第四章  灯台  toudai

 

 4.

 

 島から戻ったあと、山田は円花とともに荷物を宿泊先のホテルに預けにいった。このあとは〈ライトハウス〉という灯台をコンセプトにした喫茶店で、丸吉から紹介してもらった灯台守と取材の約束があった。

「丸吉さん、帰っちゃったね」

 ホテルのロビーで受付を待っているあいだ、円花が残念そうに言う。

 山田も、丸吉が取材に同席してくれるものだと思っていたが、本人は「やり残した仕事があるので、市役所に戻ります。他に知りたいことがあったらメールしてください」とあっさりと去ってしまったのだ。

「とうとう謝れなかった……」

 あまりの悔恨に、山田は両手で顔を覆う。

「なになに、謝るってどういうこと?」

「じつは丸吉と疎遠になったのには、きっかけがあったんだ」

 気がつくと、円花に打ち明けていた。

 丸吉と最後に会ったのは、新聞社に就職したばかりの春だった。山田は地方支局に赴任すらしておらず、東京の大企業で働けることが決まって、とにかく舞いあがっていた。そんな折に、東京に用があるから二人で飲みにいかないかと丸吉に誘われた。その飲みの席で、山田はデリカシーのない発言をしてしまったのである。

「なにがあったの」

「おまえも東京で働いてみたらどうだ、一回はチャレンジしてみるべきだ、みたいなことを言ったんだ」

「あちゃー、それは上から目線にも聞こえるね。人それぞれ、事情もあるだろうに」

 まさにその通り、長男である丸吉は、いずれは両親の面倒を見なければならないという責任感から、地元の市役所に就職した。その裏側で、大都会で自由にやっていきたいという本心もあったのかもしれない。水泳選手になる夢を諦めて以来、愚痴やネガティブ思考が増えて、なにかに挑戦しようという覇気もなくなっていた。

 そんな彼は将来に人知れず不安を抱え、同世代らしくない悩み相談ばかりしてきた。憧れの東京生活に期待をふくらませていた山田にとって、土地の相続や両親の老後といった心配ごとなど、湿っぽく聞こえた。当初はのらりくらりとかわしていたものの、やがて対応するのが面倒くさくなった山田は、酔いのせいもあって失言したのである。

「あのときの俺は調子にのって、人には人の事情があるっていう当たり前のことを忘れてたんだよ。あいつの口ぶりが、どこか東京暮らしをうらやんでいるようにも感じたから、つい大きなこと言いたくなっちゃってさ。いや、それは丸吉のポテンシャルをよく知ってるからこその言葉なんだけどな。でも、やっぱり思いやりが足りなかったよ……」

「それで、丸吉さんの反応は?」

「取っ組みあいの殴りあい――」

「えっ」

「になったら、まだよかったんだろうな。あいつはとくに言い返しもせず、無言で勘定だけ置いて店を出ていった。最高に気まずかったよ。だからこっちとしてもフォローの仕様がなかったし、失言がやけに尾を引いて深い傷になったんだ。本当は直後に謝るべきだったんだけど、やけに意固地になっちゃって。だから今回の取材は、心残りを回収するっていう個人的な目的もあったわけ」

「なるほどね」と、円花はロビーに設置されたソファに持たれかかりながら、訳知り顔で腕組みした。「分からないでもないな。友人関係って、ちょっとした一言が原因で急に悪化したりするもんね。とくに子どもの頃は仲直りも簡単だったけど、大人になるほどに修復は難しいものだし」

「分かってくれるか!」

 山田は円花の手をとりそうになるが、水を差すように「でも」とつづけられた。

「丸吉さんからしてみれば、急に記事にしたいって言われても戸惑うよね。下田に残って町を支えている人の立場になってごらんなよ? たとえば灯台にしたって、実際に訪れるたびに思うけど、守るのは並大抵のたいへんさじゃないんだから。歴史文化財として扱おうにも、国の持ち物だから老朽化にともなって議論なく壊される例もあるし」

