人物紹介

仁美…高校二年生。町の祭りで起きた無差別毒殺事件で母を亡くす。

修一郎…高校一年生。医学部志望の優等生。事件で妹を亡くす。

涼音…中学三年生。歳の離れた弟妹を事件で亡くす。仁美たちとは幼馴染。

景浦エリカ…涼音の母。派手な見た目と行動で町では目立つ存在。

仁先生…仁美の父親。町唯一の病院の院長。

成富栄一…大地主で町では一目置かれる存在。町内会長も務める。

博岡聡…成富建設の副社長。あだ名は「博士」。引きこもりの息子・聡介を家に抱えていた。

音無ウタ…息子・冬彦が真壁仁のせいで死んだと信じこんでいる。

琴子…息子の流星と姑のウタと同居している。元新聞記者。

流星…小学六年生、ウタの孫。修一郎の妹と仲が良かった。

宅間巌…かつて焼身自殺した町民。小学生の間では彼の幽霊が出ると噂されている。

第二十話

 

 ウタの葬儀から数日経ったある朝、仁美は電話で義母から呼び出された。

 なにごとかと驚き、つばさを保育園に送ったその足で、急いで彼女の家へ向かう。

 仁美の実家と義母が住んでいる修一郎の実家は歩いて五、六分の距離にあり、仁美はほぼ毎日顔を出しているし、つばさと一緒にしょっちゅう泊まっているので、こんなふうに改まって電話で呼び出されるなんて初めてのことだ。

「お義母さん、おはよう! 仁美です!」

 心臓の悪い義母の負担にならないよう、玄関のチャイムを鳴らしてから、預かっている合鍵を使って勝手に上がる。居間を覗くと、義母はテレビもつけず、こたつで横になっていた。

「お義母さん、大丈夫?」

 慌てて駆け寄り、仁美は義母の顔を覗き込む。

「具合悪い? 今、修一郎、呼ぶから。あ、胸が苦しいなら、救急車のほうが……」

 バッグから携帯電話を取り出す仁美を、義母が慌てて止めた。

「仁美ちゃん、平気よ。ちょっと横になっていただけだから」

「でも、顔色よくないし、調子悪くて呼んだんでしょ?」

「違う違う、ちょっと……、話したいことがあって」

「え、なに? っていうか、本当に大丈夫?」

「大丈夫だから心配しないで。とりあえず、お茶淹れるわね」

 立ち上がろうとした義母を慌て止める。

「いいよ、私がやるから座ってて」

 この町に帰ることを修一郎に決断させた要因のひとつは、母親の心臓病の悪化だった。

 主治医から家事をすることさえも止められ、安静を求められたが、夫を亡くし、ひとりで暮らす彼女にそんな生活ができるわけがない。まだ五十代で施設に入るような年齢でもなく、家事代行サービスを提案しても他人を家に入れるなんて嫌だと拒まれた。ひとりでも大丈夫だと義母は言うが、放ってはおけず、対策を考えていたときに、父が若年性認知症を発症した。

 ともにひとりで暮らす両家の親が病気を患っているとなれば、帰るという選択肢しかない。当時研修医をしていた修一郎だけを東京に残し、仁美はつばさとこの町に戻った。

 そして臨床研修を終えた修一郎も、今年の四月からこの町に戻り、真壁医院を継いでくれた。修一郎のおかげでこの町唯一の病院を存続させられると住民たちは喜んだし、仁美も家族で一緒に暮らせるのは嬉しかったが、二十六歳の若さでこんな田舎の開業医になることが果たして修一郎にとっていいことなのかという疑問は常に抱き続けている。

 お茶を用意してこたつに戻り、仁美は義母と向き合った。

「お義母さん、話ってなに?」

 義母は、落ち着かない様子で、なかなか用件を切り出さない。

 つばさの話を始めたから、娘に関することなのかと真剣に聞いていたが、途中で話題が変わった。まったく関係なかったらしく、あたりさわりのない話が続く。思ったことはわりとはっきり口にする義母にしては極めて珍しいことだ。

