人物紹介
仁美…高校二年生。町の祭りで起きた無差別毒殺事件で母を亡くす。
修一郎…高校一年生。医学部志望の優等生。事件で妹を亡くす。
涼音…中学三年生。歳の離れた弟妹を事件で亡くす。仁美たちとは幼馴染。
景浦エリカ…涼音の母。派手な見た目と行動で町では目立つ存在。
仁先生…仁美の父親。町唯一の病院の院長。
成富栄一…大地主で町では一目置かれる存在。町内会長も務める。
博岡聡…成富建設の副社長。あだ名は「博士」。引きこもりの息子・聡介を家に抱えていた。
音無ウタ…息子・冬彦が真壁仁のせいで死んだと信じこんでいる。
琴子…息子の流星と姑のウタと同居している。元新聞記者。
流星…小学六年生、ウタの孫。修一郎の妹と仲が良かった。
宅間巌…かつて焼身自殺した町民。小学生の間では彼の幽霊が出ると噂されている。
第十七話
「エリカさんと仁美の会話を録音? 相変わらず卑劣なことしてますね。それ、聞かせてくださいよ。今、ここで」
記者を挑発するように言葉をぶつける守を、仁美はハラハラしながら見つめる。余計なこと言わないでと怒鳴りつけたかった。あんなものがみんなに聞かれたら、もう終わりだ。
「いやいや、それはできませんよ。うちだけのスクープですから」
「やっぱりハッタリじゃないですか。行きましょう、仁先生」
「ちょっと待ってください。ハッタリなんかじゃありませんよ」
「だったら、聞かせられるでしょ。別にテレビカメラの前でとは言わないからさ」
「聞かせたら、うちの独占取材に応じてもらえるんですか?」
「それは内容によるよ。まずは聞いてからだ」
「……わかりました。おふたりにだけお聞かせしましょう」
「よし、じゃあ、他の皆さんはご遠慮ください。仁先生、家を借りますよ」
守に背中を押された父は言われるがまま、記者と三人でこちらへ向かって歩いてくる。道に突っ立っていた仁美も慌てて戻り、彼らを迎え入れる格好になってしまった。
「仁美、朝っぱらから悪いな。あ、スリッパとかいらないから。家に上げる必要ないよ。ここで聞かせてもらいましょう」
守はそう言って、玄関に立たせたままの記者を促す。庭では自警団のメンバーが、他のメディアの人間が入ってこないよう見張っているようだ。
もったいぶった仕草で記者はボイスレコーダーを取り出し、再生ボタンを押す。
昨夜のエリカの声が流れだすと、むせるような酒臭さが鼻の奥に蘇り、仁美は吐き気を覚えた。
「仁美、聞いて。私、本気なんだってば。仁先生のことが好きで好きでたまらないの。仁先生なしで生きてくなんて、もう考えられない」
呂律の回らない舌で父への愛を語るエリカの言葉を再び聞かされ、耳を塞いで叫び出したい衝動に駆られる。
盗み見た父の顔は色を失い、何も映していないような瞳は、処分できず玄関の隅に置かれたままになっていた母のつっかけサンダルに注がれている。そんな父の様子が吐き気をさらに強めたが、この場を離れるわけにもいかず、仁美は最後までなんとか堪えた。
「これで、おわかりいただけたでしょう?」
昨夜のエリカの言葉をすべてを聞かせ終えた記者は停止ボタンを押し、なんとも言えない得意げな表情で父の顔を覗き込む。仁美も祈るような思いで父を見たが、彼はなんの弁明もせず、目を伏せたままだ。そんな父に代わり、守が強い口調で記者に尋ねた。
「なにがです?」
「なにがって、決まってるじゃないですか、真壁先生と景浦エリカさんが不倫関係にあったということがですよ」
「不倫関係? 僕が聞く限り、酔ったエリカさんが仁先生への一方的な恋愛感情をぶちまけただけだと思うけど」
「いや、でも、どう考えたって……」
「エリカさんも酔って冗談を言っただけだって、不倫の事実を認めてないじゃないですか。この音声のどの部分が不倫の証拠になるんです?」
「すべてがそれを物語っているじゃないですか。彼女だって小娘じゃないんだ。当然、男女の関係だったからこそ……」
「それこそあなたの思い込みじゃないですか。そんなんでよく記者がつとまりますね」
「守さん、あなたのご意見はもう結構です。私は真壁先生に話をうかがいたい。景浦エリカさんは結婚を口にされていましたが、先生もそのおつもりだったんでしょ? それで奥さんが邪魔になって……」
