人物紹介
仁美…高校二年生。町の祭りで起きた無差別毒殺事件で母を亡くす。
修一郎…高校一年生。医学部志望の優等生。事件で妹を亡くす。
涼音…中学三年生。歳の離れた弟妹を事件で亡くす。仁美たちとは幼馴染。
景浦エリカ…涼音の母。派手な見た目と行動で町では目立つ存在。
仁先生…仁美の父親。町唯一の病院の院長。
成富栄一…大地主で町では一目置かれる存在。町内会長も務める。
博岡聡…成富建設の副社長。あだ名は「博士」。引きこもりの息子・聡介を家に抱えていた。
音無ウタ…息子・冬彦が真壁仁のせいで死んだと信じこんでいる。
琴子…息子の流星と姑のウタと同居している。元新聞記者。
流星…小学六年生、ウタの孫。修一郎の妹と仲が良かった。
宅間巌…かつて焼身自殺した町民。小学生の間では彼の幽霊が出ると噂されている。
第十九話
どこまでも限りなく澄み渡った空の下、風が稲穂を波のように揺らし、吹き抜けていく。
広い更地を前に、仁美は大好きだったかつての光景を心の中に思い浮かべる。
去年まで当たり前のようにこの場所にあった黄金色に輝く稲穂の海は姿を消し、もう二度と目にすることはできない。
ここには、なにが建つのだろう。
まなうらに浮かぶ大切な景色を再び強く記憶に焼き付けてから、仁美は自転車を漕ぎ始める。
町は少しずつ変わっていく。
そして、人も――。
黒枠つきの喪中札のかかった音無家の玄関扉を開け、仁美は奥に声をかけた。
「琴子さん、仁美です」
掃除機の音に負けないよう声を張り上げたが返事がないので、そのまま靴を脱いで上がり込む。
二間続きの和室の襖が外され、奥の仏間の仏壇の前に棺が安置されていた。
故人のたっての希望で、自宅で葬儀が行われることになったためだ。
手前の部屋で通夜ぶるまいをおこなうらしく、近所のおばちゃんたちが慌ただしく掃除をしている。掃除機をかけていたひとりが気づいて「あら、仁美」と顔を上げた。
「おばちゃん、ごめんね、遅くなって。琴子さんは?」
「ああ、今……」
彼女が答えるより先に玄関の扉が開き、座布団を抱えた琴子が姿を現す。
「やだ、琴子さん、喪主なのになにしてるの? そんなの私がやるから」
「ああ、仁美さん、ありがとう。足りなくなると困るから、お隣から借りてきたの」
駆け寄って座布団を受け取りながら、仁美は一瞬、涼音とエリカの顔を思い浮かべてしまう。だが、琴子の言うお隣はもちろん、景浦家とは反対隣の家のことだ。
ふたりの残像を追い払うようにかぶりを振り、座布団を部屋の隅に積み上げてから、仁美はつとめて明るい声を出した。
「おばちゃん、掃除機、私がかけるよ。一応、若手だからね、この中では」
「こら、仁美、ひとを年寄り扱いするんじゃないよ。琴子さん、掃除はもうこれでいいよね?」
「はい、ありがとうございます。皆さんのおかげで本当に助かりました」
「なに言ってんの、田舎の葬儀は助け合いなんだからさ。うちのだんながおっ死んだら、そのときは頼むわよ」
「あんた、だんなを先に逝かすことしか考えてないわね」
「当ったり前じゃないよ」
肩を叩いて笑い合うおばちゃんたちと一緒に笑み崩れていたことに気づき、仁美はああ、まただと思う。昔は大嫌いでうんざりしていたこうしたやりとりが懐かしく、ホッとしている自分がいる。
「琴子さん、掃除が済んだなら、お台所借りていい? お揚げさん煮てきたから」
仁美が持参したタッパーを掲げると、おばちゃんたちから、わぁと歓声が上がった。
「仁美のおいなりさんは絶品だから嬉しいねぇ」
「教えてもらった通りにつくっても、あんなにおいしくなんないのよ。やっぱりあんたは千草さんの血を引いてるから筋がいいんだね」
「おだてても、おいなりさんと巻き寿司以外なんも出ないよ」
軽口を叩きながら台所へ向かうと、後から琴子がついてきた。
「仁美さん、忙しいのに本当にありがとう。ここにあるものはなんでも自由に使って」
