「ここでいいです」
譲二が言うと、タクシーが区役所通りの入り口で停車した。
林に連れ込まれたのは中野の雑居ビルだった。
部屋を抜け出した譲二はすぐにタクシーで歌舞伎町に向かった。
ホストクラブ――「ナイトプール」は区役所通りの最奥のビルに店舗を構えているが、譲二は用心のために数十メートル手前でタクシーを降りた。
直美と林が地下室を出てからおよそ三十分後に、譲二は部屋を脱出した。
まだいてくれ……。
譲二は焦燥感に背を押されるように駆け出した。
二人の風体の悪い男が正面から歩いてきた。
譲二は立ち止まり、自動販売機で飲み物を選ぶふりをして男達に背を向けた。
硬貨を持つ指先が震え、鼓動が高鳴った。キャップ、伊達メガネ、マスクをしていても安心できなかった。
背後を男達が通り過ぎるのを待ってから、譲二は歩を踏み出した。
およそ十メートル先――雑居ビルの外壁にかかる「ナイトプール」の看板が見えた。
ビルの横のコインパーキングに駐まるバンを見て、譲二は安堵の吐息を漏らした。
譲二が拉致されたバンと同じ車種だった。
束の間迷ったのち、譲二はタクシーを拾った。
長期戦になる可能性も十分に考えられたが、出てきたときにタクシーをすぐに拾えなければバンを追えなくなってしまう。
直美は中野に戻るだろうが、林の動きはわからない。明日、直美を危険にさらさないためにも林を見失うわけにはいかなかった。
「ご乗車ありがとうございます。どちらへ?」
後部座席に乗り込んだ譲二に、運転手が訊ねてきた。
「とりあえず、ここで待機してください」
「え?」
譲二が言うと、怪訝そうな顔で運転手が振り返った。
「あの駐車場の白いバンの持ち主が戻ってきたら尾行してください」
譲二は通り越しのコインパーキングを指差しながら言った。
「尾行ですか? 面倒なことに巻き込まれるのはちょっと……」
「私は麻薬取締官で内偵捜査中です。業務柄身分証明書は携行していません。ご迷惑はおかけしませんから」
無意識に口を衝くでたらめ――罪悪感はなかった。
直美を助けるためなら手段は選ばない。
「犯人を追っているんですね!?」
運転手の瞳に好奇の色が浮かんだ。
「捜査機密なので詳しくは言えません。料金はきちんとお支払いしますからご協力ください」
「もちろんです! で、その犯人はいつ頃出てくるんですか?」
運転手が興味津々の表情で質問を重ねてきた。
「さあ、一分後かもしれないし一時間後かもしれません」
譲二はフロントウインドウ越しに、通りを隔てた斜向かいのビルのエントランスを注視したまま言った。
恐らく三、四十分は下見しているはずなので、隠れ場所や襲撃のシナリオを打ち合わせしているにしても、三十分以内には出てくる可能性が高い。
「マトリって呼ばれているんですよね?」
不意に、運転手が訊ねてきた。
「え? あ、ああ……はい」
「やっぱりドラマみたいに、警察はライバルなんですか?」
ミーハーな運転手の質問攻めを適当に受け流しているうちに十分が過ぎた。
「出てきませんねぇ。尾行されてるのを察して裏口から逃げたとかはないですか?」
運転手が振り返り、譲二の顔色を窺いながら言った。
「車がありますから」
譲二は素っ気ない口調で返した。
「でもマトリに尾行されていると知ったら、車なんて乗り捨てるんじゃないんですか?」
運転手の野次馬根性は続く。
「すみません、少し黙ってて……」
雑居ビルのエントランスから二人の男――林の舎弟が出てきた。
ほどなくして、林と直美が現れた。
「あの毛皮のチョッキを着たライオンみたいな大男が犯人ですか……」
フロントウインドウ越しに直美を見た運転手が顔を強張らせた。
「違います。もう一人の男です」
「もう一人もガラが悪いけど、どう見ても毛皮のチョッキのほうが極悪人に見えるけどなぁ」
運転手が独り言ちた。
「車を出す準備をしてください」
譲二は直美と林に視線を向けたまま言った。
「えっ……」
譲二は後部座席から身を乗り出した。
バンに乗ったのは林と舎弟で、直美は雑居ビルに戻った。
「お客さん、どうします?」
運転手の声で譲二はバンが走り出したことに気づいた。
「追ってください!」
直美がなぜ「ナイトプール」に戻ったかが気になるが、いまは林の動向を探るのが先決だ。
「了解しました!」
運転手は弾む声で言うとアクセルを踏んだ。
林の乗るバンは歌舞伎町を出て、靖国通りを新宿三丁目方面に向かって走っていた。
「東神会」の事務所は歌舞伎町だ。
林はどこに行くつもりだ?
海東のマンションか?
それとも自宅に帰るのか?
「なんだか、刑事ドラマの役者になった気分ですよ。あ、お客さんはマトリだから刑事ドラマは嫌い……」
「尾行に集中してください」
譲二が遮り命じると、運転手は渋々と前を向いた。
バンは新宿御苑近くの高層マンションの前に停車した。
「停めてください」
譲二の乗るタクシーは、バンから二十メートルほど離れた場所で止まった。
スマートフォンを耳に当てたまま、林がバンから降りてきた。
海東に連絡しているのか?