黙ったままの父をかばうように立ち、守が声を荒らげる。
「仁先生に失礼なことを言うな! 帰ってくれ!」
「ちょっと待ってください。どうしてなにも答えてくれないんですか、真壁先生! 疚しいところがあるからでしょう⁉」
「疚しいところ? そりゃあるよ」
語気を強めた守に、記者は身を乗り出す。
「守さん、なにかご存じなんですか?」
「ああ。俺だけじゃなく、この町の人間なら誰でも知ってるよ。仁先生がエリカさんに強く出られないのは、彼女の子供たちを助けられなかったことを疚しく思っているからだって」
「は?」
「仁先生は優しいから、エリカさんに一方的に思いを寄せられて困っていたんだろう。そんな中、毒しるこ事件が起きて、彼女は幼い子供をふたりも喪った。責任感の強い仁先生は感じる必要のない責任と罪悪感を感じ、心の拠りどころを求める不安定なエリカさんを突き放すことができなかったんだ」
「いや、でも……」
反論しようとする記者を手のひらで制し、守は玄関扉を開ける。
「そういうことですから、お引き取り下さい」
背中を押された記者は、なおも父に向って質問を続けようとしたが、守はそれを許さず、「帰れって言ってるだろ!」と、乱暴に彼を叩き出す。
「こんなものを根拠に不倫の記事なんか書き立てたら、あんたを訴えるからな!」
外に待機していた自警団のメンバーに記者を引き渡すと、守はドアを閉め、大きく息を吐いた。
「仁先生、こういうことはこれっきりにしてくれ」
記者の質問にはなにひとつ答えなかった父が、その言葉に顔を上げ、「守君」とうめくような声を発した。なにか言おうとした父の言葉をさえぎり、守は続ける。
「先生は親父を助けてくれた恩人だ。いくら感謝してもしきれない。だけど、これだけは言わせてくれ。仁美と今の生活を守りたいなら……」
守はぐいっと顔を近づけ、父の耳もとでささやく。
「あの女とは二度と会うな。患者として病院へ来ても追い返せ」
静かだが有無を言わさぬ口調に、父は息を呑む。
「じゃないと、今手にしているもの、すべて失うことになるよ」
ずしりと重い言葉を残し、守は帰っていった。
しばらく呆然と立ち尽くしていた父が、ふいにハッと我に返り、ドアノブに手をかけた。
「お父さん、どこへ行くの?」
「病院へ」
「でも、まだマスコミがたくさん……」
大丈夫だというようにうなずき、出て行こうとした父の背中に仁美は声を震わせ尋ねる。
「お父さん、本当に、エリカちゃんと……?」
否定も肯定もせずドアを開けた父は、仁美と目を合わせることなくポツリとつぶやいた。
すまなかった、と。
確認しなくてもわかっていた。それでも、確認せずにはいられなかったのだ。
嘘であってほしいと、ずっとどこかで願っていたから。
「キモい」
昨夜、エリカにぶつけた言葉が再び口からこぼれた。仁美はそこにあった父のスニーカーをつかみ、今、彼が出て行った玄関の扉に思い切り投げつける。ぶつかって跳ね返ったスニーカーは落ちて転がり、母のつっかけサンダルに重なって止まった。ゴミ出しや近所に買い物に行くときに、母が愛用していた、エリカなら絶対に履かないであろうおばさんくさいデザインのサンダルが歪んで滲み、見えなくなる。いつしか涙があふれていた。
その日の昼過ぎにはもう、エリカがさらした昨夜の醜態は、町中に知れ渡っていた。
話して回ったのは守でも記者でもなく、昨夜、家の外まで出て遠巻きに見物していた近所のおばさんたちだろう。
そして、それ以降、町はエリカの噂で持ち切りとなった。
戦々恐々としていた仁美だったが、誰かに会うたび「大変だったね」と同情され、「仁先生がそんなことするはずないから」と慰められ、励まされた。
どこまで本心でそう思っているのかつかめなかったけれど、そのあとで仁先生は会長の命の恩人と、誰もが讃えるので、会長や守の手前、悪く言えないという空気を仁美は感じる。
たとえふたりが不倫関係にあったとしても、一方的にエリカが迫り、仁先生が押し切られてしまったに違いないから悪いのはエリカだと、父を擁護する向きもあった。
