「歌謡曲」のフロアに、啜り泣きが響き渡っていた。
 客用のボックスソファに座った春江は、譲二と直美が訪れてからずっとテーブルに突っ伏して泣き続けていた。
 直美は春江と対面のボックスソファに座り、譲二は離れた席で二人の様子を見守っていた。
「いつまで泣いてんだ。どんだけ泣いても、娘は帰ってこねえぞ」
「歌謡曲」にきて、直美が初めて口を開いた。
「あんた、よくもそんなこと言えるわね! ミクがヤクザの人質になってるのよ!? 元はと言えば、あんたが原因じゃないの!」
 春江が泣き腫らした顔を上げ、直美に食ってかかった。
「俺を責めても娘は帰ってこねえだろうが。娘は連れ戻してやるから、泣くんじゃねえ。ババアが泣いてもかわいくねえんだよ」
 口は悪いが、直美は春江を心配して様子を見にきたのだ。
「信じていいんでしょうね!? ミクの身になにかあったら、あんたを八つ裂きにするからね!」
 春江が叫び、ふたたびテーブルに突っ伏し号泣した。
 譲二は胸が痛んだ。
 春江が取り乱すのも無理はない。
 いまこうしている間にも、愛娘が危険にさらされているのだから。
「おう、八つ裂きにでも微塵切りにでもしていいから、とにかく汚ねえ泣き顔を見せるんじゃねえ。ほらよ」
 直美が高級焼肉弁当の紙袋と栄養ドリンクの入ったレジ袋をテーブルに置いた。 
「四千円の弁当だ。どうせ、なにも食ってねえんだろ? それから、こっちは栄養ドリンクだ。ぶっ倒れられて、俺のせいにされたくねえからな」
 直美がぶっきら棒に言った。
「ミクが生きるか死ぬかのときに、焼肉弁当なんて喉を通るわけない……」
 ドアベルが春江の涙声を遮った。
「オールキャストだな」
 濁声で言いながら、下呂が現れた。
「刑事さんっ、ミクが『東神会』に……」
「知ってますよ。その件で直と作戦会議をしようと思いましてね。やっぱり、ここにいたか」
「てめえ、どのツラを下げてここにきやがった!」
 譲二は立ち上がり、下呂の胸倉を掴んだ。
「天下の桜田門が力を貸そうとわざわざきてやったのに、そんな出迎えかたをすんのか? お?」
 下呂が譲二を睨みつけた。
「てめえっ、海東についてたくせしやがって、しゃあしゃあと……」
「おめえは下がってろ!」
 直美に一喝された譲二は、下呂を睨みつけながらソファに腰を戻した。
「ママ、娘さんは必ず救い出すから安心してくれ」
 下呂が春江に言った。
「刑事さん、海東についていたってどういうことですか!? 海東って、ミクをさらった『東神会』のヤクザじゃないんですか!?」
 春江が懐疑の眼で下呂をみつめた。
「ちょいと情報を探るために奴の懐に潜り込んでただけだから、心配はいりませんよ。潜入はマル暴の常套手段ですから」
 下呂が春江に微笑みながら頷いてみせた。
「じゃあ、ミクを助けてくれるんですね!?」
 春江が縋るような眼で下呂をみつめた。
「そのために、直に会いにきたんです。ということだから、すみませんがちょいと席を外して貰えますか?」
 下呂が春江に言った。
「どうして、私がいちゃだめなんですか?」
 春江が怪訝そうに訊ねた。
「組の内部情報やらなんやら、捜査機密で聞かせられないことがいろいろとあるんですよ。一刻を争う事態ですから、場所を移す時間ももったいなくて。どうしても無理なら、俺と直が出て行きます」
「わかりました。私はマンションに戻りますから、終わったら連絡をください。刑事さん、信じてますよ。絶対に、絶対にミクを救ってくださいね。お願いしますっ……お願いします!」
 春江が席を立ち、下呂の右手を両手で握り何度も頭を下げた。
 下呂が海東と並んで座り、人が死ぬのを観戦していたと知ったら春江はどう思うだろうか?
 ミクの首にナイフを当てられている画像で海東が直美を脅していた事実を、下呂が海東を逮捕どころか見逃した事実を知ったら、春江はどう思うだろうか?
