人物紹介
仁美…高校二年生。町の祭りで起きた無差別毒殺事件で母を亡くす。
修一郎…高校一年生。医学部志望の優等生。事件で妹を亡くす。
涼音…中学三年生。歳の離れた弟妹を事件で亡くす。仁美たちとは幼馴染。
景浦エリカ…涼音の母。派手な見た目と行動で町では目立つ存在。
仁先生…仁美の父親。町唯一の病院の院長。
成富栄一…大地主で町では一目置かれる存在。町内会長も務める。
博岡聡…成富建設の副社長。あだ名は「博士」。引きこもりの息子・聡介を家に抱えていた。
音無ウタ…息子・冬彦が真壁仁のせいで死んだと信じこんでいる。
琴子…息子の流星と姑のウタと同居している。元新聞記者。
流星…小学六年生、ウタの孫。修一郎の妹と仲が良かった。
宅間巌…かつて焼身自殺した町民。小学生の間では彼の幽霊が出ると噂されている。
第二十一話
「お父さん……、これ、なに?」
「……これ?」
「お父さんが書いたんでしょ? 手帖にどうしてこんなにママの名前……?」
尋ねながら恐る恐る顔を上げた仁美は、そこに虚ろな父の顔を見る。
「お父さん?」
「ん?」
「これを消したかったんじゃないの?」
「消したかった? ……いや、お父さんはもう行かないと」
「ちょっと待って。行くってどこへ?」
「もう時間だから」
ついさっきまでなにかを消そうと手帖を捜していたのにそれを忘れ、父の気持ちはどこか別の場所へ飛んでしまっている。
手帖を放り出し、階段を下りていく父の後を仁美は慌てて追った。
「どこへ行くの? 病院へはもう行かなくていいんだよ」
「病院じゃないよ」
「じゃあ、どこに行くの? 町内会館?」
階段を下りたところで、父は驚いて足を止めた。
「違う。そんなところへは行かない。行くのは……」
なにかを求めるようにさまよっていた父の視線が、目の前の壁にその答えを見つけたかのように緩む。
「お隣だ」
「お隣? 聡介君のところ?」
「そう、それだ。聡介君のカウンセリングだ」
博士は亡くなってしまったが、火事で焼けた家を建て直し、お隣には夫人と聡介が住んでいる。
十年前、毒しるこ事件の犯人と疑われたことで、聡介は長期の引きこもりによって生じた対人恐怖や強迫症状がさらにひどくなり、一時期、入院治療を受けていた。だが社会復帰できるほどの回復には至らず、心配した父は自分なりに勉強して、プライベートで聡介の相談に乗り、彼と夫人をサポートしてきたらしい。
聡介も少しずつ父に心を開き、一緒に近所を散歩したり、地域の清掃活動に参加したりできるようになった。仁美が父の認知症を夫人に伝えてからも、聡介は父の訪問を歓迎し、一緒に碁を打ったり将棋を指したりするのを楽しみにしているという。といっても、頻度は月に一回程度で多くはない。だが、聡介が頼ってくれるからか、父も彼と会う時はいつもよりしゃきっとして、帰宅後も症状が落ち着いているような気がする。聡介は今も働きに出られてはいないけれど、博岡家は不動産を所有しているため、生活には支障がないようだ。
「お父さん、わかった。でも、もうお昼だから、行くのはごはん食べてからにしよう」
用意した昼食を食べさせ、父を送り出してから、仁美は再び二階へ上がり、父の手帖を開いた。
二十年以上前から父が愛用している手帖はマンスリーとウィークリーが一緒になったタイプのもので、最初のほうのページは見開きでひと月分のスケジュールを、その後は一週間ごとに細かい予定などが書き込める仕様になっている。ウィークリーページの昨日の欄に、父は母の名前をびっしり書き込んでいた。
そもそも、父が母を千草と名前で呼ぶことなど、ほとんどなかった。最近は漢字もかなり怪しくなっていたが、乱れてはいるものの、字は間違っていない。
他になにか書かれていないか、ざわつく胸を抑え、仁美はページをめくる。これまで父は予定をマンスリーに記し、ウィークリーのページには日記のようなものを綴っていたが、認知症を発症してからは手帖に書き込むこと自体が少なくなり、父がなぜ母の名を書いたのか、そのヒントさえも見つけることができなかった。
ふと思いついて、過去の手帖を保存している一番下の引き出しを開け、十年前のものを捜して引っ張り出す。
手帖を手にした瞬間、違和感を覚えたが、理由がわからず、とにかくページをめくってみた。
事件が起きた祭りの日、父はなにを記したのか。