父が守られたぶん、おのずとエリカひとりが悪者にされ、あちこちで陰口を叩かれていた。もともと女性を敵にまわしやすい人だったので、おばちゃんたちがエリカを悪く言うのは想定内だったが、彼女に憧れ、ちやほやしていた男性陣までもがそれに加わった。
エリカを守ろうとする人間がいなくなってしまった背景は他にもあった。会長がエリカに多額の金を貢がされていたことが守の知るところとなり、激怒しているというのだ。
そんな中、涼音から電話がかかってきた。
どうしているか気になりながら、連絡することをためらっていた仁美は、勢い込んで電話に出る。
「涼音、大丈夫?」
「……仁美ちゃん、ごめんね」
弱々しい涼音の声に胸が締め付けられた。
「まさか、仁先生にまで……。千草おばさんにあんなによくしてもらったのに、私、どうやって謝ったらいいか……」
受話口から聞こえてくる声が、泣いているように震える。
「エリカちゃんだけが悪いわけじゃないし」
「ううん、悪いのはママだよ。ママが仁先生を……」
「だとしても、涼音は関係ないんだから、謝る必要なんてないよ。それより、大丈夫? 家にマスコミが押しかけてきてるでしょ?」
「うん。でも、それは仁美ちゃんのところだって」
「こっちは少し落ち着いてきた。男手がないから、そっちのほうが心配だよ。マスコミのヤツらもだけど、近所の人たちも……」
博士の家に放火した何者かが、涼音の家に同じことをしないとも限らない。
「涼音、ちょっと前に、二番目のパパが会いに来たって言ってたでしょ? あれ、なんの話だったの?」
「この町を離れて、一緒に東京で暮らさないかって」
それを聞いて、仁美の口から安堵の息が漏れた。
「よかった。そういう話だといいなって思ってたんだ。この騒ぎが落ち着くまではここを離れたほうが安心だよ」
「うん、でも、無理なの」
「無理って?」
「ママが断っちゃったから」
「えっ? なんで? どうして断っちゃったの?」
一瞬、言い淀み、涼音は続ける。
「ここに……、好きな人がいるからって」
仁美は息を呑んだ。脳裏にあの晩のエリカが、仁先生のことが好きで好きでたまらないと息巻く盛りのついた猫のような姿がよみがえり、肌が粟立つ。
「ごめんね、仁美ちゃん。でも、仁先生や仁美ちゃんには二度と迷惑かけないようにさせるから」
「……わかってないのかな? 今のこの状況。自分だけじゃなく、涼音まで危ない目に遭うかもしれないのに」
エリカは自業自得だが、なぜ涼音までと憤りを覚える。以前なら、ふたりでうちに避難してきなよと誘えたはずだが、今はそんなことが言えるわけもない。
「涼音のことが心配。ここにいたら、なにされるかわからないから」
「仁美ちゃん、ありがとう。あ、でも、防犯カメラ取り付けてくれたから、修一郎君が」
「ああ、そうなんだ。それはよかったけど……。ねぇ、心配して来てくれた二番目のパパ、優しくていい人じゃん。涼音だけでもそっちに行くことはできないの?」
「私とは血がつながってないし、ママも許さないと思う」
「でも、なにかあってからじゃ遅いんだよ。この前、守君に涼音の家の見回り強化してって頼んだけど……」
「守君……、怒ってるんだよね、ママのこと」
「あの話、本当なの?」
「わからないけど、離婚してからも、パパからお金もらってたときみたいに、エステ行ったり、買い物したりしてるから」
おそらくエリカの辞書には「我慢」という文字はない。資産家だった三番目の夫と別れてからも、改めることなく贅沢な暮らしを続けているのだとしたら、当然、支払いに困るはずだ。
エリカの自由で奔放な一面に惹かれ、自分の母親を堅苦しくてつまらないと侮ってきたが、仁美は今、痛感していた。あの他人の目を気にし過ぎる堅実な母親に育てられたことがいかに幸せなことだったかを。
そして、まだ中学三年生なのに、ずっとエリカの尻ぬぐいをさせられ、本来なら守ってくれるはずの母親のせいで、危険な状況に置かれている涼音を、心の底から気の毒に思った。
あれ以来、仁美は父を避けていた。
最初は母を裏切りエリカと関係していた父のことが許せず、気持ち悪いと思ったからだが、今はエリカだけを悪者にし、しれっと元の生活に戻ろうしている父に怒りを覚えていた。それは、エリカひとりが負うべき罪ではないはずだ。
