ニット帽、伊達眼鏡、付け髭で変装した譲二は、区役所通りを歩いていた。
 譲二は風体の悪い男を見かけるたびに、コンビニエンスストアや雑居ビルのエントランスに身を隠した。
 歌舞伎町には海東の犬がうようよしている。直美の首に懸賞金をかけている可能性もあった。直美をおびき寄せるのに最高の餌である譲二も、ターゲットにされているだろう。
 サングラスにマスクの変装にしたほうが安全だったが、不審者として警官に職務質問をされれば厄介なことになる。
 昼の歌舞伎町は人もまばらだった。譲二は規制線の張られた建物の前で足を止めた。
『ちょこれーと屋さん』の看板を譲二は見上げた。
 爆破されたのは裏口なので、正面玄関と販売フロアに影響はなかった。だが厨房は破壊されており、商品の仕込みができないので営業はで不可能だ。
 どのみち、海東に爆発物を仕掛けられた店で営業を続けられはしない。人の死んだ店でボンボンショコラを買いたいと思う物好きもいないだろう。
 譲二の握り締めた拳が震えた。 
 直美の怒りはこんなものでは……。
 譲二は足を踏み出した。
 感傷に浸るために変装して歌舞伎町に舞い戻ったわけではない。
 
 ――明後日、海東は「東神会」の息のかかったホストクラブである取り引きをする。そこを現行犯で押さえるつもりだ。
 ――ある取り引きって?
 ――そこまで言うわけねえだろ! とにかく、ムショに五年は繋いでおける犯罪だ。逮捕してから野崎の件やミクちゃんの件、ほかの埃も全部叩き出せば十五年は娑婆の空気を吸えねえはずだ。

 脳裏に蘇る下呂との会話が、譲二の焦燥感を煽った。
 この情報を直美が知ったら、動かないわけがない。
 直美が海東の情報を無視する確率は、手負いのシマウマが横切ってもライオンが無視するより低い。
 ただ海東はシマウマではなく獰猛な肉食獣だ。下手をすれば直美が返り討ちにあってしまう。
 譲二は区役所通りを突っ切り、「大久保公園」近くに建つ一棟の雑居ビルの前で足を止めた。コンセントの抜かれた電飾看板に視線をやった。
「占い館 千里眼」
 譲二は地下に続く階段を下りた。
 黒塗りのドアの脇のインターホンを押し、ニットキャップと伊達眼鏡を外し天井を見上げた。
『帰りな』
 スピーカーから老婆――先生の嗄れ声が流れてきた。
 先生は薄汚い雑居ビルに占い部屋を抱えているが、知る人ぞ知る凄い占星術師だ。
 噂では歴代の総理大臣、財界の大物、ヤクザの大親分まで先生に占って貰うために訪れているという。
「千里眼」を訪れる政財界とヤクザの大物達の目的は二つに分かれる。
 純粋に占って貰うために訪れる客と情報を買いに訪れる客だ。
 先生が占いで築いたVIP人脈から得た情報量は桁外れで、歌舞伎町のCIAと呼ばれるほどだ。
 ときには検事や刑事、国税庁の職員も訪れ、先生から得た情報を捜査や調査に役立てているらしい。
 司法関係者からは料金を取る代わりに、情報交換をしていると聞いたことがあった。
 先生のもとには政治家の汚職、財界人の闇献金や脱税、指定暴力団の各種犯罪などの情報が大量にストックされている。情報が情報を産み続けているというわけだ。
 もっとも誰でも「千里眼」の顧客になれるわけではない。
「千里眼」は紹介者が必要な完全会員制だ。
 譲二は会員の直美に付いて、「千里眼」を訪れたことがあった。直美は若頭時代の野崎から紹介して貰い会員になったのだ。
 入会時には五百万の入会金を払わなければならないので、必然的に会員は富裕層に限られた。
 しかも占いと相談が三十分で五万円という高額だ。
『大事な用なんです! お願いします!』
 譲二は天井から睨む監視カメラに向かって頭を下げた。
『色情狂の僕に用はないよ』
 ふたたびスピーカーから、にべもない嗄れ声が流れてきた。
『直さんからの頼み事じゃありません! 直さんとは無関係ですから!』
 譲二は訴えた。
 先生は直美のことを忌み嫌っている。
 
 ――お前さんは、野崎とかいうヤクザの紹介だったね?