前日までは日記のようなたわいのない雑記がしたためられていたが、たどり着いた祭りの日の欄は真っ白だった。
それ以降のページもずっと空白で、なにも書かれていない。
事件のあと、母の部屋で呆けたように座り込んでいた父の姿が脳裏に浮かぶ。とても事件のことを書き残せるような精神状態ではなかったのだろう。
母を亡くしたあの日から、十年が経った。
あれ以来、秋祭りはずっと中止されていたが、祭りの再開を望む声も多く、十年という節目の今年、祭りを復活させることが決まった。
そして、次の日曜日、メーメー公園で秋祭りが開催される。
祭りの目玉であるこの土地ならではの中高生のダンスに、今年はスペシャルゲストが来て、一緒に踊ってくれるという。
それは、会長の孫で、守の姪の成富麗奈だ。
高校卒業後、都内の大学へ進学した麗奈は、アイドル活動を始めていた。あるグループに所属し、デビューするも、最初の数年は鳴かず飛ばずで存続の危機だったらしいが、一人のメンバーがテレビに出て人気を博したことにより、グループにも徐々に注目が集まってきているという。
武蔵はデビュー当時から、なにかイベントがあるたび、東京まで出かけて行き、ファンクラブ会長として麗奈を盛り上げようと頑張っているらしかった。
麗奈のおかげで地元のテレビ局が祭りを取材に来ることが決まり、守が社長を務める成富建設が、公園の一角に仮設ステージまで組んでいる。
ああ、そういえば、昨日の朝、食卓でそんな話題が出た。
それを聞いて、父は十年前の祭りを思い出し、母の名を手帖に書きつけたのだろうか。
翌年の手帖をパラパラ捲ると、二月の途中から短い日記のようなものが再び書かれるようになっていたものの、特に気になるような記述はなく、仁美は手帖を閉じた。
消化できないモヤモヤが残ったが、仕事が山積みなのに、これ以上、手帖にかまけているわけにもいかない。普段なら、修一郎に相談しているところだ。しかし、彼には他に訊かなければいけないことがある。訊いたらなにかが壊れてしまいそうで、できることなら、なかったことにして忘れてしまいたいけれど……。
母と涼音のおかげで、仁美はようやく料理という武器を手にすることができた。でも、それですら、涼音より秀でているとはとうてい思えない。自分が涼音に勝っているところなどなにひとつないのだ。エリカがあんな事件を起こさなければ、修一郎は仁美ではなく、涼音との人生を選んだに違いない。
どこまでも沈んでいきそうな気持ちを、つばさの愛らしい笑顔を思い浮かべてどうにか奮い立たせる。
すぐに保育園のお迎えの時間が来てしまう。仁美は手早く部屋を片づけ、晩御飯の支度に取り掛かった。
「あれ? 今日、なにかの記念日だっけ?」
真壁医院での仕事を終え、帰宅した修一郎は食卓に並んだ料理を見て、目を丸くする。
「ううん、別にそういうわけじゃないけど……」
仁美はそう答えたが、修一郎の好物ばかりをつくってしまっていた。
「うまそ。着替えてくる」
二階の自室へと向かう修一郎は、特別後ろ暗いところがあるようには見えない。
食事中も、仁美はそれとなく夫を観察していたが、修一郎はいつもどおりつばさとの会話を楽しみ、父のことも気遣いながら、旺盛な食欲を見せた。
「お義父さん、あんまり箸が進んでないですね。これ、めちゃくちゃうまいですよ」
「あ……、うん。もう、いい」
聡介のところから帰ってくるなり、父は自分の部屋に閉じこもってしまった。夕食もいらないと言う彼を、仁美が無理やり席に付かせたのだ。
「お父さん、本当にもう食べないの? 具合でも悪い?」
首を振り、立ち上がった父の顔をつばさが覗き込む。
「じぃじ、いっぱい食べないと大きくなれないよぉ」
父はふっと初めて笑顔を見せたが、つばさの頭をひと撫ですると、二階へ上がって行ってしまった。
「お隣でなにかあったのかな」
その背中を目で追いながらつぶやく仁美に、「聡介君?」と修一郎が尋ねる。
「うん。いつもなら調子よくなるはずなのに……」
「わかった。あとで様子見てくるよ」
「じぃじ、おなか痛い痛い?」
「大丈夫だよ、つばさ。もし、そうなら、パパがお薬で痛いのなおしてあげるから」
「お薬、甘い? お注射しない?」
「うん、しないしない。でも、ちゃんと食べないと、つばさには注射しちゃうかもしれないぞ」
腕に注射を打つ真似をする修一郎から逃れようと、つばさはキャーと笑いながら身をよじる。
