第四章  灯台  toudai

 

 5.(承前)



 丸吉の家は、市役所からほど近い住宅街にある。子どもの頃は木造の古い一軒家で、よく遊びにきたが、今では真新しい二世帯住宅になっていた。自分がたどらなかった人生の一端を提示されたように感じる。

 家のなかは適度に散らかっていて、それがゆえに家庭的で明るい雰囲気だった。リビングには旅先で撮影された家族写真や、子どもの描いた絵があちこちに飾られている。二人目を妊娠している丸吉の妻は、娘と一緒に別室で寝ているらしい。網戸になった窓から、夏の夜の涼しい風にのって、かすかに波の音が聴こえた。

「こんな遅くに、ごめんね」

「こっちが誘ったんだから気にしなくていいよ。ビールしかないけど、よかったら」

 山田は静かに礼を言って缶を受けとり、促されるまま食卓の椅子に腰を下ろすが、そわそわと落ち着かない。

「どうかした?」

「いやー、独身としては差を感じちゃって」

「なんだよ、それ。十代で結婚して、子どもが中学生になる同級生もいるんだし。ぶっちゃけ、住宅ローンと教育費で頭が痛いんだから」

「それはそうかもしれないけど、すごいよ」

 子どもやマイホームに驚いたというよりも、丸吉があまりにも地に足のついた生き方をしていることに差を感じたのだった。しかし丸吉はどこか冷めた目で、山田のことをじとっと見つめたあと、息を吐いて視線を逸らした。

「すごいすごいって言うけど、本当はそう思ってないだろ?」

「そんなことないよ!」

 山田としては嫌味などではなく、本心からの「すごい」だった。東京での生活は、余計なことを考える暇がないほど忙しくて刺激的だ。でも丸吉の家にいると、自分を客観視せずにはいられない。外枠だけは一応整っているが、内実は出世もせず仕事の成果でもくすぶっている自分を。

 独身の自分が借りているマンションは、駅から近い代わりに、狭くて日当たりが抜群によくない。平日は仕事にあくせくして終わり、休日も残してしまった仕事をするか、ただ寝るだけだった。焦りはないが、いつまでこんな生活を続けるのだろうとたまに寂しくなる。

 すると丸吉は、気まずさを誤魔化すように缶をプシュッとあけて、そのままグビグビッと飲んだ。久しぶりの再会に対する乾杯はないのだな、とショックを受けながら山田も缶をあけて口をつける。

「雨柳さんだっけ。あの人、面白いね」

「そう?」

「何人も神子元島灯台に連れていったことがあるけど、あんなに喜んでくれたというか、熱心に見学してくれた人ははじめてだよ。本当に灯台が好きなんだな。山田くんよりも後輩なんだっけ」

 まだ「くん」なことに落胆するが、それを隠して答える。

「今年文化部に入ったばっかりだよ。オフィスでは居眠り常習犯だけど、取材先では急に張りきるんだ」

「いいじゃない、元気があって。やっぱり新聞社の仕事って楽しそうだよ」

 楽しいことばかりじゃないよと言いかけて、山田は黙っておく。すると丸吉が、声のトーンを落として話しはじめた。

「たぶん今僕がいる世界と、山田くんがいる世界って、正反対なくらい違うんだろうな。小さな町でこういう仕事をしてると、道を歩いていても知ってる人とばかり会うんだ。それはそれでいい面もあるけど、新しい出会いは少なくてさ。出張だって、滅多に行く機会はないし。最後に会った夜だって、つい先日まで同じ世界にいたはずの山田くんから、僕には分からない東京の話をされて、遠い存在になったように感じたんだよ。僕って田舎者なんだって、急に自覚したというかさ」

「それは誤解だよ!」と山田は即座に否定する。ついに丸吉が腹を割ってくれたと感じ、謝る糸口を探す。「そんなつもりは毛頭なかったし、あのときは自分でも腹が立つくらい調子にのってたんだ。というか、俺なんか東京で就職したものの、上司からはたいした評価も得られてないし――いや、ほとんど得られてないし、いつまでも不完全燃焼でさ。今のペアを組まされるまでは、記事だってほとんど採用されたこともなかったんだよ」