 ぐうの音も出ないとは、このことだった。

 ホテルのスタッフに呼びかけられ、円花はそちらに向きなおる。山田はひとまず礼を伝えようと、手に持ったスマホに丸吉とのLINEを表示させていたが、ホーム画面に戻してポケットにしまった。

 

 つぎの目的地であるカフェ〈ライトハウス〉は、下田市と南伊豆町の境目辺りの、海に面した崖に位置していた。

 今回はレンタカーではなくタクシーでの移動を選んでいたので、アホみたいにどちらが運転するかで揉めずにすんだ。タクシーは切り立った崖を右へ左へと曲がり、半島の輪郭をなぞって走っていく。トンネルを抜けたと思ったら、夜の海がはるか下方に広がる。そんな崖にせりだすように、店が構えられていた。

 外観は昔ながらの喫茶店といった煉瓦れんが造りだった。レトロな木枠で飾られたガラス戸を開けると、棚にコーヒーメーカーや酒瓶の並ぶカウンターの前に椅子が五席ほど並び、さらに窓際にはテーブルが三つある。こぢんまりした店内で、なにより目を惹いたのは窓の向こうに広がる絶景の海だった。

「すごい、神子元島灯台だけじゃなくて、石廊崎灯台まで見える! あれは下田港の堤防にある灯台かな?」

 店の窓の向こうでは、白や赤や青といった光が呼応するように点滅していた。

「いらっしゃい」

 現れた店主に、事前に連絡していた記者だと告げる。

 窓際のテーブルについてメニューを見ると、フィッシュ&チップスやカレー、スコッチウィスキーの銘柄がいくつかあって、どうやら英国スコットランドのパブを再現しているらしい。カレーもよく考えれば、イギリスの植民地であるインドの影響で、現地には多くの名店があると聞いたことがある。きっと「日本の灯台の父」と呼ばれ、神子元島灯台も設計した、スコットランド人設計士ブラントンにちなんでいるのだろう。外国人が多く訪れた下田の歴史にも合う。

 他にも、灯台をコンセプトにした店だけあって、本棚には灯台関連の書籍が揃えられ、各地の灯台フィギュアがいくつか飾ってある。壁には、さまざまな灯台の写真が額縁に入れられていた。訊けば、店主が旅先で撮影してきたものらしい。そのうちの一枚に、晴れわたった空と穏やかな海を背景にした、神子元島灯台の姿があった。見つめていると、となりで円花が言う。

「今日は神子元島灯台を見学させてもらったんですが、あのフレネルレンズの光を岬からまた拝めるなんて感激です」

 店主は「でしょ」と言ってにやりと笑った。「うちはこの立地に惚れこんで、この店をはじめたんですよ。私の家系は漁師でね。今も兄が漁船を継いでるんだけど、私はもっと違うことがしたくて」

 たしかに晴れていれば、日中の灯台もよく見えそうだ。

「そろそろ、いらっしゃる頃かな?」

 山田が時計を見たとき、ちょうど店のドアが開いた。

 現れたのは、白いシャツにグレースーツの上下を着て、紺のネクタイを締めたカチッとした装いの背の高い白髪の男性だった。おおらかな笑みをこちらに向けると、片手でハットをとって「すみません、遅くなりました」と頭を下げた。

「いえ、今日はお時間をいただいてどうもありがとうございます」

 円花とともに立ちあがり、深くお辞儀をする。

 今夜、わざわざ下田市に一泊して〈ライトハウス〉を訪れる時間をつくったのは、この元灯台守の男性、峰松武みねまつたけしに取材するためでもあった。丸吉を通して、峰松に取材の申し出をすると、この店を指定されたのである。

