第四章  灯台  toudai

 

 1.



 夏のある朝、山田やまだが出勤すると、大量の資料に囲まれながら、コンビニの玉子サンドイッチを食べる円花まどかの姿があった。

「どういう風の吹きまわしだ? 君がこんなに早く来るなんて」

「早く来たんじゃなくて、まだ帰れてないんだよ」と言って、円花はボサボサの髪を整える様子もなく、大口をあけて欠伸あくびをした。最近社内では、残業時間を減らすようにという通達がくり返されているが、彼女に悪びれる様子はない。

「なんの記事を抱えてるんだっけ?」

「昨日の夕方、台東区のお寺で放火未遂があったでしょ。社会部の領域とはいえ、深っちゃんから文化部でも別角度から記事を書くように言われて調べてたら、底なし沼のようなお寺の歴史に迷い込んじゃってさ」

 さすがに目の下には疲れが滲んでいるが、愚痴っぽさは一切ない。どうやら歴史文化に関する調べものなら、楽しくて仕方ないようだ。放火事件に限らず、夜遅くまで資料室にこもって記事を書いている。土日に文化系のイベントや施設に行くと、必ず円花の姿を見かけるという噂もあった。

「原稿がうまく仕上がらなくて、ヒーヒー言ってるだけじゃないの? なんなら、また手伝ってやろうか」

 つい口先でくさしてしまう。円花は口をへの字に曲げて言い返してくる。

「そういう山田こそ、毎朝キッチリ九時に出勤してるわけ? 真面目すぎるってば。それとも深っちゃんへの点数稼ぎ?」

「点数なんて、考えるわけないだろ」

 反論したものの、痛いところを突かれていた。

 新人の頃は残業している周囲に気を遣い、無駄に机に座って時間をやり過ごしていたこともある。つくづく空気ばかり読む小心者な自分が嫌になるが、どうしようもない。実力がないという自覚があるからこそ、せめて勤務態度だけは悪くない印象を上司に与えたい。だから朝早くに出勤する癖がついてしまったのだ。

 パソコンを開いてメールボックスを開くと、十数通の未読メールがあった。大半は業務連絡や他部署との確認事項のやりとりで、そのうち三通の広告には船宿のメルマガが含まれていた。

 ――最近、釣り船に乗ってないな。

 通勤時間にスマホで確認した天気予報を思い出しながら、窓の外に広がる東京湾に目を向けると、屋内にいるのがもったいない釣り日和だった。波の高さはちょうどよく、空もかすかに雲がかかっているが雨の気配はない。そうだ、釣りといえば――。

「あのさ、円花」

「なに、まだ話?」と迷惑そうにこちらを見る。

「何日か前に、打ち上げのあと日陽にちよう新聞社の裏手で、七十代くらいの釣り人から君のことを訊ねられたんだ。君の知り合いで釣りが好きな人っている? 向こうは名前を名乗らなくて、気味が悪かったんだけど」

「えー、誰だろう?」

 円花は首を傾げつつ能天気につづける。

「この辺りの店でよく年上の飲み友だちができるから、近くに住んでるオジジかもね」

「酔っぱらった見ず知らずのオジジに、私は日陽新聞文化部の記者ですってわざわざ名乗ってるのか?」

 山田が眉をひそめると、円花は吹きだした。

「もうっ、警戒心が強すぎるんだから。自分から職種を名乗るわけじゃないけど、話の流れだったりSNSでつながったりするじゃない。最近じゃシニア世代との交流もSNSが便利だしね。それで私が記者だって知ったんじゃないかな」

「それだな! 君のインスタを見てストーカーになったんだ。少しは気をつけた方がいいと思うぞ」

「ストーカー? そんな世の中悪い人ばかりじゃないって」

 円花は笑い飛ばし、まったく忠告に耳を貸さなかった。

 しかしあの釣り人の物言いはただの飲み友だちにしては、どこか含みがあった。社の裏手の穴場までわざわざ釣りに来たりして、よからぬことを企んでいそうな気がする。つぎにあの人を見かけたら、こっそり写真を撮って送るので、どのような知り合いかを確認してもらうことにした。

 

 そのあと文化部内のグループ会議で、深沢デスクからこう言われた。

「君たちの連載は部長からも好評だから、積極的に企画書を出してほしい」

 連載をはじめるまでは夢にも見なかった賞賛に、山田は固まった。前回の漱石に関する記事にしても、元文学少年だった部長に気に入られたようだ。となりにいる円花は「もぅ、気づくの遅いよ」と満面の笑みで深沢デスクの肩を叩いている。一方の山田は、褒められると逆に嬉しさよりも気負いや不安をずしりと感じる性格である。

