13

 オーシャンビューのバルコニー――デッキチェアに寝そべった直美は、バーボンをボトルでラッパ呑みしながら海を眺めていた。
 直美の足元には、三本の空のボトルと十本のビールの空き缶が散乱していた。
 朝起きてから食事も摂らず、直美は酒を浴び続けていた。
 あと十分で正午になる。
 今日だけではない。
 逗子の別荘に身を潜めてから三日間、直美の一日はリプレイ映像を見ているようだった。
 トイレに行く以外は、ほぼ一日中、デッキチェアに寝そべり酒を呑んでいた。
 譲二とも会話らしい会話はなかった。
 なにを話しかけても無視か生返事をするばかりだ。
 直美がなにを考えているのかが不安だった。
「ちょこれーと屋さん」が爆破され、果物を届けにきていた顔馴染みの青果店の老人が死亡した。
 いつもの直美なら、店を爆破された直後に血眼になって海東を捜すはずだった。
 直美がおとなしく別荘に引き籠るなど考えられなかった。
 嵐の前の静けさのようで逆に不気味だった。 
「なにか口に入れないと身体に毒ですよ」
 譲二はトレイに載せたハンバーガーとポテトを直美に差し出した。
 直美はハンバーガーとポテトには眼もくれず、海を眺めボトルを傾けていた。

 ――ミクちゃんは無事に保護したから心配はいらねえ。監禁してたチンピラも全部しょっぴいたが、単独犯だと言い張りやがる。まあ、お前がムショにぶち込むなと言うからいまのところは海東を追ってねえがな。

 取調室での下呂の言葉が譲二の脳裏に蘇った。
「ちょこれーと屋さん」爆破事件の一時間後、譲二と直美は参考人聴取のために新宿署に出頭した。

 ――そんなこと言ってる場合じゃないだろう! 海東に店を爆破され、人まで死んだんだぞ!? すぐに令状を取って海東を……。
 ――残念ながら、それはできねえ。
 ――どうしてだよ!? 巻き添えになって人まで死んでるって言ってるじゃないか!
 ――爆破犯が自首してきた。
 ――自首!? 嘘だろ……。
 ――嘘じゃねえ。「東京倶楽部」の半グレが自供した。半殺しの目にあった仲間の復讐のために直の店を爆破したってな。
 ――そんなの嘘に決まってるだろ! 海東がトカゲの尻尾を切ったことくらい、わからないのか!
 ――だからって、海東がやったって証拠か供述がなけりゃどうしようもねえんだよ!
 苛立たしげに吐き捨てる下呂の無念そうな顔からは、嘘は感じられなかった。
 ――直、そういうわけだからよ、お前、しばらくどこかに身を隠したほうがいい。証拠はなくても黒幕が海東なのは間違いねえ。店を爆破したのは警告に過ぎねえだろう。
 下呂の言葉に、譲二は肝を冷やした。
 間違いなく直美が大暴れする。
 ――じいさんの通夜に顔を出したら、東京を離れるからよ。
 譲二は耳を疑った。
 なにかの聞き違いだと思った。
 ――それが利口だ。お前がいくら強くても、卑劣な組織にゃ勝てねえ。現に無関係の人間の命が、お前らの争いの犠牲になったんだ。ここらが潮時だ。歌舞伎町を離れて海外でチョコレート屋でも開いて、新しい人生を歩めや。「東神会」と事を構えたお前にゃ歌舞伎町に、いや、日本に居場所はねえ。
 ――海東を牢屋にぶち込んでもいいぞ。爆破事件でしょっ引けなくても、若頭とミクの件なら令状は取れるだろう。
 力なく直美が切り出した。
 ――それ、マジで言ってんのか? 海東を逮捕すれば復讐ができねえ。そう言ってたじゃねえか?
 下呂が驚いた顔で言った。
 驚いたのは譲二も同じだった。
 ――俺が消えて奴がムショに入れば、これ以上誰も死ぬことねえ。