 峰松はテーブルにつくと、しばらく灯台をじっくりと眺めていた。そのあいだに、店主が代わりに説明する。

「峰松さんにはよく来ていただいているんですよ。光に異変があったら、すぐに分かるからいいって」

「今も、伊豆半島の灯台のメンテナンスをなさっているとか?」

「ええ」とだけ答え、峰松は軽く頭を下げた。

 灯台は人命を預かっている。自動化されたといっても、レンズを含めて多くの特殊部品が老朽化しているために、定期的に人の目でチェックが入っている。LED投光器に変えるべきだという意見もあるようだが、今日見たレンズも含め、多くが昔ながらの技術が守られていた。

 山田が調べたところによると、日本における現役の灯台守は今ではほとんどいないものの、全国の灯台はエリアごとに、引退した灯台守の手によって管理されているという。伊豆半島南部の灯台を担当しているのが、目の前の峰松だった。

 彼を紹介されたのは、丸吉と下田でのスケジュールを決めたときだ。

 ――峰松さんは海上保安学校に入ったあと、海上保安庁に長年勤めてらっしゃったベテランだよ。北海道から沖縄まで、あらゆる灯台を知りつくした方だから、なんでも教えてもらえると思う。

 灯台守の仕事は一ヶ所に留まり、その土地の灯台を守りつづけるものというイメージがあったが、じつは違うことがすぐに分かった。海上保安庁の職員として日本各地の灯台に交代で赴任するので、数年でその土地を離れる。

 またイメージでいえば、灯台守という古風な名称からか、老齢の隠遁者がこもってレンズを磨いている様子が思い浮かぶ。しかし実際は、忍耐力だけではなく専門知識と臨機応変な対応力が求められる、きわめて高度な知力と体力を要する仕事だった。

 峰松は七十代という実年齢のわりに、背筋がのびて若々しい。

「お二人とも、お腹が空いたでしょう。ここは料理もお酒もおいしいですよ」

「じゃ、遠慮なく!」

 あくまで取材の場なのに、円花は嬉々としてスコッチウィスキーをロックで注文した。おいおい大丈夫か? 山田は内心ツッコみながらも、一杯だけならいいかなと便乗して、水割りを頼んだ。常温水の方が芳香はきわだつと店主に教えてもらい、氷は抜きにしてもらう。

 カウンターに置かれたスコッチは、琥珀こはく色に輝いていた。はじめて味わうハイランド地方の銘柄だったが、意外と飲みやすく、スモーキーな香りが鼻孔に心地よく広がる。炭酸水をチェイサーにして交互に飲んでいる円花は、「ほんとうに美味しいっ」とくり返した。

「スコットランドに行ってみたくなりますね」

 山田がしみじみ言うと、カウンター越しに店主が肯く。

「灯台を調べるなら、一番いい国だと思いますよ。あの国の生活には灯台が根付いてますからね。ホテルとして泊まれる灯台なんてのもあるし。難所だらけの、ギザギザした険しい海岸がつづいている土地だからこそ、いち早く灯台開発が行なわれたんです――って素人の私ばっかり話してますけど、ねぇ、峰松さん?」

 峰松は寡黙かもくな人のようで、はじめのうちあまり話さず、代わりに淡々とスコッチの水割りだけを飲んでいた。顔色は変わらないのに、あっというまに三分の一ほどに減っている。準備してきた質問の他に、山田は峰松その人について知りたくなった。

 その気持ちが伝わったのか、峰松は酒がすすむにつれ、積極的に受け答えしてくれるようになった。とくに円花の飲みっぷりを気に入ったらしい。この日神子元島灯台を訪れたと話すと、「それは貴重な体験をしましたね」と穏やかに答えた。

「あそこは外側も内側も、ほとんどが建った当時のままなんです。だからよく昔のことを思い出すんですよ」

「その頃の話を聞かせていただけませんか? 灯台に常駐されていた頃の話を。多くの人の記憶に刻まれるように、私たちも言葉を尽くして記事にするつもりです」

 円花が言うと、峰松は「私のような者の話でいいのか、ここに来るまで迷っていたのですが……そうおっしゃるなら話しましょう」と答えた。

「私が下田に生まれたのは戦後まもなくで、その頃、灯台守の仕事というのは、誤解されていたと思います。少なくとも、一般的にほとんど理解されていなかった。ほとんどの人が訪れることのない僻地へきちでの仕事だから、仕方ないのかもしれません。戦争に行きたくないから灯台守になって逃げた、と心無いことも言われましたね」

