人物紹介

仁美…高校二年生。町の祭りで起きた無差別毒殺事件で母を亡くす。

修一郎…高校一年生。医学部志望の優等生。事件で妹を亡くす。

涼音…中学三年生。歳の離れた弟妹を事件で亡くす。仁美たちとは幼馴染。

景浦エリカ…涼音の母。派手な見た目と行動で町では目立つ存在。

仁先生…仁美の父親。町唯一の病院の院長。

成富栄一…大地主で町では一目置かれる存在。町内会長も務める。

博岡聡…成富建設の副社長。あだ名は「博士」。引きこもりの息子・聡介を家に抱えていた。

音無ウタ…息子・冬彦が真壁仁のせいで死んだと信じこんでいる。

琴子…息子の流星と姑のウタと同居している。元新聞記者。

流星…小学六年生、ウタの孫。修一郎の妹と仲が良かった。

宅間巌…かつて焼身自殺した町民。小学生の間では彼の幽霊が出ると噂されている。

第十六話

 

「……エリカちゃん?」

 門扉に寄り掛かるようにして立っていたのは、エリカだった。

「仁美ぃ……、仁先生はぁ?」

 問いかけながら、エリカは門扉を開けようとしたが、うまく開けられずガチャガチャと大きな音を立てる。

「ちょっと、なにやってんの、エリカちゃん、今、開けるから」

 近寄ると、エリカの体からは南国の花の香りではなく、強烈な酒の臭いが漂った。

「エリカちゃん、大丈夫? どんだけ飲んだの?」

 一瞬、会長に無理に飲まされたのではと思ったけれど、そんなはずがあるわけなかった。

 会長は自宅でいびきをかいて寝ているのだから。

 仁美が開けた門扉にエリカはよろけてぶつかり、派手な音を立てる。

「うわっ、エリカちゃん、大丈夫? 飲みすぎだってば」

「仁先生、どこ?」

 鼻を摘まみたくなるほどの臭気から思わず顔を背け、仁美は答えた。

「今、いないよ。守君と一緒に会長の家に行ったから」

「嘘っ! 嘘、嘘、嘘、嘘、嘘! 本当はいるんでしょ、中に?」

 すごい剣幕で言い寄られ、仁美は唖然とする。

「なんれ? なんで、仁美までそんな嘘つくの?」

「嘘なんかついてないって、今、会長の家にいけば、そこにいるよ」

「本ろう?」

 呂律が回っていないエリカにうなずくと、彼女は出て行こうと踵を返したが、バランスを崩して前のめりに倒れ、門扉の前の短い階段を転げ落ちそうになる。

「ちょっ、危ないよ、エリカちゃん!」   

 慌てて腕をつかんで支えたが、彼女はそんな仁美の手を振りほどこうともがく。

「暴れないでよ。ねぇ、うちに入ろう。水飲んで酔いを醒ましたほうがいいって」

 エリカはかぶりをふり、叫んだ。

「イヤら! 仁先生がいないなら、会長の家に行く!」

「無理だよ、まともに歩けてないでしょ。とにかくうち入って休もう。涼音に電話して、迎えに来てもらうから」

「ヤーだ! 今すぐ会って話したいの、仁先生と!」

「待ってれば、そのうち帰ってくるよ」

「帰ってこないかもしれないれしょ?」

「そんなことあるわけないじゃん」

「あるよ! らって、あたし……、避けられてる」

「お父さんに? ああ、それは、今、噂になるとまずいからだよ。エリカちゃんだって、変な誤解されたくないでしょ?」

 エリカは子供のように激しく首を左右に振り続ける。

「どうしちゃったのよ、エリカちゃん? あ、もしかして具合悪い? それでお父さんに相談ごとがあってきたとか?」

「ねぇ、仁美……」

 動きを止めたエリカが仁美を見つめ、そのままドンと抱き着いてきた。

「仁美は嫌じゃないでしょ?」

「嫌じゃないって、なにが?」

「あたしが、ママになるの」

「はぁ? 誰のママになるわけ?」

「決まってるでしょ、あんたのママに」

 驚きのあまり、体を離そうとしたが、酔ったエリカは体重を仁美にあずけ、寄り掛かってくる。

「……なに、言ってんの? そんなことあるわけないじゃん」

「どうして? あるでしょ、私と仁先生が結婚すれば」

「だから、なに言ってんのって言ってんの! ママが死んだばっかりなのに!」

 声を抑えることができず、思いのほか大きな声で怒鳴りつけるようになってしまった。

「仁美……、仁美はあたしの味方じゃないの?」

「お父さんと、なにか……あったの?」

 訊いておきながら、仁美はすぐに「ううん」と、自分でそれを打ち消す。

「そんなはずない。そんなことあるわけない」

「なんで、そんなことあるわけないの?」

「あるわけないよ。だって、お父さんにはママがいたんだから」

「そうだけど……、千草さんには悪いと思ったけど、好きになっちゃったんだもん、仁先生のこと」

「……な、なに、言ってんの?」

「しょうがないでしょ、もう気持ち抑えられなくなっちゃったんだから。どうしても、どうしてもどうしても……、なにもかも全部捨てても欲しくてたまらないものは、この手で奪い取るしかないじゃない」

