第四章  灯台  toudai

 

 2.(承前)

 

 伊豆急下田の改札を出ると、潮の香りのする湿度の高い風に包まれた。分厚い雲がかかっているが、雨は止んでいる。都内では外に出るとジリジリと焼けるような暑さだったが、山から吹きおろす風のおかげで涼しい。車の交通量も少なく、ゆったりとした平穏な雰囲気で満ちている。

 久しぶりに歩く町並みは、昔とさして変わっていなかったが、記憶よりもどこか小さくなったように感じた。

 下田市は、日によって時間帯によって表情の変わる魅力的な浜辺や、柳と川に象徴される趣ある街並みで知られる。しかし近年、若年層の流出がつづき、山田がいた頃に約三万人あった人口は、今その三分の二に減っていた。

 市役所は駅前すぐの場所にあり、一階の窓口では多くの市民がさまざまな手続きをしにやってきていた。入口近くで待ちながら、時折聞こえてくる方言は、なにより山田に「帰ってきた」という感覚を抱かせる。

 やがて同世代の男性がカウンターの奥から現れた。水泳選手だった頃と変わらず、がっしりとした肩幅だが、最後に会ったときに比べれば、全体的に横に大きくなっている。昔見慣れていたジャージ姿ではなく、白いシャツに灰色のパンツという公務員らしい服装も、すっかり板についていた。SNSを通じて、近況を知っているつもりではいたが、会ってみるとブランクの長さを実感する。

「おぉ、丸ちゃ――」と口をひらこうとしたとき、相手がこちらに気がついた。

「久々の下田にようこそ、山田くん」

 山田は一瞬固まった。ずっと「山ちゃん」というあだ名で呼ばれていたのに、「くん」になっている。しかも表面的には歓迎しているようで、ずっと帰らなかったことを、チクリと刺してきたようにも聞こえた。丸吉とわだかまりができてから、すっかり下田から足は遠のいていた山田は、地元の他の友人との交流も絶っていた。丸吉はそのことを知っているのだろうか。

「あ、ありがとう。半日時間をとってもらって、本当に助かるよ」

 敬語を使うべきかを迷いながら、社交辞令的な言葉が口をつくが、あとがつづかない。山田はSNSを積極的に使っていないので、新聞社に就職したあとどうしていたかを、丸吉は知らないはずだ。脳内シミュレーションでは、お互いの近況や風貌の変化について、まずは話題にすることになるだろうと踏んでいたが、実際はそんな空気ではなかった。

 気まずさを埋めるように、山田はとなりにいる円花を紹介する。社会人らしく名刺交換する運びとなった。丸吉の名刺には「観光課」と記され、灯台保存プロジェクトのロゴマークがついていた。丸吉は山田ではなく、円花に向かって説明する。

「このプロジェクトは、見学できる灯台での実務を担当している公益社団法人と、海上保安庁が立ちあげたものですが、今は市の観光課も関わっています。あとで詳しく説明しますので、こちらにどうぞ」

「はーい、ありがとうございます!」と、円花はいつも通りの調子で答える。

 案内されたのは、市役所内の会議室だった。海上保安庁の職員と船着き場で待ち合わせている夕方四時まで、まだ一時間以上ある。それまでに灯台の歴史や、島に上陸するときの注意事項を説明すると言われていた。

 まずは普段、観光客向けに配布しているパンフレットを手渡される。

 それによると、神子元島灯台は下田港から十一キロほど南下した、周囲約四キロの無人島にあるという。イギリス、アメリカ、フランス、オランダの四ヶ国とのあいだに条約が結ばれたことをきっかけに、いち早く着工された一基であり、明治三年に初点灯した。

「あの! 早速ですが、質問してもいいでしょうか」

 山田が資料を読みおわらぬうちに、となりの円花が挙手をした。

「今日は灯台を見学させてもらったあと、ご紹介いただいた元灯台守の方に取材に行く予定ですが、常駐する方はもういらっしゃらないんですか?」

「ええ。一九七〇年代半ばからは自動的に、日が沈めば点灯し、日が昇れば消灯するようなシステムが導入されました。でもお二人に紹介した元灯台守の方は、今も海上保安庁から派遣されて定期的にメンテナンスしに訪れていますよ。無人灯台になる前は、職員が交代で常駐していたそうですけどね」

「へー! あ、でも島内には、まだ官舎が残されているんですね」

 円花はパンフを見ながら言う。

「それも今日ご覧になれます。今はソーラー発電のパネルが屋根に取りつけられて、自家発電できるようになっているんです。電力が供給されなくなっても、灯台の光が絶えることはありません」