「そんな、ひどいよ!」

 軽いな! 急に敬語がとれて、いつもの調子になった円花に、山田は冷やっとする。さては酔いが回ってきたに違いない。しかし峰松は、むしろくだけた物言いの方が話しやすいらしく、はじめて笑顔を見せた。

「ええ、事実は逆ですからね。戦争では、大勢の灯台守が最後まで光を守るという使命のもと、殉死したんです。戦争中、灯台は海軍にとって重要な役割を果たす存在であり、海上監視を任されていました。それは裏を返せば、敵の船にとっても標的にすべきだということです。日に日に悪くなる戦局のなかで、彼らは光を守るという使命感を持ち、灯台もろとも攻撃を受けました。とくに悲惨だったのは、沖縄の灯台でした。だから今、沖縄には明治大正期につくられた古い灯台は、一基も残っていません」

 そこまで話すと、いったん峰松は口を閉ざした。そして水割りを一口飲んで、しみじみと言う。

「光の面倒をみるというのは、本当にたいへんな仕事です」

 光の面倒をみる、という言い方を、峰松はくり返していた。

 まるで命ある子どものように、光を扱っている響きがあった。

「峰松さんが灯台守を目指したのは、どんな理由からなんです?」

 山田はメモをとりながら、峰松に訊ねた。

「格段の理由はありません。漁港で育ったおかげで、幼い頃から海や船が近くにあって、わけても灯台に惹かれただけです。海に向かってまっすぐに立っている姿が、子ども心にも凛々しくてね。スケッチをしに行ったり、プリズムのような昼の光源部を観察したりして遊んでいました。それに、この街に住んでいる多くの人と同じく、私の家系も漁師をしていましてね。親や親戚から、全国の灯台についての物語を幼い頃から聞かされて育ったというわけです」

「物語、ですか」

「はい。灯台には、それぞれの物語があります。私が若かった頃はとくに、物語が大切にされていました。船乗りたちは海図を読むよりも、船で通りすぎる岬の位置関係を、物語で憶えていたのです。どんな灯台にも、ひとつは物語がありました。私はその物語を、船乗りたちから聞いていました」

 気がつくと山田は、すっかり峰松の話に惹きこまれていた。

 そして子どもの頃、釣りが好きになったきっかけを思い出した。山田の祖父も、同じく下田の漁師だった。引退後は、よく孫を釣りにつれていってくれた。釣るという行為もおかげで大好きになったが、祖父から聞く物語に夢中になったものである。

 たとえば、魚にまつわる話――どこからやってきてどんな風に育ち、どう料理すると美味しいのか――や船乗りとしての冒険談。きらめく水面や水平線の向こうに広がる、目に見えない世界について想像をふくらませる時間が、山田はなにより好きだった。

「ある岬の灯台には、こんな物語がありました。灯台守が長年その灯台に住みつく野良犬と散歩していたら、とつぜん犬が崖から数メートル下の岩場に落ちてしまった。困ったことになったと崖下を覗くと、犬は途方に暮れて自らの死を悟った顔をしている。しかし灯台守を名乗る者は、命の重みを知っています。諦めずにロープをつたって崖を降りていき、犬を抱きかかえました。すると足元に、不思議なかたちの骨が落ちていたので、正体は分からないけれども、記念に持ち帰ることにした。その後、たまたま灯台にやってきた地元の大学教員に見せると、なんと白亜紀の恐竜の化石だと判明したんです。以降、その岬では恐竜の化石探しがブームになったのだとか、ね」