 初めて直美が「千里眼」を訪れたときに、先生を怒らせてしまったのだ。
 ――おう、ババアのくせに耄碌してねえんだな。
 政財界の大物さえも畏敬の念を持って接する先生にたいして、直美の態度は無礼を通り越して冒涜だった。
 ――口の利き方を知らない獣だね。まあ、野崎の若頭の紹介だからいまのは聞かなかったことにしてあげるよ。で、なにを占って貰いたい?
 ――占いじゃねえ。情報がほしい。
 ――構わないが、別途情報料を支払って貰うぞ。
 ――がめついババアだぜ。冥土に札束を持って行くつもりか?
 直美が大笑いした。
 ――黄信号じゃ。次に礼節を欠いた言動があったら出入り禁止じゃ。で、ほしい情報とはなんじゃ?
 ――女の情報をくれ。
 ――どこのおなごじゃ?
 ――区役所通りの「デンジャラス」っていうおっパブの女だが、急に店を辞めやがってな。
 ――おっぱぶとは、なんじゃね?
 ――おっぱいパブもしらねえのか? 女が膝の上に乗っておっぱいを揉ませたり乳首を吸わせたりする店だ。
 ――なんと破廉恥な……。どうしてそのようなおなごの情報がほしいのじゃ?
 ――さんざん店に通って生殺し状態にしやがったくせに、一発もやらせねえうちに消えやがったからに決まってるだろうが。女を捜し出して三発はやらねえとおさまりがつかねえんだよ!
 ――な……なんという下劣な……なんという色情狂じゃ……。このっ、大馬鹿者め!
 そもそもわしが扱う情報は国の情勢をも左右するものや、巨悪を未然に防ぐものにかぎられておる! 人前で裸になるようなおなごの情報など、扱うわけないじゃろうが!
 先生が血相を変えて、直美に怒声を浴びせた。
 ――総理大臣も億万長者もババアも、セックスして生まれてきてるんだろうが! セックスを軽く見るんじゃねえ!
 ――罰当たりめ! 地獄に落ちろ! 出入り禁止じゃ!

 譲二はため息を吐いた。
 あのときのやり取りを思い出すだけで寿命が縮むようだった。
 先生が激怒するのも出入り禁止になるのも無理はなかった。
『色情狂の用じゃなくても、会員じゃないお前はだめじゃ。ウチが完全会員制なのは知っておるじゃろう?』
「はい、もちろんです。なので、五百万を払います」
 直美から貰った一千万があるので入会金を払える。
 勝手な真似をして直美は怒るかもしれないが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
『お前が? 金を持っているようには見えないがね』
「ほら! ここにあります!」
 譲二は紙袋から取り出した札束をカメラに向けた。
『なんだい? どこからか盗んできたんじゃないだろうね?』
「これは直……いえ、俺が働いて貯めたお金です」
 譲二は喉まで出かかった直美の名前を飲み込んだ。
 直美から貰った金だと知られたら、先生はたとえ五千万を積まれても譲二の入会を断ることだろう。
『まあ、とりあえず話は聞いてやるから入りなさい』
 ほどなくすると解錠の音に続きドアが開いた。
「いらっしゃいませ。どうぞ、お入りください」
 タキシードを着た三十代と思しき男性秘書が恭しく頭を下げ、譲二を中へ促した。
 前回訪れたときにも思ったが、秘書は息を呑むような端整な顔立ちをしていた。
 秘書は薄暗い廊下を奥へと歩き、譲二を先導した。
 突き当りの部屋の前で足を止め、秘書はドアをノックした。
『入りなさい』
 ドア越しに嗄れ声が返ってきた。
「失礼します」
 秘書がドアを開けた。
 五坪ほどの薄暗い空間を朱色に染める複数の紫のキャンドル、黒大理石の丸テーブル、テーブルに置かれた六芒星のホロスコープ盤、ホロスコープ盤に配置されたカラフルな水晶製の惑星駒。