 ここに至ってもまだ「組まされる」などとのたまった自分に軽く失望をおぼえる。

 よく考えれば、丸吉こそ自分よりも何倍も努力して、オリンピック選手になるという夢を追いかけていたのだ。それでも家族への責任感から下田に残り、今までずっと地元のために働いてきた。

「あのさ、ずっと伝えたかったんだけど――」

 口をひらいたとき、リビングのドアが開いた。幼稚園児くらいの少女が、パジャマ姿で立っていた。寝ていたはずの丸吉の娘が、知らない大人の声がするので気になって起きてきたのだろう。

「こちら、お父さんの昔の友だちだよ」

 昔の友だち、という表現にふたたび傷つきつつも、挨拶をする。

「こんばんは。名前はなんていうの?」

「ももこ」

「ももこちゃんか、いい名前だね」

 ももこちゃんは恥ずかしそうに微笑んで、父の陰に隠れた。

 それから少しの間、父子のやりとりを微笑ましく見守っていた。小さい子どもに接するのは久しぶりだが、幸せのおすそわけをしてもらった気分になる。丸吉にさとされて、ももこちゃんが部屋に戻ってから、山田はしみじみと「マジで羨ましいよ」と呟く。

「……いずれは娘もこの町から出ていくんだと思うと寂しいけどね」

 小さな声で言うと、丸吉はビールを手にとって一口飲んだ。

「いやいや、そうとは限らないし、まだそんな心配するなんて早くないか?」と山田は答えた直後に思いなおして「いや、親だったらそう思って当然だよな」とつけ加える。下田を出ていったのは、他ならぬ自分だからである。

 丸吉は缶をコトリとテーブルに置いて、笑みを浮かべた。

「山ちゃん、変わらないな」

「そうかな? 丸ちゃんこそ!」

 嬉しくなって、山田もかつての呼び名で返す。

「でも変わらないってのは、いい意味だけじゃないよ」

 丸吉の口元はほほ笑んでいたが、目は真剣だった。角が立たないように気を遣っているだけで、本当のところではまだ怒っているのだ。山田は曖昧な表情を浮かべたまま、黙って耳を傾けるしかない。

「今『羨ましい』って言ったけど、そういう言葉がいちいち引っかかるんだ。本当に『すごい』とか『羨ましい』とか思ってるなら、今すぐ立場を代われるの? 東京の便利で華やかな生活を捨てて、下田に戻ってこられるの? 絶対に無理だろ。こんな田舎が嫌だから、未来を見いだせないから、ここを出ていったんだもんな。今なら気にせず受け流せるけど、あの頃の僕にはできなかった。僕だって状況が許して、都会に出ていけるものなら出ていきたかったから」

 語り口は穏やかだが、言いたいことが止まらないようだった。

 ついに丸吉が「出ていけるものなら出ていきたかった」という本音をぶっちゃけてくれたことで、長年山田の心の奥底にあった氷が解けて、彼に対するさまざまな感情――なつかしさや申し訳なさ、尊敬やもどかしさがあふれだす。

 結局、彼も本心では東京に来たいのではないか、と疑った直感は正しかったのだ。けれども彼自身も意識したくない本心だったからこそ、あれほど気に障ったのだと今やっと理解する。あのとき自分は無神経にも、彼がもっとも触れてほしくない部分に土足で立ち入ってしまった。かけるべき言葉は他にもっとあったはずなのに。

 山田は勢いよく頭を下げた。

「ほんっとうにごめん! 今更だけど、ずっと謝りたかったんだ、あの夜のこと……元通りになりたいなんて言わない、いや、言えないよ。おこがましすぎるもんな。要するに、驕ってたんだ。不快にさせたこと、心から申し訳なかった」

 あんなに頭のなかでくり返していたのに、いざ本人を前にすると支離滅裂になってしまう。やっぱり本番に弱い。

 しばらく沈黙したあと、丸吉はなにかを断ち切るように、缶ビールを飲みほした。

「頭上げて。今更いいからさ。もう僕の方も、東京に憧れる気持ちは消えたし。強がりじゃなくてね。この町で家族とおだやかに暮らしていける幸せを感じてる。それに今は、観光課の仕事を通して、この町のよさと可能性を改めて理解してるんだ」