 譲二は、涙ながらに下呂に望みを託す春江が不憫でならなかった。
 だが、直美が下呂の話を聞こうとしているので譲二がこれ以上突っかかるわけにはいかなかった。
「約束します。桜田門の誇りにかけて、娘さんを元気な姿でお戻ししますよ」
 下呂がきっぱりと言った。
 
 どの口が言ってやがる!

 譲二は心で吐き捨てた。
「本当に、よろしくお願いします……」
 涙声で言い残し、春江が店をあとにした。
「直! 力を貸してくれ!」
 春江の姿が見えなくなった途端、下呂が直美の足元に土下座した。
「天下の桜田門が、力を貸してくれるんじゃねえのか?」
 直美が皮肉っぽく言った。
「なにも言い訳はできねえ。俺がすべて悪かった。本当に、申し訳ない!」
 下呂が床に額を擦りつけた。
「俺が海東の刺客にやられてるときも、助けるどころか楽しそうに見物してたじゃねえか? 海東と組んでた敵に、どうして俺が力を貸さなきゃなんねえんだよ? あ?」
 直美が下呂を冷めた眼で見下した。
「おめえの言う通りだ。弁解の余地もねえ。お詫びっつうわけじゃねえが、俺が掴んでる海東の情報を流す。だから、力を……」
「ふざけんじゃねえぞ! 汚物刑事が!」
 直美の前蹴りに下呂が四、五メートル吹き飛び、仰向けに倒れた。
「てめえと海東が、若頭を殺したんだよ! おお! それを、力を貸せだと!? ああ!?」
 直美は立ち上がり下呂に歩み寄ると胸を踏みつけた。
「わ……悪かった……一生をかけて償う……だから……俺に力を……」
「てめえの薄汚れた命じゃ、若頭を殺した罪は贖えねえんだよ!」
 直美は下呂の胸倉を右手で掴み引き摺り起こすと、ゴミ袋をそうするように放り投げた。
 物凄い衝撃音――壁に衝突した下呂が床に落ちた。
「いますぐぶっ殺してやりてえが、おめえにゃいろいろ訊かなきゃならねえことがある。どうして俺に寝返る気になった?」
 直美が激痛に顔をゆがめる下呂の前に屈み訊ねた。
「寝返るって……人聞きが悪いことを言わねえでくれ。俺は端から海東と手を組んだり……うぐぁ……」
 直美がグローブのような手で、下呂の喉を鷲掴みにした。
「おめえの言い訳を訊いてるんじゃねえ! わかったか?」
 下呂が赤黒く怒張した顔で頷いた。
「どうして俺に寝返った?」
 訊ねながら、直美が手を離した。
「このままだと……俺まで……野崎殺しの共犯者にされちまうからだ……」
 切れ切れの声で、下呂が言った。
「若頭が雑魚頭に殺されるのを海東と楽しそうに眺めていたんだから、共犯じゃねえか!?」
「楽しそうになんか……眺めていねえ。俺は……おめえとやり合わせて海東を潰そうとしていた。海東さえいなくなりゃ……『東神会』を解散に追い込むのも容易だ。それなのに、柄にもなくガキどもに遠慮して一方的にやられやがって……おめえのせいで、こっちまで人質みてえになっちまったじゃねえか。おめえがいつもみてえに暴れて奴らを返り討ちにしたら、俺が一気に『東神会』を……うぐぁぎぇ……」
 ふたたび、直美が下呂の喉を鷲掴みにした。
「おめえのでたらめを聞いてる暇はねえ! おおかた、高みの見物を決め込んで旗色のいいほうにつこうとしていたんだろうが!」
「だったら……お前の……ところに……くるわけ……ねえだろうが……」
 息も絶え絶えに、下呂が言った。
「海東がおめえを共犯者扱いして、脅してこなきゃな! ようするにおめえは、奴に利用されたんだよ! マル暴を共犯者にすりゃ、いままで以上に好き放題できるからな。おめえは一生、悪事を暴露されねえために海東の尻拭いをする嵌めになった。だから、その汚ねえツラを下げて俺のとこにきたんだろうが!」
 直美が下呂の顔に唾を吐き、腰を上げるとボックスソファに戻った。
 譲二も、まったく同感だった。
 端から下呂は、漁夫の利を狙っていた。