「あ、琴子さん、その前に、えっと、この度はご愁傷さまでした」
襟を正して頭を下げると、「恐れ入ります」と琴子も深く腰を折った。
どこか安堵したように見える琴子は、十年前のあのときとは別人のようだ。
やぎ山の崖から流星が転落したと知らされ、駆けつけた琴子は、一人息子の亡骸を目にしてひどく取り乱し、周りの人間が止めるのもきかずに縋りついて狂ったように慟哭したという。
葬儀の際も琴子は喪主として流星の遺体のそばに座していたが、ただそこにいるだけでなんの感情も浮かんでいないその顔は、魂が抜け落ちた人形のようだった。
その後も流星の死を乗り越えることができず、琴子は長い間失意に暮れていた。
しかし、彼女には世話が必要な姑がいた。結果的にウタの存在が、少しずつだが琴子を日常へと導いたのではないかと思う。
そんなウタを喪った琴子のことが心配だったが、流星のときとはまるで違う、落ち着いた様子に、仁美は胸を撫でおろした。
当然と言えば当然だろう。先ほど仏間で見た遺影の中のウタは穏やかな笑みを浮かべていたが、認知症が進んだウタの問題行動はあれからさらに悪化したし、癇癪を起こし恐ろしい形相で琴子を罵る姿も何度か目にしていた。
周囲の人間は誰もがウタを施設に入れることを勧めたが、琴子は聞き入れず、最期まで自宅で看取った。そんな琴子は、みんなに嫁の鑑と呼ばれている。
「義母は仁美さんと仁先生に、本当にひどいことばかりしていたのに……」
「それは仕方ないよ」
確かにウタには理不尽な怒りをぶつけられたが、愛する人を喪ったつらさは、仁美も身に沁みている。
「琴子さん、これからどうするの?」
「どうって?」
「もうおばあちゃんのお世話する必要ないんだし、また新聞社で働いたりしないのかなって」
かつての同僚のつてで、この十年の間も、琴子は無記名の記事を書いたりしていた。
「仁美さん、なに言ってるのよ。私、もうアラフィフよ」
「琴子さんこそ、なに言ってるの? まだアラフィフでしょ」
ひとりになってしまった琴子を案じ、仁美は本気でそう言ったのだが、彼女はありがとうとあいまいに微笑み、すぐまた手伝いに来るからと、座敷に戻ってしまった。
この町で、琴子は夫と息子、そして今、義母を亡くした。
もうこの土地に琴子を縛るものはなにもないのだから、自分の人生を好きに生きればいいのに……。喪った家族の墓を守り、彼女はここで生きていくつもりなのだろうか。
座敷の準備を終えたおばちゃんたちとともに台所に立ち、通夜ぶるまいの精進料理をひととおり作り終えたところに守がひょいっと顔を出した。
「おう、お疲れ」
巻き終えたばかりの寿司をつまんで口に放り込み、守は「うまっ」と相好を崩す。
毒しるこ事件からしばらくは、こんな光景は見られなかった。みんな、口に入れるものに過敏になり、怯えていたからだ。それぞれの傷も十年という歳月が癒してくれたのだろう。
「ちょっと守君、手ぇ洗ったの? ってか、また太ったんじゃない?」
「貫禄がついたって言ってくれよ、仁美」
隠居した会長に代わり、守は会社だけでなく、町内会のすべてを仕切り、今日のウタの通夜でも葬儀委員長をつとめることになっている。
「あ、仁美、仁先生、どうだ?」
「……うん、相変わらずって感じかな」
「そっか。なにか困ったことがあったら言えよ」
真顔でそう言う守に、子供のようにコクンとうなずく。
「ありがと、守君」
「いや、仁先生にはマジで世話になったし。それより、いいのか時間?」
「あ……、やば」
時計を見て仁美は慌ててエプロンを外した。
「守君、琴子さんにちょっと抜けさせてもらうって言っといて。あとでまた来るからって」
「仁美、なんなら、うちのに行かせようか?」
ううん、大丈夫と笑顔を見せ、仁美は外へ走り出て、自転車に飛び乗る。
見たくなくても、景浦の家があった場所が視界に入り、胸が苦しくなる。