 幸い嫁姑の関係は周囲が驚くほど良好で、腹を探り合うような間柄ではない。仁美は義母を慕っているし、義母にはとてもかわいがってもらっている。

 そもそも、義母には修一郎との結婚を許してもらえないと思っていた。

 毒しるこ事件で、彼女は最愛の娘、かすみを喪った。鍋に農薬を入れたのはエリカでも、彼女の動機が、仁美の父と結婚するため――エリカは認めていないけれど――であるならば、義母にとって、エリカと不倫関係にあった父もまた憎しみの対象のはずだ。

 追い返される覚悟で結婚の挨拶に訪れた仁美を見て、義母は開口一番尋ねた。

「もしかして、おめでたなの?」と。

 確かにそのとき仁美は妊娠三カ月だったけれど、おなかはそれほど目立っていなかったので、とても驚いた。義母はそれを聞いて喜び、お願いがあると打ち明けたのだ。

「もしも女の子だったら、私に名前をつけさせてもらえない?」

 それが、二人の結婚を認める言葉となった。

 生まれてきた女の子に義母がつけた名前が、「つばさ」だ。

 正直、仁美はその名前に抵抗があったものの、かすみの名づけをするときに画数の良い「つばさ」を選ばなかったことを、義母は今も後悔していて、最高の名前を孫にプレゼントしたかったようだ。

 今では仁美も、「つばさ」という名前は娘にぴったりだと気に入っている。

 義母とこんなにいい関係が築けているのは、十年前のあの日、義母は娘を、そして仁美は母を亡くしたことも影響しているのかもしれない。

「天気がいいから、先に洗濯してきちゃおうかな」

 そう言って席を立とうとしたのは、とりとめのない義母の話にうんざりしたからではない。なんだかひどく嫌な話を聞かされそうな予感がして、逃げ出したくなったのだ。

 だが、そんな仁美の腕を義母は思いのほか強い力でつかんで座らせ、唐突に切り出した。

「仁美ちゃん、あなた、連絡取ってる?」

「連絡? 誰と?」

「……彼女と」

「彼女って?」

「だから……、涼音ちゃん」

 言いづらそうに義母が口にしたその名に動揺して声が掠れ、仁美はただ首を横に振る。

「……そう。そうよね、それが普通よね」

「なにか……あった?」

 義母は少し考えてから、「かかってきたのよ」と告げた。

「電話が」

「涼音から? お義母さんに?」

「違うわよ。だから、ほら……」

 ……修一郎に?