 ところが、双方が痛み分けに終わった。 
 気息奄々の状態での痛み分けなら、下呂に好都合だった。弱った二頭の獣を、一気に叩けばいいのだから。
 だが、余力を残したままの痛み分けでは話が違ってくる。
 下呂の誤算はこれだけではなかった。
 海東に嵌められ、殺人と少女誘拐の共犯者に仕立て上げられてしまった。
 刑事として致命的な弱みを握られた下呂は、生涯を海東の奴隷として生きなければならない。
 一方、直美なら好き放題に暴れるが少なくとも下呂を脅して利用しようとはしない。
 だから下呂は、直美に寝返ることに決めたのだ。
 相変わらず、狡猾な男だった。
「だが、まずはババアの娘を救い出すのが先決だ。おめえは、どんな役に立てるか言ってみろや? 働きによっちゃ、命だけは助けてやってもいい」
「本当か!? ありがとう、直! この恩は一生……」
「まだ、許すとは言ってねえ!」
 起き上がり顔を輝かせる下呂を、直美は一喝した。
「どんなふうに役に立てるんだ? おめえに力を貸すかどうかは、話を聞いてからだ」
 直美が言うと、下呂が四つん這いで近寄ってきた。
「ミクちゃんを、四課の捜査員で踏み込み連れ戻す。もちろん、現場にいる組員を全員逮捕する」
 下呂が四つん這いのまま、きっぱりと言った。
「腐れ刑事にそんなことできるのか? 第一てめえは、海東と殺人現場にいたから暴露されたら困るんじゃねえのか?」
 直美が譲二の疑問を代弁した。
「だからこそ、直の力を借りてえんだ。お前は海東に捕らわれオクタゴンの中に入れられた。小学生のガキやシャブ漬けにした元ヤクザや子飼いの半グレを使ってお前を殺そうとした。俺が課長にそう報告するから、お前も口裏を合わせてほしい」
 下呂が言った。
「口裏を合わせるもなにも、全部本当のことじゃねえか!」
「まだある。俺は直と譲二を救出するために潜入した……そういうことにして貰いてえんだ」
「てめえは海東にくっついて、直さんのことも野崎さんのことも見殺しにしたくせに……」
「黙ってろ!」
 直美が譲二を一喝した。
「そういうふうに口裏を合わせりゃ、絶対にミクを助けることができるんだな?」
 押し殺した声で、直美が下呂に念を押した。
「ああ、約束する! 直の証言さえあれば、海東がなにを言ったところで課長は信用しねえ。ミクちゃんを救出して、『東神会』のゴキブリどもを片端からしょっぴいてやるからよ!」
「あんた、海東も逮捕できるのか!?」
 調子のいいことばかりを言って直美を利用しようとする下呂に我慢できずに、譲二は口を挟んだ。
「雑魚を何百人捕まえても、頭を逮捕しなきゃ意味がないって言ってるんだよ!」
 海東の影響力がほかの刑事に及んでいる可能性は十分に考えられた。
「そんなことは、てめえに言われなくてもわかってるよ! 海東の野郎が娑婆でちょろちょろしてたら、俺が一番困るんだからな!」
 下呂がいら立つ口調で吐き捨てた。
 たしかに、海東を捕まえなければ必ず下呂に報復するだろう。
 それでもまだ、譲二は下呂を信用できなかった。
 一度は海東の口車に乗った男だ。海東に脅されて、ふたたび直美を裏切る可能性は十分にあった。
「だめだ」
 唐突に、直美が言った。
「なにがだめなんだ?」
 下呂が訝しげに訊ねた。
「海東を捕まえるんじゃねえ」
「え……そりゃ、どういう意味だ? ミクちゃんの監禁現場に踏み込んで組員や半グレをしょっ引かれて、海東が黙ってるわけねえだろ? 野放しにしとくわけにゃいかねえよ! お前が証言してくれたら、海東にワッパを……」
「包茎野郎がムショに入ったら、俺が困るんだよ」
 直美が燃え立つ瞳で下呂を見据えた。
「困るって……おい、直、お前、なにを考えてるんだ?」
 下呂の眉間に縦皺が刻まれた。
 譲二の鼓動がアップテンポのリズムを刻み始めた。
