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 午前八時三十分。

 二十畳以上ある別荘のリビングルーム――譲二はソファに座り、朝の情報番組を観ていた。

 番組では「ちょこれーと屋さん」の爆破事件を取り上げていた。

 この時間帯にテレビを観るのはひさしぶりだった。

 いつもなら仕込みしたボンボンショコラを直美とともにショーケースに並べている時間だ。

「ちょこれーと屋さん」が歌舞伎町からなくなったことが、譲二はいまだに信じられなかった。

 直美は昨夜のうちに別荘を出て、都内に戻っていた。

 テーブルの上のスマートフォンが震えた。

 譲二はスマートフォンを手に取り、ディスプレイに視線を落とした。



 無事だから心配しねえで、自分の準備を始めろ



 LINEに着信したのは直美からのメッセージだった。

 譲二は通話のアイコンをタップしようとした人差し指を宙で止めた。



 ――にっちもさっちもいかねえ急用以外は、電話するんじゃねえぞ。どこで海東の犬が嗅ぎ回っているかわからねえ。おめえも的にかけられてるっつうことを忘れるな。

 昨夜、風呂から出てきた直美が開口一番に譲二に釘を刺した。

 ――トバシの携帯とか持たないんですか?

 ――馬鹿野郎っ。身を潜めてるだけでも脳みそ爆発しそうなのに、携帯まで捨てられるか! 

 ――だからって、海東が番号を知ってる携帯を持ち続けるのは危険ですよ。

 ――位置情報は切ってあるから安心しろ。

 ――そういう問題じゃないですって! 海東からかかってきたらどうするんですか!?

 ――あ? 出るに決まってるだろうが。

 ――だめですよ! そんなことしたら海東の罠に……。

 ――サバンナから出て行くだけでも、俺にとっちゃ耐え難い屈辱だ。ライオンがハイエナに縄張りを譲ってやるようなもんだからな。これ以上の屈辱を俺に味わえっつうのか?

 直美の気持ちを考えると、返す言葉がなかった。

 ――心配すんな。俺も馬鹿じゃねえ。海東に尻尾掴まれるようなドジは踏まねえから安心しろ。それより、明後日にゃベルギーだ。荷造りしとけよ。



 荷造りはもう終わりました。直さん、「東神会」の連中にみつからないように気をつけてくださいね。



 電話することを思い止まった譲二は、LINEメッセージを送信した。



『店を爆破されたチョコレート専門店の経営者は、元「東神会」の構成員だったらしいですね。神谷先生、海外のマフィア映画に出てくるような事件ですよね』

 局アナのMCの言い回しに、譲二は腹が立った。

『日本のヤクザ同士の抗争で使用されるのは拳銃が主で、爆破は珍しいですね。日本のヤクザが欧米のマフィア化してきたと言ってもいい由々しき事態です』



「ヤクザ同士の抗争じゃないって。直さんは堅気だし。お前は知ったかぶりしてないでドンパチ小説でも書いてろ!」

 利いた風な口をきくコメンテーターの小説家・神谷に、譲二は毒づいた。

『ということは、チョコレート専門店の経営者と「東神会」の間で、なにかトラブルがあったということでしょうか? でも、「東京倶楽部」という半グレ組織の少年が新宿署に自首してきたので、トラブルがあったとすれば「東神会」ではなく「東京倶楽部」ではないでしょうか? 神谷先生はどう思われますか?』