林はスマートフォンを切ると煙草を吸い始めた。
譲二はとてつもない胸騒ぎに襲われた。
林が火をつけたばかりの煙草をアスファルトに捨てた。
重厚なエンジン音が轟いた。
激しくなる胸騒ぎ――地下駐車場の出入り口から白のマイバッハ、装甲車仕様のマットブラックのダッジラムバン二台が連なって出てくると、マンションの前に縦列駐車した。
ダッジラムバンはスモークフィルムが貼ってあるので中は見えないが、ゆうに十人以上は乗れる。
二台のダッジラムバンが満席だとすれば、二十数人の組員が乗っている計算になる。
覚醒剤の取り引きには危険が付き物だ。
相手が他の組やマフィアとなれば、どちらかが裏切り銃撃戦になることも珍しくない。
だが、取り引きは明後日のはずだ。
明日、林が託児所から運び込んだ覚醒剤を海東がチェックしにきたところを待ち構えていた直美が襲撃するというシナリオだ。
それなのに、どういうことだ?
取り引きの二日前なのに、なぜ多人数の組員が装甲車に乗っているのだ?
まさか……。
恐ろしい推測が譲二の脳内を支配した。
エントランスから四人の屈強なボディガードが現れた。
ボディガードに囲まれたツーブロックの七三に鷹のように鋭い眼をした男――海東の前に駆け寄った林が弾かれたようにお辞儀した。
顔を上げた林が海東になにかを報告しているように見えた。
譲二は舌打ちした。
この距離では会話の内容が聞こえない。
海東は林になにかを短く告げると、ボディガードの一人がドアを開けて待つマイバッハの後部座席に乗り込んだ。
海東と組員はどこに行くのだ?
やはり林は直美を嵌めたのか?
それとも別件か?
どちらにしても、直美に報せなければならない。
ポケットを探った譲二は気づいた。
託児所に置いてきた譲二のスマートフォンは林が回収して持ったままだ。
「運転手さん! 携帯を貸してください!」
「あ……はい!」
運転手から受け取ったスマートフォンを手にした譲二の指が、ナンバーキーの上で止まった。
考えてみれば、直美の番号を覚えていなかった。
譲二はウェブで歌舞伎町のスナック「歌謡曲」を検索した。
表示された「歌謡曲」の電話番号をタップした。
コール音が一回、二回……。
頼む! 出てくれ!
譲二は春江に念を送った。
念が通じた――三回目の途中でコール音が途切れた。
『「歌謡曲」です……』
「俺です! 譲二です!」
譲二は食い気味に名乗った。
『あら? 譲二ちゃん、どうしたの?』
「直さんの電話番号を知ってますか!?」
前振りなく譲二は訊ねた。
『え? 直さんの電話番号? 知ってるけど、なにかあったの?』
「いまは説明している時間がありません! 早く教えてください!」
『わかったわよ……ちょっと待って』
保留のメロディが、譲二の焦燥感を煽った。
十秒、二十秒……。
早く、早くっ、早く!
『お待たせ。直さんの番号は……』
春江の言う携帯番号を暗記し、譲二は一方的に電話を切った。
忘れないうちに覚えた携帯番号をタップした。
知らない番号からの着信に直美が電話を取らない可能性を懸念したが、予想に反してコール音は一回目の途中で途切れた。
『誰だ?』
「直さんっ、俺です!」
『おめえっ、なんで電話ができるんだ!? 手錠を外したのか!?』
「すみません! 罰はあとで受けます! いまは時間がないので用件を先に言わせてください! 直さん、『ナイトプール』にいるんですか!?」
『ああ、それがどうした?』
「いま林が海東と会ってます! 装甲車みたいな二台のバンに組員が二十人以上乗り分けてます! 状況的に直さんを襲撃するつもりかもしれません!」
譲二は息継ぎをせずに一気に伝えた。
『そんなことで、いちいち電話してくんじゃねえよ』
直美のリアクションに耳を疑った。
「え!? 海東が兵隊連れて直さんを襲撃するかもしれないって言ってるんですよ!?」
『俺は耄碌じじいじゃねえんだから、一度で聞こえてるって』
やはり直美が、動じているふうはなかった。
「直さんっ、逃げてください! 二十人以上の組員が拳銃を持っていたら、いくら直さんだって勝ち目はありません!」
譲二は叫んだ――祈った。
なにも言わすに、譲二の言う通りにしてくれることを……。
『俺はやらなきゃなんねえことがあるんだ。おめえに付き合ってる暇はねえ。じゃあな』
直美は一方的に言い残し、電話を切った。
「もしもし!? 直さん!? もしもし!? もしもし!?」
譲二は電話を切り、リダイヤルした。
オカケニナッタデンワハデンゲンガハイッテナイカ……。
譲二は電話を切り、リダイヤルした。
オカケニナッタデンワハ……。
「くそっ!」
譲二はシートを拳で殴りつけ、ダイヤルのアイコンをタップした。
「運転手さんっ、マイバッハより先にさっきの場所に戻ってください!」
譲二が叫ぶように言った。
「あの……お客さんはマトリじゃないんですか?」
怪訝そうに運転手が訊ねてきた。
「そんなことはどうだっていいから、早く車を出せ!」
譲二の怒声に、運転手が慌ててタクシーのエンジンをかけた。