「ここで海を見ながら四つん這いになった九人の女を、俺が左端から若頭が右端から順番にバックでやってよ。二人とも同じくれえのスピードで四人ずつやり終わって、最後の一人になったときに若頭が俺に女を譲ってくれた」
 直美が遠い眼差しで言った。
 譲二はリアクションに困った。
 いい話なのだろうが、感動するには内容に抵抗があった。
「若頭の仇を討つどころか、店を爆破されてじいさんまで殺しちまった」
 直美が空になったボトルを床に放り投げ、今度はウイスキーのボトルを手にした。
「直さん、身体に毒ですからそのへんで……」
「初めて気づいたぜ」
 ボトルを奪おうとした譲二の手を、直美のグローブのような手が払った。
「自分がこんなにヘタレだってことによ」
 直美が自嘲気味に言った。
 譲二は耳を疑った。
 直美の口から弱気な言葉が出たことが信じられなかった。
 たとえるならば、マザーテレサが幼児虐待をするのを目撃したときのような驚きだ。
 だが、考えてみれば当然のことかもしれない。
 恩師の野崎を失い、店を吹き飛ばされ、仕入れ業者が爆死してしまったのだから直美が自責の念に駆られるのも無理はない。
 むしろこの状況でケロッとしているほうが人としてありえない。
 ただ、直美から覇気がなくなっているのが気がかりだった。
「直さんのせいじゃないですよ。若頭の件も業者さんの件も」
 譲二は遠慮がちに言った。
 この手の慰めは直美の逆鱗に触れる恐れがあった。
「俺がいなけりゃ、若頭やじいさんを巻き込むことはなかった。全部俺のせいだ」
 直美がため息混じりに言った。
 ふたたび、譲二は耳を疑った。
 直美がため息を吐くなどありえなかった。
「俺やミクちゃんを人質に取られていたから、直さんが身動き取れなかったのも仕方がない状況だと思います」
 熱り立ち暴走する直美を宥めることはあっても、慰める日がくるとは思わなかった。
「それも含めて、俺の因果応報だ」 
 直美が力なく言った。
「いったい、どうしたんですか? そりゃあ、怒り狂って『東神会』の事務所に乗り込むのも困りますけど、あんまり凹むのも直さんらしくないですよ」
 思わず譲二は立ち上がって言ってしまった。
 直美を煽りたいわけではなかったが、牙を抜かれたような姿を見るのはつらかった。
「座れ」
 直美が隣のデッキチェアを右手で叩いた。
 譲二は促されるままにデッキチェアに座った。
「俺のせいで二人も死んじまったんだから、いままでのように好き勝手に暴れるわけにゃいかねえよ。下呂の言う通りにするのも、いいかもしれねえな」
「え?」
「俺、海外で『ちょこれーと屋さん』をやろうと思ってな」
 直美がさらりと言った。
「マジですか!?」
 譲二は弾かれたように直美を見た。
「ああ。海東が怖いわけじゃねえが、俺が日本にいちゃ事がおさまらねえだろうよ」
 直美は相変わらずウイスキーをラッパ飲みしながら、海を眺めていた。
 たしかに直美が日本にいるかぎり、海東は命を狙い続けるだろう。
 直美もまた、海東に報復するのは火を見るより明らかだ。
 そう考えれば、直美が海外でショコラトリーを始めるという選択がベストのような気もする。
「海東を許せるんですか?」
 譲二は恐る恐る訊ねた。
「許せるわきゃねえだろうが。いまでも目の前にいたら、八つ裂きにしてるぜ。だから、俺のほうから消えるってわけだ」
「それは、本心ですか?」
 無意識に訊ねていた。直美が自分から身を引くなど、俄かには信じられなかった。
「本心だ」
 直美が即答した。
「だったら、俺も連れて行ってくれるんですよね?」
「あたりめえだ。だが、すぐじゃねえ。最低でも三ヵ月はかかる」
「え? どうしてですか?」
「海外に出店するにもいろいろと準備が必要だ。すぐに行けるわけじゃねえ。現地視察やら物件探しやら、やらなきゃならねえことが山ほどある」
「水臭いじゃないですか! そんなの、俺も手伝いますよ!」
 譲二は胸を叩いて言った。
「いいか? ガラじゃねえから一度しか言わねえぞ。一人で心の整理をしてえんだよ」
 直美の言葉が譲二の胸を貫いた。
 猛獣、怪物、修羅と畏怖される直美も生身の人間だ。
 恩師と老人の死が、相当にこたえているに違いない。
「ほら」
 直美が海を眺めたまま、レジ袋を譲二の膝の上に放った。
「なんです……え!」
 譲二はレジ袋の中の札束を見て声を上げた。
「一千万ある。退職金だ」
 直美が初めて譲二に顔を向けた。
「退職金って……また、海外でショコラトリーを出店するんですよね? 退職金なんていらないですよ。それに、一千万もの大金……」
「歌舞伎町の『ちょこれーと屋さん』を畳むのは事実だろうが? ケジメはつけねえとな。おめえは五年間、よく働いてくれたからよ。俺の性分をわかってくれてるなら、黙って受け取れや」
 直美は言い終わると、顔を正面に戻した。
 直美の心遣いに感動を覚えると同時に、譲二は胸騒ぎに襲われた。
「あの……変なこと考えてないですよね?」
 譲二は不安を口にした。
「変なことってなんだ?」