 水の中に落とされたように、息が苦しくなる。修一郎からそんな話は聞いていない。

「……いつ?」

「昨日の夜」

 義母をできるだけひとりにしないよう、昨日は真壁医院で診療を終えた後、修一郎がこの家に泊まった。

「来てすぐに修一郎はお風呂に入って、私は仁美さんが持たせてくれたお料理を温めていたの。そうしたら、携帯が鳴って……」

 音の出所は修一郎が居間に脱ぎ捨てたジャケットだったという。風呂場へ持って行ってやろうと、義母が内ポケットから携帯電話を引っ張りだすと――。

「携帯の画面に表示されていたのよ、ひらがなで『すず』って」

「……それ、違う人の可能性もあるよね? 鈴木さんのあだ名とか」

 頭は混乱し続けたまま、口が勝手に修一郎をフォローしていた。

「仁美ちゃん、修一郎が『すず』って呼ぶような、そんな親しい関係の鈴木さん、あなた、知ってる?」

 そう言われてしまうと、首を横に振るしかない。

「私も、修一郎に訊いたわよ。涼音ちゃんとまだおつきあいがあるの? って」

「修一郎は……、なんて?」

「ないよって。さっきのは違う人だって」

「だったら……」

 その言葉に縋りつこうとした仁美を悲しげに見つめ、義母は「でも」と続ける。

「修一郎、コール音に気づいて下着姿でお風呂場からすっ飛んできたのよ。それで、私の手から携帯を奪うように取り上げて、二階へ走って行った」

 修一郎らしくない行動でしょ? と、義母の目が語っている。

「涼音ちゃん、まだ東京にいるんでしょう?」

「連絡取ってないからわからないけど、たぶん」

「東京へ行ったわよね、修一郎。先週も先々週も」

「そ、それは学会と大学の同窓会で……」

「あの子、これまで同窓会なんて行ったことあった?」

 義母は修一郎が嘘をつき、会いに行ったのではないかと疑っているのだ。

 東京にいる元カノ……、涼音に。

 そんなことがあるだろうか。修一郎は仁美の夫でつばさの父親なのに。

 ふいに、十年前の雨の日のツリーハウスに引き戻されそうになり、仁美はきつく目を閉じる。そのまなうらにツリーハウスで抱き合っていた修一郎と仁美の姿が浮かび上がってくる。

「あの娘が……、涼音ちゃんが、いい娘なのは知ってる。だから、あの娘の境遇には同情するわ。だけど……」

 義母の声に怒りと哀しみが滲む。

「……涼音ちゃんにはあの女の血が流れてるのよ。かすみや千草さんを殺したあの女と同じ血が」

 苦し気に息を吐き、義母は仁美の手を強く握る。

「修一郎は私にはなにも話してくれない。私の身体の負担にならないよう、心配かけまいとしているから。でも、私にはわかるのよ。修一郎は私やあなたに隠し事をしている。もしかしたらあの子、涼音ちゃんの境遇に同情して……」

 義母が痛いほど握りしめていた手に思わず力が入り、強く握り返してしまった。

 彼女の手からふっと力が抜け、仁美の指をやわらかく包み込む。

「仁美ちゃん、こんなこと、あなたに頼むのは酷だけど、あなたにしか頼めない。修一郎をつなぎ止めて。絶対にあの娘のところへは行かせないで。涼音ちゃんにも流れているんだから……、魔性の血が」

 仁美の顔を覗き込んでいた義母の目が、飾り棚の写真に注がれる。十二歳で時を止められてしまったかすみが、なにか訴えるように微笑みかけてきた。



 呆然と自宅に戻った仁美は、父が昼寝をしているのを確かめてから、修一郎の部屋へ向かう。

 つばさと一緒に一階の和室で寝るようになったため、仁美が使っていた二階の部屋を修一郎に明け渡していた。

 今は診療時間中だから、修一郎が帰宅することはない。

 罪悪感を覚えながらも、彼の机の引き出しに手をかけ、そっと開ける。鍵はかかっておらず、書類や文具がきちんと整理して収められていた。几帳面な修一郎らしい。

 彼が愛用している手帖を捜したが、持ち歩いているらしく、見当たらなかった。

 机の上に置かれたノートパソコンを開けば、彼のスケジュールを確認できるはずだ。

 だが、夫のパソコンを断りもなく覗き見るのはやはり抵抗があった。

 コソコソ嗅ぎまわったりせず、直接、修一郎に尋ねれば、涼音と会ったか答えてくれるだろうか。いや、きっと無理だ。黙って会っているのだとすれば、その時点でやましい気持ちがあるということなのだから。

 十五歳であれだけ完成されていた涼音の美貌が、二十五歳になった今、どれだけ大きな花を咲かせているのか、考えただけで恐ろしかった。

 修一郎と涼音は、エリカの逮捕後程なくして別れたと聞いている。

 だがそれがなければ、妻として彼の隣にいるのは自分ではなく涼音だったのではないか。

 仁美と修一郎が交際するきっかけとなったのは、仁美が何年かぶりにかけた電話だった。

 修羅場を演じた末、白都に捨てられた仁美は精神的に追い詰められ、酒に酔った勢いで修一郎の携帯に電話したのだ。

 彼が東京の医大に進んだことは聞いていたが、一度も連絡を取っていなかった。番号が変わっているかもしれなかったが、携帯は通じ、修一郎は仁美の電話をこちらが驚くほど喜んでくれた。そして、彼のほうから会わないかと誘ってくれたのだ。