 MCが神谷の意見を求めた。

『ヤクザの常套手段ですよ。正式な組員ではない未成年の準構成員なら罪も軽くなる。少年院から出てきたら、幹部候補生として迎え入れるという口約束をしているのでしょう』

 神谷がしたり顔で言った。

『では神谷先生の推理では、今回の爆破事件は経営者の元組員と古巣の組とのトラブルということですね?』

『そう考えるのが妥当でしょうな』

 神谷が頷いた。

『やだ、ヤクザ同士の抗争なんて怖いわ。また同じようなことが起こるかもしれないということですよね?』

 別のコメンテーターの女性芸人が、両腕を肩に回して震えてみせた。

『それは十分に考えられますね。目には目を歯には歯を、がヤクザの流儀ですからね』



「だから直さんはヤクザじゃないって!」

 訳知り顔の神谷に譲二は突っ込んだ。

 不意に譲二は不安に襲われた。

 もしかしたら直美は……。



 ――俺が動くことで無関係の人間を殺しちまった。余計な心配しねえでも、もう海東にはかかわらねえから安心しろ。



「直さんが約束してくれただろ」

 譲二は直美の言葉を思い出し、自らに言い聞かせた。



『もう、嫌だわ。そういう人達を早く取り締まって貰わないと、安心して出かけることもできません』

 女性芸人が怯えた表情で言った。



「直さんを海東と一緒にするんじゃ……」

 バイブレーション――譲二の右手が条件反射的にスマートフォンに伸びた。

 ディスプレイに表示される「腐れ刑事」の文字――直美ではなくため息を吐いた。

『いまどこだ?』

 通話のアイコンをタップするなり、下呂の痰が絡んだような声が上部スピーカーから流れてきた。

「なんであんたに教えなきゃならないんだ」

 譲二は素っ気なく言った。

『お前、まだ俺を疑ってんのか? この前、直と和解してミクちゃんも約束通り救出したじゃねえか?』

「あたりまえだ。こないだまで海東に尻尾を振っていた男だ。また、いつ寝返るかわかったもんじゃない。だいたいミクちゃんの誘拐監禁でムショにぶち込んだのは下っ端ばかりで、海東を逮捕しないのはなんでだよ! 俺と直さんは約束通り、あんたが海東と倉庫にいたのはミクちゃんを救出するための潜入捜査だって証言したじゃないか!」

 譲二は不満を下呂にぶつけた。

『まあ、そう熱くなるなって。物事にゃ順序ってもんがある。いろんなとこに太いパイプを持ってる海東を仕留めるには、慎重に進めなきゃならねえ』

「あんたはその眼で野崎さんが殺されるのを見たし、ミクちゃんが監禁されてナイフを突きつけられている映像も見ただろう!? あんたが上司に報告すれば、逮捕令状を取れるだろうが!」

 譲二の不満と疑心は止まらなかった。

 自分も目撃したにもかかわらず、海東の逮捕に踏み切らない下呂に不信感が募っていた。

『そんな単純な問題じゃねえんだよ。警察は縦社会だ。上からの命令に絶対服従しなきゃならねえが納得できることばかりじゃねえ。でもときには納得できねえことにも従わなきゃならん。海東がパイプ使って署長に圧力かけて、微罪で釈放されたらどうするんだ? あ? もう同じカードじゃ、奴をブタ箱送りにはできなくなるんだぞ!? そこんとこ、わかってんのか!?』

 下呂がいらついた口調で捲し立てた。

「じゃあ、どうする気だ!? このまま、指をくわえて見てるだけかよ!」

 いら立ちでは譲二も負けていなかった。

 海東のせいで直美は恩師を失った。

 海東のせいで直美は無関係の人間を巻き添えにした。

 海東のせいで直美は夢の城を失った。

『そんなわけねえだろ? だからこうやってお前に電話をしてるんじゃねえか』

 下呂が恩着せがましく言った。

「どういう意味だよ?」

『捜査機密だが、特別に教えてやるよ。明後日で海東は終わりだ』

「海東が終わり!?」

 譲二はスマートフォンを耳に当てたまま、ソファから立ち上がった。

『おう。情報が入った。明後日、海東は「東神会」の息のかかったホストクラブである取り引きをする。そこを現行犯で押さえるつもりだ』

 下呂が得意げに言った。

「ある取り引きって?」

『そこまで言うわけねえだろ! とにかく、ムショに五年は繋いでおける犯罪だ。逮捕してから野崎の件やミクちゃんの件、ほかの埃も全部叩き出せば十五年は娑婆の空気を吸えねえはずだ』

「それは本当なんだな!?」

 譲二は念を押した。

 下呂の言葉に偽りがなければ、それに越したことはない。

 海東が檻の中に入れば直美も危険な真似は……。

 譲二は、ふと危惧の念を抱いた。

『この状況でおめえに嘘を吐いて……』

「どうしてこんな大事な話を俺にした?」

 危惧の念を打ち消すために、譲二は質問した。

『どうしてって、おめえと直にゃ新宿署で証言して貰った借りがあるからな。これで借りは返したぜ』

「ちょっと待てよ! ということは、この話を直さんにもしたのか!?」

 譲二は電話を切ろうとする下呂を呼び止め質問を重ねた。

『ああ、あたりめえだ。おめえより先に話すに決まってんだろうが』

 下呂の返答に、譲二の危惧の念が膨らんだ。

「いつ……いつ、話したんだ!?」

 譲二の大声がリビングルームに響き渡った。

『おいおい、なに興奮してんだよ?』

「いいから、直さんに海東の取り引きの情報をいつ話したか訊いてるんだよ!」

『わかったわかった。いま教えるから落ち着けや。三、四日前だったかな』

「三、四日前……」

 譲二は息を呑んだ。

 高鳴る鼓動――危惧の念が急速に膨らみ続けた。

 突然直美に渡された航空券――ベルギー行きの飛行機は明日のフライトだ。

 嫌な予感が、確信に変わりつつあった。

 直美は譲二を巻き込まないために、ベルギー行きを急がせたのか?

 もしそうだとしたら、そもそも直美はベルギーに行く気はあるのか?