何年か前までは、窓が割られ、壁にひどい落書きがされた状態で残っていたエリカと涼音の家は取り壊され、更地になっていた。幼いころ、仁美たちの秘密基地だったツリーハウスだけがポツンとそのまま残されている。がらんとした土地に寂しく建っているさまは、仁美をなんとも言えない気持ちにさせた。
十年前、おしるこに農薬を混入し、四人を殺害した罪で逮捕されたエリカは、しばらくは否認を続けたが、警察の取り調べに観念したのか自分がやったと認めた。
だが裁判では一転して無罪を主張した上、黙秘を貫き、被害者遺族の感情を逆撫でしたのだ。
音無ウタと流星を崖から突き落とした殺人及び殺人未遂事件、さらには博士宅放火殺人事件も、警察は景浦エリカが犯人と踏んで捜査したが、断定する証拠をつかむことができず、断念したらしい。
しかし、この町の住民はみんな、エリカが犯人に違いないと思っている。
なぜなら、エリカが逮捕されて以降、頻発していた犯罪がぱたりと止まったからだ。
こやぎ庵や蕎麦辰の店主たちは、納得がいかないと騒ぎ立てていたが、第一審でエリカに死刑判決が言い渡されたことで、溜飲を下げたようだ。
エリカは即日控訴したが控訴審で棄却され、同様に上告審でも棄却。その後、死刑判決の破棄を求めて最高裁判決の訂正を申し立てるも棄却されて死刑が確定し、現在は再審請求中だという。
エリカの逮捕後、ひとり残された涼音は隣町に住む祖父と一緒に暮らすものだと思っていたが、同居する叔父一家に反対されたらしく、三番目の父親に引き取られて、東京へ戻った。
資産家の父のおかげで私立のお嬢様学校に通わせてもらっていたようなので、事件を起こしたエリカの娘と疎まれながら親戚の家でやっかいになるよりも幸せだったろう。
高校卒業後、仁美もこの町から、そして父から離れたくて、都内の専門学校へ進学した。
なので、会おうと思えばいつでも涼音と会えたはずだが、連絡する気はなかったし、涼音からも電話はかかってこなかった。まぁ、かけられなかったのだろうし、かかってきたとしても、出なかったと思うけれど。
琴子のような記者になることを夢見ていた仁美が選んだのは、マスコミ出版学科のある専門学校だった。
憧れていた東京での生活は刺激的ではあったが、近所づきあいが濃密なこの町で育った仁美は、隣に誰が住んでいるのかわからない一人暮らしに馴染めなかった。疲弊を感じ始めたころ、白都優也に彼が勤める出版社でバイトをしないかと持ち掛けられ、仁美は飛びつく。
白都は毒しるこ事件の取材に来ていた週刊誌の記者だった。修一郎と涼音の交際を知って落ち込んていた時に、優しく接してくれた人だ。
彼に仕事を教えてもらっているうちに親しくなり、淋しさも手伝って、仁美の部屋に泊まりに来るような関係になった。
仕事ぶりが認めてもらえたのか、専門学校卒業と同時に、その出版社で契約社員として採用され、仁美なりにがんばったのだが……。
「ママー!」
甲高い子供の声にハッとし、園庭に目をやると、つばさが手を振っていた。
門の前に自転車を止めた仁美に、ツインテールを揺らしながら、つばさが走り寄ってくる。
「ママ、おそーい」
「ごめんごめん、ママ、コンちゃんのごはん作ってて遅くなっちゃった」
「コンちゃんのごはん!? わー、今日、コンちゃんのごはん? つぅちゃんの分もある?」
つばさは大好きなおいなりさんのことをコンちゃんのごはんと呼ぶ。
「うん。もちろん、つばさの分もちゃんとあるよ」
「やったー! つぅちゃん、コンちゃんのごはん、いっぱい食べる」
弾むように抱き着いきた娘の柔らかい体を仁美はぎゅっと抱き締めてから、自転車のチャイルドシートに乗せる。
保育士の先生に挨拶し、自転車を漕ぎだそうとしたところへ、園庭の前に停まった高級外車からふくよかな女性が手を振りながら降りてきた。守の妻の基子だ。
「仁美さーん、ねぇ、うちでちょっと、お茶していかない?」
「ああ、ごめんね。すぐ琴子さんのとこに戻らなきゃいけないから今日は時間ないんだ」