仁美は父が帰宅する時刻になると、自室に引きこもり、食事も別々に摂る。父のほうも合わせる顔がないのか、仁美を咎めることなく、しばらくは会話のない生活が続いた。
そんなある晩、いつもより早く帰宅した父に驚き、急いで二階の部屋へ向かおうとした仁美は、背後から呼び止められた。
「仁美」
その疲れたかすれ声を聞いた瞬間、嫌な予感がした。
無視して階段を上りかけた仁美に、「今、病院から電話があって」と、父が告げる。
「博岡さんが……、亡くなった」
「えっ!?」
階段の途中で、仁美は足を止める。
父の口が動き、なにか言い続けていたが、言葉はもう耳に入ってこなかった。
「嘘だ……、嘘、嘘、嘘……」
口の中で同じ言葉を何度もつぶやきながら、ふいに糸を切られた操り人形みたいに、仁美はその場にしゃがみ込んだ。
博士の通夜は、市内の斎場で執り行われた。
父とともに訪れた仁美は、斎場をぐるりと取り囲むマスコミ陣の姿に、ぎくりと足を止める。仁美たちに気づいてマイクを手に走り寄ってくるリポーターたちにたじろいだけれど、すぐに武蔵たち自警団のメンバーが彼らを制し、中へ通してくれた。守の姿が見えなかったが、彼は入院中の会長に代わって葬儀を取り仕切っているらしい。
受付を済ませ、読経の響く会場に足を踏み入れる。優しそうな笑みを浮かべた博士の遺影に迎えられ、仁美は胸を衝かれた。
重度の熱傷を負って入院していた博士は、一度も意識を回復することなく、息を引き取ったという。どうして博士が殺されなければならなかったんだろう。悪いことなど、なにもしていなかったのに……。
父に促され、焼香の列に並ぶ。父と一緒になどいたくなかったが、そこに修一郎や涼音の姿はない。修一郎からは塾があるので開式前に焼香をさせてもらうと連絡があり、涼音とエリカはとても来られる状況ではないだろう。
遺族席に目を遣ると、白髪の老婆がひとりぽつんと座っていた。一瞬、博士の母親かと思ったが、どこか見覚えがある。誰だか気づいて、仁美は思わず叫びそうになった。
夫人だ。久しぶりに見た彼女はやつれ果て、白髪のせいもあるが別人のように老け込んでいた。
「夫人、帰ってきてたの……?」
仁美のつぶやきに父が小声で答える。
近所の犬を毒殺した罪で逮捕されていた夫人と息子の聡介は、毒しるこ事件の容疑が晴れたためか、不起訴になったらしい、と。
「でも、放火された家には戻れないから、夫人は実家に身を寄せているそうだ」
「聡介君も?」
「彼は、入院していると聞いた」
警察に連れていかれたときの聡介の姿が脳裏に蘇る。父親の葬儀にも参列できないほど、よくない状態ということなのだろうか。
順番が回ってきて焼香台の前に立った仁美は静かに手を合わせ、心の中で博士に何度も詫び、小さい頃からの感謝を伝えた。
会場に隣接した座敷では、通夜ぶるまいが行われていた。
父は、博士のために一杯だけと守にビールを勧められて断り切れず、座敷に上がる。仁美も寿司を食べていけと言われたけれど、こやぎ庵や蕎麦辰の店主が酒を飲んでいるのを見て、ひとりで先に帰ることにした。斎場を出ようとしたとき、焼香を待つ人の列の中に、琴子の背中を見つけ、仁美は足を止める。焼香を終えて化粧室へと向かう琴子を追いかけ、誰もいない廊下で声をかけた。
「琴子さん、どうして?」
驚いて振り返った琴子に、仁美は詰め寄る。
「約束したのに、なんで涼音の家の農薬のこと喋ったの?」
「仁美さん、落ち着いて。言わないでって頼まれはしたけど、私、約束なんかした覚えはないわよ」
「そんな、ひどいよ。琴子さんのせいで、エリカちゃんが大変なことに」
「警察はあなたが思っているより優秀よ。あなたや私が喋らなくても、エリカさんのところに農薬があったことはいずれ明らかになったはずだわ」
「無実のエリカちゃんがどうして警察に疑われなきゃならないの? 琴子さんのこと、味方だと思ってたのに……」
「ねぇ、なんでエリカさんが無実だって言い切れるの? 彼女がひとりで鍋の番をしていた直後、彼女からおしるこを渡された人たちがそれを食べて亡くなったのよ。しかも、エリカさんの家には農薬があった」