 丸吉は慣れた口調で説明した。

 ――俺もなにか言わなくちゃ……しかもポジティブなことを。

 二人のやりとりを聞きながら、山田は必死に考える。

「このパンフだけど、丸吉くんがつくったの? 分かりやすくて勉強になるね! フォントも渋いし、これで観光客も少しは増えそう」

 口に出してから、「渋い」だの「少しは増えそう」だのいう言い方は決して褒めていないことに気がつき、激しく後悔する。山田は石橋を叩いて割るような性格でありながら、じつは緊張したときほど失敗しがちになる、という本番に弱い面もあった。

 しかし丸吉はとくに気にしなかったらしく「そうだよ」と肯く。

「このパンフは、僕が観光課に配属されて最初につくったものなんだ。今回、神子元島灯台が日陽新聞で紹介されると聞いて、課の同僚たちも楽しみにしてるよ。どういう紙面で掲載してもらえるの?」

 はじめて丸吉がこちらの状況に触れてくれたので、ようやく山田は円花と担当している連載について説明することができた。丸吉は、新聞社勤務といえば政治家に張りついて取材したり、刑事事件の真相を追ったりする仕事を想像していたらしく、文化部の仕事について興味深そうに耳を傾けていた。

 気をよくした山田は、こう断言する。

「丸吉くんの力になれて、こっちも嬉しいんだ。あれから連絡をしてなくて、ずっと気がかりだったから――」

 その瞬間、丸吉の表情がさっと曇るのが分かった。待てよ、「力になる」なんて、おこがましいにも程があるじゃないか! 力になってくれたのは、取材を引きうけてくれた相手の方なのに。しかも、いきなり昔の話をしたのも失言だ。悪気は一切なかったが、受けとめようによっては、かなり失礼である。

 慌ててフォローを考えていると、丸吉が気をとり直したように明るく言う。

「では、説明はこの辺りで終わりますが、またなにかあったら訊いてください。神子元島へは海上保安庁の船をお願いしたので、多少雨が降りそうでも大丈夫です。僕は職員の方を迎えにいくので、お二人は事前に伝えた服装に着替えていてください。この部屋は奥にお手洗いがついていますので、自由に使ってもらって構いません。では、のちほど」

 よどみなく説明を終えると、丸吉は会議室を出ていった。

 以前からテキパキしたやつだったが、職場でもきっと頼られているんだろうな――頭の片隅でぼんやり想像しながら、悲しさと情けなさが襲ってくる。丸吉がこちらに壁をつくっていることは、間違いないと思い知らされたからだ。

 

 3.

 

「山田らしくないね」

 丸吉がいなくなると、さっそく円花から指摘された。

「そうか?」と山田は力なく項垂れる。

「普段なら、取材先の人に力になれて嬉しい、なんて失礼なことは絶対に言わないじゃない。むしろ相手のガードを崩して切りこんでいくのは、私の役目でしょ? なんか調子狂っちゃうよ」

「やっぱり失礼だったか……」

 肩を落としながら、山田は大型のキャリーケースを開けた。

 漁師が着るような防水加工のつなぎと磯釣り用の長靴を取りだす。ライフジャケットも自前のものである。山田は普段、船釣りでこのような格好に慣れているが、円花は今回のために準備したらしく、お手洗いで着替えを終えたあと、テンション高めに記念撮影をしてくれとスマホを手渡してきた。

「この重装備、吉田松陰に見せたいね!」

「ああ、幕末に下田港からペリー艦隊に乗りこんで、アメリカに密航しようとしたんだ。よく知ってるじゃないか」

「船で出たとき、普段どおりの着物姿だったらしくて、きっと危険で苛酷だっただろうなと思ってさ。4月下旬のことだっていうけど、濡れたら寒いだろうし。相当な勇気がないと無理だよね」

 そんなことまで調べたのかと感心しつつ、円花の熱心さのおかげで、少しずつ元気をとり戻した。

 しばらくすると、出航の準備を整えたらしい丸吉が、海上保安庁の男性職員を連れて、会議室に戻ってきた。簡単に挨拶あいさつをして、全員で市役所を出発する。船着き場は山がすぐそばまで迫った湾内にあり、小型の漁船がずらりと並んでいた。

 静かな港を眺めながら、丸吉は独り言のように呟く。

「漁師もだいぶ減って、兼業ばかりになったよね。高齢化も進んだし」

「やっぱりそうなのか……」

 漁師の仕事を継がなかった自身の父のことを思い出しながら、山田は寂しさを抱くと同時に、自分もこの町から出ていった立場として、なんらかの責任を負っている気がした。地方創生や町おこしといった言葉をよく耳にするが、東京で聞くのと地方で聞くのとでは、まったく違った響きがあるのだろう。