「なんだ山田、褒めてやったのに嬉しそうじゃないな」

「はぁ……自分でもこんな運よく順調にいくとは思ってなかったので……実力で褒められた気がしないというか」

「おいおい、面倒なやつだな。でも山田の言う通り、君らは本当に強運だよ。偶然に拾いあげたネタが、こんなに反響を呼んでるんだから」

「なになになにっ! 偶然じゃないよ、必然。実力ってこと」

 円花は反論するが、深沢デスクが評する通り、社内の企画展で取りあげた大津絵も、星野からネタを教えてもらった漱石も、これまでの当たりは偶然といえば偶然だった。被災地で活動する旧知の硯職人だけは、円花が温めてきた関係のおかげだが。

「ほら、山田! そんなに身構えてたら、縮こまった記事しか書けなくなっちゃうよ。どんどん行っちゃえばいいんだよ、遠慮せずにさ」

「行くってどこに」

「分からないけど、前進あるのみ」

 円花はひたすら前向きで、会議のあとも企画のアイデアが次々に浮かんでくる様子だった。プレッシャーを感じやすい豆腐メンタルの山田とは対照的に、期待されると俄然やる気になるなんて羨ましい限りである。

 持ち場に戻ってから、最近考えていた次のテーマを円花に提案してみる。

雨柳民男うりゆうたみおさんについての記事はどう?」

「うちのおじいちゃん? うーん、内輪ネタだし他に候補がないときにとっておきたい気もするけど。それに連載は〈技〉がテーマだからね。どうして急に」

 星野には表明していた「君のことをもっと知りたいのだ」という本音は、口が裂けても言えない。

「お互いに所縁ゆかりのある内容も、たまにはいいんじゃないかと思ってさ」

「そういうことなら、先に山田の故郷を取りあげるのが筋ってもんじゃない? たしか伊豆半島の下田市だったよね。知り合いに面白いことしてる人いないの?」

「面白いことって、ざっくりしてるな」

 と言いながら、山田の脳裏にある人物が思い浮かんだ。今では下田市役所に勤務しているあいつはたしか――。

「元同級生が灯台の保存プロジェクトに関わってるよ」

「東京大学じゃなくて、海岸から光を照らす、あの灯台?」

「決まってるだろ! ま、でも灯台なんて文化芸術から離れすぎか、忘れてくれ」

「いや、それだよ」

 円花は身をのりだして、顔を近づけた。瞳に光が宿っている。アンテナに引っかかったときの表情である。

「私、静岡支局にいたとき、よく休日に灯台めぐりしてたんだ。じつは静岡県ってすてきな灯台の激戦区だから。今ものぼれる御前埼おまえざき灯台もあるし、富士山と一緒に写真に収められる清水灯台もいいよね。山田はどの灯台が好き?」

 好きな灯台など考えたこともない。灯台は風景の一部でしかなかった。しかしよく考えれば、ひとつひとつデザインも立地も異なるし、光を照らす塔という共通項があるからこそ違いや個性が際立つものだ。

「まぁ、地元の灯台には愛着があるよな、それなりに」

 適当に答えると、円花は表情を明るくした。

「そりゃそうだよね! 伊豆の先端なんて、灯台の聖地だもんね。爪木埼つめきざき灯台や石廊埼いろうざき灯台の他に、なんと言っても神子元島みこもとしま灯台があるし」

「おいおい、なんでそんなに詳しいんだ?」

「へへんっ、私って灯台女子なの」

 胸を張って答える円花に、なんだそれは、と山田は狼狽うろたえる。歴女や山ガールというのは分かるけれど。音だけ聞けば、東大の女子学生を思い浮かべてしまう。

「つまり、灯台に萌えるってこと」

 円花は人差し指を立てて、こうつづける。

「灯台はね、船のために光を照らすだけじゃなくて、重要な歴史遺産でもあるわけ。古いものは明治初期に建設されたんだから。しかも岬や無人島の切りたった岩肌に、すっとそびえる孤高な塔のシルエット……力強くて美しいじゃない? GPSが普及した現代じゃ、管理費の節約や省エネの観点から絶滅の危機に瀕しているとも言われるけど、やっぱりロマンがあるよね」

「ちょ、ちょっと待って、灯台って絶滅しそうなの?」

 うっとりと両手を頬に添えている円花は、話を止めなければ延々とつづけそうな勢いだった。

「知らないの? それこそ大問題なんだよ! 今じゃ航海技術もデジタル化して、効率化が図られてる。灯台の運営もほぼ自動化されてるとはいえ、さらなるコスト削減で古いものは取り壊される運命にあるわけ。何十年先まで残っている確証はないんだよ」

「なるほどね」と山田は唸る。

 灯台というのはごく身近で、当たり前に知っている存在と思い込んでいたが、改めて考えると、その存続が危ぶまれているという事情も知らなかった。たしかに今の時代、陸のうえでも紙の地図を広げるのではなく、スマホのアプリで道筋を確かめるのが当たり前になっている。航路の決め方も進歩して当然である。けれども港町で育った人間にしてみれば、灯台のない岬や海岸なんて、ロウソクのない誕生日ケーキのように味気ない。