 偽りのない響きだったので、山田はひとまず安心した。

「そっか……よかったよ、丸ちゃんが幸せで、ほんとうに」

「ありがとう。それに灯台のプロジェクトでは、峰松さんみたいな灯台守だった人や、海の安全を守る仕事をする人と知り合って、やりがいを持てるようになってきたんだ。とくに峰松さんと出会ったことは大きいよ」

「立派な方だもんな。少し話を聞いただけでも、そう思った」

 ああ、と言って丸吉は渋い表情を浮かべた。

「灯台って、保存すべきだとか、守るべきだとかって、当事者じゃない人ほど簡単に主張するんだ。でも峰松さんはその苛酷さを誰よりも分かっているからこそ、軽はずみな意見を表立っては出さないんだ。なにかを声高に叫ぶんじゃなくて、黙々と自分の役割を果たしていくだけでさ。ああいう生き様を見ていると、僕も見習わなくちゃなって思うよ」

 丸吉は一息置いて、なにかを決意するようにうなずくと、こうつづけた。

「だからさ、山ちゃんもいろいろあると思うけど、東京で頑張ってよ。僕は僕で、この町で頑張るからさ」

 山田が握りしめていた缶ビールは、気づけばとうに冷たさを失っていた。

 

 東京に戻ってからも、山田と円花は灯台に関して取材をつづけた。神子元島灯台の歴史と、その光を絶やさなかった灯台守を中心に、日本の灯台が今置かれている状況について問題提起をし、歴史的価値を訴える文章を仕上げた。

 取材に出てはじめて、灯台守という仕事がこれまで正しく理解されてこなかったこと、文明開化の象徴として灯台が建てられた背景にフランスや英国の技師たちの努力があったこと、今では多くの灯台が活用されずに壊される可能性があり、絶滅の危機を迎えていることを実感した。

「単なる灯台守の半生記になってる気もせんでもないな」

 原稿を見せると、深沢デスクからはいつも通り、鋭い批評を浴びせられた。

「もぅ! このおじさんの後世に語りつがれるべき〈技〉が分かんないのっ」

 声高に抗議する円花をなだめたあと、深沢デスクは山田に向き直った。

「山田って、下田出身なんだっけ?」

 デスクの声色が冷静だったので、否定的なことを言われる気がして身構える。

「すみません、ちょっと個人的な内容だったかもしれません」

「いや、自身にとって切実な問題を扱うことも、たまには重要だよ。むしろ、どうしてその問題をおまえが調べるんだっていう記事よりも、少しでも書き手に接点のある問題を扱った方が読者に訴えかける力も強くなるときもある。原点に立ち返れたのは、今回よかった点かもしれないな」

 思いがけない指摘に、ハッとして顔を上げる。

 しかし褒められることに慣れていない山田は、つい自ら反省点を探してしまう。

「ありがとうございます。ただ、今回の取材先で反省したのは、単に取材対象のために記事を書くという姿勢じゃいけないなって……今まで僕は、その辺りをよく考えずに仕事をしてきたように思います」

 なるほどな、と深沢デスクは山田の目を覗きこんだあと、原稿をぽんと机に置いた。

「取材対象者のためというよりも、記事を書いて救われるすべての人のために、記者は存在するんだ。だから俺たちは、報じなければ困る人がいることを報じる。それが役割だ。真実を暴くことや人の悪事をさらすことだって、裏を返せば、報じることで助かる人がいるからだろう? もちろん、正義のあり方や救う相手の選択は、個人の考え方に委ねられるがな。そういう意味では、今回の記事はひとつの正解なんじゃないか」