 海上保安庁の船は十人乗りくらいで、ありがたいことに今日は特別に出航してくれた。三十分という道のりに、円花は「けっこう離れてるね」と身構えているが、船釣りに慣れている山田にとっては、一時間以上かけて沖に出ることも珍しくない。

 エンジン音が高鳴り、あっというまに半島が遠ざかる。

 タイミングを見計らって丸吉に近況を訊ねると、彼は地元で福祉関係の仕事をしている女性と結婚し、今では娘が一人生まれ、奥さんは今また妊娠中だと分かった。それを機に市内にマイホームを購入し、子育てに仕事にと日々忙しく過ごしているとか。どれもSNSでは知りえなかった情報だった。

「貴重な休みにごめんな」

「いや、大丈夫だよ。これが仕事なわけだし」

 仕事という一言に、またしても山田は距離を感じた。いや、気にしすぎかもしれない。

「あのさ、最後に会った夜のことなんだけど……」

 ずっと謝りたかったんだ――と、つづきを口に出そうと意を決したとき、「見えた!」という円花の声にかき消された。ふり返ると、遠くの方から少しずつ現れたのは、一基の灯台がそびえる岩礁がんしようだった。

「そう、あれが神子元島ですよ」と丸吉は歩みより、双眼鏡をのぞく円花に言う。

「よくぞ、あんな難所に!」

 円花はすぐさま双眼鏡からカメラに持ちかえた。

 建設の苦労については、事前に調べていた。

 ごつごつした岩肌に安定させるため、まずは頂上の岩を削りとり、平らな地盤をつくるところからはじめられたという。主な材料の伊豆石いずいしは、下田市内の岬から切りだされ、伝馬船てんませんと呼ばれる木造の小舟二艘で運びこまれた。精緻に積み重ねた石の目地には、日本初の速成セメントが使われている。建設にはのべ千人近い石工が二ヶ月間にわたって従事したという。

 いくつもの潮流がぶつかる波の高いエリアとあって、航海するだけでも一苦労なのに、どうやって石を運び入れたのか想像もつかない。少しずつ島に近づくにつれて、黒帯を二本締めた強者のような姿が、波の向こうにはっきりと現れた。灯台は島内でも一番高いところにある。

「美しい!」と円花はグラビア撮影でもしているように叫ぶ。

 神子元島灯台ははじめ白の無地だったが、霧のなかでもよく見えるようにと、竣工から十数年後に白と黒のボーダーに塗装されたという。

「孤島の灯台は、ボーダーが多いんだよね」

「そうなんだ?」

「大分県の水ノ子島みずのこじま灯台も、関門海峡にある白洲しらす灯台もモノクロの縞模様なんだ」

 カメラを構えながら、円花は言った。

 船が到着する頃には、日が傾きはじめていた。

 山田は円花のためにひそかに酔い止め薬を持参していたが、彼女は最後まで元気そのもので、男性職員にあれこれ質問したり、遠くから島を撮影したりしていた。むしろ山田の方こそ、丸吉との会話に気を遣いすぎたせいかヘロヘロである。

 船は釣り人たちが数名いる岩場に近接するが、桟橋の類はなく、比較的高さのちょうどいい地点に船を近づけて、エイッと飛びうつらなければならない。山田はバランスを失いかけるが、職員に手を貸してもらってなんとか上陸できた。一方の円花は、なにげに運動神経がいいらしく、楽々とジャンプして先に進んでいく。

「みなさん、無事に上陸できましたが、ここからが要注意です。慌てず気をつけて、僕のあとにつづいてください」

 男性職員に誘導されて、灯台につづくゴツゴツした岩の道をのぼりはじめる。

 雲はすっかり流れ去っていたが、風はずっしりとした重みを持って、身体に体当たりしてきた。気をつけないとバランスを崩して転倒しそうだ。靴底のスパイクソールが岩に当たる感覚を確かめながら、赤茶色の岩肌を一歩一歩すすんでいく。

 灯台の足元の台地には、さきほど円花が指摘した、旧官舎や事務所が残っていた。横幅二十メートルほどの一階建ての石造りだった。今では電気系統の装置がある以外はなにもないが、かつては二世帯が畳を敷いて暮らしていたという。

「ここは海抜が低いですけど、波が高いときはどうしてたんです?」

 円花の問いに、職員が答える。

「灯台のなかにも宿直室があるので、そちらに避難していたみたいですよ。ちなみに、この灯台は、七〇年代に起こった大きな伊豆沖地震にも耐えたんです。伊豆半島沖はよく台風の通り道にもなるので、古くから船の事故も多くて『海の墓場』と呼ばれるほどでしたが、この灯台はずっと光を照らしつづけてきました」