「やめて。聞きたくない」

 首を横に振り、後ずさる仁美を逃がすまいと、エリカは迫ってくる。

「仁美、聞いて。私、本気なんだってば。仁先生のことが好きで好きでたまらないの。仁先生なしで生きてくなんて、もう考えられない」

 あんなに憧れていたエリカが、盛りのついた薄汚い野良猫みたいに見えた。黙り込んだ仁美の胸の内に気づかず、エリカは酒臭い息をまき散らしながら喋り続ける。

「仁美は私の味方でしょ? ねぇ、一緒に楽しくやっていこうよ。仁先生と私と、仁美と涼音の四人で」

 微笑みながら、腕をぎゅっとつかんできたエリカの手を、仁美は乱暴に振り払う。

「触らないで!」

 ビクッと体を震わせ、エリカは酒で濁った目を一瞬大きく見開いたが、すぐに仁美を懐柔するような笑みを浮かべ、しなだれかかってくる。その体のやわらかでみだらな弾力に、鳥肌が立った。

「仁美ぃ、そんな冷たいこと言わないでよぉ。私と仁美の仲じゃない」

耳もとで囁かれる甘やかな響きに虫唾が走り、体の深いところから拒絶反応が湧き上がってくる。

「キモ……い」

「……えっ?」

「キモい、キモい、キモい! 気持ち悪いから、触らないで!」

 怒鳴られ、再び体を振り払われて、さすがのエリカも顔色を失った。

 呆然と立ち尽くす彼女の背後で黒い影が動いた。頭に上っていた血が一瞬で冷え、仁美は息をのみ、闇に目を凝らす。

 大きな声を出してしまったので、きっと近所の人が様子を見に出てきたのだ。今の会話を聞かれていたら、エリカも父もこの町では暮らしていけなくなってしまう。

 予想通り、近所のおばさんと思しき数人の影を通りに見とめたが、かなり距離がある。今、エリカの後ろで動いたのは別の……。

 ふいにカシャッという音が闇を裂き、辺りはまばゆい光に包まれた。 

 シャッターを切った男が、庭に入り込んできて、なおもエリカにカメラを向ける。玄関の灯りに照らされたその男の顔に見覚えがあった。麗奈につきまとっていた週刊誌の記者だ。

「ちょっと、やめてよ。なんなの、あんた!?」

「どうも、景浦エリカさんですよね? 私、こういう者です」

 差し出された名刺を無視し、エリカは記者を睨みつけた。

「偶然、そこを通りかかったら、おふたりのお話が耳に飛び込んできたものですから。失礼ですが、あなたと真壁仁先生はいわゆる不倫関係にあるということですよね? それはいつごろ始まったんでしょうか? 真壁先生の奥さん、千草さんが亡くなられる前から、男女の関係にあったということですか?」

 矢継ぎ早に質問され、エリカも少し酔いが醒めたのか、怯んでいるように見えた。

「……写真」

「はい?」

「今、撮った写真、消して」

「いやぁ、それはもったいない。お美しく撮れていますから。そうやって話をはぐらかさないでくださいよぉ。否定されないってことは、お認めになったってことでよろしいですね?」

 人を食ったような男の猫なで声に、仁美まで背筋がぞわぞわした。

「つまり、真壁千草さんの生前から、あなたと仁先生は不倫しておられた、と」

「あんたに話すことなんて、なにもないから」

「そんなつれないこと言わないでほしいなぁ。なんならこれから飲みに行きませんか? 朝までとことん付き合いますけど」

「誰があんたなんかと」

 この場から逃れようと、ふらふらと歩き出したエリカの前に、男が立ち塞がる。

「ちょっと、そこ、どいてよ」

「待ってくださいよ。さっきみたいに、思いの丈を私にぶつけてみませんか? すっきりすると思いますよ」

「邪魔だって言ってるじゃない!」

「いいんですか? このままなんの申し開きもせずに帰ってしまって」

「申し開きってなによ? 私はただちょっと酔っ払って、だから、なに言ったかも覚えてないし、酔って言ったことなんて全部冗談に決まってるでしょ」

「冗談には聞こえませんでしたよ。ものすごく気持ちがこもってましたからね。『仁先生のことが好きで好きでたまらないの』って」

「……そんなこと、言ってない」

「言いましたよ。奥さんから奪い取ろうとしたこともね。そんな中、真壁千草さんは農薬入りのおしるこを食べさせられて死亡し、仁先生はフリーになった。これって偶然なんでしょうか?」