 深沢デスクは滅多に教訓じみた話をしないので、となりに立っている円花も目を見開いて聞きいっている。

「話は終わりだよ」と言って、デスクは手を翻した。

「頑張ります」

 原稿を手にとり、山田は円花とともに自席に戻る。

 天上吊りになった複数のテレビモニターでは、お昼のニュースが流れていた。ゲラに赤字を入れている者もいれば、画像について話しあう者もいる。オフィスをぐるりと見回しながら、約半年前に円花とコンビで連載を任されたときとは、見えている世界がどこか違っている気がした。

 そしてあのとき、深沢デスクから言われたことが頭をよぎる。若い記者に必要なのは、なによりも熱意である――そう諭されたときの自分は、記者としての存在意義について考えたこともなかった。

 深呼吸をして背筋を伸ばすと、山田は自身のパソコンを立ちあげた。

 

 記事が無事に掲載されると、少なくない灯台ファンや灯台を管理する非営利団体から、あたたかいメッセージがいくつか寄せられ、山田は嬉しく受けとめた。なにより、丸吉からも改めてLINEが届いたことには感激した。

 そこには、記事を読んだという地元の篤志家から、丸吉が関わっている灯台を保全するプロジェクトに、寄付金の申し出があった旨が記されていた。また添付された写真には、ももこちゃんがあるものを指さして笑顔でうつっていた。神子元島灯台の写真入りで掲載された、日陽新聞の記事をラミネート加工したものである。

 娘もいずれこの町を出ていくだろうと彼は言っていた。たとえそうなったとしても、いずれ下田の歴史を受け継いだ娘が、次の世代として、どこにいても地元の文化を誇ってくれるように思えて、山田は頼もしくなる。円花に写真を見せると「こういうとき、記者をやってよかったって思うよね」としみじみ言われた。

「こういうときって?」

「ほら、よく飲みにいく〈さんまの味〉の人たちも、地元の釣り人に愛されてきたお店だっていう日陽新聞に掲載された十年以上も前の記事を、今も大切に壁に掲示してくれてるでしょう? 私はああいうのを見ると、頑張らなくちゃって思うんだ。報じなければ困る人がいることを報じるのが記者の役割、か。深っちゃんもたまにはいいこと言うよね。私もこれからはそれを信条にしようっと」

「軽いな、やっぱり!」

 そうツッコミながらも、円花はすでに哲学を持って仕事してきたのだと思った。そして今まで不特定多数に向かって、闇雲に記事を書いてばかりいた自分を省みる。虚栄心もまだあることは否めない。けれども、今回の記事では、その向こうにいる人たちの体温を感じられたという手応えが、ほんの少しだけあった。そんな記事を一本でも多く書いていきたい。入社して何年も経った今、ようやく目標を発見していた。

 ――ただしそれは文化部が存続できれば、という前提の話だった。

 

 6.

 

 東京に戻ってから、山田は涼しくなった東京湾沿いの社内の釣り場を、帰宅する前に必ず覗くようにしていた。下田では釣りをする暇もなかったので不完全燃焼に陥っているという理由もあるし、例のオジジ釣り師の正体が気になっていたからだ。

 ようやくその姿を発見したのは、月の明るい晴れた夜だった。先輩から代々受け継がれたものの、今や山田しか活用していない例の〈ツレル・パターン〉によれば、絶好の釣り日和でもあった。

 謎の釣り人は相変わらず一人きりで、静かな海に釣り糸を垂らしていた。

 それにしても、部外者を何度も私有地に入れているとは、日陽新聞社の警備は甘すぎではないか――。

 そんなことを考えながら、その姿を証拠写真におさめようと試みるが、相手は海に向かっているので、うしろ姿しか撮れない。そもそもスマホでシャッターを押せば音が出るし、暗闇なので距離があるとボケてしまう。

 作戦ミスに歯がゆく思っていると、山田が立っている場所とは反対側の方から、何人かのスーツ姿の男たちがオジジの方に向かって歩いてきた。勝手に立ち入っている部外者に注意をしにきたのだろうか。ひとまずその様子を見守っていると、スーツ姿の男たちは思いがけない行動をとった。