「君の言う『聖地』の伊豆半島のなかでも、どこかひとつだけ灯台を選ぶとすれば、どこがいいと思う?」

「いろんな観点があるけど、今回の記事にするなら、やっぱり神子元島灯台かな」

 山田にとっては、メジナやキンメ釣りのイメージが強い神子元島には、じつは明治初期につくられた重要な灯台があるという。ただし下田港から船で三十分ほどの孤島にあり、市内に住んでいた山田も足を踏み入れたことはない。

「神子元島か……行くとしたら、釣り船に乗るのかな。それにしても、灯台巡りって実際にはなにするわけ? ただ見にいくだけなんて、つまらないような――」

「やっぱり山田は、カチンコチンの石頭野郎だね」

 息を吐いて言われ、ムッとする。

「そう言う君は、失礼なやつだね」

「あのね、灯台の楽しみ方は数えきれないほどあるんだよ。灯台を目指してハイキングや軽い登山を満喫するのもいいし、景勝地の灯台で最高の一枚を撮るのもいいでしょ。他にも灯台自体のデザインに注目してもいいし、光の強さや色、点滅のパターンを分析したり、灯台守とうだいもりの生活に焦点を当ててもいいね」

 指折り数えながら、円花はつぎつぎに挙げていく。

「今回は〈日本の知られざる技へ〉がテーマなわけだし、前回の漱石の記事との関連を考慮すれば、下田市の神子元島灯台っていうのは、ぴったりな題材だと思うよ」

 山田はやっと円花の真意を理解した。

「近代の幕開けに貢献したからだな?」

「正解! 日本で最初の灯台がつくられたのは、明治時代だからね。それまでは火を焚いて舟に位置を知らせる灯明台はあったけど、木造なので耐久性も利便性もはるかに劣っていた。そこで明治政府から招かれたお雇い外国人が灯台設計の技術をもたらし、今あるような灯台をつぎつぎに生みだしたってわけ」

 円花いわく、わけても有名な技師がスコットランド人のリチャード・ヘンリー・ブラントンという人物だった。若い頃に祖国の技術を携えて来日した彼が、最初に設計に着手したものが、現存する最古の西洋式灯台、神子元島灯台だという。

「あれ、たしか日本で一番古いのって、横須賀の観音崎かんのんざき灯台じゃなかったっけ? それは俺でも知ってるぞ」

 山田が訊ねると、円花は得意げに答える。

「ふふっ、今の発言には、間違いがふたつあるね。まず観音崎じゃなくて、観音さきね。字が違って濁らないんだ。地名に山へんの崎の字が用いられていても、灯台の名前は土へんの埼の字にかえるんだよ。もうひとつの間違いは、観音埼灯台はたしかに明治初期にフランス人のヴェルニーが設計したんだけど、地震で二度倒壊して当初のレンガ造りじゃなくなってるの。その頃の〈技〉が今も残っているのは、神子元島灯台の方なんだ」

「そ、そうなのか……」

 灯台の「聖地」で育ったくせに、まったく知らなかったと山田は反省する。

「それにしても、港から離れた小さな島に灯台を建てるなんて、当時はさぞかし苦労しただろうな。シケで資材が流されたりもしただろうし」

「そりゃね。でもペリーの黒船がやって来たとき、まず開港の約束をさせたのが下田港だからね。神子元島への灯台建設はどんなに危険なミッションだとしても、双方にとって絶対に避けられないポイントだったんだよ」

「いろいろなドラマがありそうだな。よし、元同級生に連絡をとってみるか」

 スマホを手にとってから、山田はわれに返った。

 本当に大丈夫だろうか。もう円花には灯台以外の選択肢がなさそうだが、あいつが返事をしてくれるとは限らない。なんせ、五年前にあの一件があってから、まったく連絡をとっていなかったのだから――。

 

 2.

 

 東京駅から伊豆急下田駅までは、特急〈踊り子〉号で行けば、乗り換えがなくて便利である。しかし円花はわざわざ熱海駅で〈踊り子〉を下車し、伊豆半島の南下は鈍行にしたいと言いだした。地域のプロモーションのためにデザインされた〈キンメ電車〉か〈黒船電車〉に乗りたいのだという。窓の方に向かっている座席に座れば、伊豆の海もよく見えるうえに所要時間はそんなに変わらないから、と円花は熱弁した。

 しかも帰りは、一万円近くとられる豪華列車〈サフィール踊り子〉号だと決めていた。もちろん、足が出る分は自腹である。これまでの経緯から、“鉄分”たっぷりの旅程について山田はなにも言わなかった。