 何年かぶりに顔を合わせた修一郎は別人のように精彩を欠いていて、仁美を驚かせた。

 学生生活を謳歌しているものと思っていたのに、問題のある教授に睨まれて理不尽な扱いを受けているらしく、修一郎は仁美以上にまいっていた。

 助けてほしくて電話をした仁美だったが、修一郎のためになにかできないかと必死になり、彼を元気づけようと、好物のスイーツやおかずをつくっては彼の部屋へ届けた。

 仁美と修一郎の距離を少しずつ縮め、結び付けてくれたのは、母のレシピだった。

 そして、それを仁美に与えてくれたのは、涼音だ。

 十年前の慰霊祭の日、郵便ポストに入れられていた涼音からの届けものの中身は、七冊のノートだった。開くと、そのすべてに涼音の几帳面な字で、母のレシピが書き連ねられていた。

 それを見た瞬間、燃やしてしまおうと思った。

 当時は自分の気持ちを知っていながら修一郎を奪った涼音のことが許せなかったから。しかし、これは母が遺した貴重な財産でもあるのだと、なんとか思いとどまった。あのとき燃やしてしまっていたら、修一郎の胃袋は掴めず、結婚もできなかっただろう。

 涼音のおかげで、仁美は修一郎と幸せな家庭が築けたのだ。

 もしかしたら、これは、仁美が涼音から奪った幸せなのだろうかーー。

 涼音は、資産家で優しい三番目の父親に引き取られたけれど、それでも逮捕されたエリカの影がどこまでもまとわりついてきたはずだ。

 エリカに対するマスコミの執拗な取材攻勢が始まると、娘の涼音にまで注目が集まった。氏名や学校名などの個人情報、そして、涼音の顔写真や携帯電話の番号までもがネット上に晒され、涼音に対するレイプ予告や殺害予告まであったと聞く。

 交際するほど好きだった相手の窮状を修一郎は憂いてきたはずだし、義母がいうように同情から涼音への想いが再燃する可能性だって否定できない。

 涼音は今も清楚で可憐な当時の面影を残しているだろうか。

 義母の言葉が耳の奥にこびりつき、繰り返し仁美を苦しめる。

 涼音ちゃんにも流れているんだから……、魔性の血が。

 表情が乏しいにも拘わらず美しかったあの容姿の上に、男を狂わすエリカのような妖艶な魅力をまとっているのだとしたら……。

 居ても立ってもいられなくなり、仁美はデスクの上に置かれた修一郎のパソコンを開く。

 思ったとおり暗証番号というハードルが立ちはだかり、ここで引き返せるかと思ったものの、つばさの誕生日を入力すると、驚くほどあっさりパソコンは立ち上がった。

 罪悪感を覚えながら、仁美が最初にチェックしたのは修一郎のスケジュール帳だ。

 仁美も同じソフトを使っているので、今月の彼のスケジュール欄にはすぐに辿りつけた。修一郎が東京へ行った日付には「学会」、「同窓会」と仁美が聞いたとおりのイベントが記されていて、特に気になるような怪しげな記述はない。

 ホッと息を吐き、次に連絡帳を開いてみた。

 それほど多いとはいえない修一郎の連絡先をスクロールしていくと、『すず』という文字が立体的に浮き上がって、仁美の眼前に迫ってきた。

『すず』で登録されている人物は、ひとりだけだ。

 果たしてこれは、本当に涼音なのだろうか。

『すず』という名と携帯電話の番号以外に、なんの情報も書き込まれていない。フルネームも住所もわからない。メールも確認したが、やりとりした記録はなかった。

 携帯電話の番号は、十年前のものとは異なっているが、だからといって涼音ではないということにはならない。ネット上に晒され、涼音は番号を変えざるを得なかったはずだから。