「本社にお出でになっていたとは、ご挨拶が遅れまして申し訳ございません!」

 そう一人が言い、一斉に頭を下げたのである。

 山田とは距離があるのですべては聞こえないが、年齢層と風貌からして、スーツ姿の社員たちは管理職ほどの年齢に見えた。呆気にとられている山田の前で、彼らはぺこぺこと頭を下げ、さらに信じられないやりとりをつづける。

「いえいえ、いいんですよ。いつも来て……いえ、今日はただ、釣れそうだからここに来ただけで。みなさん、仕事に戻ってください」

「はぁ……では、われわれは失礼しますが、車を手配させますので、お帰りの際は遠慮なくお声がけください」

 どど、どういうことだろう。物陰に隠れた山田の傍らを通るとき、「会社がたいへんな時期に釣りだなんて」「実質的にうちの経営には関わっていないからな」「それにしても社主はなにを考えているんだか」などという声が聞こえてきた。

 社主? え、あのオジジが? 血の気の引いた山田は、即座にスマホで日陽新聞社のホームページをひらく。しかし社主の「中尾誠一なかおせいいち」という名は載っていても、顔写真がない。そこで「日陽新聞 社主」と検索をかけてみると、何枚かヒットしたのは着物姿の初老男性だった。

 よく見れば、あのオジジに似ていなくもない。

 嘘だろ! すぐさまLINEをひらいて、円花に【ストーカーの件だけど】と打ちかけて消し、【君のおじいさんと親交があった日陽新聞の人って、まさか中尾社主じゃないだろうな?】と書き直す。

 しかし返事を受けとる前から、山田の疑問は確信に変わっていた。

 いくつもの点で腑に落ちる。なぜ私有地にいとも簡単に入りこめていたのか。はじめてここで会ったとき、初対面ではない気がしたけれど、社主として最終面接に立ち会っていたからではないか。円花もいつかの飲み会で、雨柳民男と仲の良かった人物と最終面接で会ったときに、敬語を使うように咎められたと話していた。

 数十秒後に円花から返事があった。彼女はつねにスマホを握りしめているのではないかと疑うほど、やたらと返事が早いのだ。

【そうそう、中尾のオッチャンだよ。なんで?】

 やっぱりストーカーじゃなかった! 自分の大バカ野郎! 早とちりというか、あまりの不注意さと驚きで眩暈めまいがした。思わず近くの廃材に手をかける。その瞬間、大きな音とともにガラガラと崩れた。慌てて直しながらふり返ると、中尾がこちらを見ていた。

「おや、あなたは。また会いましたね」

 中尾はほがらかに笑っていた。

 いや、これはまずい。まずすぎる。とにかく早く謝った方がいいだろう。なんせ日陽新聞社の雲の上のまた上の上の存在と、何度も顔を合わせていたのに一切気がつかなかったのだ。しかもタメ口をきいていたうえに、挙げ句本人は知らないとはいえストーカー扱いしてしまったなんて。

 すぐさま駆け寄り、勢いよく頭を下げた。

「しし、知らなかったとはいえ、これまで無礼な態度をとってしまい、誠に申し訳ございませんでした! 僕は文化部の社員でして、山田文明ふみあきと申します。中尾社主だとは露とも気がつかず、生意気な態度をとってしまい――」

「フホホ、まさかと思ったけど、本当に知らなかったんだね。私の方は君のことを憶えていましたよ。最終面接で釣りの話をしたこともね。一生懸命に話していたフレッシュな君を推したのは、他でもない私だったんだから」

 山田は小さな声で「そ、そうだったんですね」と答えるのが精一杯で、情けなさと恥ずかしさと緊張で顔もまっすぐ見られない。

「山田くん、ここに釣りにくるタイミングは、ひょっとして先輩から教わったデータに従って選んでいなかった?」

 思わず顔を上げた山田は、にやりと笑う中尾の表情を見て、やっと気がついた。

「あのデータって――」

「そう、私が記録をとって、後輩に伝えたものなんですよ」

 つまり中尾とここで何度も鉢合わせしていたのは、単なる偶然ではなく同じ〈ツレル・パターン〉というデータに則っていたからだった。OBから受け継がれているとは聞いていたが、まさかその大元が社主だとは想像もしなかった。

 今すぐ東京湾に飛びこんでしまいたい気分になっている山田に、中尾はこれまでと変わらない態度で、クーラーボックスから缶ビールを取りだした。

「一杯どうです?」

 おいおい、自然に差しだされたけど、社主から缶ビールを頂戴するなんて失礼に値しないだろうか? いや逆に、受けとらない方が無礼かもしれない。違う、こちらが差しだすのが本来では? あまりの急展開に頭が追いついていかない。落ち着け、自分!