「でも、エリカちゃんがそんなことするわけない」
「どうして? 彼女には動機もあったのよ。あなたのお母さんを殺害したいという動機が」
「嘘だよ。エリカちゃんはいろいろアレだけど、人殺しなんてできる人じゃないよ。それに、エリカちゃんだって被害者じゃん。怜音と萌音を殺されたんだから!」
「仁美さん……、世の中には信じられないような女性もいるのよ。男に溺れて、自分の子供を平気で手にかけるような女が」
「……エリカちゃんが、そうだっていうの?」
否定せず、じっと見つめ返す琴子に気圧され、仁美は息を呑む。新聞記者だった琴子は、エリカに関するそうした情報を掴んでいるのだろうか――。
その静寂を、焼香会場から聞こえてきたどよめきが破った。
なにごとかと慌てて戻った仁美の目に、喪服をまとった美しい女が飛び込んでくる。
「エリカちゃん……」
彼女の後ろには張りつめた表情の涼音もいた。エリカは通夜ぶるまいの席にいる父、仁に気づき、吸い寄せられるように二、三歩近づいたが、「ママ」と涼音に腕を掴まれ、制される。うなずいて、ふたりは誰もいなくなった焼香台へ向かい、博士の遺影に一礼した。
さっきまでお経を唱えていた僧侶はすでに辞していたのに、どこからか読経が聞こえてくる。だが、その暗く低い地を這うような声は、読経ではない。
「おまえのせいだ、おまえのせいだ、おまえのせいだ……」
じっとエリカを見つめ、呪いの言葉を吐いているのは、遺族席にひとり残された夫人だった。
住民たちの冷ややかな好奇の視線と、呪詛の言葉を浴びながら、エリカと涼音は博士の遺影に手を合わせた。
「よく来られたもんだな、自分で殺しておいて」
焼香を済ませ、急いで会場を出ようとしていたエリカが、こやぎ庵の店主の言葉に足を止める。
「全部あんたがやったんだろ? 毒しるこ事件も、音無のばあちゃん崖から突き落としたのも」
酒に酔って絡むこやぎ庵に、仁美はうんざりした。最初は音無ウタ、次は博士のことを犯人と決めつけ、今度はエリカだ。結局、誰も犯人じゃなかったのに。疑われたせいで命を落としたかもしれない博士の通夜の席なのに。
「なんであたしが?」
エリカがこやぎ庵を睨めつけた。
「そりゃ、千草さんを殺して仁先生と一緒になるためだろ?」
そう言われたエリカは一瞬、父を見たが、彼はうつむいたままだった。
「あたしは子供をふたりも亡くしてるのよ」
「邪魔だったんじゃないのか? あんた、まともに世話なんかしてなかっただろ」
「おじさん、いくらなんでもひどいよ!」
考える前に仁美の口が勝手に動き、叫んでいた。
「仁美、なんでおまえが庇う? 母親を殺した相手だぞ」
「あたしは誰も殺してなんかいない! おしるこに毒なんて入れてないし、放火もしてない」
叫ぶエリカに、こやぎ庵が怒鳴り返す。
「いいや、放火したのはあんただ。博岡さんがあの家にいることをみんな知らなかった。でも、あんたは知ってたんだろ。元カノのあんたならさ」
「もうやめませんか」と、止めに入ってくれたのは、琴子だった。「言い合っても嫌な思いをするだけですよ。誰が犯人か捜査するのは私たちではなく警察の仕事なんですから」
義母が疑われ、嫌な思いをさせられた琴子の言葉は重い。だが酒に酔ったこやぎ庵はおかまいなしに続けた。
「警察が使えねぇから俺が言ってやってるんじゃねぇか。この女を自首させるためによ。だいたい、なんであんたがこいつの肩持つんだよ。俺は知ってるぞ。この女は見境なしなんだ。死んだあんたの亭主もこいつといい仲だったんだぞ、なぁ、エリカさんよ」
当然、否定すると思ったエリカが、視線を泳がせ、黙り込む。
「な、俺の言ったとおりだろ。音無のばあちゃんは知ってるから、この女を淫売だの売女だのって呼ぶんだ。それにキレて、こいつがばあちゃんを崖から……」
「違う! あたしはそんなことしてな……」
「殺ったのは、おまえだ!」
驚いて振り返ると、夫人が白髪を振り乱し、エリカを指差していた。
「おまえだ、おまえだ、おまえだ、おまえおまえおまえおまえおまえおまえ……」
エリカの言葉は、暗い読経のような夫人の呪詛の声に呑まれ、掻き消されていく。