「……なにがいいたいの?」

「いや、別に。ただ、偶然にしてはでき過ぎてるなぁ、と。そう思いません?」

 最後の言葉を、記者は仁美を見つめ、発した。いきなりの問いかけに動揺する仁美から目を逸らさず、男は話し続ける。

「農薬混入を疑われた音無ウタさんや博岡さん一家の疑いがほぼ晴れた今、警察はおしるこ担当だった人たちを洗い直しているらしいんですよ。ま、当然ですよね。ずっとおしるこのそばにいた人たちなら、人目につかずに鍋に農薬を入れるチャンスが他の方々よりもあったでしょうから。特に……」

 一度言葉を切り、男は意味ありげな視線をエリカに向けた。

「……ひとりでテントにいたあなたにならば、難なくやれたんじゃないですかねぇ、景浦エリカさん」

「ふざけんじゃないよ! なんで私が疑われなきゃなんないの?」

「だって、あなたには動機があるじゃないですか」

「私が千草さんを殺したって言うの? いい加減にしてよ、おしるこの番をしていただけで殺人犯呼ばわりされちゃたまらない……」

「番をしていただけで疑ってるわけじゃないんです。ちょっと小耳に挟んだものですから。景浦さんのお宅にあったって、例の農薬が」

 驚きのあまり、仁美は息ができなくなる。それは、エリカも同じだったらしい。

「……誰がそんなこと?」 

「否定されないんですね。否定しないってことは、お認めになったのと同じなんですよ。やっぱりお宅に農薬があったっていうのは本当で、その農薬を、あなたがおしるこの鍋に……」

「やってない! 私は農薬なんて知らない!」

 そう叫び、出て行こうとしたエリカに男が追いすがる。

「だったら、なんで逃げるんですか? やってないなら、堂々と取材に答えてくださいよ」

「あんたたちは自分らの都合のいいように、面白おかしく捻じ曲げてしか書かないじゃない」

「申し開きせずに帰っちゃっていいんですか? 私、そのまま書いちゃいますよ」

「うるさい、いいから、どいて!」

 記者は、門扉を開けて逃げ帰ろうとするエリカの前に回り込み、道を塞ぐ。

「本当に書きますよ。ここで聞いたことも。お宅に農薬があったことも……」

「邪魔だって言ってるでしょ! 消えて!」

 立ちはだかる記者をどかそうと、エリカが振り回したバッグが彼の鼻に当たってしまい、あっと思う間もなく、男は門扉の階段を背中から落ちていった。



 かすかな物音で目覚めると、リビングのソファの上だった。

 あれ? なんで自分のベッドで寝てないんだっけ? 