「あれー、雨じゃん。天気予報では午後も晴れになってたのにな」

 窓際に陣取った円花は、車窓を眺めながら悔しそうに呟く。

 線路は相模川さがみがわを越えた辺りから、海の間近に迫っていた。導入されてまもない新型車両のシートは伊豆の海と空をイメージしたらしく鮮やかな青色だが、実際に窓の向こうに広がる海面は、重たげな雲の灰色をうつしている。

「悪天候で船が出なかったら、またスケジュールを調整しないとね」

「え、あきらめないの?」

「あったりめぇよ!」と円花はなぜかべらんめぇ口調で、肘掛をバシバシと叩きながら答える。出張先ではオフィスと比べると、つねにテンションが一段階高くなるのだ。

「実際に島を訪れて、夕暮れの灯台っていう最高の被写体をとらえることが、今回の最大のミッションなんだから。そのためにわざわざ市役所にいる山田の元同級生に頼んで、海上保安庁の許可ももらったわけだし」

「でも再度お願いするのも気が引けるし、わざわざ島まで行かなくても、海上保安庁から写真や資料を提供してもらうこともできるんじゃ――」

「バカ言っちゃいけねぇよ! そんなの記者失格。なんだか今日の山田はいつにも増してスットコドッコイのコンコンチキだね。どうしちゃったの?」

 鋭い指摘だったので、山田は返答に詰まる。

「なになに、正直に話してごらんなよ。ここまで来たんだから、私とも情報共有しておいた方が地雷を踏まずにすむんじゃない?」

「そうだな」と息を吐いて、山田は白状する。

「じつは取材を引きうけてくれた元同級生とは、しばらく連絡をとっていなかったんだ」

 下田市役所に勤める同級生、丸吉洋平まるよしようへいは、一言でいえば幼なじみだった。両親同士の交流もあり、家族ぐるみで遊びにいくこともあった。小中学校ともに同じで、地元では一番の親友といってもいい。

 運動神経のよかった彼は、水泳に打ちこんでいた。とくに中学に入ると、水泳部のキャプテンとして練習に励み、県大会でも何度か優勝した。オリンピック選手を目指せる実力と賞賛され、地域ではちょっとした有名人でもあった。

 一方の山田は、下田に晩年よく滞在したらしい三島由紀夫に耽溺たんできするなど、体育会系とはあまり縁がなかったが、丸吉とはなぜか馬が合った。高校時代、丸吉は県内有数の水泳強豪校に進み、寮に入った。山田は下田市に残ったが、そのあとも友情はつづいた。丸吉が長期休暇で地元に帰ってくると、よく二人で堤防釣りに行ったものだ。

 かいつまんで話すと、円花は「へぇ、いいじゃない」とほほ笑む。

「今日はそんな親友と、久しぶりに再会できて嬉しくないの?」

「どうだろうな。もちろん、会いたくないわけじゃないけど、友情って環境や価値観によって変化するものだろ」

 大学時代、丸吉は左肩に大怪我をした。それ以来、同じ箇所の故障をくり返し、成績がぐんと落ちこんでしまう。水泳をやめると打ち明けられたのは、山田が就活に忙殺されていた頃だった。

 思い返せば、あの頃すでに二人には距離があったのだろう。山田が大学に進学したことを機に、実家も市外に引っ越していたので、わざわざ下田に帰る機会も減った。たとえ久しぶりに顔を合わせても、昔話ばかりで楽しさは半減し、別れてからどっと疲れを感じたときさえある。

 そしてお互いに就職が決まって間もなく起こった一件を境に、そのズレは決定的になった。

 あの一件さえなければ、二人の関係もそこまで悪化しなかったに違いない。

 灯台の取材を申しこむために、山田は半日かけてLINEの文面を熟考した。

 ――お久しぶりです。元気にしていますか? このあいだ、丸ちゃんが神子元島灯台の保存プロジェクトに携わっているってFacebookで知りました。じつは勤め先の新聞社で、神子元島灯台を取材したいと考えていて、よければ話を聞かせてくれないかな? 返事は忙しくないときで大丈夫です!

 絵文字も使った文面は、何度も書き直して完成させた。馴れ馴れしいのも、事務的すぎるのもおかしい。最後はだんだん疲れてきて、どうにでもなれという気持ちで送信した。既読マークがついたのは翌日の朝で、返事があったのはその翌日だった。

 ――お久しぶりです。取材の件、いいですよ。

 丸吉の反応は短く敬語で、やけに淡々としていた。しかし直後に、仕事のメールアドレスに取材を申しこむための段取りを送ってきてくれたので、山田はすぐに礼を伝えた。神子元島を訪れるスケジュールを決め、今に至る。

 不穏な感じもするが、気にしすぎかもしれない。

 山田は深く考えないようにして、下田に向かっていた。


 

(第14回へつづく)