっと体を強張らせた。仁美は「ごめん」と、慌てて笑顔をつくる。
「ごめんね、父からなにも聞いてなくて。それって、十年前のあの事件の日のことだよね?」
 うん、うんと聡介は子供のように何度もうなずき、あの日、自分の部屋の窓から、テントの奥でコンロにかけられていたおしるこの鍋が見えていたのだと、つっかえながら話す。
 確かに聡介の家は道路を挟んでメーメー公園に面している。二階の彼の部屋からは低い生垣の先におしるこの鍋が見えたはずだ。
「あのとき、警察に話した……のに、う、嘘……だって言われて……、おまえが……、おまえがやったくせに嘘つくなって怒鳴られて……、おまえが犯人だって決めつけられて……、それで、頭が割れそうに痛くなって、なにが本当かよくわからなく……なって……」
 なにを見たのか、ただそれだけの答えになかなかたどり着かないのは、話が苦手だからか、それとも今、聡介が言いづらいことを口にしようとしているせいか。
「聡介君、もしかして、あの日、誰かがおしるこの鍋に農薬を入れるところを見たの?」
 恐る恐る尋ねると、彼は目を逸らしたまま、また何度もうなずく。
「それは……、エリカちゃ……、景浦エリカさんでしょう?」
 すでに自宅の前に着いていたが、仁美は祈るような気持ちで答えを待つ。だが、今度はうなずいてもらえなかった。はっきりと首を左右に振る聡介の姿に、心臓がきゅっと鈍く痛み、全身から血の気が引いていく。
「……じゃあ、誰が? 誰が、鍋に毒を?」
 くぐもった声が他人の声のように響き、禍々しい予感に仁美は打ち震える。
「あ、あの日……、おしるこの鍋に、瓶に入った液体を……、入れた、のは……」
 ふいに喉の奥から突き上げてくるものがあり、仁美は口を押さえて自宅のトイレに駆け込み、胃の中のものをぶちまけた。食欲がなく、ほとんど食べていなかったからか、涙と一緒に、濁った胃液まで吐いた。
 聡介はまだ家の前で待っているだろうか。
 そう思ったが、仁美は便器を抱えたまま、立ち上がることができなかった。

(第23回へつづく)