「悪さした奴にゃ、きっちりお仕置きをしねえとな」
 直美が下腹に響くような低音で言った。
「だから、逮捕するんだろうがよ」
「ムショにぶち込まれるくらいで、若頭を殺した罪がチャラになると思ってんのか? お!?」
 直美が下呂に顔を近づけた。
「まさか……馬鹿なことを考えるんじゃねえぞ。海東がやらせていることに違いはねえが、直接に手を下したわけじゃねえ。野崎を殺ったのは工藤だ。工藤は『東神会』の組員に連れて行かれたからどうなったかわからねえが、あの傷じゃすぐに病院に運ばねえと命を落とす可能性がある。だが、工藤を表に出したら海東の悪事まで表に出ちまう。恐らく工藤は、このまま闇に葬られるだろうよ」
 下呂が沈痛な表情で言った。
「それがどうした?」
 さらに下呂に顔を近づけ、直美が言った。
「それがどうしたって……工藤は死んじまった可能性が高いってことを言ってるんだぞ!? もしそうならこういう言いかたはなんだが、あれだ、あれ……おあいこってことになるだろうよ」
 下呂が言葉を濁しながら、直美の顔色を窺った。
「おあいこ? 冗談じゃねえ! しょせん工藤は海東の操り人形に過ぎねえ。操り人形が何十体ぶっ壊れても意味がねえ! 操ってる人間をバラバラにしねえと意味がねえんだよ! いいか!? 海東を俺に残すんなら、おめえに協力してやる。だが、檻の中に匿うっつうんなら……」
 直美が言葉を切り、下呂の胸倉を掴み引き寄せた。
「俺もおめえを的にかけるぜ」
 直美は下呂の胸倉を掴んだまま、ソファから立ち上がった。
「わ、わかった……わかったから!」
 下呂が宙で足をバタつかせた。
「忘れるんじゃねえぞ」
 直美が手を離すと、下呂が尻餅をついた。
「ミクがどこに拉致されてるのか、わかってんのか?」
 直美がソファに座り訊ねた。
「あ、ああ……。半グレ達が話してるのが耳に入ってな。ミクちゃんは『髭姫』にいるらしい」
下呂が言いながら、直美の対面のボックスソファに座った。
「『髭姫』だと!? 目と鼻の先じゃねえか!」
 直美が素頓狂な声を上げた。
 譲二も驚いていた。
「髭姫」は「東神会」の息がかかる、新宿二丁目のゲイバーだ。
「そうだ。疑われねえように通常通り営業しているが、VIPルームにミクちゃんを閉じ込めているそうだ」
「くそったれが!」
 直美が勢いよく立ち上がった。
「ちょっ……お前、『髭姫』に乗り込むつもりじゃねえだろうな!?」
 慌てて下呂も立ち上がった。
「近所に拉致られてんだぞ!? 乗り込むに決まってんだろうが!」
「落ち着け! お前が乗り込んで店で暴れてみろ! ミクちゃんを救い出す前に、お前が捕まっちまうぞ! ここは俺ら警察に任せるんだ!」
「ごちゃごちゃうるせえんだよ! どきやがれ……」
「ミクちゃんが殺されますよ!」
 それまで事の成り行きを静観していた譲二が、直美の前に立ちはだかった。
「てめえは黙って……」
「黙りません! 俺は空気ですか!? 俺は透明人間ですか!? 少しは俺の言うことにも耳を傾けてくださいよっ。そうやって感情に任せて直さんが乗り込んだら、腐れ刑事が言うように直さんが逮捕されてミクちゃんは見せしめに殺されちゃいますよ!」
 譲二は意を決して直美を遮った。 
「は? 誰が腐れ刑事だ!」
「腐れ刑事の言う通り、ミクちゃんの救出は警察に任せるべきです!」
 譲二は抗議する下呂を無視して、直美に訴えた。
「また言いやがった……」
 下呂は不満げに呟くだけで、もう抗議はしてこなかった。
「俺を信じてくれてるなら、言う通りにしてください! お願いします!」
 譲二は祈りを込めて頭を下げた。
 五秒、十秒……沈黙が広がった。
 十五秒、二十秒……沈黙が続いた。
 やはり、だめなのか?
 直美にとって自分は、単なるパシリの坊やなのか?