「たとえば、海東のところに乗り込むとか?」
「そんなことするわきゃねえだろうが。さっきも言ったが、俺が動くことで無関係の人間を殺しちまった。余計な心配しねえでも、もう海東にはかかわらねえから安心しろ」
「本当に本当ですか?」
「俺がおめえに、大事なことで嘘を吐いたことがあるか?」
 直美が譲二を真剣な眼差しで見据えた。
 たしかに直美は、言わなくていいことさえも馬鹿正直に話す男だ。
「わかりました。直さんを信用します。三ヵ月ですね? 連絡は取り合えますよね?」
 完全に不安が払拭されたわけではないが、直美を信じることにした。
 そう、「東神会」のときからずっと信じていた。
 危険で気の休まる暇もない男だったが、直美に裏切られたり傷つけられたりしたことは一度もなかった。
「危険の種を増やすんじゃねえ。俺のほうから連絡する。風呂浴びてくるからよ。お前は、先に行ってろ」
 直美は言うと、デッキチェアから立ち上がった。
「え? どこにですか?」
 譲二は怪訝な顔で訊ねた。
「袋の中を、もう一度よく見てみろ」
 譲二は視線を落とした。
 視線の先――札束に紛れて航空券が入っていた。
「ベルギー行きのチケットだ」
 直美が言った。
「ベルギー!?」
 譲二は素頓狂な声を上げた。
「そんなに驚くことねえだろうが。ベルギーは『ボンボンショコラ』発祥の地だからよ」
「だからって、俺はベルギーの言葉どころか英語も話せないんですよ!? それに、知り合いもいないし無理ですよ!」
「いまは翻訳アプリが進化してるから、スマホがあれば大丈夫だ。住むとこは、俺が修業時代に世話になったピエールっつうショコラティエにおめえのことを頼んである。ピエールは独身のゲイだから、半年でも一年でもおめえが自立できるまで預かってくれるからよ」
「ちょちょちょちょ……ちょっと待ってくださいよ! 俺は男の人に興味なんか……」
「誤解するんじゃねえ。嫁も子供もいねえから、おめえが気兼ねしねえで居候できるっつう話だ。おめえはピエールのもとで一から修業して、店を手伝いながら早く一人前になれや。おめえの成長次第では、あとを継がせてくれるかもしれねえ。『東神会』もベルギーまで追い込みかけることはねえから安心しろ」
 直美が譲二の肩を分厚く大きな掌で叩いた。
「跡を継がせてくれるかもって……直さんも店を出すんですよね? 直さんの店で働くから、ピエールとかいう人の店は継ぎませんよ」
 譲二は不機嫌な表情で言った。
「馬鹿野郎! 本場の老舗ショコラトリーを継げるなんて、ありえねえことだ。贅沢を言ってんじゃねえぞ!」
 直美の怒声が譲二の鼓膜を震わせた。
「贅沢を言ってるわけじゃありません! 俺はどんなに立派なショコラトリーより、直さんの店で働くことが夢なんですよ! だから、五年間、とんでもない事件の連発でも命懸けでついてきたんじゃないですか! それなのに……」
 譲二の言葉の続きが嗚咽に呑み込まれた。
 レジ袋の中の札束を涙の滴が濡らした。
「ガキじゃあるまいし泣くんじゃねえ! 誰もおめえを呼ばないとは言ってねえだろうがっ。ピエールの店でしっかり修業して、腕を上げてからこいって話だ! 本場で日本人がショコラトリーをやるのは、ショコラとチョコレートが別の食い物だと思ってる客ばかりの歌舞伎町でやるのとはわけが違うんだよ! 情だなんだ甘ったれたことを言う前に、一端のショコラティエになれや!」
 直美の一喝に、譲二は目の覚める思いだった。
 甘かった。サークルや趣味ではないのだ。
 直美の言うとおり日本人がショコラトリーをベルギーに出店するのは、ベルギー人が寿司店を日本に出店するようなものだ。
 羊羹や饅頭などの和菓子と違いベルギーの食文化で勝負するのだから、当然、慣れ親しんだ味にたいしての評価も厳しくなる。
 相当にレベルの高いボンボンショコラを作れる技術を身につけなければ、すぐに店が潰れてしまう。
 譲二のせいで直美の足を引っ張ることになるのだ。
「すみませんでした!」
 譲二は立ち上がり深々と頭を下げた。
 直美のことが怖くてそうしたわけではない。
 公私混同して甘えていた自分が恥ずかしかった。
 海東への復讐を諦め、プライドを捨てて海外に脱出するという決意をしてくれた直美の気持ちに応えるためにも、半端なマネはできなかった。
 心を入れ替え一からピエールのもとで修業し、「ちょこれーと屋さん」をベルギーで成功させることが直美への恩返しになる。
「わかりゃいい。どの道、就労ビザが下りるまでに二、三ヵ月、長けりゃ半年近くかかる。その間、俺は出店準備があるしおめえは修業して腕を磨け。こまけえ打ち合わせは風呂から上がってからだ。フライトは明後日だ。ベルギーに行く身支度をしとけや」
 直美が言い残し、バスルームに足を向けた。
「直さんはどうするんですか?」
「俺は方々に散らしてる箪笥貯金を掻き集めたり、やらなきゃならねえことがあるからおめえとの打ち合わせが終わったら都内に戻る」
 譲二の質問に足を止めずに答えながら、直美はバスルームに消えた。

(第22回へつづく)