 カーテンから差し込む朝の日差しをぼんやり見つめていると、寝ぼけた頭に昨夜の出来事が唐突に蘇ってきた。

 今しがた聞いた物音は、玄関の開錠音ではないか。

 ようやく父が帰ってきたのだ。

 仁美は跳ね起きて玄関へ走ったが、そこに父の姿はなく、鍵も閉まったままだ。

 玄関の時計は八時三十五分を指している。さっき聞いたのは出勤のため家を出た父が鍵を閉める音だったのだろう。

 すぐさま開錠してドアを開けると、「真壁さん!」と叫ぶ声が響いた。だが、仁美が呼ばれたわけではない。真壁家の前には、誰もいない。

「真壁さん、お話聞かせてください!」

 声は同じ敷地内に建つ真壁医院のほうから聞こえてくる。

 不穏なざわめきに胸がわななき、仁美はサンダルをつっかけて表に飛び出す。

「真壁先生、景浦エリカさんとおつきあいされているって本当ですか?」

 真壁医院の入口の前で、父が大勢の報道陣に取り囲まれていた。中には大きなカメラを担いだテレビクルーの姿まである。

「すみません、九時から診療なので、通してください」

「答えていただけたらすぐに帰りますよ。真壁先生と景浦さんは、不倫関係にあったということでいいんですよね?」

「おふたりのご関係は、いつからですか? 毒しるこ事件の前からおふたりは交際されていたんですか? そのことを奥様はご存じでしたか?」

 体の芯がひやりと冷たくなる。昨夜、ここで起きたことを伝えようと父に何度も電話をしたがつながらず、案じて帰りを待ちながら、眠ってしまった自分を仁美は呪った。

 そのあとで帰宅した父は、いつものように職場に向かおうとしたところを彼らに捕まってしまったのだ。

 父の留守番電話に残したのは、エリカが訪ねてきたことだけで、衝撃の告白についてはなにも伝えていない。それは仁美にとって、あまりにおぞましいものだったからだ。

 おそらく父はなにが起きたのかわからず、困惑しているに違いない。どうにかして、知らせなければ。

 仁美がスマホを取りに戻りかけたとき、よく通る声が、マスコミ陣の質問を遮った。

「道を空けて! 彼を通してください。仁先生が病院へ行けなければ、患者が困ることになる。この町は年寄りが多いんだ。なにか問題が起きたら、あなたたちの責任ですよ!」

 通りの向こう、車から降りた守がそう叫びながら、自警団のメンバー三人を引き連れ、駆けつけてきた。

「真壁さんが質問に答えてくれたら、すぐに退散しますよ」

「仁先生が質問に答えなきゃならない義務なんてないでしょ」

「いや、ありますよ。この人の不倫相手に階段から突き落とされて、私、怪我をしたんですから」

 自分の後頭部を叩いて示しながら、守とやり合っているのは、昨日の記者だ。

 彼が元気でいることに仁美は安堵したが、同時に、別の不安が湧き上がってくる。あの男は昨夜のエリカの発言を聞いている。

「なんの話をしているんです? 仁先生は不倫なんてしてませんよ」

「それは守さんがご存じないだけでしょう。昨夜、ここで、真壁先生の秘密の恋人が、どんな醜態をさらしたか」

「秘密の恋人がいるなんて決めつけるなよ。仁先生に失礼じゃないか! あんた、以前、うちの麗奈にしつこくつきまとってた週刊誌の記者だよね? 親父に怒鳴りつけられたはずだけど、少しも凝りてないんだな」

「話をすり替えないでくださいよ。今、私は真壁先生と景浦エリカさんの不倫問題について訊いているんですから」

「だから、そんな事実はないって言ってるだろ。仁先生は昨日、俺にそうはっきり誓ってくれたんだから」

 守は昨夜ここで起きたことを知らない。これ以上記者を刺激して怒らせないでほしいと、仁美は祈るような思いだった。父を挟んでやり合う記者と守の姿がテレビカメラで撮影され、全国に放送されてしまうかもしれないのだ。

「ほー、そうだったんですか? そんなはずないんだけどな。ずっと黙ったままの真壁先生は昨夜ここでなにが起きたか、ご存じのご様子ですね? 景浦エリカさんからお聞きになったんでしょう? 先生がお帰りになったのは今朝六時過ぎでしたもんね? そんな時間までどこでなにをされていたんです? 昨夜の一件をどうやって誤魔化すか、景浦エリカさんと口裏合わせでもなさっていたんじゃないですか?」

「あんた、本当に下衆なことしか言わないな。仁先生はそんなことしてないよ」

「どうして守さんがそんなこと言い切れるんですか? この人を見張っていたとでも?」

「なんで俺が仁先生を見張るんだよ? そんなわけないだろ。昨夜、仁先生は俺と一緒にいたからだよ」

「へ? 一緒に……? ああ、そういえば、確か、こちらの娘さんが、仁先生は会長の家に行ったと……。でも、朝までずっと一緒にいたわけではないでしょう?」

「いたんだよ、一緒に。親父が脳梗塞を起こしてね。仁先生がそれに気づいて、病院へ運んでくれて、手術が終わるまで俺ら家族と一緒に付き添ってくれていたんだ」

 驚く記者の顔が見えたが、仁美も同じように驚いていた。

「だから、あんたが言うように、秘密の恋人と会って口裏合わせなんて絶対にしてないんだよ」

「……そうですか。それは私の思い違いだったようですね。でも、ふたりが不倫関係にあったことは紛れもない事実だ。私は証拠を握っているんですから」

「証拠?」

「ええ、昨夜、ここをたまたま通りかかったら、真壁先生を訪ねてきた景浦エリカさんが酔っ払って、仁美さんに絡んでましてね。そのときの会話を録音させてもらったんですよ」

 足元のアスファルトが砂になって崩れ、仁美は昏く深い穴にずぶずぶと呑み込まれていくような気がした。

(第17回へつづく)