 他の友人知人の連絡先はすべてフルネームで入力されているので、『すず』が鈴木や鈴原、あるいは、鈴子や涼香と言った別人の可能性は極めて低い。

 その番号を、仁美は自分の携帯電話に打ち込む。

 試しにかけてみれば、電話の向こうにいる相手が涼音かどうかわかるはずだ。

 だが、そう思いながら、どうしても指が動かない。

 あきらめて閉じようとしたそのとき、指が当たり誤タップで発信してしまった。すぐに切ろうとしたが、今度はうまく反応せず、仁美は鳴り響くコール音に慌てる。相手が電話に出る前にどうにか通話を切り、仁美はほーっと長い息を吐いた。

 相手の着信履歴にこちらの番号が残ってしまったはずだ。

 涼音は、仁美からの電話だと気づくだろうか。

 いや、この番号が涼音のものだとまだ決まったわけではない。

 気を取り直し、仁美は修一郎が東京出張の際に着ていたスーツをクローゼットから出し、顔を近づけ、においを嗅いでみる。

 少し煙草臭くはあったが、香水のような、女性を感じさせる香りが匂い立つようなことはなかった。だが、そもそも涼音は香水などつけない気がする。今でも清潔な石鹸の香りを漂わせているのではないか。いや、大人になった涼音は、あのときのエリカみたいに、男を惑わす南国の花のような甘い香りを漂わせているのだろうか。

 スーツのポケットや出張で使ったバッグの中にも、特に気になるようなものはなかったが、このスーツをクリーニングに出しておいてと修一郎に頼まれていたことを思い出した。

 こういうところだ、と仁美は自戒する。真面目で気遣いの行き届いた涼音なら、頼まれたことはすぐにやり、忘れて放置したりしないはずだ。

 認知症の父と心臓病の義母の世話をしながら、育児と家事をこなし、医療事務を手伝い、仁美は自分なりにがんばっているつもりでいた。しかし、この生活が始まってから、修一郎への配慮はこれまでのようにはできていない。

 結婚する前は、修一郎のために料理の腕を磨き、彼を喜ばせるために修一郎の好物ばかりを食卓に並べたが、今は、つばさの笑顔が見たくて台所に立っている。つばさの次に考えることは、義母のために体への負担が少ない食事を用意することで、薄味の料理はまだ若い修一郎の口には合わなかったのかもしれない。日々の生活に追われ、彼のことは二の次になっていた。

 そんな毎日の中で、修一郎は、仁美ではなく涼音と結婚した人生を夢想したのかもしれない。そうするうちに涼音への想いが募り、選べなかった人生を選びなおそうとしているのでは……。

 突然、コール音が鳴り響き、仁美は叫び声を上げそうになった。

 携帯電話の画面には、先程の電話番号が表示されている。

 誤ってかけてしまった履歴を見て、折り返し電話をかけてきたのは……。

 電話に出ることをためらい、動けずにいるうちに、留守番電話の無機質なメッセージが流れ出す。それが途絶えたとき、懐かしい声が聞こえてきた。

「仁美……ちゃん?」

 十年ぶりに聞いた涼音の声に、複雑な感情が濁流のように押し寄せてくる。

「これ、仁美ちゃんの携帯電話の番号ですよね? ご無沙汰してます。涼音です」

 平板な声からは、相変わらず涼音の感情が読み取れない。これを話す涼音の顔もまた、能面のように感情がそぎ落とされているのではないか。そんな涼音の姿ならば、容易に想像することができた。

 思わず携帯に伸ばした指が、「お元気ですか?」という涼音の問いかけに止まる。

「いただいたお電話に出られなくてごめんなさい。よかったら、お電話ください。私もまたかけさせてもらいます。それでは」

 事務的で簡潔な言葉を最後に、電話はぷつりと切れた。

 一瞬感じた懐かしさを抑え、ざらりとした感情が立ち上がってくる。昨日、修一郎に電話をかけたことに関してはなにも触れず、ふたりが電話で話したのだとしたら、当然知っていると思われる修一郎と仁美の結婚についても、一切言及がなかった。