「座りなさい」
 紫のベロアの小皇帝アームチェアに座るピンクのおかっぱの老婆――先生が、丸テーブルを挟んだ客用の椅子を譲二に勧めた。
「失礼します!」
 譲二は椅子に座った。
「なにをしておる?」
 先生が言いながら、閉じた紫の羽根扇子で丸テーブルを叩いた。
「え? なにがですか?」
 意味がわからず、譲二は訊ね返した。
「それじゃ!」
 先生がいら立たしげに、羽根扇子で譲二の足元の紙袋を指した。
「あ、すみません!」
譲二は慌てて紙袋から五つの札束を取り出し丸テーブルに並べた。
「清迫。確認しなさい」
 先生に命じられた秘書――清迫が、札束を両手に持ちベロアのカーテンで仕切られた奥の部屋に消えた。
「で、占ってほしいのか情報がほしいのか? どっちだい?」
 先生が濃いアイラインに囲まれた鋭い眼で譲二を見据えた。
「情報がほしいです」
 譲二が言うと、ふたたび先生が羽根扇子で丸テーブルを叩いた。
「え? もう、入会金はお支払いしましたけど?」
「相談料は三十分五万円からになっておるのを忘れたか?」
「あっ、そうでした!」
 譲二は紙袋の百万円の札束から引き抜いた一万円札を五枚、丸テーブルに置いた。
「最初に言っておくが情報の場合は、お前がほしいものがなくても五万円は返金できないぞ」
「わかってます」
「それから、お前のほしい情報をわしが持っていた場合は別途情報料を貰うからね」
 先生の眼が欲深く光った。
「え!? いま五万円を……」
「馬鹿者! それは相談料じゃ!」
 先生の一喝に譲二は眼を閉じた。
「す、すみません……。それで、情報料っておいくらですか?」
 恐る恐る譲二は訊ねた。
「情報によってピンキリだから、一概には言えないわね。十万円単位の情報もあれば数千万円単位の情報もある」
「す、数千万!?」
 譲二は素頓狂な声を上げた。 
「まあ、それは国家機密レベルの情報料じゃ。お前がほしがる情報は、どうせくだらないものだろうから心配せんでもいい」
 先生が小馬鹿にしたように言った。
 安堵と屈辱が譲二の胸でない混ぜになった。
「で、どんな情報がほしい? まさか、フラれたおなごの消息などを訊くんじゃあるまいな?」
 先生が激しく咳き込んだ。
 いや、笑っているのだ。
 譲二は奥歯を噛み締め、テーブルの下で拳を握り締めた。
 先生は完全に譲二を馬鹿にしていた。
「『東神会』の海東若頭についてお訊ねしたいことがあります」
「なんじゃと!?」
 海東の名前を耳にした先生の顔色が変わった。
 政財界の大物やヤクザの大親分が畏怖する先生をこれほど動揺させるとは、海東も相当な悪党だ。
「ある人から海東若頭が明後日、法に触れる大きな取引を歌舞伎町で行うと聞きました。その情報は、先生の耳には入っていませんか?」
 譲二は先生の眼を直視した。
「お前がそんなことを知ってどうするのじゃ?」
 先生が値踏みするように譲二を見据えた。
「理由を言わなきゃだめですか?」
 直美を助けたいと言えば先生は、情報を知っていても教えてくれない可能性がある。
 それだけが理由ではない。
 万が一、先生が海東と通じていた場合、直美を窮地に立たせてしまう。
「情報料を貰えれば、聞く必要はないがな」
 先生が意味深な言い回しをした。
「ということは、先生は海東の情報を知っているんですね?」
「歌舞伎町を根城にしておれば、獣達の血生腥い臭いは嫌でも漂ってくるわい」
 先生が吐き捨てるように言った。
 たしかに、言われてみればその通りだ。
 名だたる指定暴力団のトップと親交を深めている先生ならば、「東神会」の若頭が企む大規模な取り引きの情報を知らないはずがない。