幸せな光景を目にしているのに、いつかこれが壊れてしまうのではないかと、仁美の胸に霧のような恐怖が広がっていく。
「……よね?」
「え? なに、修……、パパ、ごめん、ぼんやりしてた」
「大丈夫? お父さんだけじゃなく、ママも調子悪いんじゃない? あんまり食べてないし」
確かに、なにを食べても味がしなかった。母のレシピは、修一郎の胃袋を掴んだだけでなく、仁美にいつも優しかった母を想い出させ、幸せな気持ちにさせてくれる特別なものなのに。
「ううん、そんなことないよ。で、なに?」
「今日、あっちに泊まりに行かなくていいって聞いてるよね? 叔母が来てくれてるから」
「ああ、うん、お義母さんから連絡もらった」
義母は泊まりに来なくていいようにして、仁美が修一郎と話をする時間を作ってくれたのだろう。でも、正直気が重かった。
とりあえず、食事を終えたつばさを風呂に入れ、寝かしつけてから二階へ上がると、トレーを手にした修一郎が父の部屋から出てきた。
「あ、お疲れ。つばさ、寝た?」
「うん。それ……?」
「仁先生、スープ飲んでくれた。熱もないし、今は落ち着いてるから大丈夫だと思う」
「ああ、ありがとう。よかった」
トレーを受け取りながら、仁美は上目遣いに修一郎を見上げる。
「修……、パパ、あのね……」
「うん?」
端正な顔にまっすぐ見つめ返され、涼音との関係を問い質そうとした気持ちがくじける。
「あ……、えっと、ううん、ごめん、疲れたでしょ? お風呂入ったら?」
「うん。じゃあ」
「着替え持ってくから、ゆっくり入って」
「いいよ、そんなの自分でできるんだから。いつもうちの親のことまでごめんな。ママも今日くらい早く寝て」
「うちの親って……、私のお義母さんでもあるよ」
「……さんきゅ。ホント助かってるよ」
穏やかな笑顔にほだされ、なにも訊かずこのまま寝てしまいたくなったが、明日になれば、義母から報告を求められるに違いない。
台所の片づけを済ませ、浴室からシャワーの水音が聞こえてくるのを確認してから、仁美は足音を忍ばせて再び二階に上がり、修一郎の部屋に入った。
彼の口からなにを聞かされるのか怖くてたまらず、心の準備をしておきたかったのだ。
きれいに整頓された机の上、充電器に刺さったスマホに手を伸ばし、暗い画面をタップする。修一郎のスマホはロックがかかっておらず、仁美はすぐに通話履歴を覗き見ることができた。
義母が言ったとおり、昨夜の十九時二十七分に、修一郎は「すず」からの電話を受けている。その前にも、同じ日の十七時に涼音から電話があり、留守番電話が残されていた。
仁美は震える指でそれを再生させる。
「修一郎君、涼音です。先日はありがとうございました。あとでまた電話かけさせてもらってもいいですか。もしかしたら、夜遅くなってしまうかもしれないけど……」
背後で部屋のドアが開き、仁美は慌ててメッセージを止める。
「お父さん、今、ちょっと忙しいから、あとで……」
言いながら振り返った仁美は、スマホを握りしめたまま固まる。
そこにいたのは父ではなく、風呂に入っているはずの――。
「修一郎……」
慌てふためいて落としそうになったスマホを、修一郎に取り上げられた。
「こんなことじゃないかと思ったよ。引き出しの中身、微妙にものの位置がズレてたから」
修一郎の体は少しも濡れていない。風呂に入る振りをしていただけだったのか。
「あ……、えっと、これは……」
「母さんから聞いたんでしょ。言わないでくれって頼んだのに、息子よりも君の味方みたいだね」
動揺し、言葉の出ない仁美に、修一郎は言い募る。
「こうなることを想定できなかったのは僕が悪いけど、まさか、こんな真似されるとは思ってもみなかったよ」
咎めるような修一郎の物言いに、狼狽えていた仁美の芯がすっと冷えた。
「したくて……したんじゃない」
「え?」
「私だってしたくなかったよ、こんなこと」
「ちょ、待ってよ、逆ギレするわけ?」
「逆ギレ? キレられても仕方ないことしてるよね?」
「は?」
「涼音と会ってるんでしょ?」
「どうしてそうなるの?」
「だって、今の留守電、『先日はありがとうございました』って。学会とか同窓会とか、私に嘘ついて東京で涼音と……」
「してないよ、そんなこと。学会も同窓会も本当にあったし、すずとは十年前に別れて以来、一度も会ってない」