「あ、そっか、今日お通夜だもんね。じゃあ、またあとで。つぅちゃん、バイバイ」
「うん、またね。つばさ、カイト君ママにバイバイは」
「バイバーイ」とつばさに手を振らせ、ちょっとでは終わらない基子とのお茶を断れたことに、仁美はホッと息を吐く。
自宅へと自転車を走らせる間、つばさは今日習ったという歌を調子っぱずれに可愛く歌い、ずっとご機嫌だった。
「ねぇ、つばさ、ママね、このあと、琴子おばちゃんのおうちに行かなきゃいけないんだ」
「つぅちゃん、じぃじとお留守番? じぃじのぶんもコンちゃんのごはんある?」
「じぃじのがなかったら、つばさのコンちゃんごはん、わけてあげてくれる?」
えー! とほっぺたをふくらませたものの、つばさはすぐに「いいよ」と笑顔で答える。
「いいの? つばさは優しいねぇ」
「つぅちゃん、優しい?」
「うん、つぅちゃんは、とってもとっても優しい女の子」
つばさはくすぐったそうにうふふと笑うと、今まで歌っていた節で、「つうちゃんは、とってもとっても優しい女の子」と繰り返し繰り返し、家に着くまで歌っていた。
「お父さん、ただいま」
つばさに手洗いとうがいをさせてから、二階へ上がり、父の部屋のドアをノックする。返事がないので、「入るよ」と声をかけながらドアを開けると、父はパソコンに向かっていた。だが、目は画面を見ずに閉じられ、逆に口はポカンとだらしなく開いている。
「お父さん、寝るならベッドで寝ないと、風邪ひくよ」
軽く体を揺すると、父、仁はすぐにビクッと目を覚ました。悪い夢でも見ていたのか、怯えた顔をしている。
「仁美だよ。大丈夫?」
「あ……、ああ、うん」
「少し横になる?」
白髪頭を左右に振りながら立ち上がった父は部屋を出て、手すりにつかまりながらよろよろと階下へ下りていく。
リビングでテレビを見ているつばさの後ろ姿に驚いたように足を止め、父はつぶやいた。
「仁美……」
「お父さん、仁美はこっち。老けててごめんね。あの子は、つばさだよ」
食い入るようにテレビを見ていたつばさが、名前を呼ばれ、振り向いた。
「あ、じぃじ! あのね、つぅちゃんね、今日ね、じぃじにコンちゃんのごはんあげてもいいよ」
「コンちゃん……?」
「おいなりさんのこと。つばさ、大好物なの。でも、じぃじに分けてくれるって」
「じぃじ、嬉しい? つうちゃん、優しい?」
つばさがにこっと微笑むと、戸惑っていた父がはじめて相好を崩した。
「嬉しいよ。えっと……」
「つばさ。つぅちゃんって呼んであげて」
「つぅちゃん?」
「うん、つぅちゃんだよ、じぃじ!」
名前を覚えるのは苦手だが、つばさのことはわかっているはずなのに、今日は調子が悪いようだ。
「あ、そうだ、お父さんもお通夜行くよね? 喪服用意しておくね」
「お通夜? 誰の?」
「音無のおばあちゃんだよ」
「音無さんは亡くなってないよ。元気だ」
「一昨日亡くなったの、肺炎で。一昨日も昨日も話したし、お父さん、手帖にちゃんとメモしてたよ」
できるだけやわらかい口調でそう告げると、父は驚き、手帖がないと捜し始めた。
「大丈夫。お父さんの机の引き出しに入ってるはずだから。今、持ってくるから、つぅちゃんと待ってて」
「じぃじ、つぅちゃんと一緒にテレビ見る?」
二歳のつばさに父を託して、二階に上がり、父の机の一番上の引き出しを開ける。
手帖は、ちゃんとそこにあった。
病気になっても、こういう几帳面なところは変わらない。一番下の引き出しには、過去の手帖がきちんと並べて仕舞われている。
父は仁美が幼いころから同じ手帖を愛用し、スケジュールだけでなく、その日あったことなどを日記代わりに書きつけていたようだ。
仁先生の様子がおかしいと、東京で暮らしていた仁美に連絡をくれたのは、守だった。
話を聞いて驚いて実家に戻り、検査を受けさせたところ、若年性認知症と診断された。
まだ還暦前の父がなぜと驚いたが、ストレスが原因で発症するケースもあると知り、仁美は己の行動を悔いた。