 峰松の語り口は、彼の酒の飲み方に似て、抑揚がほとんどない代わりに、滞りなくてなめらかだった。ふだんは口数の多い円花が黙っているところを見ると、彼女も惹きこまれているようだ。とはいえ、グラスはちゃっかり空になっているけれど。

 どうしてそんなに話が上手なのだろう――。

 そう考えていると、峰松の方から答えを明かしてくれた。

「灯台守になると、そうした物語の重要性を改めて実感しました。灯台守というのは、光を発することが仕事でも、自分たちの暮らしは闇のなかにあります。とくに私が若かった頃は今ほど電力も安定せず節約しなければなかったので、夜になれば、あらゆるものに闇がつきまといました。シケがつづいて運悪く電気が途絶えると、昼も夜もありません。闇のなかで料理をして、食事をして、身体を洗います。電話線も現代のように便利ではなかったので、励まされるのは家族との時間や、ともに生活をしている別の灯台守との他愛もないおしゃべりでした。そうなると自ずといい語り部が育つわけですよ」

 峰松は押し殺した声で笑うと、「ほら、ああいうふうに」と本棚を指した。

 ふり返ってよく見ると、世界の灯台を紹介する専門書や、灯台守の体験記などが並ぶなかで、二冊のなつかしい古典が異彩を放っていた。

「あそこに『宝島』と『ジキル博士とハイド氏』があるでしょう? あの二冊を書いたスコットランドの文豪スティーブンソンは、父親や祖父をはじめ一族は代々灯台設計技師なんです。日本の灯台の父ブラントンも、エディンバラにあるスティーブンソン社から技術を学びました」

「へー、灯台技師の一族なのに小説家になったんだ」

 円花は本を手にとり、ページをくりながら言う。

「父親は息子に、灯台技師になってほしくて、エディンバラ大学で土木工学を勉強させていたのに、詩や物語の執筆に夢中になったんです。でも私たち灯台守からすれば、仕方のない成り行きだと思いますね。なんせスティーブンソンの小説には、灯台設計士だった父親と各地の海岸を遍歴し、灯台守たちと交流した経歴が、色濃く反映されていますから」

 やがて店主がフィッシュ&チップスを運んできた。皿には近海で獲れた真鯛の大きなフライに、フライドポテトが添えられている。ファーストフード店で売られているポテトとは違い、皮付きの肉厚なじゃがいもだ。香ばしい湯気に、空腹を強く感じた。

 いただきます、とナイフでフライを切り分けると、白くてつややかな身が現れる。一口食べれば、衣によって閉じこめられた旨味がいっぱいに広がった。真鯛を揚げるなんて贅沢だが、刺身や寿司ではない食べ方も美味しいではないか。

 訊けば、揚げ物の生地は本場の調理法にならって、下ごしらえにビールを用いているという。また英国製のモルトビネガーも皿と一緒に出されており、サラサラとかけてみると濃い紫ではなくキツネ色で、揚げ物がさっぱりとした味わいに変化した。この味を、日本に灯台をもたらしたブラントンや、小説家のスティーブンソンも愛したのだろう。遠い異国に想いを馳せながら、その味を心に刻んだ。

 円花も下田の魚介が盛りだくさんの英国風カレーに満足した様子で、食後の一杯をおかわりしていた。

 

 全国津々浦々の灯台で勤務してきた峰松だが、神子元島灯台での職務は、わけても苛酷だったという。無人島なので十日ごとの交代勤務で、その分の食糧を持参した。しかし天候が悪化すると、船をつけることができなくなり、連絡用の無線も使えず、完全に孤立する。悪天がつづいて期限を何日もすぎ、食料が底をついてしまうと危機が迫った。

「台風がくるとね、官舎は浸水してしまうから、灯台のなかに避難するわけです。いよいよ海が荒れてくると、灯台が沈むほどの大波が襲ってくる。突然、それまで轟音を立てていた海風が静まりかえって、沈黙に支配されるんです。つまり自分のいるところが、水中にすっぽり潜ったってことです。その無音がとにかく恐ろしくてね」