「嘘……」
「嘘じゃない。お世話になりましたって彼女が言ったのは、その前にかかってきた電話で頼まれたことに応じただけで」
「頼まれたこと?」
「この町のことを教えてほしいって。事件後の町の変化や現状、急に転出した人間がいなかったか、とか」
「どうして、修一郎に?」
「他に話してくれる人がいると思う?」
修一郎の頬にシニカルな笑みが浮かぶ。答えを期待していない問いかけだった。この町に涼音の味方になってくれる人間などいるはずがない。
「……涼音は、なんでそんなことを?」
「このままだと再審請求が棄却されてしまうからだと思う。エリカさんの無罪を証明する新たな証拠が発見されないと、再審の門は開かれないから」
「それを手伝ったの? かすみちゃんを殺した人のために?」
呆れて声を荒らげた仁美に、修一郎は冷静な眼差しで答えた。
「すず……、彼女は、そう思っていない」
「どういうこと?」
「エリカさんがやったとは思っていないんだ」
「そりゃ、涼音はやってないって信じたいでしょうよ。でも、なんで修一郎まで……」
「わからないから」
「わからないって、なにが?」
「エリカさんが本当に犯人なのかどうか」
「はぁ? なに言ってんの? あの人、自白したんだよ」
声を震わせる仁美に、修一郎は淡々と答える。
「でも、裁判では無罪を主張してる」
「え、なに? 拷問されて自白を強要されたとでもいうわけ? 大昔のことじゃない、たかだか十年前の話だよ」
「仁美だって知ってるだろ、彼女がすごくエキセントリックな人だって」
「だからって、やってもいないのにおしるこに農薬入れたなんて言うわけないでしょ!」
「でも、その自白以外に彼女を犯人だと示す確かな証拠はなにもないんだ。状況証拠だけで、無罪だと主張している人間を死刑にすることに仁美は抵抗がないの? エリカさんとあんなに仲良かったのに」
「……ねぇ、これ、本当の話? なにか隠そうとして嘘ついてるんじゃない? こんな話なら、私に秘密にする必要ないよね? なんで黙ってたの?」
「嘘なんかついてないし、話すつもりでいたよ。でも、すず……、彼女に協力するのを反対されるんじゃないかと思ったから」
「私の気持ちは無視して、どうしても涼音を助けたかったんだね。なんで? 今でも好きだから?」
言ってすぐに後悔したが、考える前に言葉が口をついて出てしまっていた。
「……そんなんじゃ、ないよ」
否定するまでに時間がかかった。そのわずかな間が、仁美をひどく傷つけ、追い詰める。
「……涼音は、今、なにしてるの?」
涼音も誰かと結婚してくれていたらいいのに……。そう思って尋ねたが、返ってきたのはあまりにも意外な答えだった。
「勉強してるって言ってた。弁護士になるための」
「えっ、弁護士? 涼音、法学部を卒業したの?」
「いや、大学には行ってないって。事情はわからないけど、高校を中退したらしい」
「三番目の金持ちのパパが私立のお嬢様学校に入れてくれたんじゃなかったの?」
「守君からそう聞いてたけど、今はお父さんの家も出て自活しているみたいだ。エリカさんの弁護を引き受けてくれた弁護士の先生に助けてもらううち、弁護士になって人の役に立ちたいと思うようになったらしくて、弁護士事務所で働きながら勉強してるって」
涼音がお嬢様学校を中退したのは、母親のことがバレたからだろうか。もしかしたら、小学生のときのように、いじめを受けたのかもしれない。
「弁護士って、高校中退でなれるものなの?」
「司法試験に学歴は関係ないから。ただ、法学部卒だと一次試験が免除されるけど、すずの場合は一次から受験しなくちゃいけない。自分でもすごく狭き門だから難しいのはわかってるって、言ってたよ」
涼音のことを語る修一郎の顔に複雑な色が浮かぶ。心配と申し訳なさ、そして、そんな状況でもあきらめずに頑張る健気な涼音へのまぶしい思いが綯い交ぜになったような。
やっぱり修一郎は、今でも涼音に気持ちを残している。
「修一郎、十年前、どうして、涼音と別れたの?」
「どうしてって……」
「エリカさんが逮捕されたから?」
「違うよ。そうじゃない。だって、僕が……、振られたんだから」
殴られたような衝撃を受け、仁美は呆然とする。エリカの逮捕により、修一郎が涼音に別れを告げたものとばかり思い込んでいたが、涼音が修一郎を振った?