エリカとの関係を知って以来、父を避け続けてきた。せめて盆と正月くらい実家へ戻り、話をしていたら、少なくとももう少し早い段階で、変化に気づけていただろう。
あの当時はまだ若く潔癖で、母を裏切った父が許せなかったのだ。
しかし、東京での暮らしは仁美を良くも悪くも大人にさせた。
白都優也と半同棲のような生活をしばらく続け、結婚を意識するようになって初めて、彼に妻子がいることを知った。あれほど嫌悪した父と同じ不倫関係に図らずも陥り、愕然としたけれど、そのときにはもう彼のいない人生など考えられなくなっていた。
奥さんと別れて自分と結婚してほしいと迫り、あろうことか酔ったエリカと同じようなセリフまで吐いた。
今思えばとても滑稽だが、あのときは必死だった。他のなにを手放してもかまわないから、この人だけは失いたくないと、仁美は本気で思っていた。
ようやく巡り合えた自分にとって大切な、そして特別な人と添い遂げたい。残りの人生を一緒に生きていきたい。そんな思いに囚われてしまったエリカや父の気持ちが、今ならわかる。世の中には、自分ではどうにもしようのない感情が確かにあるのだ。だからといって、人を殺していいことにはもちろんならないけれど……。
認知症にかかった父が医師として診療を続けていけるはずもなく、仕事を辞めさせるしかなかった。
物忘れは激しいものの、日常生活が送れないほどではなかったが、とはいえ、父をひとりにしておくのは心配だった。
すでにつばさが生まれ、東京での仕事は辞めており、いろいろなことがうまく回って、まるで導かれるように仁美たちはこの町に帰ってきた。
つらい思い出が色濃く残る場所での生活に不安はあったが、暮らし始めてみれば、やはりここは自分の大好きな町だった。
「ママー!」
つばさの声に我に返り、手帖を手に慌ててリビングに戻る。なにかあったのかと案じたが、父はつばさと並んでテレビを見ている。
「どうしたの、つばさ?」
「おんも! パパが、お帰りなさいだよ」
「え? 本当?」
窓から外を見ると、確かに真壁医院のほうから戻って来る彼の姿が見えた。
点け忘れていた外灯を点し、玄関に走ってスリッパをそろえてから、ドアを開ける。
短い階段を上って低い門扉を開け、夕闇を背負った夫が帰ってくる。仁美に気づき、少し疲れた彼の口もとに薄い笑みが宿るのを見るたび、身体の深いところから幸せが込み上げてくる。
「お帰り、修……、パパ」
つばさはもうすぐ三歳になる。それだけパパとママをやっているのに、いまだに昔のくせでたまに名前で呼んでしまう。そんな仁美を見つめ、修一郎の口もとに宿った笑みが薄く広がっていく。
「パパー、お帰りー!」
走ってきたつばさに弾けるような笑顔を見せ、修一郎は彼女を抱き上げた。
「つばさ、いい子にしてたか?」
「うん! つぅちゃんはいい子で優しい子だもん。だからね、パパにコンちゃんのごはん、分けてあげる」
「お、今日は、コンちゃんのごはん? つばさ、大好きなのに、パパに分けてくれるの?」
「いいよ。だって、つぅちゃん、パパもコンちゃんのごはんもどっちも大好きだから!」
「つばさぁ、パパ、嬉しいよぉ」
らしくないほど頬をゆるませ、修一郎はつばさの小さな体に胸を埋める。
「えーっ、つばさ、ママは? ママのこと、大好きって言ってたのにぃぃぃ」
仁美が泣き真似をしてみせると、つばさが心配そうに頭を撫でてくれた。
「ママ、泣かないで。ママのことも、つぅちゃん、大好きだよ。ママもパパもどっちも大、大、大好き!」
「つばさ~、ママ、嬉しいっ」
修一郎と奪い合うようにして、やわらかであたたかなつばさの体を抱きしめる。
父の病気のことをはじめ、心配事は尽きない。
けれど、それでも、仁美はこの愛おしい暮らしに心から感謝していた。
十年前、自分が夢見た未来をはるかに上回るほど幸せだったから。
義母からあんな話を聞かされるまでは――。