「おいっ、ミクを救えなかったら海東の前におめえをぶち殺すからな! わかったか!」
 直美の怒声に、譲二は弾かれたように顔を上げた。
「直さん……俺を信用してくれるんですね!?」
 譲二は涙目で直美をみつめ、上ずる声で言った。
「信用されてねえと思ってたのか!? てめえ、俺に何年くっついてやがる! ――おめえはいつまでもここにいねえで、さっさと応援頼んで『髭姫』に行けや!」
 直美は譲二にぶっきら棒に言うと、下呂に顔を向けて怒鳴りつけた。
「そろそろ行こうと思ってたところだよ」
 下呂が不貞腐れた顔でソファから腰を上げ、玄関へ向かった。
「お前に供述して貰わなきゃなんねえから、電話はいつでも繋がるようにしといてくれよ。頼んだぞ」
 下呂は言い残し、ドアの向こうへと消えた。
「生意気言って、すみませんでした。でも、本当にありがとうございます」
 譲二は改めて直美に頭を下げた。
「ミクの件についちゃ、おめえの言いぶんが正しいから従っただけだ。だが、海東だけは生かしちゃおかねえ」
「直さんっ……」
「これだけは、絶対に譲れねえ!」
 弾かれたように顔を上げた譲二を、直美が怒鳴りつけた。
「正しかろうが正しくなかろうが生きようが死のうが、海東だけは必ず殺す!」
 直美は一方的に言い残し玄関へと向かった。
「直さんっ、待ってください!」
 譲二は直美の前に回り込み、足元に土下座した。
「お願いですから……」
「勘違いするな。店に仕込みに行くだけだ。包帯もこれじゃやべえだろ」
 直美は足を止め、赤い腹巻のようになった包帯を指差した。
「あ、なるほど……そうですよね」
 譲二の胸に、安堵感が広がった。
「包茎野郎をぶっ殺すのは、ミクが救出されて安全な場所に移してからだ」
 直美は譲二を軽々と飛び越え、フロアをあとにした。

「和久井さんも言ってたじゃないですか、野崎さんは直さんが日本一のショコラティエになることを願っていたって」 
 譲二は明け方のゴジラロードを大股で歩く直美を小走りで追いかけながら、翻意を促した。
 悲鳴を上げる者、強張った顔で立ち尽くす者、慌てて道を譲る者――裸に毛皮のベストを羽織る傷だらけの大男を見た酔客達の酔いは一瞬で冷めたようだ。
「直さんだってショコラティエになるのが夢だから、足を洗ったんですよね?『ちょこれーと屋さん』って素晴らしい店もあることだし」
 直美は譲二を無視したまま、大股で歩き続けた。
 数十メートル先に「ちょこれーと屋さん」の建物が見えてきた。
 直美は路地に入り、勝手口に回った。
「あれ……誰かいますよ? あいつ、忍び込もうとしてますよ!」
 およそ十メートル先――初老の男性が勝手口のドアのシリンダーにキーを挿し込んでいた。
「おいっ、あんた……」
 踏み出そうとした譲二の襟首を直美が掴んだ。
「八百屋のじいさんだ。いい果物が入ったときは運んでくれって、スペアキーを渡してるんだよ。じいさん、今日はなんだ?」
 直美は譲二に言うと、老人に声をかけた。
「いい洋ナシが入ってな」
 老人がビニール袋を掲げた。
「悪いな。入れといてくれや」
 直美が大声で言うと、老人が勝手口のドアを開けた。
 耳を聾するほどの爆音――噴き出す白煙と炎に吹き飛ばされるドア。
 十メートル以上離れている譲二も風圧で尻餅をついた。
 仁王立ちになる直美のプラチナシルバーの長髪が猛風に靡いていた。
「じいさん!」
 直美が叫びながらダッシュした。
 腰を抜かした譲二は、這いずりながら直美のあとを追った。
「うっ……」
 目の前に転がる右腕。波打つ背中、痙攣する横隔膜――譲二は地面に嘔吐物を撒き散らした。 
 燃え盛る炎の前に立ち尽くす直美が両手に抱えている黒い塊は、焼け焦げた老人の顔だった。
 二度、三度、四度と立て続けに譲二は嘔吐した。
「なあ、譲二よ……これでも海東を殺すなって言う気か?」
 直美が老人の顔を見据えながら、憤激に震える声音で言った。
 譲二には、返す言葉がなかった。

(第21回へつづく)