「いや、もしかしたら、違わないのかもしれない。両親はすずとの交際をやめさせようと必死だったから。そういう空気がわかってて、すずは情けない僕を振ってくれたのかもしれない」
つまり、修一郎と涼音は互いに想い合いながら、十年前、エリカの逮捕によって無理やり引き裂かれたということだ。それなのに……。
「東京へ行ったとき、本当に涼音に会わなかったの?」
「会ってないよ」
でも、会いたかったでしょ? 今も会いたいんでしょう?
そう尋ねたら、きっとまた修一郎は、言葉ではないもので仁美を傷つけ、追い詰めるだろう。
「会いに行くつもりはないの?」
訊きたくないのに、否定してほしくて、訊いてしまう。
「会いに行くつもりはないけど……」
「ないけど?」
「……来たいって」
「来たい? 涼音が、うちに?」
「いや……、この町の祭りに。昨日の電話で祭りのことを話したら、そう言い出して……」
心臓が別の生き物のように鼓動し、悲鳴のような音が身体中に響き渡る。
「で、でも、涼音が来たら、ここの人たち、きっとまた……」
「僕もそう言ったけど、止めても来ると思う」
涼音がこの町に来る。十年ぶりに彼女に会う。その状況をイメージすることができない。
「涼音は知ってるの? 私たちのこと」
「もちろん、話したよ。結婚して真壁医院を継いだって、二歳になる女の子がいるって言ったら、すごく喜んでくれた」
そう取り繕っただけだろう。本心から喜んでくれていたなら、仁美の留守番電話に涼音は「おめでとう」と言ったはずだから。
「……やめさせたほうがいい」
「え?」
「わざわざ祭りの日に来るなんて、どうかしてるよ。十年ぶりに再開する祭りに、エリカちゃんの娘が来たら、ここの人たちパニックになって、きっと涼音にひどいことを……」
ああああああーっ! という叫びが、仁美の耳を劈き、声を遮る。隣の父の部屋からだ。感情的になってつい声が大きくなり、話が聞こえてしまったのだ。
「お父さん、大丈夫?」
隣室へ駆け入ると、父がベッドの中で頭を掻きむしっていた。
「お父さん、大きな声出してごめん。大丈夫だよ。驚かせちゃって、ごめんね」
父の声に驚いたのか、階下からはつばさの泣き声が聞こえてきた。
「修一郎、ごめん。つばさ、お願いできる?」
「いいけど、大丈夫?」
うなずき、修一郎を送り出すと同時に、ベッドから降りた父が引き出しの手帖を捜し始めた。そんな予感がしていたのだ。
「燃やさないと」
「燃やす? お父さん、消すんじゃないの?」
そう言いながら、捜していた手帖を父に手渡す。昼前にも手にした今年の手帖なのに、持った瞬間、明らかな違和感があった。
違和感の正体は、乱暴に丸め、隠すように手帖カバーに挟んである紙だ。広げてみると、母の名前を書き連ねたあのページを破いたものだった。
「お父さん、これを捜してたんでしょ? これを燃やしたいの?」
その紙を突きつけられた父は、「違う、違う、違う」と子供のように顔を左右に振る。
「違う、これじゃない」
閃くものがあり、十年前の手帖を再び手に取る。さっき感じたかすかな違和感も、もしかすると……。
手帖からカバーを外すと、ニセンチほどの薄い小さなおもちゃのような鍵がこぼれ落ちた。
「お父さん、これ、なに?」
尋ねても、父の顔はまたぼんやりしてしまっている。
「ねぇ、これを捜していたんじゃないの? これを燃やしたかったんでしょ? これ、なんの鍵なの?」
修一郎に聞こえないよう声を殺して尋ねたが、父はただ虚ろな瞳をその鍵に向けているだけだ。
鍵を拾い上げ、とりあえず、手帖だけカバーに戻そうとしたとき、そこにまだ紙片が挟まっていることに気づいた。
四つ折りにされた小さな便せんを開くと、流れるように美しい母の字が現れた。
懐かしさは、そこにしたためられた文章を目にした瞬間消し飛び、仁美は声にならない悲鳴を上げた。