 いよいよ灯台に近づいて見あげると、ひっくり返ってしまうほどに高かった。全長二十三メートル。青空と青い海を背景に、まっすぐに立つ姿は神々しくもある。扉は固く閉ざされており、関係者以外はなかには入れない。

「うわー、フレネルレンズが美しい!」

 円花の言う通り、レンズのあるガラス張りの灯室が、地上からでもよく見えた。視界は三百六十度開けており、きっと灯室までのぼれば海面の波がつぎつぎに迫ってくるに違いない。直径三メートルにもなる、目玉にも似たデザインのガラス製レンズは、はるか彼方を見据えていた。

「もう少しで、点灯の時間ですね」

 丸吉が腕時計を見ながら言い、男性職員が肯く。

 すると、ぽつりと水滴が頬を打った。なみ飛沫しぶきがかかったのかと思ったが、さきほどまで晴れわたっていた空に、すごい速さで分厚い灰色の雲が流れていた。風も強くなり、荒々しい波はうねりとなって今にも這いあがってきそうである。

「す、すごい波だな」

 思わず弱腰になっていると、円花から「大丈夫、山田?」と心配されてしまう。海の近くで育った者として、頼りになるところを見せようと「ノー・プロブレム」と答える。すると円花は「強がらなくていいよ、私だって怖いもん」と肯いた。

「君にも怖いものはあるんだな」

 皮肉で言ってやったが、円花は「当然だよ」と冷静に答える。

「灯台の近くの海って、たいていこんな感じで表情が分刻みで変わるんだけど、見学した日の夜は夢で見たりするもんね」

「よく考えれば、海難事故が絶えない場所にこそ、灯台が建てられたわけだしな」

 すると円花が、しみじみと肯く。

「そうだよ。フランス人発明家のフレネルがレンズを考案することになったのって、有名な一枚の絵画がきっかけだって知ってた?」

「絵画がきっかけ?」

「同じくフランス人の画家、ジェリコーの《メデューサ号のいかだ》ってあるじゃない」

 教科書に載っている名画だった。遭難した男たちが、遠くの晴れ間に浮かぶ船に向かって筏から自分たちの存在を訴えている絵だ。瀕死の者もいれば、とうに命を落とした者も生々しく描かれている。とにかく残酷というか、腐乱臭が漂ってきそうなほどだった。

「そうか、実際の海難事故をモデルにした絵だもんな」

「あの絵が描かれたおかげで、世論が大きく動いて、悲劇をくり返さないために灯台建設やその技術向上が目指されたんだって。おかげでフレネルも、学術団体から資金が下りて、長年の夢だったレンズの開発ができたっていう」

 絵が描かれた十九世紀前半の灯台は弱々しい光で、せいぜい港の位置を目立たせるくらいの役割しかなかった。一方、フレネルレンズを備えた新しい灯台は、遠くまで航路を示した。その“光”が、ついに日本にまで届いたというわけだった。

 そのとき、灯室がパッと点灯した。

 光は、水平線の彼方までまっすぐに伸びていく。

 徐々に日が暗くなってきたことを感知し、一瞬で夜の姿へと変貌したのだった。回転をくり返す灯台が、まるで日没とともに目覚めたかのように、海原に向かって力強く自らの位置を主張しはじめた。

 神子元島灯台のレンズは、三十六キロ先まで光を飛ばすという。東京と横浜を結んだ直線距離よりも長いという計算だ。それほど長い光達を可能にしたのは、大きな電球を使っているためではない。むしろ電球は手の平に載るほどのものである。そうではなく、光の正体が粒子りゆうしではなく波だと見抜いたフレネルが、反射や屈折によって光達こうたつ距離を有効に伸ばす特殊なレンズを考案したおかげだった。

 山田と円花はカメラを持って移動しながら、さまざまな表情を捉える。

「はじめてこの時間帯に来ましたが、感動しますね」

 丸吉は自身のスマホを向け、男性職員が肯く。

「でしょう? 夕暮れどきの灯台は、何度見ても見飽きることはないですね」

 薄暮を迎えた空は、裾の方から天上へと色を変え、その色を海面が反射する。孤高に光を発する灯台は、岩場とともにシルエットになって、夜の闇に溶けていった。最後に残ったのは遠くまで届く、威厳に満ちた光だけだった。

 すばらしい絶景だ、と山田は思った。この絶景が、毎日のようにくり返され、世界のあちこちで見られるなんて。海と人という、本来相容れなかったつながりの、奇跡のような美しさを垣間見たような気がする。そして灯台が単なる航路標識だけではない、特別な魅力を秘めていることを確信した。


 

(第15回へつづく)