 いつのまにか店内の音楽は止まっていた。もともと曲が流れていたかどうかも思い出せなかった。

「辞めようと思ったことはなかったの?」

 円花が臆せず訊ねると、峰松は「ありますよ」と即答した。

「別の灯台で勤務していた頃、そういう時期もありました。海はときとして、予測できない狂暴さを持っています。まるで大きな獣が獲物をしとめるように、容赦なく人に襲いかかってくる。でも私たちの仕事は、それでも光の面倒をみつづけることなんです。定年まで勤められたのは、そんな海の危険さゆえに、灯台のおかげで救われたと言ってくれる人が少なからずいたからでしょうね」

 するとカウンターの奥で話を聞いていた店主が、こう補足する。

「僕も含めて、港町に暮らす人々にとって、灯台守の存在はなによりありがたいものでしたからね。それこそGPSがなかった時代は、灯台があるおかげで父や夫が海から無事に帰ってこられた。そんな意識が強くあったんですよ」

 油断ならざる海岸線や岩礁を転々とつなぎ、何世代にわたって築かれてきた光の列を、山田は窓越しに見つめる。海や船は動きつづけるが、灯台はずっとそこにいる。だからこそ海に放たれる光は、つねに人々を導き、報せ、慰め、戒めてくれる。

 技術的な質問にもひと通り答えてもらったあと、丸吉が行なっている灯台の保存プロジェクトについて話題が及んだ。峰松は丸吉と信頼関係を築いている様子だった。丸吉がいたからこそ、灯台を取材することにしたと話すと、興味深そうに肯いた。

「山田さんは若山牧水わかやまぼくすいだったわけだ」

「というと? 戦前の詩人でしたっけ」

「彼の友人は、神子元島灯台で灯台守をしていたんですよ。牧水は友人に招かれて島に何日か滞在し、そのときの体験を作品にして発表しています。きっと彼らはお互いに、自分のやっていることが役に立って嬉しかったでしょうね」

「おじいちゃん、いいこと言うね! どんなに離れていても、認め合ってる仲間っていいもんだよね、うんうん」

 見ると、円花のグラスはまた空になっていた。

 

 5.

 

 喫茶店〈ライトハウス〉を出たのは、午後九時を過ぎた頃だった。

 山田と同じく、円花も峰松から聞いた話に、ずいぶんと心を動かされたらしい。今回とりあげる〈技〉は、灯台そのものではなく、灯台守の〈技〉に焦点を当てた内容にしてはどうか、とホテルに戻るタクシーの車内で話し合った。神子元島灯台の歴史と、それを長いあいだ守っていた〈技〉を紹介するのだ。

「よーし、これで思い残すことなく東京に帰れるね」

 赤い顔をして、達成感にあふれている円花とは対照的に、心は晴れなかった。

 ぼんやりと窓の外を眺めていると、円花にツンツンと肩をつつかれる。

「さては、丸吉さんのことを気にしてるね? そんなに申し訳なく思ってるなら、丸吉さんにもう一度連絡してごらんなよ! 牧水だよ、牧水! 滞在は明朝までなんだから、今っきゃない。やるっきゃないよ!」

 やるっきゃないって昭和の死語なのでは――と内心ツッコミながらも、酔っぱらって余計に威勢がよくなった円花に、つい背中を押される。

 ホテルに到着してから、丸吉に電話をかけて礼を伝えた。

「わざわざ連絡くれなくてもよかったのに」

 そう言いながら、迷惑そうな声色ではなかった。やがてこちらに言いたいことがありそうだと察したのか「せっかくだから、うちに来る? 子どもは寝たし、少しだけなら」と思いがけない誘いを受ける。

「本当にっ? ありがとう、今すぐ行くよ」

 思わず、スマホを持ちかえていた。


 

(第16回へつづく)