「ありがたく、ちょ、頂戴ちょうだいします」

「汗がすごいですけど、大丈夫ですか? 今夜は涼しいのに」

「まったく問題ありません」

 滝汗をぬぐいながら、ビール缶を開けて飲む。

「いい飲みっぷりですね。このあいだよりもずっといい」

 嫌味なのか、ただ褒めてくれているのか、腹のうちが分からない人だ。ともあれ、アルコールのおかげで幾分か、気分も落ち着いてきた。中尾はふたたび釣りを再開させ、山田はその様子を見守るが、ある考えがふと頭をよぎった。

「あの! 中尾社主に折り入って相談したいことがあるんです」

 山田は自分だけでなく、現在文化部員たちを不安がらせている重大な問題について、意を決して話すことにした。

「相談?」

「ええ、その、買収の件です」

「正式に発表していないのに、やはり社内では噂になっていますか」

「買収にともなって文化部の存続が危ぶまれているという噂も流れています。でもそんなことをしたら、ますます日陽新聞の存在意義が問われるはずです。文化部はその性格上、他の部に比べれば、派手なスクープを飛ばすことは少ないですが、今の世の中に絶対に必要なことを報じていると思います。最近は文化面、充実してると読者からの評判もいいです。どうか文化部消滅という危機を阻止していただけませんか?」

 熱く訴える山田を、社主は面食らったように黙って眺めていた。

「いやはや、そんなことを急に言われてもねぇ」

 手応えのなさに拍子抜けしつつも、諦めるものかと食いさがる。

 社主は筆頭株主でもあり、中尾が持ち株を手放さずにいれば、買収も防げるはずだ。

「じつは僕、雨柳円花とコンビで連載を担当してるんです。けっこう評判もよくて、ご存じかもしれませんが、先日は久しぶりに一面を飾ることもできました。雨柳さんははじめコネ入社じゃないかと噂する同僚もいたものの、今では優秀な記者だともつぱらです。でも文化部がなくなれば、彼女を手放すことになります」

「漱石の記事はよかったですねぇ。しかし仮に買収されたとしても、文化部の社員を解雇すると決まったわけじゃない。他の部にうつってもらうとか、新しい経営陣ともいろいろと協議はしていますよ」

「雨柳さんは文化部がなくなったら絶対に辞めます。本人もそう明言していました」

 中尾は肩をすくめると、息を吐いて海を眺めた。

「いやはや、君の気持ちはよぉく分かりますが、もう私は引退したつもりでいるんです。雇用だけは守ろうと、ここまでやってきましたけどね。円花くんには私からも話をしておきますよ」

 そんな軽い調子ではぐらかされるとは。先ほどの社員も愚痴をもらしていたが、社主という立場でありながら、今のような会社の一大事にしょっちゅう釣りをしている時点で、無責任なのではないか。

 そんな不安が顔に出たのだろう。こちらを見つめていた社主が、「君はまだ若いので、焦る気持ちも分かります。でも難局では傍観するというのも重要な戦略ですよ。釣りも同じでしょう。君なら分かるはずだ」とほほ笑んだ。

「しかし――」

「とりあえず、見ていたまえ」

 山田がそれ以上なにか言うのを制するように手をあげたあと、ふたたびルアーを海に投じた。会話をつづける気はなさそうなので、諦めてその場を離れる。歩きながらスマホを確認すると、円花から【ひょっとして、中尾のオッチャンをストーカーと勘違いしたんじゃないだろうね? おっちょこちょいの山田でも、さすがにそれはないか】というメッセージが届いていた。悔しいが、その通りだった。

 

(第17回へつづく)