 知っていながらその話題を避けたのか、それとも、修一郎が涼音に明かしていないのか。

 身体に力が入らず、呆然と座り込んでいると、いきなりノブが回り、ドアが開いた。

 修一郎が帰ってきたのかと、仁美は全身を硬直させたが、隙間から覗いたのは父の顔だ。

「……なんだ、お父さんか。あ……、今、クリーニングに出す修一郎のスーツを……」

 訊かれてもいないのに言い訳を口にする仁美の言葉は父に届いていないようで、キョロキョロとあたりを見回す。

「……あの子は?」

「え? あの子って?」

「ほら、あの、小さな……」

「つばさ?」

「違うよ」

「つぅちゃんのことじゃないの?」

「ああ、そう、それだ」

「つうちゃんは、つばさのことだよ」

「え? そうなのか?」

 孫の名前が覚えられないことに最初は愕然としたが、さすがに慣れた。名前が覚えられないということ自体を忘れてしまうので、同じ会話を繰り返すことになるが、父を傷つけないようできるだけ明るく応じるようにしている。でも、今日はそんな余裕がなく、ちょっと尖った声を出してしまった。調子がいいときもあるのだが、今日の父はあまりよくないようだ。

「つぅちゃんは、保育園に行ってるよ。お父さん、天気がいいし、あとで一緒に迎えに行く?」

「行かない」

 即答だった。若年性認知症と診断されてから、父はほとんど外へ出ず、家に引きこもっている。刺激のない生活が認知症を進行させる恐れがあるため、できるだけ近所の人と交流してほしいのだが、町内会館で毎日のように行われている囲碁や将棋、麻雀、カラオケなどシニア向けの趣味の集まりにいくら誘っても、父は頑として行こうとしない。楽しんでいる老人は多く、事情を知った会長たちが、しょっちゅう父を誘いに来てくれるのに、仁美に居留守を使わせる始末だ。

 父はまだ還暦前だし、医師として接してきた人々に認知症を患っている姿を見せたくないのだと思っていた。当然それもあるのだろうが、あの徹底した拒絶を見て、最近は考えてしまう。

 父は恐れているのではないか、と。

 この町の人間を――。

「迎えに行けばつぅちゃんと手つないで帰って来られるし、帰りにこやぎ庵でお父さんの好きな最中も買えるよ」

 こやぎ庵がいけなかったのか、父は青い顔でぶるぶると首を横に振る。 

 仁美が東京で暮らしている間に、父になにかあったのだろうか。

 そもそも、父はなぜこの町に残ったのだろう。

 尊敬する義父――仁美の祖父――から託された町に一つしかない病院を守らなければという使命感はあったのだろうが、だとしても、仁美が父なら、ここを離れ新天地を求める。

 ほとんどの住民は父がエリカと不倫していたと思っているはずだし、それがなければ、毒しるこ事件は起きなかったと考えている人もいるはず……。

 気が付いたら、父が修一郎の机の引き出しを開けていた。

「お父さん、なにしてるの?」

「アレが、ない」

「アレって?」

「ほら、アレ」

「もしかして、手帖?」

「そう、手帖」

「そんなところにはないよ。手帖はお父さんの机の引き出しだから」

 仁美は父を彼の部屋へ連れて行き、机の一番上の引き出しから、手帖を出して渡す。

「なにか書くの? ペンもいる?」

「書くんじゃない、消すんだ」

「消す? じゃあ、消しゴム使う? なにを消すの?」

「見られたら、怖いことになる」

「え? なんの話?」

 なにが書いてあるのか気になって開かれた手帖のページを覗き込み、仁美は息を呑む。

 千草 千草 千草 千草 千草 千草 千草 千草 千草 千草 千草 千草――。

 父の乱れた筆跡で、母の名前がびっしりと書き連ねてあった。


 これは、自分のせいで命を落とした妻への贖罪なのだろうか。

 それとも……。

(第21回へつづく)