 しかも「千里眼」には、検察庁と警視庁の複数の幹部も会員にいるという噂だ。
「あの、この情報はいくらで買えますか?」
 譲二は怖々と訊ねた。
「逆に訊くが、いくらなら払える?」
 すかさず先生が質問を返した。
「え……」
 譲二は困惑しながら、足元の紙袋に視線をやった。
「まあ、なんとか足りそうじゃな」
 紙袋を覗き込んでいた先生が言った。
「え!? 五百万を全部ですか!?」
 思わず譲二は大声を張り上げた。
「海東なんて危険な猛獣の危険な取り引きの危険な情報を教えてやるんだから、五百万でも安いくらいじゃ。こちとら命がかかってるんじゃからな。不満だったら、帰ってもいいんじゃぞ? 五百万を払うか、帰るか?」
 先生が加虐的な口調で二者択一を迫った。
「帰る!? 五百万の入会金を払ったのに、冗談じゃないですよ! 中身もわからない情報に、そんな大金を払うなんておかしいでしょ!」
 譲二は血相を変えて抗議した。
「わかっとらんのう。これだから庶民は困るんじゃ。わしからすれば、お前にとって使えない情報だとしても危険な情報を売ることに変わりはないんじゃ。つまり誰かに口外した時点で、わしには『東神会』から狙われるかもしれないというリスクが生じるんじゃ。さあ、どうする? わしも暇じゃないんじゃ」
 先生が突き放すように言った。
 たしかに先生の言うことにも一理ある。
 そもそも車や宝石と違って情報に相場はない。
 買う側の人間が大金を払う価値があるかどうかだ。
「そもそも、どうして海東の情報なんてほしいんじゃ? 見たところ堅気だろう? 一千万を支払ってまで海東の情報を買いたい理由はなんじゃ?」
 先生が訝しげに訊ねてきた。
 直美を救うために譲二ができるのは海東を牢獄に繋ぐこと――下呂以外の刑事に海東を逮捕させることだ。
 しかし、「東神会」の若頭を逮捕するには信憑性の高い情報が必要だった。
 とにもかくにも譲二には、明後日歌舞伎町のホストクラブで行われるという海東の取り引きの内容を具体的に知る必要があった。
 内容が分かり次第、警察に通報するつもりだった。
「お世話になった人を救いたいのです」
 譲二は具体的な名前を口にすることは避けた。
「まったく、青臭い小僧じゃのう。誰を救いたいか知らんが、冷血鬼のような海東の取り引きを妨害するのは自殺行為じゃ。しかもこれだけの大金を払ってまで地獄に飛び込もうとするとはな」
 先生が呆れたように言った。
 言われなくてもわかっていた。
 譲二がやろうとしていることが、どれだけ危険で無謀なことか。
 情報の内容がわかり警察に通報したところで、第二、第三の下呂がいて海東にチクる可能性もあった。
 匿名で通報しても警察は動かないので、譲二は名乗らなければならない。
 そうなれば間違いなく譲二は的にかけられるだろう。
「じゃが、そういう青臭さは嫌いじゃない。お前の世間知らずで一途な思いに免じて、情報料を安くしてやるわい」
 先生が眼を細め、入れ歯を剥き出しにして笑った。
「ありがとうございます!」
 譲二はテーブルに額がつくほどに頭を下げた。
「五百万のところを四百八十万にまけといてやるわい。特別じゃぞ」
 先生が恩着せがましく言った。
 譲二は不平を零さず紙袋から取り出した四つの札束と八十万をテーブルに置いた。
 下手に値引き交渉して臍を曲げられたらたまらない。いくらかでも手元に残るだけましだ。
「清迫」
 カーテンの奥から秘書が現れた。
「確認しなさい」
 秘書が入会金のときと同じように、四百八十万を両手にするとふたたびカーテンの向こう側へと消えた。
「さてと、お宝を教えてやろうかのう!」
 先生が上機嫌で言いながら、羽根扇子でテーブルを叩いた。

(第24回へつづく)