 まさか……。

 頭の中を支配しようとする不安を、慌てて譲二は打ち消した。

『なにか都合の悪いことでもあんのか?』

 下呂が訊ねてきた。

「どうして、直さんに言うんだよ!」

 譲二は下部スピーカーに怒声を吹き込んだ。

『なにを怒ってるんだ、おめえは?』

「直さんがそんな情報を知ったら、海東になにをするかわからないのか!」

『おいおい、待ってくれ。いまさら直が海東に復讐するわきゃねえだろう? 現に直は言ったんだ。海東を逮捕してもいいってな。お前も聞いてただろうが?』

 下呂が呑気な口調で言った。

「あんた、そんなこと本気で信じているのか!? 直さんの気性を知ってるだろうが! 海東を目の前にして、おとなしくしていると思うか!?」

『チョコパンチ坊や、人は変わるもんだ。野崎と青果店のじいさんの死が相当に応えたんだろうよ』

 やけにあっさりしている下呂に、譲二は違和感を覚えた。

 下呂は人を信用するような男ではない。

 とくに直美にたいしてはそうだ。

 過去に直美には何度も痛い目にあわされてきたのだ。

 もしかして下呂は、なにかを企んでいるのか?

 そもそも海東の情報を事前に直美に教えるのは不自然だ。

 百歩譲って教えるにしても、譲二と同じタイミングでないことが気にかかる。

 三、四日遅れて譲二に伝えたのは、直美だけに伝えると事件のあとに下呂が唆したのではないかと疑われるから。

 海東襲撃を……。

「あんた……変なことを企んでるんじゃないだろうな?」

 掠れた声で、譲二は下呂に訊ねた。

『変なことってなんだよ?』

「直さんにわざと海東の情報を流して、襲わせる気じゃないのか?」

 譲二は危惧を口にした。

『勘弁してくれ。邪推するのもいい加減にしねえか。海東を逮捕できるのに、なんでいまさらそんなことしなきゃならねえんだよ』

 冷静な口調で諭して聞かせるのも、下呂らしくなかった。

 いつもの下呂なら、怒鳴りつけてきただろう。

 そんな下呂の言動が、譲二の危惧の念に拍車をかけた。

「あんたにとっちゃ、海東は生きてては困る存在だ。ムショに入っても十年……いや、早ければ七、八年で出てくるかもしれない。当然、海東はあんたを恨んでるだろうし、あんたも報復を恐れている。だから直さんを利用して海東を消そうと考えた。海東が殺され、直さんが殺人犯としてムショに繋がれる。目障りな二頭の獣が潰し合って目の前から消えてくれるのが、あんたにとって最高のシナリオじゃないのか?」

『おいおいおいおい、そんなに俺を悪者にしてえのか? おめえは小説家の才能があるぜ。万が一、俺がおめえの言うようなシナリオを描いてたら、海東の情報は直にしか教えねえはずだ。おめえに教えたら、いまみてえに邪推して俺に難癖をつけてくるからな。だが、俺はおめえにも教えた。これがなによりの証拠だろうが』

 呆れたように下呂が言った。

「俺に教えたのは、大事件になったときのための保険だろう! 直さんだけに捜査情報を流していたらあんたが裏で糸を引いたんじゃないかと疑われるが、俺にも流していたら捜査に協力して貰ったお礼だと言い訳ができるからな!」

 譲二は怒りを下呂にぶつけた。

 せっかく異国の地で人生をやり直そうと決意していた直美を、ふたたび修羅場に連れ戻そうとする下呂のことが許せなかった。

『おめえにも捜査で借りがあるから、今日の暴言は許してやる。明後日にゃ海東を檻の中にぶち込むから安心しろ。とにかく、お前にも伝えたからな』

 下呂は一方的に告げると電話を切った。

「もしもし!? おい! もしもし!? くそっ!」

 譲二はリダイヤルコールをしようとした指先の動きを止めた。

 下呂に怒りをぶつけている暇はない。

 譲二は思い直し、直美の携帯番号をタップした。

『オカケニナッタデンワハ デンゲンガハイッテイナイカ デンパノトドカナイバショニアルタメ……』

 譲二は電話を切り、直美の携帯番号をリダイヤルコールした。

『オカケニナッタデンワ……』

 譲二は舌打ちをし、三度、四度、五度とリダイヤルコールを繰り返した。

 すべて音声案内が流れた。

 海東がある取り引きのためにホストクラブに現れるのは明後日だ。

 まだ直美を止める時間はある。

 譲二は手早く着替え、スマートフォンと直美から預かった一千万の入ったレジ袋を手に玄関に向かった。

 譲二は沓脱ぎ場で足を止めた。

 どこに行く? もう「ちょこれーと屋さん」はないんだぞ?

 春江のいる「歌謡曲」?

 いや、これ以上誰かを巻き込みたくない直美が、顔見知りのところに身を潜めるはずがない。

 ホテル、ネットカフェ……。

 宿泊施設を利用しているとすれば、軒数が多過ぎて二日では捜し切れない。

 どうすればいい?

 焦燥と不安が競うように背筋を這い上がった。

 一つだけわかっていることは、ここにいても問題は解決しないということだ。

 譲二は勢いよくドアを開けて飛び出した――潮風を切りながらタクシーが行き交う通りへと全速力で走った。

(第23回へつづく)